プロローグ
-視界が赤い。
うっすらとしか開かない瞼。その向こう側に映るのは、上下に歩く人の足、走る車。瞳を横に移すと、そこには青く清々しく快晴な空が見える。
不思議な世界。だがそれは、時間の経過と体に伝わる温かでごつごつした感触により答えを知る。体に伝わる熱は、アスファルトによるもの。
それを体に感じるのはつまり、己が地面に横たわっているということだ。
だが、冷静に分析する時間は儚く散っていく。次第に湧き上がる感覚は、熱い。…熱い熱い熱い。ひたすらな、熱。
この熱さは、アスファルトによるものでは、断じてない。体全体が…中身が、焼けるように熱いのだ。
「--!」
誰かが耳元で何かを叫んでいる。だが大声のはずのその声は、度々遠ざかっていくようで、その内容は聞き取れない。
「きゅ--ゃを! -やく!」
「血が--れか--」
耳元以外でも、あちこちで声が上げられている。その内容が聞き取れないのは、騒がしさが重なり合って…というわけではない。
(あれ……これ……)
意識は、ある。あるのだが、それに反して体は動かない。力が入らない。意識も、はっきりとしない。
得られる情報はないか。だが 耳がまるで、本来の役割を放棄したかのよう。聴力は機能せず、むしろ、かろうじて聞こえている音すらも聞こえなくなっている。
視力も大した働きを見せることなく、視界をぼやかす。目の前に見えるのは足、足……人の足。他を見渡そうにも、首が動かない。手も、足も…体が動かせない。
かろうじて瞳は動く。細く開かれた視界から、情報を得ようと動かす。が、そこから見える景色には限度がある。
今自分が、どんな目にあっているのか…思いだそうとしても、頭が痛くて思い出せない。そう…頭が、痛いのだ。割れるように。
「-っ!?」
それに気づいた瞬間、耐えがたい痛みが襲ってくる。怪我をしても、意識した途端に痛くなる、と、よく聞くが、今のがまさにそれだ。途端に頭が割れるような痛みが襲ってきた。
焼けるような体の熱さ。割れるような頭の痛み。相当な苦痛は容赦なく体を蝕む。
……ぽつ、と。ふと、何かが頬に落ちる。熱い体はそこだけ水を浴びたように冷たくなる。いや、落ちてきたのは確かに水だった。
その感覚の正体を確かめるため、瞳を動かす。何とか視界に映すことが出来たのは、幼い子供らしき人物。
「--ゃん! おに--ん!」
性別はわからない。が、涙を流し、喉が枯れるほどに叫ぶこの子供は、地面に倒れている彼に必死に呼びかけているのだ。その頬に涙を流しながら。
瞬間、理解する。
「……ぁ」
そこでようやく気付く。視界を赤く染めているのは、額が割れたために流れ落ちた自分の血であると。それがアスファルトを赤黒く染めている。
そこでようやく思い出す。自分は、この子供を助けるために動いたのだと。体が、無意識に。
信号を渡る子供。しかし歩行者側は赤であり、車の横断は始まっている。そこへ、子供が飛び出したのだ。誰の目から見ても飛び出しだ。
渡る子供、走る車…両者が衝突するのは時間の問題で、実際、車が向かってきていた。子供に気づいた運転手がブレーキを踏む、が、間に合わない。
どうしてかわからない。自然に体が動いていた。子供を抱え、咄嗟に抱きしめ、体を丸め、衝撃に備える。
……ドンッ……
と鈍い音がしたのを覚えている。その後、何かが地面に打ち付けられた鈍い音も。それが自分の体だと気づいたのは、今だ。
体は傷だらけ、骨もいくつかイッているだろう。激痛が体を襲っているはずだが、しかしこの晴れやかな気分は何だろうか。
熱かったはずの体は徐々に冷たくなり、それが彼に"死"を連想させる。死に抗いたくても、抗う力すら湧かない。
諦めたわけではない。未練がないわけではない。まだまだやりたいことはたくさんある。
「お---っかり-!」
眠るように瞳が閉じられていく。体を揺らされても、それは安眠の妨害にはならない。命の終わりが、近づいて来ているのがわかる。怖い。死にたくない。
……だが、一つの命を助けたことへの達成感。少しばかりヒーローじみた思いが、沈んでいく彼の心に安堵をもたらせていた。
そして-この時を持って、彼、勇界 達志の意識はゆっくりと沈んでいった。