翡翠伝《ひすいでん》
よろしくお願いします。
※多少改稿いたしました(2017.3.27)&『後日譚・茉莉花茶の午後』書き足しました。「お前らこんだけのことしといて、そんな幸せそうで良いのか……?」とか思いながら書きました。全体にしんどい話だったので、後日譚で少しでもほっこりしていただければ幸いです。
※『花の一・昔なじみと秋の空』書き足しました。はっちゃけたキャラを登場させたら、主人公のキャラも崩壊し出しました。なんたるこっちゃ。
※その他もろもろ書き足しました。キャラのおもむくままに書いたら、作風が迷子になりました。
それはある星のある時代。
『中津龍国』という国の、かたすみで起きた物語。
『蛇の章』
序章・邂逅
ここは大国、中津龍国。
この大きな国のとある大きなお屋敷に、コハクという名の少女がいた。
彼女はこのお屋敷で『飼われていた』。『飼い殺されていた』というほうがあたっているかもしれない。
もう何年も昔、この屋敷に来た時から純粋な女奴隷の身分。それこそ屋敷で飼われている狆めらのほうが、コハクの万倍も扱いが良い。
そんなコハクはぼろぼろの身なりながら、とても美しい目をしていた。まつ毛は自前にくるりと長く、大きな瞳はそれこそ宝石の琥珀のような色だった。
そも瞳が琥珀の色だから、そんな名前をつけられたらしい。
だが少女がその名で呼ばれることは、ここへ来てからはとんとなかった。
「なあ」
「おい、そこの女奴隷」
用事は全てそうして済んでしまうから、コハクは自分で自分の名前を忘れていた。
だから『コハク』と荒い声で呼ばれたときも、自分のこととは思えなかった。
「おいコハク。……コハク! うおらぁ、そこの女奴隷!!」
「……っは、はいっ!! 何のご用でしょう!?」
『女奴隷』という言葉に反応し、コハクがあわてて返事をする。そんな少女に、絹の着物の使用人は聞こえよがしに舌打ちした。
「てめぇの名前も分からねえのか。こんな女ガキにつとまるのかねえ」
使用人が大げさな身ぶりで肩をすくめる。
丸い鼻からニラの臭いの息を吐き、水の入った金魚鉢をつき出した。その手つきには愛情の欠片も感じられない。
「ご主人様から言伝てだ。『屋敷で一番年下で、一番役立たん女奴隷が、こいつの面倒をみろ』ってよ」
鉢を受けとったコハクが水の中をのぞきこむ。透き通る水の中には、一匹の小さな蛇が泳いでいた。
もともと生き物の好きな少女は、目を輝かせて蛇を見つめた。
(なんて綺麗な子なんだろう! 透き通るような翠の体色、生きた宝石みたいだわ)
およそ意外な反応に、使用人がブラシのようなまゆ毛をひそめてみせる。
「蛇を見ても恐がりゃしねえ。気味の悪い女ガキだな!」
コハクはふっと金魚鉢から顔を上げ、当然の疑問を口にした。
「あの、この子はどういう子なんですか? どうしてお屋敷に来ることに……?」
「『この子』? 蛇にこの子、だとよ! んっとに気味悪いガキだなぁ!!」
『おぞ気のたつ』と言いたげに身を震わせて、男は言葉を吐き捨てた。
「いちいち訳なんぞ訊くんじゃねぇよ! お前はただおとなしくそいつの面倒みてりゃ良いんだ。万が一殺しでもしたら、お前の首が飛ぶからな!!」
唾を吐くように言い捨てて、使用人が廊下の向こうへ去ってゆく。コハクはなかば呆然と肥えた背中を見送った。
それからふわっと我に返り、手の中の金魚鉢をのぞきこむ。蛇は翠のリボンのように、ひらひらと水を泳いでいた。
(……可愛い)
思わず頬をゆるめたコハクが、鉢を優しく抱きしめる。
「よろしく、蛇さん。綺麗な蛇さん。あたしはコハク。石の琥珀よ」
コハク。――琥珀。
さっきまで忘れ去っていたおのれの名前が、耳に甘い。懐かしい響きに、少女は思わずほんのりはにかんだ。
(そうだ、あたしには名前がある。宝石の琥珀という、すてきな名前のあることを、この子が思い出させてくれた)
「ありがと、蛇さん」
ぽつりとお礼をつぶやく少女を、蛇が青い目をして見つめた。
「じゃあね、蛇さん。あなたの名前は……」
思わず口にしようとして、コハクはあわてて口をつぐんだ。
「……って、だめよ、だめだめ! あなたにだってちゃんと名があるはずだもの。あたしが勝手に名づけるなんて、そんなことしちゃいけないわ!」
『生き物には生き物どうし通じる言葉で、それぞれちゃんと名前がある』。
夢見がちな少女のコハクは、頭からそう信じていた。
(『翡翠』が良いと、思ったけれど)
おのれの名と綺麗に対になるような、翠色の宝石の名前。その言の葉を飲みこんで、コハクは蛇に笑いかけた。
「今日からよろしく。綺麗な蛇さん」
蛇はあいさつに応えるように、くるくると弧を描いて水に踊った。
蛇の一・伽
蛇との蜜月が始まった。
肝心の蛇はどう思っているか定かでないが、コハクはそう信じていた。
別に何も、特別なことがある訳ではない。罵声と暴力にまみれた毎日、そのことに何も変わりはない。
けれど、重苦しい奴隷の一日が終わり、地下牢のごとき部屋に戻れば、そこには必ず蛇が待っていてくれた。
蛇の澄みきった青い目を見る。
その青い目に見つめられる。
ただそれだけで、泥のように体にまつわりついた疲労が、とろとろと溶け落ちてゆくような気がした。
「おなかすいた? ……はい、ごはんよ。綺麗な蛇さん」
コハクは蛇を賛美しながら、使用人から与えられた『えさ』をぽとりと水に落とす。それは蛇にはおよそ似つかわしくない、小さな金平糖だった。
蛇は日に三度、ひと粒ずつの金平糖をえさにして、おとなしく日々を生きていた。
『仕事』の忙しい少女の代わりに、朝昼は使用人がえさをやる。だからコハクが蛇にえさをあげられるのは、夜中の一回きりだった。
コハクは常に飢えていたが、蛇のえさに手を出すことはしなかった。
コハクにとって、蛇は一縷の希望そのものだった。『彼』のえさを口にするなど、少女には思いもつかぬことだった。
奴隷の少女は、なけなしの『嬉しかったこと』を毎日蛇へと語りかけた。
「蛇さん、今朝はね、とっても良い夢を見たの!」
「今日は同い年くらいの奴隷の子と、ちょっとあいさつ出来たのよ」
「今日はね、おっきなおっきな虹を見たの!」
愚にもつかない小さな『幸せ』。
その『幸せ』を聞く蛇の目は、いつだって悲しくなるほど澄んでいた。
(今日は蛇さんに、どんな報告が出来るかしら)
コハクは内心でつぶやきながら、泥を食うような労働に明け暮れた。
今日の『仕事』は芋掘りだ。こんがり焼いて口に含めば、蜜のように甘いさつま芋。けれどそれを掘る奴隷たちの口に、芋は一欠けたりとも入らない。
(おいしそう……)
一日を一椀の重湯でしのぐコハクには、掘り出した芋が金のかけらのように目に映る。金平糖を目にしたときには作動しない『食欲』が、身の内でひどく暴れている。
腹が鳴る。
コハクはほぼ無意識に、芋のしっぽをかじっていた。
「おうらぁ、そこぉ! 何してやがるっ!!」
絹の着物の監督官が、思いきりコハクの腹を蹴り上げた。えずき回るコハクの髪を掴みあげ、監督官が醜く嗤う。
「お前らみてぇな泥人形が、人様の飯食おうなんざおこがましいわ。お前みてぇな奴隷はよぉ!」
どっとコハクを突き飛ばし、監督官は土のすきまへ手を入れた。穢く嗤う監督官の指の間で、小さなミミズがうねっている。
「お前みてぇな泥人形は、これでも食っとけってんだ。……おら……食えよ?」
凍りつくコハクのくちびるへ、監督官がミミズをぐっと押しつける。コハクは瞳をきつく閉じ、細い体を震わせた。
「おら、とっとと食えよ」
(――ごめんなさい)
目の前のミミズに心の底からあやまって、コハクは生き物を口におさめ、ゆっくりと歯を噛み合わせた。ミミズが跳ねる。ぐちぐちと、生命の消える感触が生々しく歯に当たる。
縮こまった舌に、土と、糞の味がした。
「ははっ、美味いか? 美味いだろうなぁ、綺麗なお目めが嬉し涙でにじんでやがるぜ、奴隷ちゃん?」
監督官がゆかいそうにからから嗤う。長いひげをしごきながら、楽しげに周囲の奴隷に言い放つ。
「おう、こんな目に遭いたくなかったらせいぜい真面目に働けよ? 一日頑張ったら、重湯のご褒美があるからなぁ!!」
監督官の嘲りを遠く聞きながら、コハクは呆然と畑に目を落とす。返り咲きのすみれが一輪、紫色に咲いていた。
(……今日は……蛇さんに、すみれのことを話すんだ……)
そう考えると、自然と頬に笑みが浮かんだ。笑ったことを監督官に咎められ、また内臓を吐くほど蹴りつけられた。
そんな毎日をくり返し、半年分の月日が過ぎた。
『……コハク』
ふいに誰かに名を呼ばれ、コハクはあたりを見回した。
誰もいない。
カビと土の臭いのする、地下牢のような部屋の中には、自分と蛇とがいるだけだ。蛇はひらひら、ふわふわと、風に舞うリボンのごとくに泳いでいる。
『……コハク』
蛇が青い目で奴隷の少女を見つめてくる。コハクはふっと思いたって琥珀色の目を見はり、金魚鉢へと駆け寄った。
「……もしか、蛇さん? 蛇さんなの? 今綺麗な声で、あたしの名を呼んだのは?」
『ああ、そうだ。お前の名を呼んだのは、たしかに鉢の水蛇だ』
頭に直接響くような言の葉に、コハクがくすぐったそうに苦笑した。
「やぁねえ、蛇さん。こうしてお話が出来るんだったら、どうしてすぐにしゃべってくれなかったのかしら?」
甘い非難に身をちぢめ、蛇がくぐもった声音で答える。
『……この屋敷の人間はたいがいが、まるで信用ならんからな。お前はそうではないらしいと、近頃やっと見定めた。それでこうしてお前に声をかけたのだ。忌むべき呪いの暇つぶしに』
「のろい? 呪いって?」
年端もゆかぬ女奴隷が、綺麗な琥珀の目を見はる。そんなコハクに、蛇はからかうように軽い声音で言葉をこぼす。
『お前まさか、我が何の変哲もない、ただの蛇だと思うていたのか?』
コハクは黙ってかぶりを振った。
何の変哲もない蛇を主が捕らえるはずはない。どうしてこの子がここに来たのか、教えてはもらえなかったけれど、そこには確かに理由がある。
コハクは口もとへ指をあて、自分の見解を口にした。
「きっとね、あなたはそんなに綺麗だから、とっても珍しいんだと思う。ご主人様は珍しいものがお好きだから、あなたはここへ来たんじゃないの?」
『……「珍しい」、か。まあ珍しいには相違ない』
蛇はおのれを嘲るようにつぶやくと、澄んだ青い目でコハクを見すえた。
『コハク、お前に話してやろう。我がいかにしてここへ来たのか……人間の愚かさと我の弱さを、伽仕立てにして話してやろう』
蛇はくなくなと細い体を揺らめかし、幼い少女へ語り始めた。
『昔むかしの大昔、ある国のある大きな池に、大きな水蛇が棲んでいました』
ひどくなつかしい語り口に、コハクが瞳を輝かせる。
(お母さんだ。お母さんがまだ生きていたころ、こうやってよく昔話をしてくれた)
金魚鉢へすり寄る少女に、蛇が鎌首をかしげてみせた。気を取り直したような口ぶりで、ふたたびお伽を語り出す。
『水蛇はその池の主でした。いつごろ生まれ、いつから主になったのか……当の蛇すら分からぬほどに、永くその池に棲んでいました』
コハクは胸をときめかせ、蛇のお伽にひたすらに耳をかたむけた。蛇はたおやかに水の中を舞いながら、美しい声で昔話をつむいでゆく。
『蛇は水蛇でしたから、その力で大雨を降らせることも出来ました。何かで機嫌を損ねたときは、池の水を溢れさせてちょっとした洪水を起こしたこともありました』
「すごいわ、まるで神様みたい!」
『……まあ、池のまわりの村の者には「蛇神様」とも呼ばれていたな。日照りの年には気まぐれで雨を降らせたこともある』
蛇のうっすら笑う声音が、コハクの頭で甘く響いた。蛇はひらひら踊りながら、またもお伽を語り出す。
『蛇は大きな池の中で、そこそこ楽しく暮らしていました。しかし、そんな静かな日々をぶち壊す者がやって来ました。人間です。文旦という金持ちの命令でやってきた者らです』
「文旦? あたしの主とおんなじ名だわ」
コハクが不思議そうに小首をかしげてつぶやいた。そんな少女の脳内に、蛇の薄い笑いが染みる。
『まあとにかく、わらわらと人間がおしかけた訳だ。ここから話を続けるぞ。……文旦は珍しいものが好きでした。「池の主の水蛇なぞ、これほど珍しいものはない」。文旦はそう考えて、家来どもに水蛇の捕縛を命じたのです』
コハクがふうっと呆れたように息をつく。
「愚かなひとね。神様を『珍しい』なんて、おこがましいにも程があるわ」
蛇が『くふふ』と思わせぶりな笑いをもらす。それをいぶかしく思う間もなく、蛇はつらつら言葉を継いだ。
『主の棲む池、鏡池にはあまたの術者がおし寄せました。あらゆる魔術・呪術を使い、大きな蛇の力を封じ、子蛇とまがう大きさにまで体をちぢめてしまったのです』
コハクがお伽に息をのむ。
蛇は翠の光の帯さながらに、ひらひらと水をひらめいた。
『そうして蛇は小さなちいさな金魚鉢に入れられて、文旦のお屋敷の、コハクという名の奴隷の部屋で、今もすごしているのです』
翠の蛇がさらりと言葉をしめくくる。コハクは芯からびっくりして、可愛い口をぱくりと開けた。
「え? ……えぇえ? それじゃあ、あなたがお話の主人公? 鏡池の神様なの!?」
『ああ、そうだ。何だお前、今さらそれに気づいたのか?』
(お前が気づいていないらしいと、我はうすうす気づいていたが)
蛇はそう言いたげにくすくす笑い、水の舞台をくるくる踊る。
そういえば、蛇は初めに言っていた。『人間の愚かさと我の弱さを、伽仕立てにして話してやろう』と。
それでもコハクはしまいまで、これが目の前の蛇の話だと気づかなかった。目の前の蛇はあまりに可愛く、か弱く見えて、神様のイメージの欠片もなかったものだから。
(でも……それを言ったら失礼だよね?)
コハクはちょっと考えて、わざと不機嫌なふりをした。腕を組み、頬をふくらませ、不満げな声をあげてみせる。
「だって蛇さん『昔むかしの大昔』なんて言うんだもの。そんな出だしで語られちゃ、今の話とは気づかないわ」
『昔むかしの大昔から、我は池に棲んでいた』という意味だ。その後はみな今の話だ』
しれっとしなやかに言い逃れ、蛇がくるくる水を踊る。コハクは「蛇さん」と言いかけて、小さく言葉を飲みこんだ。
「……ねえ、訊いていい? あなた、お名前は何ていうの?」
『名前? ……名前か。蛇の言葉では「ルゥシャナ・クシャル」だ』
「ルゥ……シャナ……?」
十年以上生きてきて、初めて耳にする言葉。
耳なじみのない言の葉は、まるきり外つ国の呪文のようだ。
「ルゥ……シャナ……クシャ……ル?」
眉を寄せてつぶやくコハクに、蛇がほろ甘い声音で笑う。
『はは、まあ要は「翡翠」という意味だ。我はヒスイだ。分かったか?』
蛇の言葉に、コハクが琥珀の目を見はる。
(おんなじだ。あたしが思いついた名と)
自分の名と綺麗に対になるような、翠に輝く宝石の名前。
体の奥からじわじわと嬉しさがこみ上げて、コハクは思わずはにかんだ。ヒスイが細い首をかしげて、とまどったような声でつぶやく。
『何を笑うか。おかしなやつだ』
「えへへへ……ねえねぇ蛇さん、今日からあなたを『ヒスイ』って呼んでもいいかしら?」
『ああ、好きなだけ呼ぶがいい。ヒスイが我の名なのだから』
お許しを得た女奴隷は、いそいそその名を口にした。
「ねえ、ヒスイ」
『何だ?』
「ヒスイ」
『……』
「ヒスイ」
『……コハク。「好きなだけ呼べ」は言葉のあやだ。意味なく呼ぶな、分かったな』
「うん! ヒスイ!」
蛇は小さく息をつき、水の中で綺麗な緑の輪を描いた。
閑話・友蛇
その夜、コハクはヒスイを相手に遅くなるまで話しこんだ。
「ねえ、ヒスイ。あなたは昔はどんな生活をしていたの?」
きらきらした目で訊ねられ、ヒスイがひらひら水を踊る。青い目を水に光らせて、綺麗な声で答えてみせた。
『どんなといって……まあ池底に造った城で、日がなゆるりと過ごしておったな。我は「蛇神」と呼ばれていたから、周囲に悪しき魔物がいざれば追い散らしたりもしておったが』
「すごいわ! とっても良い神様だったのね!」
ヒスイは称賛に黙りこみ、苦笑うようにひらりと水をひらめいた。ふっと思いついたように、ぽつぽつ言の葉をつむいでゆく。
『……「良い神」といえば、我の友蛇のほうがそうだった。香勝池という池に棲もうていたやつなのだが……良いやつはいいやつなのだが、いかんせんあやつは騒がしくてな……』
苦笑まじりにつむぐ言葉に、コハクがうっとりとうなずいた。ヒスイはくるくる水をひらめき、青い目を踊らせて語りを重ねた。
『あやつめ、我が捕らまえられたときには半狂乱になってなぁ。おのれも狙われていたというに、必死で我を救おうとしおってな……あやつまで捕まると面倒だから、「我一匹ならおとなしく捕まってやろう」と人屑めらに告げて、我はこの屋敷に来たのだよ』
そこまでしゃべって、ヒスイはちょっとした照れ隠しのようにつけたした。
『……まあどのみち捕らえられていたろうから、あの言葉は負け惜しみにも近いがな』
なんでもない口ぶりで告げて、蛇はひらひらと水を舞う。
深くため息をついたコハクが、心なし淋しげな口調でつぶやいた。
「……うらやましいな。あたしには、友だちらしい友だちなんていないから……」
当然といえば当然のこと。
酷働に明け暮れる奴隷の身分、友など出来ようはずもない。
しばし黙りこんだヒスイが、美しい声で口を開いた。
『……なに、お前には我がいる。我がお前の友になろうぞ』
「……友だち?」
思わずにっこりしながらも、コハクは胸のうちのかすかな違和感に気づいていた。
(嬉しい。本当に嬉しいのに、何だろう? この心のざわざわした感じ……)
心中でぽつりとつぶやきながら、それでもコハクは満面の笑みでうなずいた。
コハクの中に生まれ出でた、初めての感情。
その感情の正体に、いまだ少女は気づかずにいた。
蛇の二・約束
コハクとヒスイの、真の蜜月が始まった。
別に何も特別なことがある訳ではない。罵声と暴力と、愚かな呪いにまみれた毎日。そのことに何も変わりはない。
けれど、お互いに話し相手のいることが、泥のような日常の何よりのなぐさめになっていた。
コハクはヒスイの青いあおい目が好きだった。
翡翠色の透き通る体が好きだった。
静かな威厳に満ちている、涼やかな声も大好きで、いつか少女は心の底から信じるようになっていた。『やっぱりヒスイはえらい蛇神様なんだ』と。
女奴隷の蛇に対する、熱く甘やかなその想い。
その感情はもはや一種の恋だった。
(ヒスイはあたしを、どう思っているのかしら……?)
そう念じながら、コハクが蛇と目を合わせる。ヒスイはコハクの感情に気づいているのかいないのか、いつものようにひらひらと水を踊ってみせた。
ヒスイの澄んだ青い目に、まぼろしのようにコハクが映る。
『……お前は美しい肌をしている。白い綺麗な肌なのに、いつも生傷が絶えないな』
優しい気づかいが脳裏に響き、コハクは蛇から目をそらしつつ微笑んだ。
「あたしは、奴隷ですからね」
少女が一言で言葉を切り上げた。そんなコハクに、翠の水蛇も押し黙る。涼やかな嘆きのため息が、少女の頭に甘く響いた。
何とか話題を変えたくて、コハクが無理やり口を開く。
「てゆうか、ヒスイ! 水替えしなくて大丈夫? ここに来てからいっぺんも、水替えしないままだよね?」
自分の体と、その身にまとうぼろ布と、ヒスイのえさの金平糖。それしか部屋に持ちこめないから、金魚鉢の水替えなんてコハクに出来る訳がない。
それを芯から分かっていながら、少女はあえて口にした。
蛇はほろほろと花のほぐれる声音で笑う。ひいらりひらり水を踊って、何でもなさそうに答えてみせた。
『気づかい無用。我さえいれば、水は腐らぬ。我は水神なのだから』
さらりと答えを返されて、コハクのほうが言葉につまる。
つまった言葉の代わりのように、手に持っていた金平糖をそっと水面に落としこむ。甘い星のようにちらちら光る菓子を見ながら、小さな声で懺悔した。
「……ごめんね、こんなものしかなくて。あたしのご飯も持ってきてあげたいんだけど、このごろずっと、見張りがついてるものだから」
コハクの言葉に、蛇がかすかに首を振る。
『一向構わぬ。もともと我は何も食べずとも生きられる。……元の力を封じられたこの体、今では金平糖一つ、食べずには生きてゆけぬがな』
ヒスイがひらひら水を踊り、溶け始めた星型の菓子をぱくりと一口飲みこんだ。細く長く息をつき、水面へ気のない翠の輪を作る。
『……こんなみじめな体では、月に一度の脱皮も出来ぬ。池の主の命運も、じきに尽きるということか』
そういえば『蛇にとって脱皮はひどく重要だ』と、以前に聞いたことがある。ひたむきな顔で自分を見つめる女奴隷に、ヒスイは柔く笑いかけた。
『案ずるな、コハク。神の寿命は人より長い。日々の糧の金平糖さえ食ろうておけば、今日明日死ぬることはない』
甘くすさんだ笑い声が、コハクの頭に響いて染みる。
『たとえ呪いに衰えて、みじめに朽ちてゆこうとも、それはお前が老い衰えて倒れた後だ。ひとりにはせぬ、安心しろ』
痛ましい気づかいの言の葉に、コハクがくちびるを噛みしめる。ふいに疑問があぶくのように浮いてきて、少女は泣きそうに口を開いた。
「……ねえ。どうしてご主人様は、あたしなんかに大事なあなたを預けたのかな?」
『「大事」?』
ヒスイが嘲るように笑い、はっとして息をひそめてみせた。ほんのり気まずそうな口調で、おのれの見解を口にする。
『……金持ちの物好きにとってはな、「珍しいものを手に入れる」ことが重要なのだ。手にさえ入れば、後はどうでもいいのだよ』
蛇がすうっと口ごもる。
浅い水底に沈みかけつつ、迷う口ぶりで声をつむいだ。
『……仮に我が死んだところで、いたいけな女奴隷を殺せる名目が出来るのだから、それでもいいと思うたのだろう』
ヒスイがふたたび押し黙り、ひらひらと水底から浮き上がる。やがてコハクをまっすぐ見つめ、真摯な声で口を開いた。
『死ぬなよ、コハク。我も死なぬから、お前も死ぬな』
(ああ、なんて後ろ向きな誓いの言葉……)
けれどその一言は、宝石で造った花束よりも嬉しくて。
コハクは泣きそうな顔で微笑って、首の折れるほどうなずいた。
蛇の三・過去
累々と日は流れていった。
そうして日々を重ねるごとに、蛇は寡黙になっていった。黙って何か考えている水神に、コハクはあるとき思いきって問いかけた。
「どうしたの? ヒスイ。このごろ何だか元気がないわ。具合が悪いの? おなかがすいた?」
『……いや。お前はとんと、自分のことを話さぬなあ、と思うてな』
思いもよらぬ言の葉に、コハクがぽかんと口を開く。きょとんとした目で見つめられ、ヒスイが小さくつけたした。
『……お前が、我に心を開いていないのかと。そう考えると、自然とふさいでしもうてな』
ヒスイがかすかにかすれた声で打ち明ける。
コハクは笑いをこらえていたが、やがてぷはっと吹き出した。不機嫌そうに水をひらめく神様に、はにかみながら詫びをいれる。
「ごめん、違うの! 嬉しくて……そんなに誰かに思われたこと、久しくなかったものだから」
ふわり微笑んだ女奴隷が、ふっと表情をくもらせた。琥珀の瞳を歪ませて、うつむきながら言葉をつむぐ。
「……『自分のこと』って、あたしがどうしてここに来たかとか、そういう類のことでしょう? たいした話でもないの。あたしは、ここに売られてきたの」
『生まれついての奴隷なのか?』
「ううん。あたしは山の奥の奥の、へんぴな村の娘だったの。早くに親を亡くしたけれど、村のみんなに大事にされて、幸せに日々を暮らしてた」
『それがどうして、売られる羽目になったのだ?』
ずばり切りこむ問いかけに、コハクは痛い笑顔を見せた。
「人さらいがやって来たのよ」
『……人さらい?』
ヒスイの言葉に、コハクがそっとうなずいた。
「人さらいはあたしをさらって、遠くとおくの街にある、このお屋敷にあたしを売ったの。『今はまだ小便臭いガキですが、こいつは上物になりやすぜ』って」
コハクは崩れるように笑って、金魚鉢へと手を触れた。黙りこんでしまったヒスイに、撫でる声音で語りかける。
「そのとき、あたしは六歳だった。今はたぶん……十二くらいになったかな。これからもっと大きくなって、もし主の『お目に留まった』ら……」
小さく体を震わせて、コハクは蛇に笑いかけた。
「まあ、大丈夫だとは思うけど。あたしは一生この部屋で、あなたと一緒に生きていけたら、それが何よりの『幸せ』だし」
ヒスイが静かに硝子の床に身を横たえ、青い目で女奴隷を見つめた。
綺麗な声を待ち望んでいるコハクの頭に、いつもの声は響かなかった。
重圧の日々は過ぎてゆく。
女奴隷の頭に響くヒスイの声は、日ごとに憂いを帯びてゆく。
「元気がないの?」とコハクが訊くと、いつも黙って首を振る。そうして綺麗な青い目で、じっと少女を見つめるのだ。
(あたしが変なこと言ったからかな? 奴隷のありがちな出自なんて、口にするべきじゃなかったかしら)
コハクはそう思っていたが、どうもそれだけではないらしい。ヒスイの澄んだ青い目は、少女の話した言葉以上の、何かを嘆いているようだった。
「ねえ、ヒスイ。あなたはどうして、あたしをそんな目で見るの?」
面と向かって訊ねてみても、ヒスイは何も答えない。ただしんしんと青い目で女奴隷を見つめている。
コハクはそうして見つめられると、胸のあたりが絞られるように苦しくなった。
『自分が自分の思うより、ずっと哀れな存在なのだ』と、なぜか感じてしまうのだった。
これがいったい何個めの金平糖になるだろう。
右手に糖菓子を握りしめ、コハクは心中でつぶやいた。
「おなかすいた? ヒスイ」
蛇はなんとも答えずに、水面にくるくる輪を描く。『夜のご飯』を前にしても、変わらずヒスイは寡黙なままだ。
(日に三回の金平糖にも、きっと呪いがかかっている)
少女はそう考えながら、菓子を握る手に力をこめた。
ヒスイの力を封じる呪い。
蛇体を小さく保つ呪い。
コハクの食事の監視が厳しくなったのも、きっとそのことに関するのだろう。呪いをこめた食べ物以外を口にすれば、効果が薄れるに違いない。
「……けど、監視の目はごまかせないし。こんな金平糖でも、食べなきゃ生きていけないものね」
コハクのかすかなつぶやきに、ヒスイは黙って水を踊る。ふっと鼻をすするような音が頭に響き、女奴隷は琥珀の瞳を見開いた。
「…………ヒスイ、泣いてる? 泣いてるの?」
コハクの問いに、ヒスイは押し黙ったままひらりひらりと水を舞う。その青い目はいつものように美しくて、美しすぎて、コハクは今さら気がついた。
ああ、そうだ。
水に濡れて潤んだ瞳。きらきら光る青い瞳は、もうずっと前から幾度もいくども泣いていたんだ。だって鉢の水の中では、涙は流れないんだから。
「……ヒスイ、何で? どうして泣くの?」
泣く理由なんていくつも思いついてしまうけど、それでも思わず訊ねてしまう。
(もしかして、すごくおなかがすいてる?)
可愛らしいほど幼い頭で考えて、コハクはあわてて菓子を水面に落とす。その瞬間、ふっと芯から腑に落ちた。
それはまるで、糖菓子がほどけるようにふわっと水に溶けるみたいに。
(ああ。……ああ、そうか)
ヒスイをそれほどに傷つけたのは、誰の言の葉だったのか。『彼』の流れぬ涙の訳が、今になってやっと分かった。
(そうか。……そうだ。あたしはきっと、村の誰かに売られたんだ)
夢見がちだった少女の頭を、無情な現実が侵してゆく。
(だって、全体おかしいもの。どうしてあんな山の奥の奥の村に、人さらいがやって来た?)
相手も商売、獲物がいるかも定かでないへんぴな村に、情報もなしに来るはずがない。
(だから、きっと村の誰かが、あたしのことを知らせたんだ。あたしはお金とひきかえに、この屋敷へとやって来たんだ)
冷たく悲しく、切ない事実が、コハクの胸にひたひた満ちる。琥珀色をした綺麗な目から、ひとすじ、ふたすじ、涙がこぼれた。
『…………コハク?』
惰性で夕食を食べたヒスイが、ふっと鎌首をもちあげる。どこか呆然とした声音で、女奴隷の名を呼んだ。
コハクは応えず、黙ったままで床のぼろきれへくるまって身を横たえた。くっ、くっ、と、かすかな声に空気が揺れる。ぼろきれに包まれた小さな肩が、ひきつけたように震えていた。
やがて、コハクはぼろきれのすきまから顔を出した。
赤く腫れた目をしながら、ぼんやりヒスイへ言葉をかけた。
「……ねえ、ヒスイ。あたし、蛇になりたいな」
ヒスイのとまどったような吐息が、コハクの胸に染みてゆく。コハクは花のしおれるような笑顔を見せて、うっとり言葉を吐き出した。
「あなたみたいな、綺麗な蛇に生まれ変わって、ずっと、ずうっと、あなたと二匹で……過ごしたい、な……」
コハクが静かに目を閉じて、かすかな寝息をたて出した。ヒスイは黙ってコハクを見つめ、ちろちろと赤い舌を出す。
(……しょっぱいな……)
心のうちでつぶやいて、ヒスイはちろちろと舌を踊らす。
自分の涙でしょっぱくなって、金平糖で甘くなって。
『水蛇の力で腐らぬ』とはいえ、金魚鉢の水たまりは、今はもうえぐいほど妙な味がした。
蛇の四・暗転
変わり映えのない毎日に、突然の転機が訪れた。
『「謁見」?』
いぶかしげなヒスイの声が頭に響く。いつになく綺麗になったコハクが、蛇に小さくうなずいた。
「うん。ご主人様がね、『池の主が見たい』って。『鉢の水蛇を連れて来い』って、そうおっしゃったらしいのよ」
『は、文旦様、このごろよっぽどお暇らしい! 何の気まぐれで、何を今さら……』
嫌そうに吐き捨てた水神が、ふっと何かに気づいたそぶりで黙りこむ。
『……コハク。我を連れてゆくのは、お前か?』
「そうよ、あたしが案内役なの。準備が出来たらあなたを御前に連れてくの。ごめんね、ヒスイ! あんな人間の顔を見るのも嫌だろうけど、少しの間がまんして?」
『……いや、それは別に構わぬが……』
ふと言いよどんだヒスイが、まじまじコハクの顔を見る。その不安げな青い瞳に、気ぜわしげな女奴隷は気づかなかった。
やがて美しく装ったコハクが、鉢を抱いて文旦の前に現われた。
屋敷の主人はまるまる肥えて、肌はのっぺりと白く、病気の白豚を思わせた。
「ほう、これが例の水神か。こうして見ると普通の蛇と変わらんな」
たいした興味も持たぬそぶりでつぶやくと、文旦はコハクのほうに目をとめた。舐める目つきで眺め回して、いやらしい声で問いかける。
「奴隷よ。名は何という?」
「コハクと申します、ご主人様」
「コハクか。年はいくつになる?」
「……十二だと思います、ご主人様」
コハクが少し言葉につまり、あいまいな答えを口にする。そんな少女におざなりに何度もうなずいて、文旦はにやにや一人で笑っていた。
ヒスイの澄んだ青い目が、じっと文旦を見すえていた。
その日の夜。
コハクは見違えるような姿で、ヒスイの前に現われた。絹の着物に、宝石の耳飾り、首飾り。そのいでたちは貴族の一人娘のようだ。
思わずコハクに見惚れてしまい、ヒスイが感嘆のため息をつく。それから事の異常さに気づき、すがる声音で問いかけた。
『ど、どうしたコハク、その姿は……!』
「ヒスイ。あたしね、今から『娼婦』になるの」
ざっくり打ち明けた女奴隷が、腐りかけた果実のような笑顔を見せた。
「あたし、主に気に入られたの。『十二の年では食い足りぬが、手もとでねんごろに飼い慣らして、熟しきるのを待とう』って」
コハクが泣き出しそうな笑みを浮かべる。そんなコハクを、ヒスイが呆然と見つめている。蛇の不安は最高に残酷な形をとって、現実のものとなってしまった。
コハクは、美しすぎたのだ。
『幼い』というたった一つの安全弁が、その美に負けてしまったのだ。
コハクはあでやかに微笑んで、水に手を入れてヒスイを撫ぜる。ひやひやとなめらかな肌を楽しんで、潤んで歪んだ声音で告げた。
「ヒスイ……あたし、あなたが好きよ」
あまりにも今さらな告白に、コハクの頭で鼻をすする音が響く。コハクは琥珀の瞳を細めて、痛々しげな笑顔を見せた。
「あたし、奴隷のままでいい。ずっとこの部屋に住んでいて、ずっとあなたのそばにいたい。……でも、そんなこと口にしたなら、あなたがどんな目に遭うか……」
ぽつぽつとつぶやいた幼い娼婦は、ふっと目前の壁を見すえた。暗いくらい目の色が、ヒスイの心の臓をつらぬく。
『…………コハク?』
不安げな蛇の問いかけに、コハクは柔らかくはにかんだ。暗いくらい琥珀の瞳が、ほんのわずかに光を帯びる。
「またね、ヒスイ!」
小さく笑って言い残し、コハクは部屋を出ていった。
またね――。
喜ぶべき言の葉に、ヒスイの胸が鈍く騒いだ。
コハクは美しく着飾って、主の寝所に現われた。
幼い体のすみずみをねっちりしつこくいたぶられ、歯を食いしばって恥辱に耐えた。あまりに深く食いしめすぎて、ぴっと歯列にひびの入る音さえ聞こえた。
まだだ、まだ。
まだこらえて、何とか耐えて――。
幼い娼婦の頭の中は、主への嫌悪と、蛇への恋慕でまみれていた。
ヒスイ、ヒスイ。
待ってて、今すぐ逢いにゆくから……。
心のうちで蛇の名を連呼するコハクの前に、穢い肉蛇が勃ち上がる。コハクは崩れるように笑って、赤黒い肉蟲へ口づけた。
そのまま大きく、咥えこめるだけ咥えこみ、力の限りに食いついた。
ヒスイは一匹、暗い部屋で水の底に沈んでいた。
『……コハク……』
返事のないのを分かっていて、それでも呼ばずにいられない。
コハク、お前がそばにいなければ、我はどうしてこれから生きてゆけばいい?
『……何が水蛇だ、水神だ。愛しい者一人守れんで、この身を神と言えるものか……!!』
蛇は自分の尾を噛んで、おのれの無力を呪っている。
(いっそ死にたい。なのに死ねない)
嘆くヒスイの青い目に、軋んで開いた扉が映る。ぼろぼろになった幼娼婦が、よろめきながら近づいてきた。
ずたずたに裂けた絹の服、血の色に赤く染まった白い肌。
『…………コハク…………っ』
あまりのことに叫びも出来ぬ水神に、コハクはくしゃり、と頬を崩して笑いかけた。石の棚の金魚鉢へと手を触れて、琥珀の目から涙をこぼす。
「ヒスイ……あたしね、主人のあれに、噛みついて、追い出されてきちゃったの……」
ヒスイが言葉を失って、少女の崩れた笑顔を見つめた。
またね――。
そう言って分かれたときのコハクの顔が、ヒスイの脳裏に蘇る。
コハク。
お前はあのとき、死ぬる覚悟で、我の元へと帰ってこようと……。
青い目を見はるヒスイの前で、コハクがへらり、と脆く笑った。
「……だから、これからはずっと、一緒だよ……ずっと、ずっと、ずぅ……っと……」
ずる、っとコハクの指がすべる。その場にはかなく崩れ落ち、幼い少女はそれきり動かなくなった。
黙りこんでいたヒスイが、やがてぽつりとつぶやいた。
『……金平糖をくれ、コハク。おのれの涙で、水がしょっぱくてやりきれん』
コハクは、何も答えない。血塗れに赤く染まったままで、床に転がって黙っている。
『……コハク? 返事をしてくれ、コハク。金平糖をくれ……水がしょっぱくて、海の中にいるようだ……』
ヒスイがつぶやきながら、くっ、くっと小さく笑い出した。笑い声が揺れて震えて、いつかまるきり泣いているような声になった。
『……コハク……なぁ、コハク……コハク……っ! っあぁああぁあ、あぁあああぁああ……っ!! コハクーーーーーーっっ!!』
地下の暗い部屋の中に、誰にも届かぬ嗚咽が響く。
やがて泣き終えた水神は、荒みきった目をコハクへ向けた。そうして奴隷の亡骸を痛ましげに見つめながら、一心に何か念じ始めた。
ヒスイの青いあおい目は、人を殺せる色をしていた。
その夜から、激しい雨が降り出した。
季節外れの大雨は、いつまで経っても止まなかった。それどころか雨は次第にひどくなり、やがて大滝を千も二千も束ねたように烈しくなった。
『これは何かの祟りではないか』と、人々はうわさし始めた。
祟り――。
そのうわさを耳にして、さすがの文旦もぎくりとした。
この雨は、もしや自分のせいか?
この自分が、何か水神の蛇を怒らすようなことをしたのか? あらゆる魔術や呪術さえ無に帰すような、怒りを生じさせるほど……。
そう考えると、急に恐ろしくなった。今までさんざんヒスイを辱めてきた文旦は、手のひらを返したようにへりくだり、ヒスイの前に現われた。
そのころにはコハクの死体は、とっくに片づけられていた。おおかた経すらあげてもらえず、近くの川にでも捨てられたろう。
「ご機嫌うるわしゅう、水神様」
ヒスイは何も答えない。小さな金魚鉢の中で、じっと文旦を見つめている。
「水神様、日夜降り続くこの雨は、あなた様の祟りでしょうか?」
ヒスイは、答えない。
「失礼ですが、わたくしめが何かお気に障ることを……」
『コハク』
「は?」
出し抜けにつぶやかれ、頭を下げ通しだった文旦が顔を上げる。ヒスイの瞳が青くあおく、文旦を映して燃えていた。
『お前は、コハクを穢して殺した』
「こ……は……く? ……ああ! あの女奴隷で? これは可笑しい! 水神様ともあろうものが、あんな女屑一匹死んだことなぞでお怒りとは!」
思わず本音を吐いた男に、ヒスイの瞳が妖しく光る。
(ガ、ガシャァアアァーンッッ!!)
目の妖光に応じるように、部屋を揺るがす轟音がとどろく。取り乱した文旦が、きょろきょろと滑稽に辺りを見渡した。
「……か、雷か?」
『そうだ、雷だ。なぁ文旦、お前の耳には他の音は聞こえぬのか?』
ヒスイが笑みを含んだ声で、コハクの主人を追いつめる。
おろおろし出した文旦の耳に、暗い地下にまで届くひどい雨音が響いてきた。うろたえる文旦のひたいに、ぽつ、っと水滴が落ちかかる。
「ななな、何……っ!?」
『水だ。水だよ、我の降らした雨水だ。もう貴様の屋敷は水に埋もれた……どれほど頑丈に造ったか知らんが、水は下方へと流れるものだ。じき地下牢も雨で満たされる。お前は雨に溺れ死ぬ。我の降らした雨水に』
くつくつと含み嗤いつつ、ヒスイが歌う口調で言葉をつむぐ。
無情に無邪気な言の葉に、文旦の顔から血の気が引いてゆく。見ている者が吹き出すくらいに顔を歪め、文旦は命ごいをし始めた。
「ゆ、ゆゆ、赦してください水神様! わたしが悪うございました……! 女奴隷の命を奪ったこと、深くお詫び申し上げます……!! ですからどうか、命だけは……っ!!」
『「奴隷」……奴隷か。お前にとってはただの女屑だったか知らんが、我にとっては、誰よりも……』
「ち、誓う、誓います! わたしはコハクの処女を奪ってはおりません! 何せあいつは、わたしのあれを……」
『知っている。噛み千切られるところだったのだろう? ……この豚が。清らかなコハクの口を犯しやがって……っ!!』
(ガン、ガシャァアアァアアーーッッ!!)
雷の狂う轟音がとどろく。文旦はびたりと這いつくばって、ひたいを床に擦りつけながら赦しを乞うた。
「ど、どうかお赦しを、お赦しを……この屋敷も財産もみなあなた様に捧げます! ですからどうか、命だけは……っ!!」
『文旦』
穏やかに名を呼ぶ声に、文旦が泣きべそで顔を上げる。小さな蛇は口もとをすっと吊り上げて、赤い舌を出して嗤った。
『貴様のおかげでこのあたりの人間は、皆死に絶える運命なのだ。貴様一人が助かるという法はあるまい!』
からからからと、ヒスイが美しい声で嗤う。
『水よ、溢れよ! 怒れよ、舞えよ! 全てを無へと帰すが良い!!』
凄烈に歌うような言の葉につれ、水がとぐろを巻いて部屋の中へと雪崩れこむ。
「うわ、あぁああ、あぁあああぁああーーっっ!!」
文旦は下手な芝居のような悲鳴を上げて、醜く溺れ死んでいった。ヒスイの目にその顔は、酢漬けの豚の頭のような形相に見えた。
川は溢れ、山は崩れ、逃げる間もなく人は溺れ、その地方一帯は残らず水の底へと沈んだ。
お屋敷は潰れた。
街は死に絶えた。
ばらばらになった金魚鉢の欠片をきらきら光らせながら、ヒスイは水を泳いでいった。泳ぐほどその体は大きく、透き通るように美しくなり、やがて一匹の大蛇となった。
『コハク……』
大蛇はぽつりつぶやいて、愛しいひとの魂を探してさ迷い出した。
終章・転生
(……あれ……、あたし、生きてるの?)
心のうちでつぶやいて、コハクは瞳を開いてみた。
目を覚まして最初に見たのは、水にたゆたう琥珀色をした袖だった。
『綺麗な着物……蛇のみたいな、鱗の模様がついてるわ』
(誰の着ているものだろう?)
そう考えた幼い少女は、ゆっくりと琥珀の瞳を見開いた。その着物は自分が着ているものだったのだ。
『えぇと……? 何これ、どういうこと?』
あわててまわりを見渡すと、街は丸ごと水の底へと沈んでいた。見慣れた街の建物を横ぎり、小さな魚が幾匹も目の前を泳いでいる。
あんぐりと口を開くコハクの前に、一人の美しい男性が現れた。
『おお、目が覚めたか、愛しいコハク!』
鱗の浮いた翠の着物、水にたゆたう翠の髪。切れ長の青い目をなお細め、男は優しく微笑ってみせた。
『……誰、ですか……?』
『はは、あれだけ親しんでいたに「誰」とはひどい! 我だ、ヒスイだ。愛しいコハク!』
『……え? えぇえ!? ヒスイってあの、蛇のヒスイ!?』
『ああ、そうだ。驚いたか? この姿もまた、我の本性のひとつなのだよ』
人の男の姿のヒスイは、微笑に微笑を重ねてみせる。あっけにとられたコハクに向かい、あの美しい声で語り始めた。
『コハク。お前は一度死んだのだ。我の前で無残に、哀しく、咲きがけの花を手折られたのだ』
痛ましげに微笑ったヒスイが、深い青い目でコハクを見つめた。
『我は怒った。悔やんだ。泣いた。嘆いて、この地へ雨を降らせた。溢れる怒りと悲しみで、ここら一帯を水へ沈めた』
ヒスイがひらりと両手を浮かせ、コハクへ向かって笑みを捧げる。
『コハク。お前を失ったことによる怒りと、救いがたくひどい悲しみ。その感情が、折り重なった呪いを殺し、我本来の力を蘇らせてくれたのだ』
ありがとう。
くちびるだけでささやいて、ヒスイがふわっとはにかんだ。
それから柔く手を伸ばし、コハクの体を抱きしめた。染みるほど優しい感触が、コハクの小さな体を包む。頬を赤くした少女の耳もとで、水蛇が耳朶を舐めるようにささやいた。
『コハク。我は先ほど、お前の魂もらい受けた。お前を呑みこみ、胃の腑におさめて、我の力を幾分か、お前に与えて吐き出した』
『えっと……それって、つまり……?』
幼い少女がくぐもった声で問いかける。そんなコハクを真正面から甘く見つめて、翡翠の蛇が口を開いた。
『コハク。お前はもう人ではない。もののけ・あやかし・水蛇の姫。我の愛しい花嫁だ』
たたみかけて言葉を吐かれて、コハクがヒスイにしがみつく。流れぬ涙に両目がぐっと熱くなり、コハクは切なげに微笑んだ。
『…………ヒスイ』
とろけそうな甘い声音が、コハクのくちびるからもれる。翡翠の蛇が『もうたまらない』と言いたげに、琥珀の蛇へ口づけた。
(……文旦のときと、全然違う)
内心でそうつぶやいて、女奴隷だった少女は、自分から熱っぽく舌を絡めた。
(ねえ、ヒスイ。穢れたあたしを、溶かして殺して。もう一度生まれ変わらせて……)
胸のうちで希いながら、コハクがヒスイの舌を求める。二股に分かれた舌でヒスイがコハクを可愛がると、やがてコハクの舌もするする二股に割れてきた。
蜜と蜜とが混ざり合うような、熱っぽく淫らに甘い口づけ。
そんな口づけを交わした後に、ヒスイは笑って、コハクの肩へと手を回した。
『さあ、ゆこう。我の満たした水を伝って、我が古巣「鏡池」へと帰ろうぞ』
そう告げて、ヒスイがコハクのひたいへ撫でるしぐさで口づける。次の瞬間、二人は二匹の大蛇の姿となっていた。
『……驚かんのか?』
いささか心細そうなヒスイの問いに、コハクが逆に問い返した。
『どうして?』
『嫌では、ないか? ……この姿が』
『どっち? あたしの? あなたの?』
『…………両方だ』
心もとなくつぶやく夫に、琥珀色の大蛇がころころと笑って言葉をつむぐ。
『大満足だわ。だって、あたしの願った通りの姿。願った通りの未来だもの!』
(あたし、蛇になりたいな)
いつかコハクがそう言ったのを思い出し、ヒスイもやっとほっとしたように微笑んだ。
ヒスイとコハクは、雨のあがったひやい水面を、寄り添いながらすべっていった。
水面にきらきら星が輝く。
そのさまを見て、花嫁が花婿にそっとささやいた。
『星が綺麗ね。散らばった金平糖みたい』
『かんべんしてくれ。もう星菓子はたくさんだ』
蛇の夫婦が、ひっそりと声を立てて笑い合う。
天空と鏡合わせの星の海を、一対の蛇は絡まり合い、睦み合い、糸を引くように古巣の池へと泳いでいった。
それは二匹の蛇のお話。
鏡池の主の夫婦の、そもそものなれそめの物語。
後日譚・茉莉花茶の午後
うららかな春の昼下がり。
ヒスイとコハクは、池底の城でお茶を飲んでいた。
鏡池の底には、ヒスイがその力で造った小さな城が建っている。そのこじんまりした城の中で、二匹は人の姿をとって、緩やかに日々を暮らしていた。
『ねえ、ヒスイ』
牛の乳で煮出した茉莉花茶を飲みながら、コハクが夫の名を呼んだ。ほんのり気づかわしげな口調で、ヒスイの目を見て問いかける。
『いつも何度も聞いてるけれど、水がなくて苦しくないの?』
『いつも何度も答えているが、水蛇とていつも水がなければ、生きてゆけない訳ではないよ』
ヒスイがにっこり微笑んで「可愛くてたまらない」と言いたげにコハクの頭を撫でまわす。
二匹の住まう城の中は、新鮮な空気で満ちている。
一方で、窓の外には池の水が満ちみちて、小魚なども泳いでいる。ちょっとした水族館のようだ。
『たまに人が来て釣りなどすると、えさの臭いが水に混じるのが嫌だから』とヒスイは言う。割りに神経がこまいのだ。
『でも、蛇の姿のときはいつだって水の中にいたのに』
『涙の塩味、金平糖の甘い味。あの水はひどい味だった。妙味の水より、新鮮な空気のほうが良い』
『「ひどい味だった」?』
違う方向に気を使いだす妻のおでこへ、ヒスイがなだめるそぶりで手をあてる。娘にするようになでなでしながら、コハクの前へ花柄の小皿をさし出した。
『ほら! それより出来たぞ、お前の大好物。炒りたての「雪花豆」だ、食べてみろ』
『……うん』
コハクが何となく腑に落ちない顔でうなずいて、素直におやつを口に運ぶ。一口かじると嬉しそうに微笑んで、後はもう無心にぽりぽりし始めた。
雪花豆。
炒り豆に砂糖水を絡めてまた炒りつけた、雪をまぶしたようなお菓子だ。
コハクが池底の城にやって来て、初めて口にした食べ物だ。コハクが気に入ったのを喜んで、ヒスイはいつもこのお菓子を作ってくれる。
つきあってぽりぽり雪花豆を食べながら、ヒスイがふっとつぶやいた。
『……そういえばお前、このごろ少し肉がついたな』
『「肉が」? ……太ったってこと?』
『太ったというか……前より少しぷっくりした』
ふっと食べるのを止めたコハクが、ほっぺにそっと手をあてる。
『……やせたほうが良い?』
『いいや、やせるな! とんでもない! だいたいお前、以前は死にそうにやせてたのだから!』
ヒスイが椅子を鳴らして立ち上がり、必死の形相で言いつのる。その勢いに驚いて、それからとても嬉しくなって、コハクがぷくっと吹き出した。
ころころ笑う妻につられて、ヒスイも甘苦く微笑い出す。雪花豆をつまみながら、ついでの口ぶりでささやいた。
『……我は、ぽっちゃりしたお前も見てみたい』
ついでの口ぶりを装って、本気で言っているのがよく分かる。よく分かるから、コハクもお菓子をつまみながら、冗談の声音でこう応えた。
『じゃあヒスイ、頑張ってあたしを「幸せ太り」させてよね?』
ヒスイがちょっと目を見はり、それからくくっと吹き出した。返事の代わりに、ほんわりとコハクの頭をこづく。それからお菓子をひと粒つまみ、コハクの口もとへさし出した。
新妻は鳥のひながえさをもらうように、ぱくりと豆を食べて微笑った。
『ていうか、ヒスイ。「星菓子はもうたくさん」だったのに、雪花豆は大丈夫なの?』
『それとこれとは違うだろう。金平糖は金輪際見たくもないが、砂糖そのものが駄目になった訳ではないぞ!』
言の葉でちゃらちゃらじゃれ合いながら、二匹はふわっと嬉しそうにはにかんだ。
愚にもつかぬ幸せが、いつまでも続きますように。
そう祈りたくなる昼下がりのお茶会に、ほんわりと茉莉花の香りが漂っていた。(完)
『花の章』
花の一・昔なじみと秋の空
秋が来た。
鏡池の池底に、はらはらと紅葉と黄葉が敷きつまってゆく。
ヒスイとコハクが一緒になって、もうじき一年が経とうとしている。
そんなある日の昼下がり、ヒスイがぽろっとつぶやいた。
『あ。……忘れておった……すっかり忘れておったぞ、我としたことが……』
『うん? 何を忘れてたの、ヒスイ?』
『ああ……いや。たいしたことではないのだが……』
応えたヒスイが急に宙空に円を描き、ぽそぽそと呪文のように何かつぶやく。コハクの耳に『妻を娶った』の一言だけが聞き取れた。
『……さて、コハク。茉莉花茶を三匹分淹れてはくれぬか?』
『三匹分? 分かった、今淹れてくるね!』
訳が分からぬながらも素直にうなずき、コハクが台所へと向かう。そんなコハクと絶妙に入れ違いのタイミングで、城内にいきなり『客』が訪れた。
『たのもーう! ひっさしぶりねおいヒスイ! 嫁とったとはどういうことじゃあ!』
魔術の紋様を織りこんだ赤い絨毯。その紋様の上に突如現われた赤毛の女人は、ヒスイに向かって噛みつくようにがぶり寄る。
ヒスイが大げさに息をつき、これ見よがしに白いひたいに手をあてた。
『ああ、またうるさいのが来よったな……』
『うぉい! 聞こえてるわよそこぉ! だいたいあんたね、無事に帰ってきときながら丸一年音沙汰なしってどういうことぉ!?』
『ぎゃいぎゃい騒ぐな。いろいろ忙しかったのだ』
『ああ、そりゃ忙しいでしょうよ! 昔なじみのわたしをさし置いて、幼可愛い奥さんといちゃいちゃかますのにねぇ!!』
うるさいなぁ……。
大きく息をついたヒスイが、改めて昔なじみを見つめる。
鏡池の近くにある、香勝池の主の『女蛇』。彼女はヒスイの古くからの友蛇だが、容姿以外にいろいろと難のある性格だ。
それでも、見た目はヒスイが囚われる以前と変わらず美しい。
さらさらと長く赤い髪。柘榴石のような目をした蛇の化身に、ヒスイはたしなめる口ぶりで言いかけた。
『騒ぐな、ザクロ。お前にも我の嫁を見せてやる。きっとお前も気に入るはずだ』
『はーん! 誰が気に入るもんですかっ! だいたいねあんた、あんたが捕まったときにはわたしも狙われてたんでしょ!? わたしの池に護力の膜を張ってくれて、わたしを護ってあんた一匹が捕まるっておかしくない!? かっこよすぎだっつーの!!』
『……良くしゃべるな、お前』
『しゃべりますとも! ついでにわたしがあんたを救けに行けないように、香勝池から出られないようにしちゃってくれて! 今さっきあんたが術を解いたから、さっそくここにやって来ましたっ!』
『すまん。正直お前のことを、今の今まで忘れていた』
『かーっ! ほんっと正直ねっ! あっさり認めちゃうとこもかっこよすぎだっつーの!!』
『それはさっきも聞いたぞ、ザクロ。……別に格好はつけていない。救けるうんぬんに関しても……。お前が絡むと何かと面倒になるからな』
『はぁあぁっ!? あんたね、わたしがどんっっっっだけ心配したと……っっ!!』
ふいに言葉を切ったザクロが、ヒスイの後ろの扉を見つめる。刺繍彫りの扉が開いて、コハクがひょいっと顔を出した。
『ヒスイ? 誰としゃべっているの? ……お客さん?』
コハクがザクロの姿を目にして、ほああと可愛く口を開ける。ザクロがちょっと驚いて、口もとへ手をあててつぶやいた。
『あら可愛い! でもね、見た目の可愛さだけじゃこのわたしは越えられな……』
『……綺麗なひと……っ!!』
心の底からつぶやかれて、ザクロがひるんだ顔をする。分かりやすくはにかみながらも、無理に口もとを締め上げた。
『ふ、ふーんだ! そんな見え透いたお世辞には引っかかりませんよーだっ!』
『お世辞じゃないです! 本当に綺麗……あたしこんなに綺麗な女人、今までに一度だって見たことないわ……っ!』
『ふ、ふぅうぅ……あぁーんもう駄目っ! この娘可愛いーーーっっ!!』
ザクロが嬉しげに頬を崩して、コハクに抱きついて頬ずりする。
(ちょろい……)
心中でぽつりとつぶやいて、ヒスイは緩やかに苦笑した。
後日訪ねて来たザクロの言葉に、ヒスイは唖然とさせられた。
『あのね、わたしコハクちゃんのこと好きになっちゃったみたいなの。ていうか嫁に欲しい!!』
『……はぁあ!? ふざけるなザクロ! コハクは我の可愛い嫁だ!! 誰がお前なんぞに渡すか!!』
『いいじゃんいいじゃん! もらったって別にいいじゃん! コハクちゃんだってわたしのこと好いてくれてるみたいだし!!』
『それは夫の友蛇として! コハクは我にべったりなのだ! 我もコハクにべったりなのだ! 誰が渡すか、帰れかえれ!!』
ぎゃいぎゃい騒ぐ二匹の後ろの戸が開いて、コハクがひょっこり顔を出した。
『あ、あの……何だかすっごくお取りこみ中みたいだけど、茉莉花茶はいかがですか……?』
『『いる!』』
綺麗に声が重なって、コハクが思わず吹き出した。顔を見合わせたヒスイとザクロも、眉をひそめて苦笑う。
窓の外で、ひらひらゆるりと赤い落葉が舞を踊る。
敷きつまった落ち葉の上で、小魚たちが舞うように笑うように泳いでいた。
花の二・雪降る季節
池底の城で、ヒスイとコハクは冬を迎えた。
窓の外で小魚たちは凍るように眠っている。池の中に満ちる水は、身を切るほどに冷たいのだろう。
『こういう日にはおうちが一番……』
綿入れを着て炬燵で背を丸めるヒスイに、コハクが楽しそうに笑う。
『あは、何だかヒスイがおじいちゃんみたい!』
『ん? 我は爺だぞ? 何せこの池底で、幾千年は生きておる』
ことのほか年よりじみた口ぶりに、コハクがきゃらきゃら無邪気に笑う。つられて笑うヒスイの肩を、後ろから誰かの指がつっついた。
『こらこら、そうやって気持ちから年をとるのはいけないぞ?』
ふり向いたヒスイが大げさに眉をひそめてみせる。背後に悪友のザクロ嬢が立っていたのだ。
『げ。いつからいたのだお前!』
『たった今この城に参上しました~っ! ていうかヒスイ「げ」って何なのよ失礼な!』
『いらっしゃいザクロさん! さっそくお茶を淹れてきますね!』
『ああコハクちゃん、ヒスイと違って可愛いわ~! あのねコハクちゃん、出来ればお茶道具一式持ってきてくれる?』
ザクロの言葉にコハクがちょっと首をかしげる。けげんそうに眉をひそめ、ヒスイが友に問いかけた。
『お前、また何を企んでいる?』
『企んでなんかいないわよぉ! あのね、今鏡池のほとりに雪でかまくら作ってきたから、そこでみんなでお茶しようって訳!』
『うぇえ!? ……めんどくさい……寒い……』
『あらヒスイ、お嫁さんのこんな表情見てもその台詞が言えるかしら?』
ザクロがコハクのほうを示し、自信たっぷりに言い放つ。
コハクは黙って夫の顔を見つめている。その琥珀色の瞳には、特大の文字で『かまくらでお茶してみたい』と書いてあった。
ヒスイが大きく息をつき、綿入れの肩を揺らして立ち上がる。
『雪か……』
うんざりとした口ぶりで言いながら、それでも微笑してコハクのほうへ手を伸ばす。コハクはヒスイと手をつないで『にっこり』と音の出そうな笑みを浮かべた。
『寒いさむいさむいさむい寒いさむいさむい寒い寒い』
『うるさいわねヒスイ!「心頭滅却すれば火もまた涼し」でしょ!!』
『涼しくしてどうする!』
『だいたいね、かまくらの中は外よりあったかいでしょ?』
『城の中よりは断然寒い!!』
ぎゃいぎゃいやり合う二匹にはさまれ、コハクがちんまりお茶をすする。
(仲が良いなぁ……)
心中でぽつりつぶやいて、コハクはふっとかねての疑問を口にした。
『あの、ふたりは付き合ったりしたことあるの?』
『付き合うぅううう!!?』
夫のヒスイに食いつきそうに訊き返され、コハクがひるんだ顔をする。
『え、そんなに驚くこと? だってザクロさん、性格も良いしとっても綺麗だし……』
『あら~ん、ありがとう~!』
『……性格はどうか分からんが。こいつのほうはどうか知らんが、我は男とくっつく趣味はない』
一瞬空気が張りつめる。張りつめさした本蛇のコハクが、二三拍間を置いて大声を上げた。
『――――っえぇええぇえっっ!!? 男!? ザクロさんて男のひとっ!!?』
『お? お前は知らんだったか?』
『分かんないよおっ!! だってこんなにたおやかに綺麗なひとなのにっ!!』
『あら嬉しい~! ありがとうコハクちゃん! でもね、これ見て?』
にこにこしながらザクロが着物の胸もとをはだけ、中のものを引きずり出す。肉まんの巨大版みたいな『乳袋』がずるんずるんと飛び出した。
『あー、これ外すとえらい寒いわ。知らないうちに防寒具にもなってたのね~』
『我には! それがないから! 寒いのだ!! 帰る! もう帰るっ!!』
『はいはい、じゃあわたしも香勝池に戻るとするわ。コハクちゃん、お茶ありがとう! またねっ!』
ザクロはぱきぱきとあいさつし、次の瞬間かき消えた。何ごとかぶつぶつ言いながら、ヒスイがコハクの手を握る。刹那、二匹は池底の城に戻っていた。
『……眠い……』
ぼんやりとつぶやいたヒスイが、絨毯の上に猫のように丸くなる。うとうとし出すヒスイの頬を、コハクが小さな手で撫ぜた。
『……ごめんねヒスイ、疲れちゃった?』
『……疲れはせぬが。体がひやいと眠気がさす……お前も眠くなってはおらぬか?』
そう言われて、コハクはやっと自分の眠気に気がついた。
まぶたが重い。さらさらさらと、身のうちに今まで感じたことのない眠気がせり上がってゆく。
『……冬眠だ。文旦の屋敷では不用意に寝る気もせなんだし……お前と一緒になって初めての冬も、昂奮していてせなんだが……そろそろ眠る季節のようだ……』
うとうととつぶやいた翡翠の蛇は、ふっと苦笑してささやいた。
『……ザクロめ、寝ない我らが気にかかっていたらしい。自分も寝ずに、蛇体をかまくらで寒気にさらして、我を眠らせに来たようだ……』
ヒスイはゆるゆると立ち上がり、優しくコハクの手を引いた。
『眠ろう、コハク。春の来るまで我と一緒に眠ってくれ』
うっとりとうなずきかけて、コハクがふっと迷いを見せる。そのそぶりに気がついて、ヒスイはとろりととろけた口調で問うた。
『……どうした? 何か気にかかることが……』
『……恐い』
『「恐い」? 何がだ?』
『……眠って覚めたら、みんな夢になりそうで……』
どこか泣きそうにつぶやくコハクに、ヒスイが青い目を見はる。それからゆるりと微笑ってみせて、妻のひたいになぐさむように口づけた。
『……大丈夫、夢ではない。春の来てお前が目を覚ますとき、すぐとなりで我も目覚める。それとも、冬眠で長く夢見ることすら不安か? 悪夢を見そうで恐いのか……?』
黙ってうなずくコハクに微笑み、ヒスイは細い指で妻の幼い頬を撫ぜる。柔くコハクを抱きしめて、耳もとで甘くささやいた。
『蛇の力を軽く見るな。我とお前が共に望めば、夢でまみえることなど容易い。夢で逢おう、愛しいコハク……』
ふわっと大きなあくびをしてから、ヒスイがゆるりとコハクの体を抱き上げた。
『さあさ、寝ようぞ愛しいコハク……』
『……ザクロさんも、ちゃんと寝てるかな?』
『ああ、寝ているとも。あいつは寝起きが悪いから、春に二匹で起こしにいこう。蹴られぬように気をつけんとな……』
生あくびを噛み殺しながらの夫の言葉に、コハクもようやくくすくす笑う。
大きめの寝台に二匹で身を横たえて、コハクはすがりつくようにヒスイの柳腰に抱きついた。
『……おやすみ』
『おやすみ……』
大丈夫。今はもう何も恐くない。
春が来るのがこんなに待ち遠しいなんて、いったい何年ぶりだろう。
胸のうちでつぶやきながら、コハクはとろとろ眠りに落ちた。柔らかい羽毛布団をふわふわ感じるまぶたの裏で、ヒスイの姿を遠く見つけた。
もうはや春の陽気の夢の中、愛しい夫が手を振りながら近づいてくる。
とっぷりと眠りに落ちたコハクの目から、嬉し涙がしたたった。
池の外ではしんしんと、白雪が降り続いている。
ようやく幸せになれた二匹を、穏やかに祝福するように。
花の三・貝の涙
このごろコハクの調子が良くない。
ヒスイがコハクを娶って六年めの春のこと。少女から乙女の姿に成長した琥珀の蛇は、どうにもこのごろ食が細い。
『気になるな……多少無理にでも食せばどうだ?』
『それがだめなの。無理に食べると、もどしちゃって……』
言いながらコハクが口を押さえる。ふいに青い目をまたたいたヒスイが、ものすごく真面目な表情をした。
『……コハク。お前「月のもの」は来ているか?』
『……あ』
栗色の髪を揺らして顔を上げ、コハクの頬にじわりじわりと朱が昇る。しなやかな柳腰を宙に浮かせて、ヒスイがコハクの手を引いた。
『ザクロのところに行こう、コハク。あいつは趣味で医術もかじっている』
『本当? すごいわ、ザクロさん!』
素直に『女蛇』を褒めるコハクに、ヒスイがちょっと複雑そうに口を開いた。
『……そうか? 我にはさほどの腕とも思えぬのだが……趣味ていどの医者に頼るのも心細いが、他に思いつく相手がない』
(あ、ちょっと焼きもち焼いてるんだな……)
内心でこっそりつぶやいて、コハクはにっこり微笑って細い夫の手をとった。
『お天気は良い?』
『おそらくは。窓の外の小魚たちの機嫌が良いから』
『ああ、そうね! ねぇ、香勝池まで散歩しながら行きましょう、ヒスイ!』
『……大丈夫か? 体の具合は……』
『とちゅうで調子が悪くなったら、そのときは「空間転移」よろしくお願いします!』
コハクが微笑って舌を出す。いつからか『当たり前に甘えられる』ようになった乙女に、ヒスイは嬉しげにはにかんだ。
『……うん! こりゃ間違いなく「おめでた」だわ!』
コハクを『診察』した柘榴の蛇が、満面の笑みで太鼓判を押す。
いぶかしげな表情をした翡翠の蛇が、しつこいくらいにがぶり寄って『タケノコ医者』を問いつめた。
『本当か? 本当に本当か? お前の診察間違いで、実は重~い病気の初期症状だったとかそういうオチは……っっ!!』
『……あんた、ほんっっっとうに嫁バカねぇっ!! 間違いないわよ、それが証拠にコハクちゃんのおなかに耳あてて聞いてみなさいっ!!』
『…………良いか?』
急にひるんだ顔をしたヒスイが、恐るおそるコハクに訊ねる。にっこり微笑ってうなずかれ、火に触れるようにおずおずと妻のおなかへ耳をあてた。
(とくん……とくん……っ)
聞こえる。『生命の時計』の音が。
ヒスイの白いしろい頬に、見る間に血が昇ってゆく。涙ぐんで顔を上げ、翡翠の蛇は妻の両手をひしと握った。
『……コハク……ありが……っ!!』
『はいはい、あんまり見せつけないでよお二匹さん! コハクちゃん、これからはあんまり無理はしないでね? 重いもんなんか持っちゃダメよぉ?』
『そそそ、そんなもん持たせるかっ! こうと決まったらこんなところに用はない、帰るぞコハクっっ!!』
『ちょっと! 「こんなところ」って何よ、ごあいさつねっ!!』
ぷりぷりし出すザクロを思いっきり無視し、ヒスイがコハクを抱き上げる。あわてたコハクが夫の顔をまぢかに見つつ、可愛い声音で口を開く。
『ちょっとヒスイ! 重くない? そんな気を使わなくても良いから……っ!』
『何を言うか、「二匹身」の妻に無理などさせられんっ!! コハク、今日から家事炊事その他もろもろは全部我がするからなっ!!』
『あのねヒスイ、妊婦さんには適度な運動も必要よ~……?』
呆れ顔のザクロが言い終わる前に、ヒスイはコハクを抱いたまま『鏡池』へと帰っていってしまった。
『……ほんっと、嫁バカね……』
深く息をついた『女蛇』が、少し淋しげな笑みを浮かべた。
『さあって、一匹身のザクロちゃんは二度寝でもしますかぁ!!』
不必要に大きな声を張り上げて、ザクロは寝台にもぐりこむ。そのまま暁を覚えずに、三日ほど春眠をむさぼった。
夢の中で、まるきり知らないひとに出逢った。
ふわふわと白い、温かな幽霊のような影ぼうし。白い影は三日まるまる夢の中で遊んでくれて、『またね』と言って手を振った。
『……変な夢……』
目覚めたザクロはつぶやいて、くしゃりと寝乱れた髪に手をやった。それからふわりと口もとを緩めて苦笑する。ほんの少しだけ、気分が楽になっていた。
やっと。
やっとだと思う。
寝台のとなりで眠る夫の顔を見つめつつ、コハクは柔く微笑んだ。
六年前『生まれ変わった』コハクに向かい、自城の中でヒスイは告げた。
『十二から数えて、お前が十八歳になったら抱かせてもらう』と。
実のところコハクとしてはすぐにでも、文旦に穢された身を清めてほしかった。けれど『コハクを大事にしたい』ヒスイの気持ちもよく分かるから、黙って微笑ってうなずいた。
そうして、三月前初めて二匹はひとつになった。
そうして今おのれの身の内で、新たな生命が育っている。
けれども。
けれども、この幸せは、いろんな生命を洪水で押し潰して生まれたものだ。それが少し悲しくて、それでもやっぱり今はいっぱい幸せで。
コハクは眠る夫を見つめ、ささやかな声で問いかけた。
『ねえ、ヒスイ。まだいろいろのことを怒ってる?』
怒るより、笑うほうが気持ち良い。
殺すより、赦すほうがきっと――。
そう知っているから、コハクはヒスイの胸に手を触れて問いかけた。
眠るヒスイのくちびるからは、ただひたすらに穏やかな吐息がもれてくるだけだった。
恐い。
ザクロの城の一室の前、ヒスイは歯を噛みしめて迫る恐怖に耐えていた。
恐い、とんでもなく恐い。
たとえば文旦の家来どもに蟻のようにたかられて捕まえられたときも、これほどの恐怖は感じなかった。今にも息絶えそうに恐い、自分の子どもが生まれるのが!
(子どもがもしも死産だったら?)
(あまりな難産で、コハクが死んでしまったら?)
恐ろしい考えが山積みになり、息すら出来なくなりそうだ。白い肌からあぶら汗をしたたらせるヒスイの耳に、ザクロの声が飛びこんできた。
『ヒスイ! 生まれたわ! 元気な女の子よっ!!』
『――――っっ!!!』
声もなく声を上げ、ヒスイが『分娩室』へ駆けこんだ。
白いしろい部屋の中で、桜のように赤みのさした頬をして、コハクが涙目で微笑っていた。そのとなりに、小さな赤子が眠っていた。
白い髪に、白い肌。
ヒスイの足音にすうっと開かれた大きな瞳は、真珠のように真白く綺麗に輝いていた。
『…………っっ』
ヒスイが大きく息を吐き、布団に顔をめりこます。そのまま肩を震わせて、男泣きに泣き出した。
『……っありが……ありがとう……っくっ……うぅう……っ!!』
『過呼吸かっ!!!』
白衣姿のザクロが思いっきりヒスイの背中をしばき倒す。「ぐわっ!!」と悲鳴を上げたヒスイが、本気で怒って『産婆さん』にがぶり寄る。
『ザクロッッ!! おまっっ!! これ以上ない感動シーンをツッコミでぶち壊すたぁどういうことだっっっ!!?』
『合わないわよ、そんな真面目なシーンあんたには!! もっと素直に喜びなさい、ほらほら笑いなさいお父さん!! ゆくゆくはあたしがお嫁にもらったげるわっっ!! おほほほ~っっっ!!』
『誰がやるかぁっっ!! 去ね!! 去なんかっっ!! もうはや産婆の出番はないっ!!』
『あら、婆なんて失礼ねっっ!! 「産お姉さん」とお呼びなさいっ!!?』
『黙れおかまがっっっ!!!』
いつもの通りのやりとりに、あっけにとられたコハクがくすくす笑い出す。そのとなりで赤子もにこにこ笑い出し、気を抜かれた男どもも顔を見合わせて吹き出した。
『……この子、綺麗に白いのねぇ。髪も肌も目も透き通るよう……』
『真珠を思わす目をしておるな。見ていると吸いこまれそうだ……』
『「真珠」……「シンジュ」って良くないかな? この子の名前!』
ぽっと思いつくコハクの言葉に、ヒスイが嬉しげに青い目を緩めた。
『シンジュか……良い名だ。良い名だぞ、コハク! この子の名はシンジュにしよう!』
『あら、即決! わたしの未来のお嫁さんの名は「シンジュ」に決まりねっっ!!』
『しつこいわおかまめっっ!! 男のけつでも追っかけていろっっ!!』
『あら、おかまを差別するつもりっっ!? そんなこと言ったらあんたのけつを追っかけてやるっっ!! 待ちなさ~いっっ!!』
『うわぁあああぁああっっ!! 助けてくれコハクっっ!!!』
看護婦のいない『病院』では誰も止め手がいないので、馬鹿騒ぎも収まらない。
くすくす笑うコハクのとなりで、赤ん坊が呆れたようにあくびした。
その晩、ザクロは夢を見た。
あの白い影ぼうしの夢だった。影は二匹で遊んでいるうち、だんだんと形がはっきりしてきて、しまいに白い髪に白い肌、白い瞳の少女になった。
『……あれ? あんた、シンジュ? シンジュちゃんじゃないの?』
ザクロが影に訊ねかける。白い少女はまじまじザクロの顔を見て、それからふわりとはにかんだ。
『初めまして……よろしくっ!!』
少女はきゅっとザクロの両手を握りしめ、ころころ笑って駆け去った。
そんな夢から、目が覚めた。
ザクロは平たい胸へ手をあてて、火照った息でつぶやいた。
『……あれ……? わたし何でこんなにどきどきしてるのかしら? ……変ねぇ……』
微笑いながらつぶやくザクロは、知らなかった。
そのとき、ヒスイとコハクにはさまれて眠るシンジュも、頬を染めてふわふわ微笑っていたことを。
花の四・外見の理由
次の六年がすぎた。
夏の盛り、外界は暑くとも池底の城はひんやり涼しい。
惰眠をむさぼっていた柘榴の蛇は、ほっぺをつつかれて目を覚ました。
『う……う~ん、誰?』
『おそよう! ザクロお兄ちゃんっ!』
ザクロが小さくうなりながら柘榴色の目を開く。布団の上で、幼い少女が当然のように微笑っていた。
練り絹の髪と白雪の肌。真珠色の瞳を緩ませた白い少女は、あいさつがわりにザクロのひたいへ口づけた。
『……シンジュちゃんか。駄目よ、その年でオトコの寝こみを襲うなんて? ちゃんとパパとママに「柘榴のところに遊びに行く」って言ってきたぁ?』
『うんっ! お父さんもお母さんも「気をつけて」って言ってたよ!』
『ふ~ん? なんかコハクちゃんとヒスイとじゃ「気をつけて」の意味が違う気がするわ~』
『意味が違う? ってどういうこと?』
『良いのいいの、オトナの話! さ、じゃあ一緒に遊びましょっか、シンジュちゃん!』
まんざらでもない顔をして、ザクロがぱっと起き上がる。シンジュも可愛い歓声を上げ、持ってきた対戦型の知能遊戯を取り出した。
かたや幾千歳。
かたや弱冠六歳。
いつものようにすさまじい年の差勝負が始まった。
『お、その手で来る? じゃあわたしは……これでどうっ!?』
『ザクロお兄ちゃん、そう来るとこの手で駒を取られるよ~?』
『ふふ~ん、飛んで火に入る夏の虫っ! シンジュちゃんの大駒取ったりぃっ!!』
『あぁあ、ずる~いっ!!』
『ほほほ! 勝負の世界に「ずるい手」なんてないのよ~っ!! 勝てば良いのよ、シンジュちゃんっ!!』
おとなげないザクロの言葉に、シンジュがむうっとぶすくれる。ぶすくれながらも口のはしに笑みを含んで、渾身の一手を指しにかかる。
子どもの自分にも、たいがいのことは『手加減なし』であたってくれる。
そんなザクロと勝負するのが、シンジュは何より好きなのだった。
『っあ~遊んだあそんだ! 遊んだわぁ~っ! さぁ~て、そろそろ休戦! 一息つきましょ、シンジュちゃん!』
大きく伸びをしたザクロが、香りたつお茶を淹れてくれる。ミルクティーをすすったシンジュが、満足げに息を吐いた。
『美味しい……っ』
『あら、気に入ってくれたのねっ? 今日のはね、貴婦人紅茶のミルクティーなのっ! 矢車菊の香りが良いでしょうっ?』
『うんっ! ……ザクロお兄ちゃん城のお茶はいっつも紅茶だね。紅茶好き?』
『そうねぇ、たまに気が向いたら玉露なんかも飲むけれど……シンジュちゃん城でいっつもいただく茉莉花茶も、香りが良くて好きだわね~』
『え、えへへ~』
自城のお茶を褒められて、シンジュが嬉しげにはにかんだ。
お茶うけの生姜焼菓子をつまみながら、何となく浮かんだ疑問を何の気なしに口にする。
『そういえばザクロお兄ちゃんて、なんでいっつも女のひとみたいな格好してるの? いつからしてるの?』
『うっ、お子様ならではのド直球な質問ね……っ!』
たじたじとなった柘榴の蛇が、ふいに複雑な表情で息を吐く。柳の眉をかすかにひそめ、ほろ苦くほろ甘い微笑を浮かべた。
『……わたしね、いつから生きてたか記憶がないの。気がついたら香勝池にいて、自分で建てた城に住んでた……で、いつから友だちだったか記憶もないけど、気がついたらそばにいたのが、あんたのお父さんだったのよ』
シンジュが大きな瞳をくるくるに見はり、じっと昔話を聞いている。ザクロは柘榴色の瞳を細めて、ほんのりと言葉を吐き出した。
『わたしは、ヒスイのことが好きだった。でもヒスイは、そういう目ではわたしのことを見てくれなかった。「あ、自分が男だからいけないんだな」。そう思ったわたしは、いつからか女の格好をし始めた……』
ふうっと息をついたザクロは、ほんのわずかに痛々しげな笑顔を見せた。
『だけど、そういうことじゃなかった。ヒスイは呆れた顔しながらも、友だちとして永くつきあってくれたけど……いつか人間に攫われて、戻ってきたと思ったらお嫁さんまで連れてきて! 正直くやしかったわぁっ!!』
冗談めいた口ぶりで、ザクロが真実を打ち明ける。まじまじ相手を見つめながら、シンジュが思わず息をつめた。
『……でもね、すぐに分かったの。ヒスイのお嫁さん……コハクちゃんは本当に良い子なんだって……』
シンジュの頭を撫ぜてやり、ザクロは言葉をつむいでゆく。
『そう、たとえばもしもコハクちゃんが男の子だったとしても、ヒスイはコハクちゃんを「お嫁さん」にしたんだろうな、ってっ! なんせわたしも好きになっちゃったくらいだし! 完敗よ~っ!!』
大げさに騒いでみせながら、ザクロは過去を丸ごと打ち明けた。
しばし黙りこんだシンジュが、何ごとか考えるそぶりで口を開いた。
『……それじゃあ、ザクロお兄ちゃん。ザクロお兄ちゃんをそのまま愛するひとができたら、男のひとの格好に戻る?』
『え? ……えぇえ? そうねぇ……そうなるかしら?』
首をひねって考えて、ふっと気づいたザクロがまじまじシンジュの顔を見る。それからひどくこそばゆそうに、くすくすくすくす微笑い出した。
『……え? えぇえぇ? そういうことっ? そういう意味……っ? やぁねシンジュちゃん、オトナをからかうもんじゃないわよっ!』
『からかって、な……』
『さぁさ、そろそろ日暮れ時よ! パパとママが心配するから、早くお城へ帰りなさいっ!』
本気の意を示しかけたシンジュの言葉をさえぎって、ザクロが少女の背中を押す。シンジュは不本意そうにしながら、それでも素直に帰路についた。
自城に取り残されたザクロは、しばし黙りこんでいた。やがてすうっと手を踊らせ、宙空から小型のはさみを取り出した。
(じゃくん……っ!)
はさみの大きく鳴る音が、池底の城に鈍く響いた。
あくる日の昼下がり、鏡池の底の城。
めがねをかけて本を読んでいたヒスイの前に、突如『珍客』が現われた。
『おうわぁっ!! おおお驚いた、ザクロか!? ザクロなのか、お前っ!? 一瞬誰かと思うたぞっ!!』
ヒスイに向かって微笑うザクロは、ものすごい短髪になっている。着ている着物は相変わらずの女ものだが、見違えるほどの『断髪』ぶりだ。
しげしげ悪友を見つめたヒスイが、あごに手をあててつぶやいた。
『……しかしお前、こうしているとまるで男みたいだな? ……って、もともと男だったか!』
ウケ狙いでも何でもないのに、思わず二匹が吹き出した。
と、二匹の後ろの扉が開いて、コハクとシンジュが顔を出した。彼女らも一瞬びっくりした顔をしてから、嬉しそうに微笑って部屋に飛びこんできた。
『わあザクロさん、見違えちゃったっ! 短髪姿も素敵だわっ!!』
『ザクロお兄ちゃん、かっこい~いっ! 映写機男優さんみたいっ!!』
二匹の言葉に、ザクロが満面の笑みを見せて両手を広げてがぶり寄る。
『あら~ん、嬉しいお言葉ありがとう~っ!! シンジュちゃんいらっしゃ~いっ!! 「映写機男優」がハグしてあげる~っ!!』
『って、中身は変わっとらんのかっ!! 寄るなよるな、我の可愛い娘子だっ!! 気安く触れるな、おとなになるまでっ!!』
ふっと真顔になったザクロが、低い声音で訊き返す。
『「おとなに、なるまで」……? ぶっ!!』
疑問符がゆかいな破裂音で潰された。ぐりぐりとザクロの頬べたに手をなすくりながら、ヒスイが妻へ要請する。
『コハク、茶を淹れてきてくれ! 厚かましいこいつのことだ、茶の一杯も飲まねばおとなしく帰るまいっ!!』
『ちょっと何て言いぐさよ~っ!! お茶はありがたくいただくけれどもっ!!』
友人漫才に微笑いながらうなずいて、コハクがシンジュの手をひいた。
二匹でお茶とお茶うけの用意をしながら、シンジュが母にこう言った。
『ねえねえお母さん、お父さんとザクロお兄ちゃん、仲悪いけど仲良いねっ!』
『そうね、二匹とも素直じゃないから……でも片一方に何かあったら、二匹とも全力で救けに行くのよね』
コハクは少しうらやましそうな声を出し、それからくすくす微笑んだ。まだ幼いシンジュの顔を見つめながら、じんわりと頬に笑みを浮かべる。
どうなるか、まだ分からない。
分からないけど『そう』なったならとても嬉しい。
シンジュがいずれおとなになって、白いドレスをまとうとき。そのときに、となりに誰が笑っているのか――。
ふいにびらびらのドレスに身をまとったザクロの姿が目に浮かび、コハクは思わず吹き出した。
『う? お母さん、何でいきなり笑ったの?』
『うぅん、何でも! 何でもないのよ……っ! あははっ!!』
『う~、何か一匹だけ楽しそうでずる~いっ! ねぇ何で? 何で笑ってるの~ねぇえ~っ!』
やいやいまつわる娘をあやすコハクの耳に、居間から夫の悲鳴が届く。
『お~いコハク~っ! 茶を早く持ってきてくれぇ~っ!! 部屋に二匹を良いことに、ザクロが我にせまってきておる~っっ!!』
『あ~ら、せまってなんかいないわよぉ~っ!! せまるってのは、もっとこう……っ!!』
『ぎゃあぁああ~~っっ!! コハクっ!! シンジュ~っ!! 助けてくれぇえ~~っ!!』
池底の城に悲鳴と笑いが満ちてゆく。
じりじりうだる外界の酷暑は影もなく、城は涼やかに平和であった。
花の終・大団円
シンジュがこの世に生まれ出でて、十八年の時が過ぎた。
龍の柄の着物で身を飾ったヒスイが、ちょいちょいと衿元を直している。そのとなりで芍薬の花の柄の着物に身を包んだコハクが、そっと結い髪に手をやった。
『うぅむ、どうにも緊張するな……花嫁の父親というものは……』
『あら、花嫁の母親も緊張するわ! というより、なんだか目もとがむずむずしちゃって……』
『わーまだ泣くなっ!! せっかくの化粧が流れてしまうではないかっ!! 無論すっぴんも大好きだけどもっっ!!』
ナチュラルにのろける夫の言葉に、コハクがくしゃくしゃの笑顔を見せる。
てんやわんやで香勝池の城までゆくと、城主のザクロが両手を広げてヒスイとコハクを出迎えた。
ザクロは今日は赤毛の短髪に、男ものの豪奢な着物。心なしか体格も以前よりはがっちりして、まるきり別蛇のようだ。
『あら~ん、お義父さんお義母さ~んっっ!! お洒落しちゃっていつもの万倍かっこ良いわぁ可愛いわぁ~っっ!!』
ザクロがくなくなと体を揺らめかしながら、ヒスイとコハクに抱きつこうとがぶり寄る。やっぱり中身は今までとさして変わらぬらしい。
呆れ顔のヒスイがザクロの横頬に手をつっぱり、抱擁を拒みながらたしなめた。
『お前なぁっ! 見た目うんぬんよりも、まずそのしゃべりをどうにかしろっ!! 女声をやめたぶん、低音の男声で気味悪いっっ!!』
『あら~ん、見た目や声音はどうにかなるけど、口調ばっかりは身に染みついてて変えられないの~んっ!!』
『わかった、わ~かったからっっ!! とにかく引っつこうとするなってっっ!!』
ぎゃあぎゃあ騒ぐ男二匹の背後の戸が開き、いささか引き気味の花嫁が現われた。
花嫁に気づき、急におとなしくなった男どもがごまかすように咳ばらう。そんな二匹を真珠の瞳で見つめながら、シンジュは柔らかく苦笑した。
『相変わらずね、お父さん! ザクロももう少ししゃんとしてよね? 結婚式なんだから』
西洋風の真っ白なドレスに身を包み、花嫁は白い瞳を緩めて微笑う。練り絹のように透き通る頬に、うっすらと朱が昇っている。
花嫁の肩に手を置いて、ザクロが急にしゃっちょこばってまっすぐヒスイの顔を見た。
『な……何だ?』
『お義父さん。……お嬢さんを、ぼくにくださ……ぐふっ!!』
『なっ!? 何故にそこで吹き出すっ!!?』
『だってヒスイ、めっちゃ泣きそうな顔してて……ぐふふっ!!』
『お前だって泣きながら笑っとるだろうがぁっ!! 気色悪いわ、やめろその顔っ!!』
『はーーーーっ』
泣きそこねた花嫁が、深くふかーく息をつく。くすくす微笑う母親と顔を見合わせて、ほの甘くほの淡く苦笑した。
『良い式だったね、ヒスイ……』
『……そうか?』
二匹っきりの城の中、ヒスイとコハクが居間でゆっくりくつろいでいた。娘のいなくなった部屋は、ぽかりと穴の開いたようだ。
『二匹か……』
『また新婚みたいになるね?』
『……また子どもをつくるか、コハク』
半分本気の冗談に、コハクがふわっとはにかんだ。ひざまくらで夫の髪を撫ぜながら、しみじみとこう問いかけた。
『孫の顔は、いつになったら見られるだろうね?』
『……気が早いぞ、コハク』
妻をたしなめた翡翠の蛇が、ふいにぽつりとつぶやいた。
『……あいつらは……』
『ん?』
『……我の殺したあいつらは、どこでどうしているのだろうな……』
コハクが琥珀の瞳を見はる。
あいつら。
昔にヒスイが大水を起こして滅ぼした、文旦を含む人間たちのことだろう。ヒスイはとんとその話なぞしないから、忘れたのかと思っていた。
ヒスイの瞳は、翠の豊かな髪に隠れて分からない。瞳を髪に隠したまま、蛇神はぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
『……悪い魂は悪いなりの罰を受け、転生して人生をやり直してでもいるのだろうか……?』
ああ。
ヒスイは、後悔しているのだ。
神の怒りは、きっと最小の単位が『洪水』で。文旦以外、多くの人の命を奪ったことを、ヒスイはきっとずっと後悔していたのだ。
いや、もしかしたら、当の文旦のことすらも――。
(今の幸せが後ろめたいの?)
コハクはそう訊こうとして、黙って微笑って、ヒスイの頬へ手をあてた。
『……もう、しないでね』
ヒスイはそっと、かぶりを振るようにうなずいた。いや、うなずくようにかぶりを振ってみせたのだろうか。
分からない。分からないから、コハクはやっぱり黙って微笑う。微笑いながら、しみじみと琥珀の瞳を緩めて考えた。
今度は、もっとちゃんと生きよう。
永いながい蛇の一生を終えた後、生まれ変わってもう一度ヒスイと巡り逢ったら、もっとうまいこと生きてみせよう。少しでも良いほうへ、良い方へ。きっとそのための『輪廻転生』なのだから――。
そんなことを考えながら、コハクはほんのり微笑んだ。
ヒスイの耳もとへ顔を寄せ、今はたった一つ、確かな言葉をささやいた。
『ヒスイ。……大好きよ』
小さくうなずくヒスイの目から、何かがこぼれ出たらしい。丸く可愛いコハクのひざが、ほんのわずかにぬるく湿った。
コハクはヒスイの頭を柔く優しく撫ぜながら、いつもシンジュに歌っていた子守唄を歌いだした。
誰も傷つかず、誰も絶望することのない、桃源郷の歌だった。
優しい歌はいつまでもいつまでも、池底の城に響いていた。
それは四匹の蛇のお話。
悲惨な出だしで始まった、来世へつなげる物語。(終)