世界に置いてけぼりにされた男
リミから、海へ行く予定があることを知らされてから翌日。達志は、自室にて机に突っ伏していた。昨日の体育祭での失態を恥じてでは、ない。
こうやって、誰かとどこかへ遠出する……それは久しぶりのこと。なのだろう。それを考えていた。しかし、達志にとってはそれほど真新しいことでもない。こんなことを言ったら、空気を悪くするだろうから言わないが。
由香達にとって、達志とは十年越しの遊ぶ予定なのだ。その気持ちに、水を指す権利などたとえ達志本人であってもあるはずがない。
ならばなにを考えていたのか……それは……
「海かぁ……やべーすげー楽しみ。由香やリミ、さよな、セニリアさんの水着かぁ。いやそれ以前に俺、泳げるのかなぁ?」
海へ遊びに行ったときのウハウハテンションが、今から来ていた。海……なんて素敵な響きだろう。しかも、一緒に行く女性陣は皆、スタイルのいい人ばかり。
なんだかんだいってもお年頃の男子高校生なのだ、楽しみなものは楽しみ。とても本人達の前では言えないから、こうして一人のときにニヨニヨ笑うしかない。
自分が眠っている間に、成長した由香とさよな。特に由香は、男にとってはとても危ない方向に成長しているので、楽しみな分心配でもある。良からぬ輩に、ナンパされないといいが。
……無理だろうな。なので自分が、しっかり守ってやらねば。
「……って、あいつのが大人なんだよな」
つい同じ歳で考えてしまったが、由香の方が年上なのだ。人生の場数も、自分とは比べ物にならないだろう。己が守る必要は、どこにもない。リミのことは、セニリアが目を光らせているだろうし。
次の問題として、達志が泳げるかどうか、だ。眠ってしまう前の達志は問題なく泳げていたが、こうして目覚めてからは不明だ。
体が固くならないよう、母であるみなえは定期的に息子の体をマッサージしていた。そのかいもあって、十年寝たきり状態にも関わらず達志の体はスムーズに動かせた。
が、体力まではそうはいかない。今でこそ普通に生活する分には問題ないが、目覚めたばかりの頃は階段を上がるだけで息切れを起こす始末だった。だから……泳げなくなっている可能性が、高い。
仮に泳ぎを覚えていたとしても、体力は衰えているため長く泳げはしないだろう。さすがに沈むほど低下しているとは思いたくないが……
「泳ぎの練習、なんてできないしなぁ」
ただ体力をつけるだけ、とは違う。それならば筋トレや走り込みなど、いくらだってできる。だが泳ぎに関しては、そうはいかないだろう。十年前……達志の中では去年だが……それだけのブランクがあれば、泳げなくなっていたとしても不思議ではない。
そんな格好悪い姿、見せたくないが。確かめようにも、近くにプールなんてないし……ぶっつけ本番しか、ないのであろうか。
「格好悪い……いや、んなもん今さらか」
格好が悪い……なんて気にしたとしても、それはもう今更というものだろう。昨日の体育祭で、無様な姿を見せたばかりではないか。不恰好を心配してもすでに遅い。
それよりも、だ。泳げるか泳げないかの心配ではなく、純粋にみんなと楽しむことを考えようではないか。大人になった幼なじみと、自分を慕ってくれる少女と……そんな相手と一緒に遊ぶことなんて、そう経験できるものではない。
何事も、ポジティブに考えようではないか。みんなと過ごすはずだった十年を悔やむのではなく、これから新しい生活が始まるのだと……
「って、そう簡単には割りきれねえよな」
十年という月日を眠っていたためか、すっかり癖になってしまった一人言。意識の中では気にしていなくても、無意識下の中で体が疼く。黙りだったままの口は、とにかく動きたくて仕方ないのだ。
確かに、十年眠っていたからこそ、リミやセニリア、今のクラスのメンバーにだって会うことができた。あのまま成長していれば、関わることすらなかったであろう人達。
同時に……母や、幼なじみ。みんなと一緒に成長することができなかったという事実は、変わらない。現実として変えようのない事実であっても、何度だって、何度だって考えてしまう。
みんなと一緒に成長していたら、今自分は何をしていただろう。大工になった猛、デザイナーになったさよな。あの由香だって、教師になっている。考えられなかった、ことだ。
それに、達志の友達はなにも幼なじみの三人だけではない。あの頃は、人並みに付き合いもあったし、それなりに仲の良い連中だっていた。それが、今どこで何をしているのか、わからないし聞くのが、なんだか怖い。
何より……妹が、いたのだ。たった一人の妹が。十年前の時点で六歳……よく、おにーちゃんおにーちゃんと後ろを着いてきたのだ。本来なら、今の達志と同じ年齢になっていたはずなのだ。
「……割りきれるもんか」
その妹が、死んだと聞かされた。事実、今には仏壇だってあるし、それは疑いようのない現実。自分が知らないところで、家族がいなくなった。それは何より怖いことで、今だって信じられない。信じたくない。
けれど、現実は非常だ。成長したみんな、いなくなった妹……世界が、達志だけを置いてけぼりにしてしまった。
もちろんみんなの……誰の前でも、母の前でだってこんな弱音は吐けない。だから達志は、こうして一人で、物思いにふけるしか手段を知らない。
海に、行くのだ。みんなと遊びに……行くのだ。今から楽しいことが、いっぱいあるのだ。みんなとできなかったことを、これからしていけばいい。時間も、妹も、戻ってはこないけれど。
せめてみんなと、これからを楽しむ権利くらいはあるはずだ。そんなときに、こんな暗い気持ちではいられない。だから、今だけは……こうして一人、涙を流しても、バチは当たらないだろう。




