3. はいコレ生クリーム。
「はいコレ生クリーム。重いから気を付けて振りなさい」
汗をかき始める前の入れ物を、危なげなく受け取ったハーディは、目を白黒させた。私はオーブンに成形済みのパン生地を入れて扉を閉めた。
客が来てから料理するのは、どのくらいぶりだろう。
今日がオーブン仕事の日で良かった。
いつも昼は摂らないから、余計にそう思う。ポーク・ビーンズを仕込んだ鍋を温源台に置いて熱量を調整したところで、途方に暮れているハーディと目があった。手の中の金属製容器ーー乳酪筒をどうして良いかわからなかったらしい。
しまった、と思った。
アレは、金属加工が得意な友人に作ってもらった挽き物だ。
昔からある撹乳器とは違い、ごく少量のバターを作るのにとても便利だから使うのが当たり前になっていた。
さっと鍋へと視線を走らせる。
温源台だって同じだ。王都ですら竈や料理用ストーブが主流だから、この子は初めて発明品を見るのかも知れない。
解っていないだけで。
「かしなさい」
ハーディは素直に渡してくれた。
厚手の布巾で表面を拭って、水気を取った。
こうしないと振っている最中に、すっぽ抜けて飛んでいく。
前に一度、窓ガラスを割って料理どころではなくなった。冬の大惨事として魔女ばあちゃんと友人達が語り継いでいる。
私は筒を振りながら、食器棚と窓際のテーブルを目顔で指した。
「食器を並べて、食卓を整えて。私は、昼は食べないから、君の分だけでいい」
踏み台を足で探り、ハーディへと押し出す。
新緑色の目が丸くなった。行儀が悪いからマネはするなよと笑って釘を刺せば、おっかなびっくりだったハーディも笑った。使うように顎で促すと、踏み台を抱えて食器棚の前に置いた。
棚とテーブルを往復する動きがキビキビしている。あっという間に支度が整った。踏み台を元の場所に押し込んだハーディは人心地ついたのだろう。不思議そうな顔で私の動作を見ていた。気にせず振っていると手の温度が筒に伝わって、あ。
この感じは、もう直ぐかな?
「君もやってみるかい?」
頷いたハーディの手を取って、筒を確りと持たせた。
後ろから抱き込むように添えた手を動かして、やり方を教える。
「こう、上下に振って攪拌するんだ。そうすれば中のクリームが分離してバターになる。あと、五・六回かな。やってごらん」
クリームの入った金属製容器は、それなりに重い。
身体の小さな子供にしたら、大仕事だ。けれど唐突に凝固する瞬間は、病み付きになる手応えがある。慣れた今でも楽しいし、初めての時は理化読本に書かれていた通りだと実感して嬉しくなった。
「いち、……にぃ、……さん、」
ハーディは両腕を目いっぱい振る。
カウント六で、トン、と筒から音がした。新緑色の目が真ん丸になって、私を見る。
思わず笑み零れた。
差し出した私の手に、乳酪筒がのせられた。
「さ、どんなふうか見てみよう」
ボウルを手元に寄せて、筒の蓋を開けた。金茶色の頭がスススと視界に入ってきて、……近。
反射的に一歩引きたくなるのを、ぐっと堪えた。ハーディのパーソナルスペースの取り方に私はひっそり緊張する。
ハーディに見えるように、手の中の容器を傾けた。筒の中に、ミルクと薄黄色の塊があった。
「この塊がバターだ。溢さないように、バターだけをボウルに入れてごらん」
筒とボウルとフォークを渡し、作業し易いように場所をあける。
ハーディは、そぅ、とバターの塊をボウルに移した。とても上手だ。彼は筒を不思議そうに覗き込んで、残された液体の匂いを嗅いでいる。
この子は好奇心が旺盛だな。
「そっちはバターミルクと言ってコーンブレッドなんかを作る時に要るんだ。味はあんまり無いよ。そのまま乳酪筒で保管して、……まぁ近い内に使うかな」
ふーん、とハーディは力みの無い返事をした。
気が無いわけではない。単にコーンブレッドを知らないんだろう。
「さ、かしてごらん。仕上げるから。これから中に閉じ込められた水分をスプーンで押し出すんだ」
これをキッチリしないと舌触り最悪なバターになってしまうと続けて言えば、ハーディは「え」という表情になった。
昔の私と同じで、思わず笑ってしまった。
手作りする前は、生乳から分離したクリームを攪拌するだけでバターが出来上がると思っていた。
ウキウキ気分で口に入れて絶句した。
塩も振っていない水気タップリの乳脂の塊だから当たり前なのだが、あんな不味いバターは生まれて初めてだった。
柔らかい塊を、汲み置きの冷水でそっと濯ぐ。
直ぐに白く濁り、水をかえた。透明になるまで水洗いすると手で温まった温度が下がって、塊は少し固くなる。完全に水を切ってから、スプーンの背で押す。ぶわりとバターミルクが溢れ出た。
思ってもみなかった量だったのだろう。ハーディは目を丸くした。
バターミルクを乳酪筒に戻し、また塊を押す。出て来たバターミルクを再び筒に入れる。何度も繰り返すと、どこか歪だったバターが、滑らかになってきた。
改めて冷水で濯ぐ段階になれば、完成までもうちょっとだ。
表面の水を切り、中の水分をコレでもかと押し出そうとするが、その量は一滴以下になる。滲み出た最後のバターミルクを筒に戻さず流しで切って、ボウルを台に置いた。
「ミヒルの顔、真っ赤だ」
ハーディがポカンと言って、私はハハと力が抜けた。
そりゃ、
「君だってマズイ料理は食べたくないだろう? さ、そこの木型を取ってくれ」
指先で適量の塩をバターに振り、反対の手で一人用のバター木型を受け取って。
ふと、私の作業を注意深く見るハーディに尋ねてみた。
「バターを型に押し込んでキレイに抜かなきゃならんけれど、……やってみるかい?」
「うん」
ハーディは道具を受け取ると、慎重な手付きでバターを型に押し込め始めた。
作業に没頭する姿は、夢中になっている子供というより集中している大人のようで、私は不思議な気持ちになった。料理をし慣れていない割には、ハーディはよく身体が動く。指示される事を厭わず、裏表が無い。
私は、鍋をかき回してポーク・ビーンズの仕上がりをみた。
切ったベーコンを炒めて足して良かった。いつも作っている物より旨味が濃い。良いのが出来た。温源台の熱を落としてからオーブンの扉を開ける。
パンの焼き上がった匂いが漂った。
ハーディがパッと顔を上げた。お腹を空かせた子供の表情そのもので、それを見た私は、どうしてだか安堵して笑った。
「さ、ごはんにしよう」
温源台と乳酪筒は、作中の道具です。
撹乳器は実在します。
バター作成について。
原材料は牛乳ですが、作中では生乳を使用しております。
酪農家がキチンと衛生管理している生乳とは違う、と区別していただければ幸いです。