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連載ではありませんが、長いので分けて投稿しています。

 その時香澄ちゃんは、目前の対手に肉薄していた。

『倒しにかかっているな』

 明らかにそう見て取れる、今までと打って変わった本気モードの動き。

 ズバ! ドシュ! ガッ……!

 だがしかし、対手の死角から、しかもこれ以上はないというタイミングで繰り出した「黒の刃」は、惜しくも一番強力な三段目を止められてしまった。

 対手の、皮膚を鋼のごとく硬化させて攻撃を防ぐ「金剛」が間に合ったのだ。

 キィンン!

金属同士がぶつかり合うような音と火花を発して、香澄ちゃんの刀がはじかれた。

「くっ!」

短く呻いて、のけぞる香澄ちゃん。

対手もなかなかの達人らしい。今度は香澄ちゃんが窮地に陥る番だ。見ているだけの僕には、なにもできないのがもどかしい。

対手は短くダッシュして間合いを詰めてきた。対手は肉体を武器にして戦うタイプのキャラだから丸腰だけど、至近距離での技はゲームバランスを崩しかねないほど強力なものがそろっている。

多段ヒット技の「強力殺」を根元から叩き込むつもりに違いない。

『あ、ヤバいな。いくら香澄ちゃんでも、硬直中はどうにも……』

他人のプレイなら、いくらでも冷静に見ていられて、先読みもできるのに、自分がプレイするとすぐにとっちらかってしまう。僕にはゲームの才能がないんだろうか?

『……ん?』

 その時僕は見た。方向レバーにかぶせるように置かれた香澄ちゃんの左手と、ボタンに乗せられた右手が、ダブルピースを出しているのを。

『なに? なにをする気?』

 対手は大きく振りかぶると、硬直したままの香澄ちゃんの頭部めがけて、棍棒のように太い腕を打ち下ろしてきた。その刹那、

「ハイっ!」

 掛け声と同時に、香澄ちゃんの右手がどこかのボタンを叩き、跳ね返るように高く差し上げられた。上げられた拳に引っ張られるかのように、香澄ちゃん自身もドリル回転しながら椅子に駆け上がり、登竜拳みたいなポーズでジャンプ。

深緑色の制服スカートと、軽くウエーブのかかった柔らかそうなこげ茶色の髪が、遠心力でふわりと広がった。

地面から五十センチほど跳んだ香澄ちゃんは、ゆっくりと一回転半して椅子の座面に降り立つ……と思った瞬間、しゅばっと足を開いて、左右端の金属部分に着地した。後ろで見ていた僕と向き合い、視線の高さがちょうど同じくらいになった。

「ね、大丈夫だったでしょ?」

 再び、今度は僕に向かってダブルピースを出す香澄ちゃん。元々猫のような目を、猫のように細くして、満面の笑顔だ。

「大丈夫って……」

 大丈夫と言われても、画面の前には香澄ちゃんが立ちはだかっているので、勝負の行方がどうなったのか分からない。僕は香澄ちゃんの肩越しに画面を覗き込んだ。

 そして驚いた。

 なにが起こったのか分からないけど、致命の一撃を繰り出していたのは香澄ちゃんのキャラだった。対手は胴をひと薙ぎされて、断末魔の叫びをあげている。

「ええ? なんなのそれ?」

 僕だってこのゲーム、「ニンジャ・ストライカー」はよくプレイする。だから、あの体勢で出せる技なんかないこともよく知っている。

ありえないことだけど、香澄ちゃんが立ちはだかって視線を遮っている間に、手品のトリックかなにかで筐体ごとすり替えられてしまったかのようだ。

「なにしやがったんだゴルァ!」

 僕が抱いた疑問は、対手の操り人も同様に感じていたらしく、あまり品の良くない顔が、怒りのステイタスを帯びて筐体の向こうから現れた。

香澄ちゃんは軽く髪をかきあげたあと、椅子から降りて男に向き直ると、

「知らなかったの? ふふん。じゃ教えてあげるけど、浮かされてる時とか、技を躱わされて硬直してる時とか、のけぞってる時とか。ほんの少しだけ、たぶん2フレームくらいだと思うんだけど、大斬りボタンが有効になるタイミングがあるんだよ」

 と、衝撃の情報を口にした。もちろん僕も初耳だ。

「な、なんでそんなこと知ってんだよ! 攻略本やネットにだって、そんなこと……!」

「そりゃそうだよ。自分で発見したんだから!」

 得意げに腕組みをして、胸を張る。

「……お前が?」

「そ。観察と研究、そしてちょっとのお金とあふれる才能だね。腕を磨きなさいな、セーネン?」

「な……ナメんなゴルァ!」

明らかに年下の女から、変な発音で「青年」と呼ばれた男は、いきり立って殴りかかってきた。

『ああ、まただ』

 僕はうんざりしながらも、香澄ちゃんの肩越しに腕を突き出し、男のパンチを受け止めた。男の拳は、僕の手のひらにすっぽり包まれた。

「なんだ、てめ、この、放しやがれ!」

 男は逃れようとしてもがき、あろうことか蹴りを繰り出してきた。

 でも、このままだと蹴りが当たってしまうというのに、香澄ちゃんは腕組みをしたまま突っ立っている。この人に限って、危険が迫っていることに気づかないとか、身がすくんで動けないなんてわけがないから、信頼されてるってことなんだろうなぁ。

「ごめん!」

 僕は香澄ちゃんの脇から足を出して、男の蹴り足を上にはじき、同時に、摑んでいた手を放した。上半身には後ろ向きに、下半身には前向きに力を加えられた男は、派手にバック転してしりもちをついた。

「……いい加減にしとこうよ?」

 と、低い声で僕。

「すっ、すみませんでしたぁっ!」

「え?」

 僕は香澄ちゃんに言ったつもりだったのに、自分に対しての言葉と勘違いした男が、びくんと跳ねるようにしゃっちょこばって正座した。なんて素早い変わり身なんだろう。

「ぷ。……ソーシロ、許してあげたら?」

 香澄ちゃんが噴出しながら僕を促した。許すもなにも、僕は怒ってなんかいないのに。

「あ、うん。どうぞ」

僕が出口のほうに手を差し伸べると、男はこけつまろびつしながら、あたふたと店から走り出て行った。

それを確認した後で、僕はもう一度、こんどはちゃんと香澄ちゃんに向かって、

「いい加減にしとこうよね。あんなに挑発することないでしょ?」

と言った。だけど香澄ちゃんは悪びれもせず、

「見込みがありそうなヤツだったからね」と答えた。

「見込み?」

「カムバックサーモンだよ。大きくなって帰ってこいってヤツ」

 そこまで言うと、香澄ちゃんはぐぐっと顔を寄せてきて、後を続けた。

「ね、あの攻撃を三段目で止めたのはなかなかだったと思わない? あたしも『よくやった!』って言ってやろうかと思ったけど、褒めてちゃ伸びないと思ったから、喉まで出かけたのをグッと堪えたよ。ああいうヤツはね、屈辱を与えてやると、おもしろいくらい強くなって帰ってくるんだよ!」

 なんという上から目線! なんという驕り者!

「……もしあいつが、褒めて伸びるタイプだったら?」

「見た? こっちにソーシロが付いてること知っててゴルァとか言ってくる鼻っ柱の強さ。あたしはヘコまされて伸びるタイプと踏んだね!」

 なるほど、観察と研究ってのは、対戦相手に対してもあてはまるわけね。

「で、帰ってきたそいつを頂くわけ。こう、クマさんみたいにバシャとね!」

 言いながら香澄ちゃんは、鮭を獲るクマのマネをした。

「あたしに勝つために相手が費やした金と時間と労力、それが無意味だったことを思い知らせる。このあたしの一撃で。まるでシャケに、おまえの長い旅路も、こってり蓄えた脂も、あたしに美味しくいただかれるためのものだったって知らしめるかのように! ああ、シビれる酔いしれるゥ。クマさん大満足だよ!」

 困った女だ。

「……それでリアルファイトになってちゃ、しょうがないじゃないか」

「そん時のために、あんたがいるんでしょうが。信じてるよ、ソーシロ?」

 香澄ちゃんはファイティングポーズをとると、僕の腹をぽすっと叩いた。

 困った女だ。でも、可愛いからもっと困るんだ。


お昼になったので、僕たちはファストフードの店に入った。

「ぷ。くく。くく……っ!」

席に着いてから、香澄ちゃんはのべつ半笑いだ。初めて見たわけでもないのに、僕が、背中を丸めて大きな手で小さなチーズバーガーを食べているのが面白いらしい。

「あーおかしい! 『グローブしてハンバーガー食い競争』とかあったら、ソーシロが優勝間違いなしだろうね!」

「これはグローブじゃないよ。僕の生身の手」

 片手を前に出すと、目を糸のように細くして、香澄ちゃんが自分の手を重ねてきた。

 ちょっと焦る。

 確かに、香澄ちゃんがグローブをするとしたら、僕の手くらいの大きさになるのかもしれない。どうでもいいんだけど。

「そこはボディペインティングでなんとか」

 僕の指を、人差し指でなぞりながら。

「だいたい、そんなニッチな競技、どこで開催してるの」

「ああ、ダメだ! ソーシロって、めちゃくちゃ小食だもんね」

 質問には答えず、僕のトレーのチーズバーガー、ポテト、ドリンクのSサイズを指さして、香澄ちゃんが言った。ちなみに、香澄ちゃんのトレーには、テリヤキバーカー、シーフードバーガー、アップルパイ、ポテト、ドリンクのLサイズが置かれている。

 小柄なほうがたくさん食べるので、ファミレスなんかだと、必ず逆に料理を置かれる。

「よく身体がもつなぁ、そんなナリして。エネルギー保存の法則とか、知ってる? 物理法則ナメんじゃないわよ?」

「別になめてなんかいないけどね」

 そんなナリ、の意味を説明するには、まず、僕の自己紹介をしておかなくてはならないだろう。僕の名前は江川崎総司郎といい、ほしかげ高校の一年生だ。家族は僕と両親の三人家族。

教師や友達の中には、僕を『二人前の男』と呼ぶ者もいるんだけど、何が二人前かというと、まず、苗字と名前が「江川」と「川崎」、「総司」と「司郎」で二人前ずつ。そして、身長百九十五センチ、体重百三十キロで、体格も二人前だってことらしい。

ちなみに、気の大きさと食事量は半人前なので、バランスが取れていないこともない。

「僕は吸収効率がいいんですよ」

「だよねー、人間にしとくの惜しいよね」

「は?」

 なんでそうなるんだ?

「だってそうじゃない? ソーシロがもし種牛だったら、ソーシロの子供たちは少ない草で大きく育つ血統ってことになるでしょ? ソーシロの子供たちがどんどこ増えたら、世界の食糧不足を救っちゃうかもしれないじゃない。すごいなぁ、ソーシロ」

 この発想のワンダーぶりには、たびたび呆れさせられる。

 彼女は佐田香澄。僕と同じほしかげ高校だけど、ひとつ年上の二年生だ。彼女といっても、三人称単数で用いられる「彼女」ってことで、僕の「彼女」ってことではない。

 少なくとも今は、たぶん。

「……香澄ちゃんは僕の子供を食べるつもり?」

「ん。そりゃまぁ、ソーシロが牛なら、食べるよ。もったいないしね。……でも、食べながら泣くと思う」

 テリヤキバーガーを両手で捧げ持つようにして口に運びながら、しんみりとした口調で香澄ちゃんは言った。テリヤキの材料に感情移入してしまったらしい。

「言っておくけど、それの材料と僕との間には、なんの関係もないからね?」

「……はぇ?」

 顔を上げた香澄ちゃんの眼はうるんでいた。……なにそれ?

焦りながらトレーの上の未使用のナプキンを差し出すと、「あんがと」と答えて両目をちょんちょんと押さえ、最後に大きな音を出して鼻をかんだ。

「ところで、僕が牛なのに、香澄ちゃんは人間のままなわけ?」

「あたし? あはは、あたしは牛の才能ないし」

 さっきまでウルウルしてたのに、ケロっとした顔で答えた。

「僕だってそんな才能いらないよ」

 可愛いけど、変な女だ。


 午後は別のゲーセンを二軒はしごして、僕らは互いの家への分かれ道までやってきた。

「じゃあまた明日!」

 香澄ちゃんがぶんぶん手を振る。

 そこそこ重い疲労感を覚えながら、僕は手を振りかえした。

「むーちょ!」

 なんと、香澄ちゃんは投げキッスを送ってきた。

「む、むーちょ……?」

 辺りを気にしながら、小さいモーションで返す。満足したのか、香澄ちゃんはにっこり笑って背を向けた。

「ふぅ」

 自宅に向かって歩き始めて、思わずため息。

決して嫌じゃないし、とても楽しいんだけど、香澄ちゃんと遊ぶと、精神的、肉体的にとても疲れる。ひとりカラオケを振り付きで二時間やったときの、「やってやったぜ!」っていう疲れにも似ている。

いや、祭りの後のけだるさのほうがしっくり来るか。

「…………」

 僕はふと、投げキッスを送ってきた香澄ちゃんの姿を思い出した。

続いて、DVDを逆再生するように、いろんな香澄ちゃんの顔を思い出した。

 僕にとって香澄ちゃんはなんだろう。手をつないだことくらいはあるけど、それ以上のことはしてない。今のところ、そんなにしたいとも思わない。

 ……なんてウソだ。隙あらば色々したいって思ってる。

 そんなの、男子高校生ならあたりまえだ。

 パンをくわえて家から駆け出した女子高生が、街角でいけすかない他校の制服を着た男子生徒とぶつかって、その後教室で、転校生として紹介されたそいつと再会するのと同じ確率くらいそうなんだ。

要するに百パーセントそうなんだ。

 香澄ちゃんは年上だけど、別に僕は気にしない。恐らく、知らない人が見たら、僕のほうが年上に見えるんじゃないだろうか。

 僕の彼女だって言っても、問題ナシなんじゃないか。

 たぶん。

おそらく。

もしかしたら。

「うーん」

 思わず頭をかきむしる。

若きソーシロの悩みってやつか。こりゃ、恋愛がらみで自殺するやつも出るわけだな。


自宅に帰ると、我が家の周囲は人だかりができていた。

『なんだこれ?』

 首をかしげながら家に近づくと、トレーラーとクレーン車、そして黒塗りの高級車が僕の家の前に停まっていた。

「クレーン車?」

見上げると、クレーン車は二階の僕の部屋に1×1×2メートルくらいの、棺おけよりひとまわりでかい直方体の物体を運び込もうとしていた。

あの形には見覚えがある。そうだ、工事現場なんかでよく見かける……

「仮設トイレ!?」

 なんだそれ? なんでそんなものが僕の部屋に運び込まれようとしているんだ?

 あわてて周囲を見回すと、「オーライィ、オーライィ」などと語尾をだらしなく伸ばしつつ、気だるげにクレーンに指示を出している若い男がいた。直ちに問いただしてみる。

「なんですか、あれは?」

「無理っす。うぇーぃ。無理」

 だめだ。満月時の悪魔のごとく会話が通じない。

 こうなったら自分の部屋で迎え撃つしかないと思い、人込みをかき分けて門にたどり着くと、父さんが門柱に寄り掛かるようにして仮設トイレを見上げていた。

「お帰り総司郎。お客さんが来てるよ」

 僕に気づくとにっこり笑ってそう言った。

「なんでそんなに落ちついてるの」

 父さんの横を通り過ぎながら答える。自分の城に、とんでもないものが運び込まれようとしているのに。人がいいにもほどがある。

「それにしても客って……」

 まっすぐに自分の部屋に向かう。

 タイミング的に客と仮設トイレが無関係だとは思えない。なら、客は僕の部屋にいるのだろう。枕詞に「招かれざる」って付くような類の客が。

 階段をひとつ飛ばしに駆け上がる。

 思い切り部屋のドアを開けると、クラッカーが鳴り響き、続いて、

「おめでとうございまーす!」

という男女混成の声が降ってきた。

「……おめでとう?」

 言葉の意味を咀嚼しながら、恐る恐る目を開け、身体を起こす。クラッカーの音に驚いた僕は、思わず頭を抱えてうずくまってしまっていたのだ。

「厳正なる抽選の結果、江川崎総司郎様、あなたがモニターに選ばれました。私は商品の説明に参りました、住良木と申します」

 住良木と名乗った女性は、苗字と携帯電話の番号だけが書かれた、うさんくさい名刺を差し出した。こんなに情報量の少ない名刺なんて初めて見た。

 住良木は胸くらいまでの長さの黒髪を左右に分けた二十代なかばと思われる美人だが、化粧が濃いせいか、なんとなくずる賢そうに見える。身に着けた白衣と、インテリぽい黒縁めがねが相まって、医者とか科学者の雰囲気も漂っている。

「モニター?」

「そう。モニターモニター、モニターモニター」

 口々に言ったのは、僕と住良木の周りをくるくる回っている二人の男だった。

ひとりはやせ形で、身長は僕と同じくらい。もうひとりはいわゆるビアダル体型で、身長は普通だけど、体重は僕と同じくらいありそうだ。年齢はどちらも三十代なかばくらいだろうか。揃いの黒いスーツを着て、サングラスをかけている。

「……この方々は?」

「私の助手ですわ。細いほうが宇内、太いほうが定井と申します」

「助手、ですか」

 現時点では賑やかしにしかなっていないので、小規模宣伝業者かと思った。

「なお、伊達や酔狂で踊り狂っているわけではありませんので、誤解のなきよう」

 住良木の問わず語り。

「別に賑やかしだなんて……」思っていました。すみません。

「……失礼しました。よく誤解されますので」

 よく?

 よくってことは、あちこちでこの、アフリカの原住民が獲物の周りを踊りながら神の恵みに感謝するかのようなコレをやってるわけか?

 なぜ?

「彼らはこの部屋の強度確認をしているのですわ」

「……強度確認?」

 僕はピンと来た。なるほど、そういうことか。

 頭の中に、リフォーム詐欺とか、耐震補強詐欺なんて言葉が次々と浮かんできた。

この部屋に仮設トイレを持ち込もうとしていることも、これで説明がつく。不足なら懸賞当選詐欺を加えたっていい。パソコンのメールボックスにも、その手の当選通知メールが毎日山ほど届くけど、直接来るなんていい度胸してる。

 父さんめ、とんでもない奴らを招き入れたもんだ。まったく、あの人の警戒心のなさは、禁治産者に指定してもいいくらいだな。

「……えっと、あのですね、ウチの父親がなんと言ったかは分かんないんですが、我が家にリフォームとか、耐震補強は必要ありませんので……」

「やはり誤解なさっている」

 住良木が、食い気味に答えながら、鋭く僕を指差した。

「我々は建設会社や工務店ではありませんので、リフォームも耐震補強もいたしません。ただ、これを運び込むために、強度確認を行っていたのです」

 そう言って指差した先には、今まさに窓をくぐって室内侵入を果たしつつある仮設トイレがあった。これが横倒しになって部屋に入ってくる姿は、「ゴゴゴ」とか「ズズズ」っていう重低音の効果音がお似合いな雰囲気で、宇宙を往くモノリスかスターデストロイヤーか超弩級戦艦かって威容だ。

 ところで、これって、横倒しにして大丈夫なんだろうか?

 それに、今は空っぽかもしれないけど、出すときはどうするんだ?

 ……想像したくない。

 て言うか、使うつもりなのか僕は?

「これの全備重量は約二百三十キログラムございます。我々三人の体重も、合わせて二百三十キログラム。これで、強度確認の意味がお分かりになったでしょう?」

 僕は軽く頷いた。

「つまり、これをこの部屋に置く、と」

「さようでございますわ。なお、我々三人の、二百三十キログラムの内訳を知りたいなどと仰る坊やは、速やかに何者かから死を賜りますわよ」

 住良木が紅い唇の端をくっと吊り上げた。

 いや、別に知りたくなんかありませんが。と思いながら、僕は苦笑いをした。

 しかし、工事をしないのに仮設トイレを運び込むって、本末転倒もいいとこじゃないのか?

「工事をしないのに仮設トイレを運び込むって、本末転倒もいいとこだ。そう思われましたね? 江川崎様?」

「住良木さん? あなた、超能力者かなにかですか?」

「いえ、これもまた多くの方が誤解される部分ですので。あらかじめ申し上げておきますが、これは仮設トイレではございません」

「ええっ?」

 さんざん気を揉まされた挙句に「あらかじめ」なんて言われても、ちっともあらかじめじゃねぇよくらいしか感想はなかったけど、僕は素直に驚いた。

そう言われてみると確かに、その箱からは嫌な臭いはしない。それどころか、トイレの芳香剤より上等な、花のような匂いがしている。

「はい、オーライィ!」

ついにその箱が、畳を軋ませながら部屋の一角に立った。

「ここでいっスかぁ?」

双子なんだろうか? 下で「無理っス」とか言ってたやつと、髪の色以外、容貌もしゃべり方もそっくりな男が言った。

ここでいいかどうかの前に、僕の部屋に置いていいかどうかを聞いてほしかったけど、どうせ会話にならないんだろうなぁと思いつつ、僕は「まぁ」とあいまいに答えた。

その場所は東南角で日当たりがよく、僕の部屋では一等地だったけど、押し入れにも出入り口にも僕の机にも邪魔にならなくて、コンセントに届く場所がここしかなかったのだ。

「……コンセント?」

 そう言った僕の目の前で、確か宇内といったと思うけど、細いほうの男が、箱から出ているプラグを壁のコンセントに挿した。

 箱がわずかに振動し、扉に何の意味があるのか分からない緑のLEDが灯った。

「主任、充電は終わってるようですぜ」

 住良木は細いほうの男に向かって軽く頷くと、僕に向き直った。

「ご心配なく。常時接続しておいても、電気代は一か月五百円程度ですわ」

「心配なくと言うのなら、なにがコンセントにつながって、なんの効果があるのか、まずそれを教えてほしいもんですけど」

「ごもっともの質問ですわ」

 そこで言葉を切った住良木は、念を入れるように扉のLEDを確認すると、

「では、実際に扉を開けて。中をご覧になっていただきましょう。……どうぞ」

 と、箱に向かって腕を差し上げた。

僕はためらった。

使うつもりのないトイレを開けるのは、なにか気が引ける。というか、用もないのにトイレの扉を開けるなんて、バカのやることだ。不幸にして前の使用者のOBの痕跡などを発見しようものなら、もともと小食なのに、ご飯が食べられなくなってしまう。

いや、トイレじゃないと言ってたから、もしかしたらトイレじゃないのかも知れないけど、それは、見れば見るほどトイレなのだ。

そもそも、モニター当選と、たいして広くもない部屋に、この変な二百三十キロの箱を運び込まれることと、なんの関係があるっていうんだろう? そしてそれを僕が開けなきゃならない理由ってなんなんだ?

「ううう」

なんの因果でと自問しつつ、ドアノブをつかむ。

どう見ても簡易トイレのそれのような扉の中央には、剣の周囲にSが4個書かれたマークが付いている。何のマークなんだろう。その場しのぎにどうでもいいことを考える。でも、僕がここを開けない限り、話が進まないようだ。

 ぺらぺらの薄い鉄板が使われていると思っていたのに、予想より重厚そうな手ごたえ。三人の視線を感じながら、えいやっとばかり、扉を開いた。

 そしてすぐに閉じた。

「いかがなさいました?」

 住良木が、腹立たしいほどのんきに答えた。

「トトトト、トイレじゃないですか! やっぱりこれ!」

「なにか、ご覧になられましたか?」

「ななな、なにかって、この中身はご存じなんでしょう?!」

「存じております。ですから、どうぞと申し上げました。……どうぞ」

 住良木は再度、箱に向かって、今度は両腕を差し上げた。

「どうぞ」

 宇内と定井も、同じように両腕を上げる。

「どうぞって言われても……!」

 口ではそう言ったけど、本当は、僕は中のものに興味があった。

 もう一度ここを開けたいと思った。そして、さっきは一瞬だけしか見られなかった「あれ」を、とてもきれいだった「あれ」を、もう一度見たいと思った。

 だから僕は、ドアノブから手を離さなかった。「じゃあ、もうけっこうです」なんて言われないように、ずっと握っていた。

 今度は静かに扉を開く。

 そこには、さっきと同じ姿のままで、ひとりの女の子がいた。

洋式便器に座った状態で、膝の上に手を置いて、夢を見ているような顔で目を閉じている。長い黒髪が細い肩で前後に分かれ、胸の下のあたりまで伸びている。

街で見かけたら間違いなく二度見するだろうと言い切れる、とびっきりの美少女だ。

 が、困ったことに裸だった。

「ど、どうしてこの子、裸なんです?」

 目を覆いながら、少し指を開いて透かし見るのはお約束だ。

「最後の組み立ては、ユーザーの方にお任せすることにしておりますので」

 至極当然の答えであるかのように、住良木が答えた。

「……組み立て? ユーザー?」

「はい。本日お届けに上がったのは、彼女を含むSIS・SYSユニット一式です」

「しすしすゆにっと?」

 住良木はこくんと頷きながら、便器状の椅子を指さした。そこにも例の、扉の中央にあったのと同じマークがあった。

 よく見ると確かに、SIS、SYSと二列に書かれている。剣に見えたのはIとYが縦に重なったものだったが、もしかしたら実際、剣に模しているのかもしれない。

「彼女を含むってことは、もしかして……」

「いかにも、彼女はガイノイド。一般的にはアンドロイドと呼ばれている存在ですわ」

「……!?」

 僕はまじまじと少女を眺めた。

 その顔は、成型時のバリも、変なテカりも、粉っぽさも、不自然な皺もなく、ネットの掲示板でときどき見かけるメソポタミア工業のドールより、ずっと人間ぽく見えた。

というか、そう聞かされてなお、人間にしか見えない。

かわいい女の子のことを、「お人形さんのような」と形容するけど、この、人間にしか見えないアンドロイドを、なんと形容すればいいのだろう。

 特に皮膚感はすごい。肌が単なる肌色ではなく、この皮膚の下に肉が息づき、血が通っていることを想像させる。そしてこの、求肥餅のような絶妙の透明感はどうだ。

「どうですか、この美しさ。皮膚には、ランダムに色調を変化させたテクスチャーを数枚重ね貼りして、その上を極薄の半透明シリコンで覆ってあります。これによって自然な肌色と透明感を実現できたのです」

 僕が少女の肌に見とれていたのに気付いた住良木が、すかさず説明を加えた。でも、僕のためと言うより、自分が説明したくてたまらないだけのようにも見える。

「まさに日本の匠ならではの芸術品! これが現在考えうる技術の粋を集めた妹型アンドロイドの決定版。SIS・SYS004シリーズのプロトタイプなのですわ!」

 最後はたまらずにポーズをとった。やっぱり言いたがりだったんだな、この人。

「……あの、なんで妹なんです? 娘とか恋人とか、メイドさんとかじゃなく、妹じゃないといけない理由ってあるんですか?」

「もちろんございますとも!」

 住良木は音がしそうな勢いで振り返ると、「得たり!」といった顔で僕を指差した。なんか、面倒なツボを押してしまった気がする。

「江川崎様は、このような経験をされたことはありませんか? 漫画や小説、ドラマにのめりこむと、あたかも自分が主人公になっているかのような気持ちになり、例えば5歳の幼児が主人公なら5歳に、例えば80歳の老人が主人公なら80歳になったような気分になることが!」

「ご、5歳や80歳が主人公の漫画やドラマは見たことがありませんけど、言わんとしていることは分かります」

「ご明察ありがとうございます」

 住良木はちょっと皮肉っぽく礼を述べると、後を続けた。

「SIS・SYSは、そういった書物や映像より能動的に、ユーザーの心身に変化を与えるシステムなのです。例えば80歳の老人が、彼女に『兄』と呼ばれ続けているとどうなるか分かりますか? たとえ肉体が老人であろうとも、彼女が本来兄と呼ぶべき世代へと精神的な若返りをし、それが次第に肉体へとフィードバックされるのです。江川崎様は妹でなくてはならない理由をお聞きになられましたが、ひとつめの理由といたしまして、ごく自然に同世代であることを条件に織り込めることがあげられます。歳の離れた娘や恋人はこの世にはあまたと存在しますので都合が悪うございますが、これが妹となりますと、同世代であることが必須。これこそが、妹でなくてはならない理由なのです!」

「はぁ」

 わかるような、わからないような。

「このシステムの良いところは、薬を使用しない若返りだということです。もともと何も投与されていないのですから、副作用など起こりようがございません。病は気からと申しますが、逆もまた真なり。これこそ、なにより素晴らしい不老のプラシーボ! おお、スパシーボ!」

自分の言葉に酔ったのか、住良木は最後にみょうなダジャレを口走った。もしかしたらロシアンジョークってやつなのかもしれない。

「おわかりでしょうか。そういった意味での『癒し』なのですわ。決して性的なものではございませんので、肉体的に疲労することもなく、ご老人にも優しい。なにしろ、妹なのですからね。これがふたつめの理由です」

 そこで言葉を切った住良木は、念を押すような口調で続けた。

「そういうわけで、今回江川崎様にお願いしたいのは、この子に愛情を持って接していただくこと。ただし、あくまでも節度を持って。それだけです」

 僕の心を読んだのか、僕の顔に出ていたのか分からないけど、立て続けにチェックを入れられてしまった。そんなに僕はスケベそうに見えるんだろうか?

「それだけですか? なにかレポートを書けとか、そういう宿題みたいなものは?」

「別段何もございません。江川崎様と一緒に暮らした記憶は、すべてこの子のメモリーに記録されますから、江川崎様の主観によるレポートなど必要ございません。ただ、この子を、本当の妹として、大事に扱っていただければいいのです」

 「など」って強調するのが、なんだかちょっと気に障った 。

「そんなことで役に立つんですか?」

「パピーウォーカーという制度をご存知ですか? 盲導犬候補の子犬を、一年間ほど一般家庭で育ててもらうというものです」

「まぁ、聞いたことくらいなら」

「優しいパピーウォーカー育てられた子犬たちは、人間のことが大好きになります。それと同じように、この子を、人間好きの、『人間』に育てていただきたいのです」

「なるほど」

 僕は極力冷静ぶって、相槌を打った。人の役に立てるうえ、こんな可愛い女の子と、うれしはずかし同棲ライフが楽しめる。すごいじゃないか、極上じゃないか。

「……しかしながら、今回のモニターを、『女の子と一緒に暮らせてラッキー』などと、安易には考えないでくださいね」

 またしても住良木は、僕の心を読んだように先回りした。

「私がタイプ004をモニターの方々に託す理由は、さっきも申し上げたとおり、この子たちを人間にしてほしいからですが、これには危険も伴うことなのです。この004は、形の上では003の発展型ですが、中身はまったく別物です。特に、頭脳に関しては」

 住良木は、ちらりと少女に視線を移した。

「具体的に申しますと、003までの感情回路は、嬉しいときは喜び、腹が立てば怒る。そういうものでした」

「それは、普通なのでは?」

「江川崎様は、悲しくても笑ったり、嬉しくても怒ったりしたことはございませんか? また、怒りや悲しみを堪えたり、他者の喜びを自らの喜びとして感じ、自分は悲しくとも、笑って見せたりしたことが。人間の感情は、喜怒哀楽の札を気分に合わせて上げ下げするような簡単なものではないのですよ。例えるなら、板の上にボールを乗せて、転がり落ちないようにバランスを取っているようなもので、すべての感情は地続きなんです」

 分かるような、分からないような。

「……ですが、これをそのままの形で実装いたしますと、なにをしでかすか分からない危険な機械が世に出ることになります。なにしろ、感情に境目がないのですから。かと言って、他者に危害を及ぼさぬように強制をかけるというのであれば、方法が違うだけで、003までとまったく同じ、ただのロボットになってしまいます。そこで、微妙なさじ加減を実生活で学ばせていただくために、モニターが必要だったのです。『人間に育てる』という意味がお分かりいただけましたか?」

「ええ、だいたいは」

 と、答えてはみたものの、僕はいささかがっかりしていた。

今までの話を総合すると、これは金持ちオッサンならびに爺さんの若返り健康グッズであるらしい。それはいい。でも、その金持ち爺さんたちに危険が及ばぬよう、僕たちのようなモニターを実験台にしようという虫のいい話なんだ。

 要するに、僕には当面、もしかしたら一生関係のない世界の出来事で、実際のところ、モニターやっても、二度と手の届かない大金持ちライフの一端を垣間見せられた僕は、心に羨望と憧憬を埋め込まれて、人生を斜めに見るようになったりするわけだ。

 で、結局残るのは、ちょっとした粗品と壊れた価値観。プラス、この子がなにかしでかした際のリスクと責任。こいつは、まったく割に合わない話じゃないか。

 そう考えてみると、急につまらなく思えてきた。

 突然鎮火するモチベーション。

「もちろん、全ての個体を同じようにモニターに預けていたら、埒があきません。ですから、何十人かいるモニターの中で、最もいい子に育て上げた方のデータを、このシリーズの市販タイプにフィードバックさせる予定です」

「そうですか」

 なかば興味を失っていた僕は、なんとなく相槌を打ちつつ、「プロトタイプってことは、この子がガンガルで、市販タイプはズムみたいなもんか?」などとろくでもないことを考えていたが、次の住良木の言葉で目が覚めた。 

「そして、優秀なモニターの方には、謝礼としてSIS・SYS004を、フルセットでプレゼントいたします」

「なんと!」

 再び燃え立つモチベーション。

「この子をいただける、ということでございますのんか?!」

「はい。この子と、コンテナをセットでございます」

 ありがたいことに、住良木は僕がテンパって変な言葉遣いになったのも関知せず、的確に質問の答えを返してきた。

「ぷふっ」

 しかし、宇内と定井には感知されてしまったようだ。

 うるせぇヤローどもだ、と心の中で毒づきつつ、これ以上失態を演じることがないように、僕は深呼吸した。そして答えた。

「是非、やらせていただきまにょう!」

「にょう? ……ぷふっ」

 噛んだことを宇内と定井に気づかれてしまったが、そんなこと些事だ小事だ細事だ。要するにどうでもいいってことだ。そういうことなら話は違う。危険を冒す値打ち大有りだ。

 でも、データだけ取ってバックレられても困るから、身元確認をしておかないと。苗字と携帯の電話番号しか載ってない名刺なんて、ぜんぜん信用できない。

「今更ですけど、この子、どこの会社の製品なんですか?」 

「……うーん。確かに、当然の疑問でございますわ。私としても、申し上げたいのはやまやまやまやまやまやまなのですが、今はちょっと申せません」

先ほどまでの住良木とは、打って変わった歯切れの悪さ。でも、本当は言ってしまいたいって思ってるのが、ありありと分かる。しばし両手の人差し指をつき合わせてもごもご言っていた住良木は、意を決した風に顔を上げた。

「……ただ、誰もが知っている有名なメーカーですから、ご心配なく、とだけ申し上げておきます」 

 ロボットを作ってたメーカーというと、S・オニーか? アホンダラか?  

いや、意外とダンバイだったりして。ガルプラの、特にプレシャスグレードなんか、歩き出さないのがウソだってくらい、緻密にできてるもんな。あと、大穴としてガセも予想に入れとこう。

「では、とりあえず信用しておきます」

 なんとなく折り合いがついたので、僕は住良木の心中を察してやることにした。

「感謝いたします。それでは、この子の名前と性格の設定をお願いします」

「名前と性格……」

 名前だけじゃなく、性格も設定できるのか。

 名前はともかく、性格なんて、RPGの女性キャラみたいに、軽々しく決めていいもんじゃないだろう。なんと言っても一生の問題だし。

 いやいや、一生ものと言えば、名前だって一生使うものだから、ノリで気軽に決めていいわけがない。どんな年代になっても違和感のない名前でなくてはなるまい。

 一生着られる服のデザインなんてないのに、名前にはそれが求められる。難問だなぁ。

 でも、この子は年をとらないんだから、今のままのイメージで命名しても構わないってことにはならないか? 

いや、でも、外見は変わらなくても、内面は成長するのかも。人間らしく育った後で、「こんな名前は嫌だった」なんて言われたらどうしよう?

ああ、……ううう。僕は思わず頭を抱えた。

 結局、なにひとつ手抜きはできないってことか。僕って典型的なA型人間だよなぁ。 

「お好きな女性はいらっしゃいませんか。ユーザーの方々には、今好きな方の名前をつけたり、昔好きだった方の性格などに似せる方も、結構いらっしゃいますわよ?」

 焦れたのか、住良木が助け舟を出してくれた。

「好きな人……」

 と考えて、最初に浮かんだのはもちろん香澄ちゃんだ。

でも、香澄ちゃんの性格は嫌いじゃないけど、ていうか好きだけど、ひとりでも持て余し気味なのに、あんな性格の子が周囲にふたりもいたら、きっと二倍、いや、マグニチュードの数え方みたいに、ひとり増えるごとに三十二倍くらい疲れてしまうに違いない。

そういう経験はないのに、強く確信できた。間違いない。

「じゃあ、こうしてください」

だからあえて、僕は香澄ちゃんと正反対の性格を選んだ。大胆で突拍子もない香澄ちゃんに対し、おとなしくて物静かな妹。これは、きっといいバランスだと思う。

香澄ちゃんがONだとしたら、この子はOFF。

香澄ちゃんが太陽だとしたら、この子は月だ。

目を閉じたままの少女の顔を眺めながら、僕はひとりで納得した。

「ああ……!」

「どうかなさいましたか?」

「この子の名前、決めました。『るな』にします」

「わかりました。ルナティックの『ルナ』、でございますわね?」

 なぜわざわざその単語を持ち出すのか。

「音はそれでいいですけど、平仮名で『るな』です」

「はい。混ぜるな危険、の『るな』ということですわね?」

 なぜわざわざそんな中途半端なところを抜き出すのか。

「……柔らかい感じがするでしょう?」

「ええ。ら行は口当たりがよろしゅうございます。平仮名ですとなおさらですわ」

 そう言って住良木は、「にやり」と笑った。

決して「にこり」じゃなかった。


「ポン、ポン、ポンと。はいこれで設定終了です。起動オッケーの状態になりましたので、江川崎様に最後の組み立てをしていただきましょう」

「組み立て?」

 さっきもそう言っていたけど、このユニット一式に、僕が手を入れられるところなんて、あるんだろうか?

……と思っていたら、その直後に意味が分かった。

住良木が目くばせすると、細いほうの男、確か宇内だったと思うけど、そいつが女の子用の服を取り出したのだ。

「く、組み立てって、まさか」

「目が覚めたときに裸では、るなちゃんもきっと驚くでしょうから」

 と、宇内から受け取った服を僕の前に突き出した。予感的中だ。

「それを僕がやるんですか?」

「他に誰が? 裸のままで連れてきた理由をお考えください」

「……嬉しいくせに」

 にやりと笑って定井が口をはさむ。黙ってろ、コノヤロー。

「こんなことやらせるのは、最初の一回きりだ。儀式だと思って覚悟を決めな」

 焦れた宇内がため息混じりに口にする。なるほど、儀式か。

 僕は住良木に向かって、無言で頷いた。

「ありがとうございます。まず、るなちゃんをクレイドルから降ろしてください。ただし、耐久度は人間に毛が生えた程度に作られてますから、優しくお願いしますね?」

「……毛は生えてないけどな」

 にやりと笑って定井が口をはさむ。うるせえっつんだ、コノヤロー。

 僕は、部屋の床より一段高くなっているトイレ風ボックスの中に片足を踏み入れた。金属のひんやりした感じが靴下越しに伝わる。

ためらいながら、るなの背中とひざの裏に手を回して、横抱きにした。

『ふ、ふおおおおぉ。や、柔らかいぃーー!』

 口には出さなかったけど、その例えようのない感触は、指先から脳へ猛スピードで伝わると、勢い余って跳ね返り、全身を駆け回った。

 ただ、その身体は冷たかった。電源が入っていないせいか、室温程度の体温だった。

 そして重かった。

「よっ、と。お、おお?」

慎重に持ち上げにかかる。

香澄ちゃんより小柄なのに、かなり重い。抱えたことはないけど、間違いなく香澄ちゃんより重いはずだ。おそらく六、七十キロはあるんじゃないだろうか。

たぶん僕は、まだ頭のどこかに「この子が機械だなんて嘘だろ」と、疑っている部分があったと思う。それがこのとき、完全に消え去った。人間そのもののように見えて、やはりこの柔らかな身体の中には、金属のパーツがぎっしり詰まってるんだ。

「重いでしょう?」

 僕の心を読んだように住良木が言った。「そうですね」と答えようとしたけど、それを待たずに続きが始まってしまった。

「すべてを人間同様に、という目標を持って開発開始したのですが、重い身体を支えるために骨格が重くなり、その身体を動かすために駆動系も重くなり、剛性を保つためにさらに重くなり、重い身体に人間らしい挙動をさせるために人工筋肉を強化したらますます重くなるという巨大化、重量増加のスパイラル。この子を軽くすることを考えたら、自分のダイエットのほうがよほど楽なくらいですわ。……この点につきましては、もっとこだわりたかったのですが、結局、ここまで軽量化した時点で上からゴーサインを出されてしまったのです。それが心残りで、心残りで……」

 これはおそらく、僕に聞かせたいんじゃなくて、住良木が、彼女自身に言い聞かせる決意表明だったのだろう。

「しかし、いずれ、技術のイノベーションによって克服して見せますわ!」

 中腰のまま長広舌に付き合った僕は、がくがくする膝をなだめつつ答えた。

「……期待してますよ」

そのままゆっくりとコンテナの外に運び出そうとしたが、なにかに引っ張られ、思わずるなを落としそうになった。

「おっ?」

覗き込むとチューブがあった。るなの両足の間に、便器のような形のクレイドルから、三本のチューブがつながっていたのだ。

「あああ、え、と。ううう」

 なんと説明していいのか分からず、僕は住良木に気づいてもらえることを期待して、言葉にならないうめき声を上げた。 

「……ああ、それは充電と各種オイルの注入、排出チューブです。供給も排出も終わっていますので、外しても大丈夫ですわ」

「は、外すって、どうやって?」

「変圧器についているレバー。そう、その後ろのタンクみたいなものです。そのレバーを下げればチューブは外れます」

 最初に言ってくれよと思いつつ、るなを膝の上に座らせ、片手を空けて流水レバーそっくりのレバーを操作する。言われたとおりにすると、「パキュ」という湿った音とともに、三本が束になったチューブは同時に外れ、クレイドルの中に引き込まれていった。

「ではこちらに」

 住良木の指示するとおり、畳の上にるなを横たえた。

 さっきは隠れていた部分。胸のてっぺんとか、へそのちょっと下とかがあらわになる。

 美少女フィギュアのパンチラでさえ心ときめく彼女いない暦イコール年齢の男子高校生には、それが人工のものだなんてことは関係なく、と言うか、それはどう見ても作り物には見えなかった。単なる、一糸まとわぬ美少女のまぶしい裸体がそこにあった。

「ううう。目がチカチカします」 

「……光化学スモッグかよ」

 にやりと笑って定井が口をはさむ。黙ってろ、コノヤロー。

「まずこれを」

 住良木がくしゃっとなった布切れをつまんで、目の前でヒラヒラさせる。 

「ぱ、ぱぱぱぱん……! これも、ですか?」

「まぁ。江川崎様は、下着をお付けになりませんの?」

「……はさむぞ」

 にやりと笑って定井が口をはさむ。うるせえっつんだ、コノヤロー。

「穿いてますよ、パンツくらい。でも……」

「女の子の下着を穿かせるのは抵抗がある、と?」

「あたりまえじゃないですか」

「……はぁ、そうですか」

 芝居がかった動きで、住良木が絶望を表現する。

「そんな大げさな……」

「では、仕方ないですね。このお話はなかったことに」

「え……? ああ。う……!」

 ぱんつを穿かせるのがそんなに重要なことなのか?

「これは非常に重要な作業なのです。これができないようでは、この子をお任せすることはできませんが……」

 そんな。ちょっと待ってくれよ。そんないきなり。心の準備が。僕には無理なのか? でも、ちょっと。いや、かなりもったいない気が。やっぱり。ううう。がんばれ、僕。だけど。

 頭の中で緊急僕会議が開催されたが、意見百出で結論が出ない。

「……わかりました。次点の方にお回しすることに致しますわ」

 僕の返事を待たずに住良木は、焦れたように言った。

「じ、次点……」

 そんな、もうちょっと考えさせてくれたって。

「次点がどんな方なのか存じませんが、この子のことを江川崎様より大事にしていただけるとは限りません。もしかしたら陵辱の限りを尽くされて、壊れてしまうかも。例えそうなったとしても、可哀そうに。『おとなしくて物静か』などという性格に設定されたこの子は、誰にも打ち明けられず、誰を恨むこともできないのですわ」

 嫌なこと言うなぁと思いつつ、るなの顔に視線を移す。口元にかすかに笑みを浮かべたその顔は、まるで夢を見ているかのようだ。

「安らかに眠っていますわ。この後訪れる運命を知らずに……」

 呟きながら、軽く握った指の背で、すべやかな頬を撫でる。

「悪いお兄さんに引っかかってしまったわね、るなちゃん。自分の好みに調教した妹を他人に陵辱させて悦に入るなんて、鬼畜の所業よね、キ・チ・ク・の!」

「だ、黙って聞いてりゃ言いたい放題! 誰がキチクですか、誰が調教しましたか、誰が悦に入りましたか! 人聞きの悪いこと言わないでください!」 

 僕の叫びを無視して住良木が、「この負け犬め」といった目つきで見た。

「……分かりましたよ、穿かせたらいいんでしょ!」

 住良木の手からぱんつをむしり取る。

その刹那、住良木がニヤリと笑ったのが見えた気がした。

要するに僕は、うまく乗せられてしまったってことらしいけど、もう後には退けない。

「ぱ、ぱぱぱぱん……くらい、なんですか。こんな、ちっちゃい布、物の数ではありませんよ。恐るるに足らずですよ!」

 ちっちゃいからこそ難物なのだけれど、必死の強がり。

「色即是空、空即是色」

 ムクツケキ大男がお経を唱えながら、四六の蝦蟇のごとく脂汗を流しつつ女子用ぱんつを握り締める姿は、ある意味地獄絵図。

「ハラソーギャーテーボジソワカー」 

変な感じで般若心経を唱え、自らに落ち着け落ち着けと命じ続けた結果、ある程度落ち着いたものの、それが落とし穴だった。

落ち着いてるなの顔をまじまじ見たところ、ほしかげの一年生の間では有名な美少女、樺沢聖美になんとなく似ていることに気づいた。いや、気づいてしまったのだ。

気づいた後は意識してしまい、もう大変だ。

エロ本のグラビアに、好きな子の顔写真をコラージュした経験のある者は、少なくないだろう。実際に切り張りせずとも、「この身体の上にあの子の顔が乗っていたなら……」などと想像したことがあるなら、それはすでに経験者と言える。

経験者なら分かるだろうが、見知らぬ女のとりたてて魅力のない身体と、グラビアアイドルより数段劣る、顔見知りであること以外特筆事項のない顔が合体した瞬間、まったく別のものへと変貌する。

カードゲームで、クズカード二枚を組み合わせると意外な効果を現すようなものだ。

平面の写真ですらそうなのに、立体ならなおさらだ。親鸞聖人なら、「平面なおもて興奮す、いわんや立体をや」と言うに違いない。

絶対だ。

さらに、ただの女の子ではないのだ。学校のアイドルだかマドンナだかにそっくりなのだ。それが目の前で全裸になってると来ちゃ、分速一万四千回転でマニ車をぶん回したとて、この煩悩は調伏せしめることはできまいと思われるほど。

リキッド・スネールの有名なセリフ、「煩悩を持て余す」を地で行く有様。

心臓が早鐘を打ち、舞い上がった血圧は容易に鼻の毛細血管を破裂させ、鼻血となって流れ出した。

 汗だくになるし、のどは渇くし。女の子は着せ替え遊びなんかしてたけど、こんなの、どこが楽しいんだろう?

 ……というわけで、僕は悪戦苦闘の末、るなに服を着せることに成功した。

「ミッションコンプリート」

 宇内が親指を立てて小声で言った。確かに、一仕事終えたくらい僕は疲れていた。


「起こす準備は終わりましたが、くれぐれも気をつけてください。今からるなちゃんは人間です。機械扱いすると、自殺回路が働いて、みずから電源をシャットダウンさせてしまうかもしれません。それはすなわち、モニターの失敗を意味します。ですから、あくまでも人間として扱ってください。なお、モニターが終了するのは、六か月間のモニター期間が満了したときと、るなちゃんがアンドロイドだということがご家族以外に知られてしまったとき。そして、一度でも電源が切れたときです。その際は、速やかに回収に伺います。よろしいですか?」

 僕は無言で頷いた。

「では、クレイドルの右側についている起動ボタンを押してください。本体にはスイッチ類を仕込めませんので、そういった類のものはすべてクレイドルに設置してあります。操作可能範囲は約五メートル。直接本体に指示する際は、すべて音声で行います。本体とはもちろん、るなちゃん本人のことです」

 起動ボタンは、温水洗浄便座の洗浄ボタンに当たる位置にあった。過剰なくらいトイレに似せてあるのは、なにか理由があるんだろうか?

「特に理由はありません。ちょっとしたカモフラージュとこだわりと悪ノリです」

「……あの、本当に精神感応能力とか、あったりしませんか?」

「ございません。よくある質問ですので、予測ができただけですわ」

 本当かなぁと思いつつボタンを押す。違うのはお湯が出ないことくらいで、押した感じも洗浄ボタンそっくりだった。

「……SIS・SYS004プロトタイプ、起動します」

 桜色の唇が動き、可愛い声がこぼれた。目はまだ閉じられたままだ。

「起動時に型番を告げるのはセレモニーのようなものです。パソコンも起動させると最初にOS名が出るからだそうですけど、自分の名前を口にしながら目を覚ます人間なんていませんから、私は不要だと思うのですけれど」

 不満そうに住良木。これも上からのごり押しってやつなんだろうか。ワンマンそうに見えて、いろいろストレスの素を抱えてるんだな。

「そろそろ目覚めますわ」

 僕は、その目が開かれるのを、ワクワクしながら待った。アルゴンブラストで、モンスターが落とした宝箱が開くのを待つときよりも、はるかに胸がときめいた。

「……ん」

 かすかなうめきと同時に、ゆっくりと目が開かれた。

「ああ……」

 青味がかった白目の中心に、澄んだ、大きな黒い瞳が浮かんでいる。その美しさに、僕は思わず声を上げてしまった。 

 その瞳が無表情のまま左に動いた。どうやら住良木の顔を見ているようだ。

続いて瞳が下に動き、住良木の隣に並んでいる宇内、定井の順に見た。表情は変わらない。

 しかし、その瞳が右に動き、僕と目が合ったとき、その目は黒目とまぶたが離れるほどに大きく見開かれ、すぐに住良木に向けられた。

『住良木さん、まさかこの人がお兄ちゃんなんですか?』

 誰も一言も発しなかったけれど、僕の耳にはそう聞こえた気がした。

 ああ、またかと思った。

 僕はこの見た目のせいで、初対面の女子供には、例外なく警戒される。付き合いが長くなると害はないことが分かってもらえるのだけど、そこまで至ることが少ない。一見で怯えられたままお別れになることが、圧倒的に多いんだ。

 人間は中身だなんてウソだ。

 いや、ウソじゃないかも知れないけど、前提条件がありえない。

 中身という本戦に進むには、外見という予選を勝ち抜かなくちゃならない。外見が良ければ、少なくとも本戦まで進むことができるけど、予選にエントリーすらさせてもらえないヤツに、本戦を戦うことなんてできるわけがない。

 だから、人間は少なくとも外見なんだ。

 唯一ともいえる例外が香澄ちゃんだ。なにしろ、普通の人には恐れを抱かせる以外の追加効果を持たないこの見てくれを気に入ってくれたという、稀有な存在なんだ。

 ただ、ボディガードとして、というのがイマイチ煮え切らないところだけど。

「大丈夫よ、るなちゃん」

 住良木が肩を抱きながら、るなをなだめている。自分が「るな」という名前だという自覚はあるようだ。

 おとなしくて物静か、なんて性格にしたのが間違いだったんだろうか。

 そんな性格の子が、僕のことをすぐに受け入れてくれるわけがないなんて、普通に考えたらに分かることなのに。僕は、香澄ちゃんと遊ぶ楽しさにかまけて、あのときの心の痛みを忘れてしまっていたんだ。

 あれは中学三年の、秋と冬の境目ころのことだった。

 夕暮れの図書室。いつも図書室で本を読んでいたあの子。紙の匂いが好きなのか、書架の前で深呼吸しているのを見かけたこともある。

 あの子とは別のクラスだったし、物静かな子だったから、しゃべっているのをほとんど見たことがない。声を聞いたのは、貸し出しと返却のときの「お願いします」と、貸し出しは一週間でよろしいですかと問われたときの「はい」だけ。

 僕にとって彼女の声は、雑多な音に満ちたこの世界において、鉱石のなかにわずかに含まれる金ほどにも貴重に感じられた。

 その日、彼女はいつものように、放課後の図書室にいた。室内には僕たちを除いて誰もいない。なぜか貸し出し係さえ、席をはずしている。

 千載一遇の機会だと思った僕は、勇気を振り絞った。彼女に背後から近づいて、彼女の名前を呼びながら、その肩に手を置いた。

 彼女はびくんと肩を跳ねさせ、本で顔の下半分を隠しながら振り返った。

 僕と目が合った瞬間、その顔に恐怖の表情を浮かべた彼女は、あわてて周囲を見回した。そして自分たち以外誰もいないことを知ると、震える声でこう言ったんだ。

「乱暴なことしないで」と。

 僕にとって黄金にも等しかった声が、初めて僕に向けて発せられたとき、それは黄金のナイフに変じて僕の胸に突き刺さった。

 僕は、弁解もせずにその場から離れた。

 あそこまで怯えた彼女に、どんな弁解が通じるというんだ?

 アクセルとブレーキを踏み違えたドライバーが、車が加速し続けることを認識しながらも、自分が踏んでいるのがブレーキだと信じて疑わないように、彼女はかたくなに僕を乱暴な人間だと信じている。いくら、「あなたが踏んでいるのはアクセルなんですよ」と教えてあげても、足を上げるはずがない。

 一番いいのは、取り返しがつかなくなる前に燃料が尽きること。

 つまり、今の場合、僕がここから消えることだ。彼女は僕の姿と、声と、その存在すべてを恐れているのだから。

 例えば、肩に触れず、声をかけただけだったとしたら、どうだっただろう。

 例えば、ほかにも人はいるけど、僕たちのことは気にしていないような状況だったら。

 例えば、ちょっと離れたところに座って、名前を呼んでみたら。

 例えば、彼女が借りそうな本を先に借りて、趣味が合うことを印象付けたら。

 例えば、下校途中の街頭で、偶然会ったように装ったとしたら。

 例えば、ときどき顔を見て、ときどき声を聞けるだけで満足していたなら。

 そうしたら、もっと違う未来が開けていたんじゃないだろうか。

 いくら悔いても、いくら考えても、もう遅いのだけれど。

 そして今、僕は僕の都合のために、おとなしくて物静か、なんて性格をるなに与えてしまったせいで、余計な気苦労を彼女に背負い込ませてしまったんじゃないのか。

 例えば、香澄ちゃんと同じような性格に設定したなら、

『やぁ、あんたがあたしの兄ちゃん? これからよろしくね!』

 で、済んだんじゃないのか。

 なんて僕は考えなしのバカヤロウなんだ。

「ほら、身体が温まってまいりましたわ」

 住良木の声が、僕を現実に引き戻した。

「皮膚のテクスチャーと人工筋肉の間には、薄膜セラミックコンデンサーがございます。これが全身を覆っておりますので、それらの廃熱が体温の元になっているのですわ。もちろん、それだけではありませんが」

 触ってみろと言わんばかりに、住良木は、るなの手を僕の前に差し出した。

 るなは戸惑っている。それを知ってか知らずか、住良木は、「ほれ」と言わんばかりにるなの手をぷらぷら振る。

「いや、でも、女の子の身体にそんなに簡単に……」

 さっきは抱いたり服を着せたりしたけど、今は別だ。るなが目覚めた今、彼女の意思を無視して触るなんて、できなかった。それをしたら、人間として扱うってことにならないじゃないか。

 俯いた僕の視界に、おずおずと、るなの手がフレームインしてきた。

 まだ住良木が触らせようとしているのかと思い、「しつこいな」と、半ば苛立ちながら顔を上げて、僕は目を瞠った。

 るなが、自分から手を伸ばしていた。

 住良木が放しているのに、その手は差し出されたままだった。

 住良木は「ほう」と言わんばかりに口をすぼめて、軽い驚きを顔に出している。

 僕はその手に、るなの明確な意思を感じた。恐る恐る、香澄ちゃんよりもずっと小さな手を、壊さないように握った。

「……本当だ。温かいな」

 僕は笑った。たぶん、微妙な笑いになっているんだろうなと思いながら、るなの顔を見ると、るなもぎこちなく微笑んでいた。

 僕らは顔を合わせて、もう一度、今度はとても自然に笑った。

「よかったでしょう? 服を着せてあげて」

 小声で住良木が耳打ちした。僕は素直に頷いた。


 「それではよしなに」と言い残して、住良木一味は帰っていった。

 「一味」っていう呼び方は失礼だと思うけど、あの三人組、マッドサイエンティストとその手下って感じだから、一味って呼ぶのがしっくりくるんだよな。

 昔のアニメに出ていた、憎めない悪役三人組にも雰囲気が似てるし。

「さて、父さんと母さんに、るなのことをどう話せばいいんだろう?」

 るながアンドロイドだということは、本当はモニター本人しか知らないのが都合がいいらしいんだけど、家族に教えずに家庭生活を営むというのは不可能なので、家族にだけは教えてもいいという決まりになったらしい。

 ひとり息子から妹を紹介されるなんて、ちょっとないシチュエーションだ。

でも、父さんはのんき者だから、「その子はどちらのお嬢さんだい?」なんて聞いてきたら、「なに言ってんだい、僕の妹じゃないか」とでも言っておけば、「そうだったっけ?」って納得するだろう。けど、母さんはごまかせないだろうな。

 言いくるめる自信がなかったので、有体に話したところ、

「あんたの妹なら、ウチの子ってことよね? ウチの子なら家事の手伝いをさせたって、無料よね? 罰は当たらないわよね?」

 と、なんだか思考ルーチンが一行程抜けているような反応だったので、拍子抜けしながらも、深くこだわらずに「そうだね」と流した。

 でも、電気代が月に五百円くらいかかるらしいことを申し述べたとたん表情が変わり、

「あんたの小遣いから引いとくから」と一言。

 電気代は僕持ちで、家事手伝いはさせるって、酷くない? よく知らないけど、こういうの、派遣業法かなんかに引っかかるんじゃない?

 とは思ったが、まぁ、ややこしくしようと思えばいくらでもややこしくなりそうなこの状況が、たった五百円の持ち出しで決着するんなら儲けもんかと考え直し、僕はその条件を呑むことにした。

 ちなみに、父さんは予想通りの反応だったので、予想通りの返事をしたら、予想通りにケリがついた。ほんとに大丈夫なのか? あの人は。

「じゃ、早速晩ごはんの手伝いをお願いしようかな?」

 母さんは、るなに何ができるのかもわからないのに、大胆すぎる申し出をした。

「は、はい、お手伝いします!」

「うーん、硬いねぇ。ウチの子だったらさぁ、そこは『うん、手伝うよ』とか言うところじゃない?」

「は……うん、手伝いま……うにょ?」

「ぷ。あははは。可愛いねぇ、あたしの若いころみたいじゃない? ねぇ?」

 いきなり同意を求められた父さんが、顔をしかめて首を縦に二、三回振った。

「じゃ、じゃあ、るな、僕は宿題があるから上がるけど、ひとりで大丈夫、だよね?」

「う、うん。がんばりま。がんばるね」

 るなは小さくガッツポーズをとった。

 どんな料理が出来上がるのか? そこに至るまでになにが起こるのか? 僕は今夜、ごはんが食べられるんだろうか?

 いろいろ恐ろしくもあり、楽しみでもあり、興味は尽きなかった。

一部始終を見ていたかったけど、連休のせいで三教科も宿題が出ているし、明日も香澄ちゃんとゲーセンで待ち合わせをしている。落ち着いて宿題ができるチャンスは少ない。残念に思いながらも、僕はるなを母さんに預けて二階に上がった。


 翌日、僕と香澄ちゃんは、昨日とは別の繁華街で落ち合った。

 十一月下旬の貴重な連休を費やして二日連続でゲーセン巡りというのは、いかにも暇人というか、度を越したゲーセン好きって感じだけど、まぁ、間違いじゃない。

 金曜日に香澄ちゃんがこのプランを提起したとき、どういうつもりなのか分からなかったけど、今なら分かる。今が盛りのニンジャ・ストライカーの裏技を自力で発見したもんだから、ネットやなんかで知れ渡ってしまう前に、せいぜいカモってやろうということだったんだ。

 まず入ったのはガセ。もちろん香澄ちゃんのお目当てはニンジャ・ストライカーだ。

 目を輝かしながら、語尾にハートマークの付きそうな勢いで、

「よりどりみどり」などと言っている。

 もちろん「よりどり」なのは筐体じゃなく、その前に座っているプレイヤーのこと。たぶんここが、食べ放題のブッフェみたいに見えてるんだろう。

「さーて、どいつから頂いちゃおうかなー?」

 自分が頂かれるかもしれないなんて、これっぼっちも考えてない。

 さっさと空いているニンジャ・ストライカーの席に座り、相手の力量も確かめずにいきなりコイン投入。値段を見ずにカゴに放り込むくらい危険な行為だ。

 スタートボタンを押すと、画面に「刺客現る!」の文字が表示された。

 筐体の脇から相手の男が顔をのぞかせた。乱入者がどんなヤツか、確認しているんだ。

 僕なら確実に何らかの精神的ダメージを受けてる場面だけど、香澄ちゃんはまったく気にしない。それどころか、「よろー」などと言いながら、手まで振っている。

 絶対に勝てるっていう自信があるんだろう。

……と思っていたら、いきなり香澄ちゃんピンチ! モーションの大きな突進技「武威忍」を躱され、完全に敵に背を向けてしまった。なにやってんだか。

『あ、ヤバいな。いくら香澄ちゃんでも、敵に背を向けてちゃどうにも……ん?』

 激しくデジャヴした。前にもそんなこと思った気が。って、つい昨日だ。

 念のため香澄ちゃんの手元を確認すると、やっぱりダブルピースを出している。

 やっぱりわざとか? わざとなんだな?

 対手はと見ると、ゆるゆると残像を残しながら動き始めていた。なるほど、ここに超必殺技を突っ込んでくるか。抜け目のないヤツだが、残念ながら相手が悪かった。

 他のことならいざ知らず、香澄ちゃんは反射神経と動体視力を要するゲームにかけちゃ、仏法守護のための阿修羅や、因果地平の伝説巨神なみの無限力を発揮するんだ。

 今度は見逃すまいと、僕は香澄ちゃんの頭上から画面を覗き込んだ。

「ハイっ!」

 香澄ちゃんのかけ声と、ボタンを叩く音。

その瞬間、僕はあごに登龍拳を食らったような衝撃を受けた。大きく脳が揺れる。

こっちも昨日と同じで、香澄ちゃんがボタンを押しざまに立ち上がったため、香澄ちゃんの頭頂部が僕の顎を直撃したのだ。

「あが、が」

 場所が場所だから、たぶん傍目には、「対空攻撃として出した登龍拳が、当たり損ねて相討ち」というふうに見えただろう。僕も、体力ゲージをがっつり減らされた。エコー付きの悲鳴をあげて、残像を残しながら倒れこみたい気分だ。

「……あ、痛ったー。なにやってんのよ、ソーシロ!」

 頭を抱えてうずくまりながら香澄ちゃん。

「ほ、ほめん」

 たぶん僕のほうがダメージ大きいと思うけど、僕が悪いんだから仕方がない。

「なんだよ、さっきのはよ!」

 筐体越しに相手の男が声を上げる。悪いけど、これ以上話をややこしくしないでくれ。

「……チッ!」

 勝者たちがあごと頭を押さえてうずくまっているのを見て、付き合ってられないと思ったのか、男は舌打ちをして去って行った。

「ソーシロ、あご硬すぎ! あたしを殺す気?」

「柔らかかっらら僕が死んれるから」

「こんなとこにこぶができたら、まるでスナメリみたいじゃない!」

 前頭部を指さしながら、ぷーっと膨れる。

「罰として、忍者にちなんだジュース買って来て。あの、コーラの前を横切ったやつ!」

「そんなの、もうどこにも売ってないよ」

 ていうか、なんでサスケなんて知ってるんだ?

「じゃなんでもいい。冷たいの!」

 買ってきた缶コーラを渡すと、それを香澄ちゃんは頭の上で横倒しにして目を閉じた。

「うーん……」

「うーん?」

 ときどき指を替えながら、頭の上で缶をくるくる回している。

「……うん。缶ってとこがいいね。グッドチョイスだよソーシロ。ダイレクトに冷たさが伝わるから、頭を冷やすにはもってこいだ」

 頭の上から降ろすと、素早くプルタブを引き、口をつけた。

「くぁーっ! この一杯のために生きてるわけじゃないけど、やっぱり、炭酸飲むと生きてるって気がするよね!」

 なんだかわからないけど、どうやら機嫌が直ったようだ。

 

次のゲーセンでも、香澄ちゃんは下手くそなふりをしては獲物を誘い、完膚なきまでに叩き伏せるという悪行を繰り返した。

後ろで見ていた僕は、なんかもう、小学生のころに習った、シューベルトの「ます」に出てくる通りすがりの人のような気分になった。「矢庭に川水をかき濁しつ、竿打ち込めば、ますは釣れあがれり。酷しと我は憤れど」ってヤツの、我の気分。

原曲と違うのは、釣り上げた後で、

「今月号の『ゲームマガジンG』でさ、ニンジャ・ストライカーのチーフプロデューサーが、『硬直中に連続技を入れられて負けるってのはつまらない』って書いてたでしょ? あたしはアレが臭いと思ったのよね。ハメ技が格闘ゲームをつまんなくするのは古今東西の常識なのに、なぜ今、あえてそれを言い出したのか。これであたしは『ハメ技回避の要素が入ってるな』って、ピンときたわけよ。でさ、そう思って疑いの目で見てみると、ゲームそのものにもヒントが隠されてたわけ。……わかんない? じゃ教えてあげる。他のゲームにも敵の攻撃を跳ね返した時にガードマークが出るものはあるけど、技を空振りした時の空振りマークとか、敵に背中を見せちゃったときのびっくりマークなんてのが出るのは珍しいよね? だから、あたしはどうしてこんなものがいちいち出るんだろうって思ったわけよ。で、ガードマークが消えてから5フレーム後に、なんとなく大斬りボタンを押したら、なんと、リカバリー攻撃が出るじゃない! つまりマークはリカバリー攻撃のタイミングを計るためのものだったってことよ! もう、あたしは感動したわね。なににって、自分のひらめきと、それを信じる自分の心の強さによ。エジソンは一パーセントのひらめきと九十九パーセントの汗って言ったけど、天才のあたしに言わせればさ、『あたしがひらめいた時にはすべて終わっているッ。だから汗なんて流す必要はねェんだ。わかるよなァ~?』って感じなのね。わかる? あ、わかんない? 天才にしかわかんないか。まぁ、大斬りボタンは共通みたいだけど、押すタイミングはキャラによって違うみたいだから、いろいろ試してねオーライ? 強くなったらまた会いましょユーシー?」

 などと、相手によってバリエーションは様々だったが、大意このようなことを申し述べて放流した点だ。

まぁ、香澄ちゃんにとって彼らは小魚もいいとこだろうから、キャッチアンドリリースは当然ってことなんだな。鱒が育って鮭になるってのも、なんか当たらずしも遠からじって感じだし、いいか。

「まあ」ってなんだよ。「いいか」ってよくないだろ。なんだよ、この発想と結論。

危ない危ない。香澄ちゃん的、大ざっぱ思考に侵されてる。

ちなみに、なんという偶然だろうか、「一パーセントのひらめきと九十九パーセントの汗」っていう言葉は、確か、エジソンも香澄ちゃんとほぼ同じ意味で言ってるらしい。

ジャンルは違っても、天才ってのは、凡人には理解しにくい生物なんだなぁ。


「じゃあまた、学校及びあらゆる場所で!」

 香澄ちゃんがぶんぶん手を振る。

 結局すべての場所なんじゃないかと思いつつ、僕は手を振りかえした。

「むーちょ!」

 昨日と同じように、香澄ちゃんは投げキッスを送ってきた。

「む、むーちょ……」

 すでに薄暗くなってはいるが、辺りにはけっこう人がいる。僕は辺りを気にしながら、素早く返した。満足したのか、香澄ちゃんはにっこり笑って背を向けた。

 これで僕も、晴れて家に向かって歩き出すことができる。

「ふぅ……。トラブルもあったし、二日連続のゲーセンはさすがに疲れたな。さっさと帰って、るなに癒されよう」

 僕には妹がいる。それも、飛び切り可愛い。そう思うと、思わず顔がにやけてくる。

 今日は何度も香澄ちゃんに言ってしまいそうになったが、それはご法度だ。香澄ちゃんに隠し事をするのは気が引けるけど、こればっかりは仕方がない。

 家に帰り着き、玄関扉を開けると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてるなが出てきた。

「おかえりなさい、お兄ちゃん」

 前で手を重ねて、ぺこりと頭を下げる。

「うん、ただいま」

「あのね、ご飯、できてるよ」

 もじもじしながら、僕の袖を掴んでキッチンにいざなう。

「ん? 料理がうまくいったの?」

「えへ」

 おずおずと料理を指す。なんか、今まで見たことがないようなものばかりだった。

「るなってすごいのね」

 食器棚から皿を取り出しながら、母さんが目を丸くして言った。

「でも、こんな料理の作り方、どうやって知ったんだい?」

「それは、もともと……」

「あ、ああ、そうか」

 料理の作り方とか、ある程度のことは最初から知識として持っているわけか。

「るなって、教えたことは忘れないし、同じ失敗は二度としないのよ」

「それはすごい」

 さすがというか、予想通りというか。

「でもね、次々と新しい失敗を発明しちゃうのは困ったわぁ」

 失敗を発明するというのは、斬新な言い回しだが、確かに昨日の食事はお世辞にも上等とは言えなかった。「シェフのきまぐれナントカ」などというタイトルが付きそうな、実験料理のフルコースだったのだ。

でも、昨日のがまかないレベルだとしたら、今日はちゃんと店に出せそうな料理に仕上がっている。

「失敗というものは、新たな手法を思いつくときには不可避なプロセスなんだよ。ノーベル賞なんかにも結構あるだろう? 失敗から大発見をすることがさ」

 と、父さんがなんだか賢げなことを言った。

「そりゃ、僕は先生だからねぇ、少しは賢そうなことも言ってないとねぇ」

 そうだった。僕の父さんは、学校の先生なんだ。どこの学校かは知らないけど。


「第一回アルブラⅧどーなるの会議~!」

 十二月中旬のある日の放課後、僕を学食に呼び出し、香澄ちゃんは言った。

「会議って言うか、会話だよね。ふたりだけだし」

 学食は放課後も開放されていて、ランチメニューこそ供されてはいないものの、併設された売店でパンを売っているし、自販機でカップ麺も買える。そのため、この時間でも利用者はけっこう多い。

「だって、昨日買ったゲームマガジンGの十二月号に、Ⅷの発売が来年三月になったって載ってたのよ。もうあたし、居ても立ってもいられなくなっちゃってさ。ソーシロとこの話したくてしたくて。放課後が待ち遠しかったこと!」

「……『だって』ってどこにかかってるの? 会議どころか会話にすらなってないよ」

 アルブラというのは、もちろんコンピュータロールプレイングゲーム、アルゴンブラストのことだ。

 ご存じない人のために説明すると、アルブラの第一作は今を去ること二十数年前に、曇天堂の家庭用ゲーム機「ファースト・コンタクト」略して「ファーコン」で発売された。当初の売れゆきは地味だったが、演歌的売り上げを見せ、アルブラⅡ発売とともにその人気が爆発。現在ではゲーム機本体の売れ行きをも左右する怪物ソフトに成長した。

 ハードは前作のⅦがパワースタリオン無印だったのに対し、Ⅷはパワスタ2へとパワーアップしており、それに伴ってメディアがCD-ROMからDVD-ROMに変更された。そのうえ、前作ではストーリー、演出ともに不出来な部分があったため、余計にⅧは期待されているのだ。

「でもさ、香澄ちゃんがコマンド選択式のRPGをやるなんて、思ってもみなかったよ。アクション系ゲームオンリーだとばっかり」

「ああ、Ⅶのときはまだソーシロと知り合ってなかったから知らないのか。だってアルブラだけは別じゃない? お祭りだからね!」

「フェイフレは?」

 フェイフレとはもちろん、アルブラと並び、コンシューマーRPGの双璧と称されるフェイタル・フレンドリーのことだ。

「あっちはやんない。しょっちゅう出てるから、お祭りって感じしないもん」

「確かに、『また出るの?』って感じかも。……って、内容よりお祭り感が大事なの?」

「違うよ。お祭り感も、大事なんだよ。ほんとのお祭りだって、花火とお囃子、盆踊りだけじゃ不満でしょ? やっぱり出店もなくちゃって、思うじゃない?」

 片目を閉じて、立てた人差し指を左右に振る。香澄ちゃん得意のポーズだ。

「でも、ちゃんと来年の三月に出るのかな。最初は今年の十月に出るって言ってたんだよね。それがいつの間にか発売日未定になって、今度は何事もなかったように来年の三月って、それで納得できる?」

「ふふん。最初に発表された発売日なんか、大本営発表くらい信用ならないね。結局伸びちゃったけど、もともと信じてないからショックなんてなかったさ。本気になるのは第二報以降。それがアルブラファンってもんじゃないか。知ってる? アルブラのナンバリングタイトルって、有史以来、最初に発表された発売日に出たことないんだよ?」

 有史以来って。ちなみに、ナンバリングタイトルというのは、ⅠからⅧの番号を冠したタイトルのことで、外伝やスピンオフは含まない。

「ファンだから信じないってのも、妙な話だなぁ」

 という僕のコメントをあらかた無視して、香澄ちゃんはゲームマガジンG十二月号をテーブルに広げた。

「ほらこれ。始まりの島が『ハイライ島』って、相変わらずへなちょこなネーミングだよね。だがそれがいい。って感じなんだけど。あとさ、仲間になるっていうこいつ、服のギザギザ二重線とか、どう見てもノラざえもんのジャリガンがモデルだよね? 『ランバー』っていう名前も乱暴者が元ネタだったりして。それから、始まりの島に『魔の山』って、ちょっと飛ばしすぎだと思わない? どうせスリャームとかドラッキュくらいしか出てこないのに、ここで魔の山とか言ってたら、ネーミングがインフレ状態になって、ラスボスのすみかはなんて呼んだらいいのかわかんなくなっちゃうよ!」

 香澄ちゃんは立て板に水って感じで、澱みなくまくし立てた。

「……あの、香澄ちゃん? 僕の意見を求めるまでもなく、それぞれ話が完結してたような気がするんだけど?」

「うん。実はさ、ソーシロと話すのが待ちきれなくて、お母さんといろいろ話し合ったんだよね。で、その結果がさっきの」

「それじゃ、会議じゃなくて、会話ですらなくて、ただの報告だよね?」

「そうだネ!」

 語尾にハートが付きそうな感じで香澄ちゃんは言った。かわいこぶってんじゃねぇ! ……と思ったが、本当にかわいいから困る。

「ウチのお母さんが言ってたんだけど、アルブラとフェイフレって、水と油みたいなもんでさ、若いころは両方プレイしていた人でも、年を取ってくると、どちらか一方、自分の好みに合ったほうしかプレイしなくなるんだって。面白いと思わない?」

「それはどういう現象?」

 それより、お母さんとアルブラ話ができるってことのほうが気になる。香澄ちゃんのお母さんって、どんな人なんだろう。

「要するに、頭が固くなるってことじゃないかな。よくわかんないけど。とにかく、無理して好みに合わなかったほうをプレイしようとしても、全然楽しめないらしいよ。嫌だよねぇ、老化現象って」

「なに言ってんだか。香澄ちゃんなんか、若くったってアルブラしかプレイしてないんじゃないか」

 ちなみに僕は両方プレイしている。

「そういう屁理屈を言うやつには、最強呪文で答えようじゃないの」

 香澄ちゃんはゆらりと席を立つと、顎を突き出して僕を見下ろした。

「さ、最強呪文?」

「そう。ありとあらゆる反論を無効化する最強の言葉……」

 右手を、ドッジボールかなにかをつかんでいるような形に曲げて、前に差し出す。

 そして詠唱!

「『それはそれ! これはこれ!』」

 時間が止まったような気がした。が、気がしただけだった。

「……期待した僕がバカだったよ」


「じゃあね!」

 と、今日も香澄ちゃんは投げキッスをよこした。それも、人が大勢いる商店街でだ。

 突き刺さるような視線を感じるのは、気のせいなんかじゃないだろう。

 香澄ちゃんみたいなかわいい子が、僕なんかに投げキッスを送るなんて、傍目には奇異に映るんだろうな、きっと。

「じゃっ」

 僕はできるだけ身体を小さくして、肉眼では追いきれないと思われるほどの速さで投げキッスを返し、逃げるようにその場を去った。

 ああもう、これだけはやめてほしいよ。勘弁だよ。

 家に帰り着き、部屋に入ると、るなが体育座りしてテレビを見ていた。

 このテレビは主にゲームに使用する二十二型の小さな液晶テレビだけど、一応地デジにも対応している。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

 アニメの画面から僕のほうに視線を移し、るなが笑った。

「うん。ただいま」

 学生服を脱ぎ、るなの隣に片膝を立てて座った。さりげなくるなのほうを伺うと、瞳にアニメの映像が反射して、宝石のようにキラキラ輝いていた。目覚めてから半月以上経つのに、いまだに見るものの多くが新鮮なのだろう。

 パチモンとかいうアニメが終わり、六時前のニュース番組が始まった。

 番組の種類が変わっても、るなの瞳は興味津々に輝いている。楽しんでいるふうには見えるけれど、僕には気がかりがあった。

『交通死亡事故非常事態宣言発令中の今日、県内各地では、交通安全啓発キャンペーンが開催され、県警本部前では、一日署長を務めたフランス人コメディアンのジャン・ポール・アランさんが、道行く人に交通安全グッズの配布をしました』

「あはは。ジャン・ポール・アランって、すごくフランス人ぽい名前だね」

「見なくても容姿が想像できちゃうな。こう、ルイ何世とか、作曲家みたいに、くりくりっと金髪巻き毛で」

 指先で巻き毛のジェスチャーをする。

「あ、グッズって神社とかのお守りなんだ。フランス人がお守り配ってるのって、すごく不思議な感じがする!」

 本当はテレビじゃなく、実際にあちこちに連れて行ってやりたい。

 でも、るながアンドロイドだということは内緒にしなくてはならない。そういう約束で僕は彼女を預かっている。

住良木は人間らしく育ててほしいと言っていた。だから、こんな軟禁状態じゃなくて、表に出してやるのが正しいのだろうし、僕もできれば表に出してやりたいと思う。だけど、突然、僕を「お兄ちゃん」と呼ぶ女の子が現れたら、僕をひとりっ子だと思っている近所の人は驚くだろう。あの子は誰だってことになり、正体がばれてしまうかもしれない。

だから表に出すことは難しい。

「……テレビ、面白いか?」

「うん。面白いよ。世界ではいろんなことが起こってるんだね」

 その言葉と笑顔に、僕はちょっと救われた気がした。

 僕らが赤ん坊としてこの世に生まれたとき、考える力はまだ備わってなくて、ただぎゃんぎゃん泣いているだけだ。でも、ちゃんと世界を感じ、考える知能を持って生まれたるなは、この世界をどんなふうに感じるんだろう。

 広い、まぶしい、美しい。

口では言えても、その感じ方を理解することはできない。

 僕らはたぶん、世界を最も素晴らしいと感じられる瞬間に、暖かな母体から放り出された不安をいっぱい抱え、この世界に恐怖と不快感を感じて泣きながら過ごしているんだ。

 なんともったいなく、なんと羨ましいことだろうか。

 そして、そんな大切な時期にテレビしか見せてやれないということが、とても不憫だ。

『一方、痛ましい交通事故のニュースも入っています』

「あのさ、るなは、表に……」

 と言いかけたとき、聞き覚えのある名前が鼓膜を打った。

『県立ほしかげ高校一年の樺沢聖美さんが、横断歩道を青信号で横断中に、星読市の無職、鐘田心愛容疑者が運転する軽自動車にはねられ、全治二か月の重傷を負いました』

「ええ?」

 僕は自分の耳を疑った。

『事故の原因は鐘田容疑者の信号無視と見られ、県警は鐘田容疑者を道路交通法違反容疑で現行犯逮捕し、事情を聞いています。……次のニュースです』

「お兄ちゃんと同じ学校の人?」

 途中で言葉を止めたのを不審に感じたのか、るなが僕を見上げて言った。

「あ、うん。そう。……同じ学校だよ」

 既に別のニュースに切り替わった画面を呆然と眺めながら、僕は答えた。

「病院行く? こういうときは、お見舞いに行くんでしょう?」

「……いいや。この子とは話もしたことないから、僕が行ったら変に思われるよ」

 人を見舞うのにも、資格って必要なんだな。

「それに、お見舞いっていうのは、症状が安定してから行くものだから、今日行っても迷惑がられると思う。行くとしても、もっとずっと先のことになるよ」 

「そうなんだ?」

 るなは、意外そうな顔をしていったん視線をそらしたが、すぐに何かを思いついたように、僕に向き直った。

「ね、樺沢聖美さんて、どんな人?」

 アナウンサーが一度しか言わず、字幕にも出なかった名前を、るなは覚えていた。母さんが言うとおり、確かに物覚えはいいようだ。

「そうだなぁ、とっても可愛い子だよ。目が大きくて、黒髪で、色白で、明るくて。……ああ、るなによく似ているね」

「じゃあ、とっても可愛い子によく似てる私も、とっても可愛い?」

変な言い回しだったけど、さすがに笑う気分じゃない。

「ああ、とっても可愛いよ」

「私の名前は、『るな』でよかった?」

 僕は少しの間、るながなにを言っているのかが分からなかった。

「……あ」

 るなは、自分たちの名前が、現実に存在する、もしくはかつて存在した少女から取って付けられることが多いことを知っているんだ。だから、自分に似た面差しの少女が存在するのに、自分と名前が違うことに違和感を感じたわけだ。

 普通の子なら、そんなこと気にはならない。なるはずがない。

「なんでそんなことが気になる? 確かにるなは樺沢聖美に似てるけど、ただそれだけのことだよ。こういうとき、なんて言うか知ってるかい? 『それはそれ、これはこれ』って言うんだ。るなはるなだよ。樺沢聖美じゃない。……だろ?」

 本当は、るなが樺沢聖美に似ていることに気づいたのは、名前をつけてからだった。

 でも、名前をつける前に似ていることに気づいていたとしても、絶対に「聖美」という名前にはしなかっただろう。だから、僕が言ったことはウソじゃない。

「……そっか。私はるなでいいんだ」

 抱えた膝をばたばたさせて、るなが「くふふ」と笑った。


 次の日、僕は朝からきわめて気分が悪かった。

 クラスは、おそらく学校中も、樺沢聖美に関するうわさで持ちきりだったからだ。

 ただのうわさじゃない。吐き気がするような誹謗中傷だ。

 口さがない女たちの会話なので、どれくらいの信憑性があるかわからないが、話を総合するとこうだった。

 樺沢聖美は、昨日友人とともに帰宅中、とある大通りの横断歩道上で、口を押さえて立ち止まった。そこに運悪く暴走車が突っ込み、さらに運が悪いことに突起物の多い違法改造車だったので、それが彼女の腹部に突き刺さった。手術の結果、一命は取り留めたものの、彼女は、女にとってとても大事な臓器を失ったという事実。

そして、横断歩道で口を押えて立ち止まったのは、実は彼女は妊娠していて、そのせいで気分が悪くなったからではないかという推測。

昨日まで樺沢聖美の親友だと思われていた川島美咲という子が、今日は先頭に立って噂をばら撒いている。そして、昨日まで樺沢聖美に憧れていたはずのやつらが、それを苦笑いしながら聞かぬ振りをして聞いているという現状。

なんだろうこれは?

悪意が空気に粘度を与えて、身じろぎするたびに身体にまとわり付くように感じる。

うっとうしい。わずらわしい。おぞましい。

なんなんだ、おまえら。なんで黙ってそんな噂話を聞いてるんだ?

なんで誰も、「そんなの嘘だ!」って言い出さないんだ?

「くそっ……!」

 思わず口から怒りがこぼれた。

 やつらに対しての怒りじゃない。自分自身への怒りだ。

 言い出せないのは僕だって同じだったからだ。

 彼女に憧れていた男は十指に余るほど知っているし、僕自身、入学式で、新入生代表として登壇した彼女を見たとき、胸の高鳴りを覚えた。

 そのあとすぐに香澄ちゃんにスカウトされなければ、僕は間違いなく十指のひとりだっただろう。それほど彼女は、一年生の中では輝いた存在だったんだ。

僕だって、何も言い返せず、ただ聞いていることしかできないのに、他人を責めることなんてできない。そんな自分の意気地のなさに対しての怒りだった。


「ずいぶんヘコんでるじゃない? 例のあれ? 一年の子のうわさ?」

 放課後の食堂で、香澄ちゃんが言った。

「そうですよ。もうね、昼御飯がのどを通らなくって」

 香澄ちゃんには言わなかったけど、原因はうわさ自体よりも、それを取り巻く人間の悪意のほうにウエイトが移っていた。

「ふふん。ソーシロはね、女の子に夢を持ちすぎなんだよ」

「せめて十代の間ぐらい、夢を持っていさせてよ」

 香澄ちゃんはニヤリとしながら、人差し指を立ててワイパーのように動かせた。

「残念ながら、こんなに可愛いあたしでさえ、おなかの中には糞袋があって、指で触るのさえ嫌なものがぎっしり詰まってるの。それに、月に何日かは『学校までの間にお休み場が欲しいなー』とか思いながら、青い顔して通学してるわけさ。それが現実。それが生きるってことだし、そうじゃなければ生きられないの。ユーシー?」

「糞袋とか、それこそ夢も希望もないことを……」

 そりゃ、「可愛いあたし」ってのも含めて、言ってることは間違ってはいないと思うけど、正しいことを言うのがいつも正しいわけじゃない。

「霞を食って生きてる仙人じゃない限り、生きてりゃいろいろあるし。女の子だって人間だもの。いろいろ溜まるんだなぁ」

「『みつを』みたいなこと言ってんじゃないの」

 「霞を食って」から、「香澄あたしを食べて」を連想して、ちょっと胸がざわついた。こんなときに、なに考えてんだ、僕は。

「まぁ、彼女いない歴イコール年齢プラスアルファのソーシロごときに、そう簡単に女が解ってたまるかよってこった!」

「ごときって」

 理解されたいんだか、されたくないんだか。……あれ?

「ちょっと待って。『彼女いない歴イコール年齢プラスアルファ』って言ったよね? その、プラスアルファの部分ってなに?」

「前世からの通算」

「えええ、僕って、前世から彼女いなかったの?」

 不憫すぎる。

「ソーシロの前世は、一生独身で世界中の不幸をしょい込んで、とある地方都市の路上で一生を終えた、大阪府出身の園田弥五郎さん享年六十八」

「見てきたように!」

 大阪に園田弥五郎さんが実在したら気分悪いだろう!

「でも、来世では幸せが訪れることを知っていたから、その死に顔は埃まみれだったけど幸せそうに微笑んでいたと聞くわ!」

 誰に聞いたんだ、誰に。

「……一応聞きますけど、弥五郎さんの来世、つまり僕の現世で訪れる幸せってなに?」

「あたしに出会うこと!」

 やっぱりだ! オタ風をツモ切りするときくらいノータイムで、臆面もなくベタな返答をしたうえ、ガルプラのマイスターグレード・カチョキバージョンみたいに脚を大きく広げて胸を張っている!

「現世のソーシロの幸せは、六億年分の前世の不幸の上に咲いた花のようなもの……」

リリカルにまとめてんじゃねぇ!

「てことは、僕はカンブリア紀からずっと彼女いない生物だったってわけ?」

「短かかったかな?」

「長すぎるよ!」

 ていうか、なめくじ魚まで前世をさかのぼられたヤツが他にいるか!

「カンブリア紀に、六億年間独身で過ごすボタンとか押したんじゃないの?」

「どこにそんな憎たらしいボタンがあるの!」

 そんなもんが存在するのなら、すぐに壊しに行ってやる。

「まぁ、ソーシロは現世で幸せになってるから、現世分の不幸を前倒しで経験してたんだって考えなよ」

「幸せになってるって、実感がないんですけど?」

「あらそう? こんなにかわいい女の子と一緒にゲーセン行けるなんて、幸福度高いと思うけどなぁ。こんな権利、アホオクに出したら結構な値がつくよ。ほら、昔、本物のズクがアホオクに出品されたことあったじゃない? あれくらいの値段はつくと思うね、間違いなく。これが実感ないとしたら、そりゃあれだわ」

「あれって?」

「ほら、台風の中心って晴れてるって言うでしょ? で、通り過ぎてから雨と風が強くなったりするの。ソーシロも、今は幸せの中心にいるせいで無風状態になってるけど、通り過ぎてから自分は幸せだったと気づくのよ」

 うわ、なんか悔しいけど、ちょっと納得させられた。

「ね、あたしって今、いいこと言ったよね?」

「それを言っちゃ台無しだよ……」

 名言はさりげないからかっこいいんであって、デカルトが「われ思うゆえにわれありって、冴えた言いまわしだよね?」とか、パスカルが「人間は考える葦であるって、なんかカッコよくね?」とか言ってたら、絶対に名言として残らなかったと思う。

 

「じゃあね、ソーシロ!」

 香澄ちゃんが口に手をやったのが、目に飛び込んできた。

 僕は肉食獣が獲物に襲い掛かるような勢いで距離をつめ、香澄ちゃんが口に当てた手を人差し指で押さえた。

「おおっと、ソーシロ、ハヤブサなみの鬼ダッシュだね!」

 ハヤブサっていうのは、ニンジャ・ストライカーで香澄ちゃんが主に使っているキャラクターだけど、そんな説明してる場合じゃない。

「あのさ、その、ずっと思ってたんだけど、その、投げキッスってやつ、やめない? なんかもう、その、恥ずかしくって」

「うわ、投げキッスって。ソーシロ、あんた昭和三十年代の生まれ?」

 あなたより年下なんですが、お忘れですか。

「じゃ、じゃあ、なんて呼べばいいの?」

 ほんとは呼び名じゃなくて、見た目の問題なんだけど。

「あれは、『ワイヤレス・ムーチョ』なんだよ!」

「な、なんだってー! ……って、ほんとになんなの、その呼び名?」

「あたしは『接吻』を呼称するにあたって、『キス』とか『スマック』とか『ベーゼ』とか、そういうスカした呼び名にはしたくなかったのね。よりエレガントに『チュウ』みたいな、擬音語っぽい響きが欲しかったわけよ」

 「チュウ」がエレガントかどうかは、この際聞き逃そう。

「で、そういうエレガントな言葉を捜し続けて、やっと見つけたのが『ムーチョ』だったんだよ!」

「な、なんだってー! ……って、いやもう、その口調はいいから」

「どこの言葉かは知らないけど、ムーチョって、なんかいいと思わない? チュウと同じような、吸い付く感じがファニーでプリミティヴでエレガントだわ!」

「いいと悪いの基準って、どこにあんの?」

 あと、プリミティヴとエレガントって、同居できる言葉なんだろうか?

「ワイヤレス・ムーチョって、ネットでも一件もヒットしなかったわ。だから版権とかの心配はないから、ソーシロも使って流行らせなさいね!」

「どういう局面で使えばいいのか、想像すらできないけど」

「あ、流行語大賞になったら、表彰式に出席するのはあたしだからね?」

 同じ話題でしゃべっているとは思えないほど、話がかみ合わない。

「……是非そうしてよ」

 僕はあきらめた。


 香澄ちゃんと別れた後、歩きながら僕は考えた。

 僕は昨日、るなに「表に出たいか?」と言いかけたけど、ちょうど樺沢聖美のニュースが流れたせいで、なおざりになってしまった。でも、るながなんと答えても、結局は「出せない」って結論になるんだから、聞く意味なんかない。聞いても仕方ない。希望を聞くだけ聞いておいてやっぱりダメでしたなんて、残酷すぎるにもほどがある。

 そういう意味では、昨日の会話が途切れたのはラッキーだった。

 だから僕は考えた。そして思いついた。表に出してあげられないのなら、できるだけ家での生活を楽しくしてやろうじゃないかと。

 家のなかでできる楽しいことと言えばなにか。

手軽にできるのは、なにかおいしいものでも食べるとかだろうけど、残念ながらるなはものを食べられない。お風呂に入って「くはぁ……」とか、堪えきれずに呆けたうめき声をもらすこともない。

 僕ならテレビゲームやってりゃ幸せなんだけど、女の子って、あんまりゲームしない気がする。香澄ちゃんは例外だけど。

 るなは、なにをどうすると嬉しいんだろう。るなの幸せってなんだろう。

 と、るなの姿を思い浮かべて考えて、ひらめいた。

 るなの一張羅は、なにかの制服みたいな、堅苦しいお出かけ着だ。

 るなは汗をかかないから、服が汚れることは滅多にないだろうけど、一日中、寝ているときもそれを着続けているというのは不自然だ。それに、普段着でくつろいでいるときに隣に正装した子がいると、こっちだってしゃっちょこばってしまう。

 だから、僕がひらめいたのは、るなに服を買ってやったらどうかってことだ。

 日中気軽に着られる普段着、そして眠るときにはパジャマ。そんなものを買ってやったらどうかと思ったんだ。

 だからと言って、買いに連れて行くことはできない。

 どうすればいいんだろう。

「……あれは!」

 僕の目に入ったのは、ちょうど通りかかったコンビニの店頭に置いてあった、無料の通販カタログだ。

「あれだ!」

 あたふたと、開ききらない自動ドアにぶつかりながらコンビニに飛び込む。

 どう見ても女性向けと思しきそれを、ムクツケキ大男が物色している様は、いくら合法的だと自らに言い聞かせようと、公序良俗的に許されない感が満点だった。

 僕はえいやっと雑念を振り払い、それらをありったけの種類持ち帰った。


「…………!」

 るなは、目が真ん丸くなるほど開き、この世にこんなものがあったのかと言わんばかりの顔で、カタログの束を掲げ持った。

「よく聞きなさい、るな」

 そういって僕は、るなの前に正座した。別に正座する必要もないんだけど、まぁ、儀式的な感じで。るなも僕にあわせ、自分の前にカタログを置いて、ささっと正座した。

「……なんか、いつもとしゃべり方が違うね?」

 僕はいぶかるるなの前に、人差し指と中指を、いわゆるピースやブイサイン、あるいはチョキと呼ぶ形に立てて突き出した。

「このカタログの中から、好きな服を二着選びなさい。昼間着る服と、夜、眠るときに着る服の二着。……もちろん、るなが嫌じゃなかったら、なんだけど」

 その服を着ていないと性能が落ちるとか、都合が悪いとか、あるかもしれないしな。

「え……?」

 言葉を失い、きょとんとした顔で僕を見つめる。

「ここからが大事なところだからな」

 そう前置きして、僕は出していた二本指から、中指を折りたたんで人差し指を残した。

「僕の懐具合から考えて、予算は送料込みで一万円以内。カタログが違うと会社も違う。会社が違うと送料も別にかかるから、そこは注意するように。予算オーバーはビタ一文許さないけど、予算以内なら下着や小物とかも買っていいから、うまくやりくりしなさい。わかったかい?」

 そんなに厳しく制約をかけるほど僕の懐財政が逼迫しているわけじゃないけど、社会生活をおくるにあたって、金銭感覚っていうのは大事なファクターだ。締めるとこは締めておかないとな。

「ほんとにいいの?」

 まぶしいものを見るような、るなの顔。

「るなは四六時中その服着てるだろ? 堅苦しい服着てる子と一緒にいると、なんか落ち着かないんだよな。だから、部屋じゃ普段着を着ててもらいたいと思って」

 あくまでも、こちらの都合だというところを強調し、負担に思わせない作戦。

「別の服を着ても問題ないか?」

「うん。この服は、ただの服だから別のにしても大丈夫なの。だから、とっても嬉しい」

 るなはカタログを胸に抱いて、目を細めた。

「よし、とりあえずサイズを測ろう。まず身長な。そこに立って」

「うん」

 コンテナの側面にるなを立たせて、三角定規を頭のてっぺんに当て、マジックで線を引く。油性マジックだけど、こういうつやつやに塗装されたところにだと、いざとなったらミカンの皮で簡単に消せるから問題ないだろう。この時期、ミカンには事欠かないし。

「それをメジャーで、床から測る、と」メジャーの片側をつま先で踏もうとしたら、素早くしゃがんだるなが、それを押さえた。「お、サンキュ。……百四十センチジャストか。柱の……んぐ」

 柱の傷はおととしのと歌いかけて、慌てて口を塞いだ。

 るなにおととしはないし、来年はこの家に居ないかも知れない。そして、何年経っても身長が伸びることはないんだ。

「はぁ……」

 ため息を吐きつつ、なんだか寂しい気持ちになりながら振り返ると、背後ではとんでもないことが起こっていた。

「こらこら待て待てぃ! 男の前で女の子が服を脱ぐもんじゃない!」

 実際には前じゃなくて後ろでだったが、るなはあらかた服を脱いでしまって、下着以外では最後に残った着衣であるところの、ブラウスの首もとのボタンを、今まさに外そうとしている状態だったのだ。

 るなの身体は隅から隅まで見ているが、剥き身のままで出現するのと、目の前で剥き身になりつつあるのとでは、やはり趣が違う。

「……お兄ちゃんの前でも、だめなの?」

「お兄ちゃんも男の一種だろ!」

「身体のサイズを測らなきゃならないんでしょう?」

「母さんを呼んでくる!」

「四時前に買い物に行くって言って出かけたけど、もう戻ってた?」

「……詰んだ」

 幾重にも罠が仕込まれた爆弾を解体している気分だったけど、失敗したようだ。 

「わかったよ、脱ぎな」

「……え? もっと脱がなくちゃだめ?」

「脱ぐんじゃないのか? て言うか、脱ごうとしてなかったか?」

「リボンタイが解けたから、結びなおしてただけ。これ以上脱ぐつもりはないよ?」

「……あ、ああ、そういうこと?」

 ヴァンパイアロードにエナジードレインを食らったみたいに、どっと疲れた。

「じゃあ測るぞ。手を上げて」

 るなの今の姿は、要するに裸ワイシャツ風だ。いくら下着を着けているとはいえ、真正の裸ワイシャツより丈が短いぶん露出が多く、太腿がかなり上まであらわになっている。しかも、手を上げたせいでブラウスの裾が持ち上がり、さらに露出度アップ。コールしてさらにレイズって感じだ。

 ドキドキしながら、ブラウスの上からメジャーを回す。

 しかし、ここにも落とし穴があったのだ。男の身体は硬いから測りやすい。でも、こんなふにゅふにゅした女の子の身体をメジャーで測るなんて、難しすぎる。力を入れれば入れるほどメジャーは身体に食い込んで、すぐに二センチや三センチはサイズが変わってしまう。

少しくらいは食い込ませた状態で測ったサイズでないと、それを元にして作った服は動いているあいだに脱げてしまうだろう。でも、どれだけ力を加えた状態で測ればいいのかが分からない。

「ううんと、えっと……。ネットで調べたらわかるかな?」

 しかし「女の子のサイズの測り方」なんて、どんなワードで検索したらヒットするんだ?

 さらにその間るなをどうするか。風邪をひくことはないにしても、このまま放っておくのはなにかとよくない。面倒でも、いったん服を着させるか?

「あっ……! そうだ、今の服!」

 幸い、るなの服は既製品だったらしく、サイズや洗濯方法のタグがついていた。それによると、るなのウエストは五十二センチらしい。と言うことは、五十二センチになるようにメジャーを巻いて、食い込み具合を覚えればいいのだ。

「ふふふ、我ながらナイスなアイディアじゃないか……」

 しかし、それをクリアしても、また新たな難題がやってきたのだ。

ウエストは一番細くなってるところを測ればいいんだろうし、ヒップは一番張り出したところだろう。それは見りゃ分かるけど、バストってどこを測ればいいんだ? バストと胸囲は違うって聞いたことあるけど、どう違うんだ?

 あの「フルッフヘンド」のてっぺん? それとも、「フルッフヘンド」は無視するのか?

 もしもてっぺんだったりしたら大変だ。

てっぺんには「あれ」が鎮座してるってのに、そんなとこにメジャーを載せなくちゃならないなんて!

『僕には難しすぎる……!』

 と、いったんは諦めかけたが、ためしに測ってみて、実は簡単な話だったことに気づいた。

要するに、るなの「フルッフヘンド」は大して「フルッフヘンド」していないので、どこを測っても大差はなかったというオチだ。

「……身長百四十。スリーサイズは上から、六十六、五十二、七十一だ。ああ疲れた」

 香澄ちゃんと遊んでいるときとは、また違った疲れだから、これを続けると満遍なく鍛えられていいかもなんて、前向きに考えてみる。

「うん、わかった。ありがとう」

 にっこり笑って、るなはカタログに見入った。


 晩ごはんを食べて部屋に戻ってくると、ドアのまん前で、るながカタログを抱えて立っていた。目がキラキラ輝いている。

「うわ、びっくりした!」

「お兄ちゃん、服、決めたよ!」

 そう言ってるなが差し出したのは、ファッション関係の通販大手ネッシンのカタログだった。その上に置かれた注文用紙に、いくつかの商品コードが書かれている。

「よしよし、合計金額は、送料も含めて限度内か。……これ、ちゃんとサイズは合ってるんだよな?」

「うん。何度も確認したから、間違いないよ。……どんなの選んだか、見てみる?」

「うーん、写真だけ見てもピンと来ないから、実物が届くまで見ないでおくよ」ここまで言ったとき、るなの顔がちょっと不満そうになったのが分かったので、慌てて後を付け足した。「その代わり、僕に最初に見せてくれよな?」

「うん、わかった」 

「よし、じゃあ注文しようか」

 パソコンを起動させながら、注文書を再確認すると、驚いたことに、代引き手数料を合わせると、ちょうど一万円になるのだった。僕が未成年だからクレジットカードを持っていないことが分かっていたのか、持っていようがいまいが限度額を超えないようにしたのかは分からないけど、よく気がつく子だ。

「……えっと、これでいいんだよね」パソコンを操作していたるなが、同意を求めて僕を見上げた。僕が頷くと、画面に視線を戻してENTERを押した。「送信と」

「お疲れさん。ほら、『通常一週間以内にお届けします』だってさ。るな、クリスマスは新しい服で迎えられそうだな?」

「ああ、もうすぐクリスマスなのかぁ。楽しみだな。私、クリスマスって初めて」

 るなは顎の下で手のひらを合わせ、目を細めた。

 普通なら「当たり前だろ」って突っ込むところだけど、僕はさっきの発言で自分がしくじったのに気づいたので、ぜんぜんそんな気にはなれなかった。

 クリスマスの一番の楽しみって、ケーキとかチキンとか、その他いろいろもろもろのおいしいものを食べることじゃないか。

 何も食べられないるなに、クリスマスを楽しむことはできるんだろうか?

 ほんとに僕は、気が小さいくせに発言が軽い。反省しないと。


「ねぇ、香澄ちゃんて、身長いくつ?」

 冬休み直前の、ある日の放課後。いつも通りの食堂で聞いてみた。

「あんたね、女の子に聞いていいのは指のサイズだけよ? ……まぁ、体重聞かないだけマシか。いいわ、教えたげる。百五十五センチ、四十五キロだよ」

 とりあえず、るなよりかなり軽いみたいだけと、体重は聞くなとか言ってなかった?

 るなの身長は百四十センチだったけど、何歳くらいの女の子として設定されているんだろう。住良木に聞いたらすぐにわかるだろうけど、こんなくだらない疑問で電話するってのも気が引ける。

「中一のころって、何センチだった?」

「変なこと聞くね? ……まぁいいわ。今と同じ、百五十五センチだよ。あたしは、小六の春の身体測定からビタ一センチ伸びてないもの」

「そうなんだ?」

 あと、妙な日本語作るな。 

「そうよ。覚えておきなさい? 女の子っていうのはね、男みたいにいつまでも、野放図に身長を伸ばしたりしないもんなのよ」

「僕だって、伸ばしたくて伸ばしたわけじゃないんだけどな」

 でも、そう言われてみたら、小学校の高学年の頃、僕は男子で一番背が高かったけど、クラスでは三番目だった。そうなんだ。僕の後ろには女子が二人いた。小学校高学年の一時期、クラスには僕より背の高い女の子がいたんだ。

中学に入るとすぐに僕が抜き返したから、すっかり忘れていた。

「地味だった女の子が大人になって綺麗になるのを、芋虫が蝶になったって例えるけど、あたし、あれって言い得て妙だと思うのよね。芋虫がさなぎになると、さなぎの中の身体がドロドロに溶けて、芋虫モードから蝶モードに組み替えられるわけでしょ? 女の子の身体にも、それと同じようなことが起こってて、身長は変わらないけど、中はものすごく変化してるわけさ」

 そう言って香澄ちゃんは、胸の辺りを撫でた。

「蝶モードねぇ。……てことは、香澄ちゃんは、これが蝶の姿なんだ?」

 香澄ちゃんが、「むっ」とした顔をした。

香澄ちゃんが可愛いってのは僕も理解してるけど、いつも言い負かされてるから、ちょっと意地悪を言ってみたくなったんだ。

「あ、あたしは、まだ、本気になんかなっちゃいないぜ?」

「へえ?」

「あんたが知ってる佐田香澄は、香澄四天王のなかで最弱なんだぜ?」

「へえぇ?」

「あたしは、まだ、二回の変身を残してるんだぜ?」

「へええぇ?」

「……あのね、のんきにしてるけど、敵が強くなくちゃ、あたしの変身は見られないのよ? わかる? あたしが変身できるかどうかは、あんたにかかってんの」

「僕って敵だったんだ?」

「まぁ、ある意味ね」

 あれ? いつの間にか香澄ちゃんのペースになってたよ。

「と、ところで、もうすぐクリスマスだよね? 香澄ちゃんはなにか予定……」

「ああ、あたしは家族と過ごすよ」

 最良の答えじゃなかったときの予防線として、そして、最悪の答えにならぬよう希望として想定していた答えが、食い気味に帰ってきた。

「ウチのお父さんさ、海外へ単身赴任してるんだけど、盆と正月とクリスマスだけは帰ってくるんだよ。年に二週間ちょいしか一緒にいられないんだから、ウロチョロ出歩くなって、お母さんがうるさいんだよね」

 香澄ちゃんはテーブルにひじを衝いて、手のひらの上に膨らませた頬を載せた。

 なるほど、そういうことじゃ僕の出る幕はないな。

 そうさ、僕らは恋人同士じゃないんだから、別に不自然なことじゃない。

「どってこと……」

 そうさ。ちょっとへこむけど、どうってことないさ。

「それは大変だな」

「そうなんだよ、大変なんだよ。いくら半年ぶりって言ったって、この年になって親と四六時中一緒なのって息が詰まるよ!」

「香澄ちゃんて、お父さんと仲悪いの?」

「そんなことないよ。でもさ、ことわざでも、『帰ってよし、戻ってよしの父の顔』って言うじゃない?」

「そんなことわざ、聞いたこともないね」

「父親ってのはさ、会わなかったら寂しいし、たまさか帰ってくると嬉しいけど、しばらく一緒にいると邪魔に思えてきて、早く赴任先に戻ってほしいなって思えてくるもんなの」

「父親って悲しい存在だなぁ。娘なんて、いくら可愛がってやってもこんな仕打ちを受けるんじゃ、甲斐がなさすぎるよ」

「だが、それがいい! ……とか?」

「いや、言わないから」

 香澄ちゃんはふと考え込むようなしぐさをして、意外なことを言い出した。

「……ソーシロってさ、最近言葉遣い変わった?」

「えっ?」

「ときどきちらっと出て来るんだよね、ちょっとワイルドな言葉遣いが。……ううん、ワイルドって言っても乱暴ってわけじゃないし、前のオカマっぽいしゃべり方よりずっといいんだけど」

 オカマって。そんな風に思われてたのか。

「そ、そうかなぁ。自覚ないけど……」

 僕が変わったって言われても、自覚はない。でも、そうだとしたら理由は分かる。

るなだ。るなが僕の家に来たおかげで、僕は少しずつ変わっているんだろう。

もちろんいい方向にだ。


 日めくりが何枚か破り取られて、クリスマス・イブがやってきた。

 例年通り、僕も家族でケーキを囲んだ。

 例年は「面白うて、やがて悲しきクリスマス」って感じで、パーティの後で部屋に帰ると、寒さと寂しさがタッグを組んで襲い掛かってきたもんだけど、今年はるながいる。少なくとも寂しくなんかはなりようがない。

 でも、当のるなは楽しめているのだろうか。ものを食べないるなは、にこにこしながら僕らが食べるのを見ているだけだ。

 僕はもともと小食なのに加えて、るなの姿が不憫で、ほとんど食が進まなかった。

「おまえはそんなこと、心配する必要はないんだ」

 僕の気持ちを察して、父さんが言った。

「え?」

「例えば、電気を食べて生きている種族がいたとする。その人たちが、おまえがおまえにとって普通の食事を摂っているのを見て、『電気が食べられないのはかわいそうだ』と言って、おまえに無理やり電気を流したらどうなる?」

「……ああ、そうか。うん、そうだね」

「うん。そういうこと。人それぞれってことだな」

 るなのほうを伺うと、目が合った。僕が笑うと、るなも笑った。

 そのとき、呼び鈴が鳴った。

「なにかしら、こんな時間に」

 と母さん。そう言ってもまだ夜の七時過ぎで、目くじら立てる時間でもない。

「僕が行ってくるよ」

 母さんを制して僕は席を立った。

 扉越しに呼びかけると、相手は宅配便だと言った。

 鍵をはずして玄関扉を開くと、緑と黄土色のジャンパーを着た若い男が、大きさの割には薄い箱を持って立っていた。僕宛だと言ったが、記憶がない。

でも、「NESSIN」という箱のロゴを見て、これの中身がるなの服だってことに気がついた。注文者の名は僕にするしかなかったけど、実際の作業はすべてるなにやらせたので、不覚にも忘れてしまっていたのだ。

 受け取りの印を押して、代引きの一万円払うと、男は頭を下げながら扉を閉めた。 

「るな、ちょっとおいで」

 居間の、引き戸の陰に隠れるようにして、僕はるなを呼び出した。

「うん?」

 微量の戸惑いを含ませた笑顔で、るなは僕について二階に上がってきた。

 部屋に入っても、僕はそのまま窓際まで進み、充分もったいぶってから振り返った。

「ほら、るな、こんなの来たぞ!」

「わぁ、もしかして、私の服?」

「いいから早く開けてみろ!」 

「……ほんとに箱に入ってくるんだ!」

 妙なことに感心するんだな。

「あ、開けても……いいんだ。ふふ、嬉しいな。えっと、このテープを……」

 るなは大切そうにテープをはがし、箱を開くと、僕にも聞こえるくらい大きく息を呑んだ。目をキラキラさせながら無言でワンピースを取り出し、シーリングライトにかざすと、そのまま固まった。

「………………」

僕はしばらくその姿をほほえましい気持ちで眺めていたが、次第に間が持てなくなり、気づいたらネッシンの箱を物色していた。

「……ん?」

 納品書のほかに、「お詫び」と題する紙が一枚入っていた。

 品質向上のため素材の変更を行ったせいで、商品を用意するのが遅れた。だからお詫びとして試作品の靴下を数足同封した。要約するとこんな感じだった。

 僕はそれを読んで、思わず笑ってしまった。

 荷物が遅れて笑うなんて変だけど、そのせいで偶然、この服はクリスマスイブに届けられた。だから、図らずもクリスマスプレゼントになってしまったんだ。

 これでるなもクリスマスを楽しむことができる。神様も粋なことをするじゃないか。

「るな、おまけつきらしいぞ。これ、靴下」

 るなは僕が声をかけるまで固まっていたが、はっとわれに返った。

「……あ、靴下? 履いてもいい?」

「当たり前だろ、おまえのなんだから」

 僕はここで言葉を切って、立ち上がった。

「じゃ、僕は下に降りてるから、着替えて降りて来い? 父さんと母さんにお披露目だ」

 るなの頭をひと撫でして、部屋の出口に向かって歩きだす。

「うん」

 僕が部屋のドアを閉じ終わるまで、るなは僕のほうを向いて微笑んでいた。

 十分後、るなは居間の引き戸をノックした。父さんと母さんは不思議そうな顔をしたが、僕は説明せずに声をかけた。

「入っておいで」

 しゅっと引き戸が開いて、るなが居間に入ってきた。

「おお!」

「まぁ!」

 ふたりが感嘆の声をあげるのを、僕はわがことのように鼻高々に聞いていた。

 確かに、新しいワンピースは、るなには地味すぎるかと思ったけど、予想外に似合っていた。地味な色合いの服を着ることにより、逆に女の子らしい柔らかな曲線が強調されている。サイズも誂えたようにぴったりで、今まで着ていた、丈夫なだけがとりえのような堅苦しい服よりずっといい。

 汗だくになってサイズを測った甲斐があったってもんだ。

「えっと、似合う、かな?」

 後ろで手を組んで、もじもじしながらるな。

「似合う似合う。めちゃくちゃ可愛いぞ。馬子にも衣装……の逆って感じ。着る人がいいと、地味な服も、すっごくよく見える!」

 ボキャブラリーのなさが辛い。なんて言うんだろ、こういうとき。

「うん。馬子にも衣装は『公家にも襤褸』とセットの言葉だけど、これはボロを着ると偉い人でもみすぼらしくなるって意味だから、意味的な逆だな。今回は立場的な逆ってことだから、るなが衣装で、服が馬子と考えればいいわけだ」

 父さんがわけの分からないことを言って、ひとりで納得した。

「へぇ、総司郎が買ってあげたんだって? けっこういいお兄ちゃんしてるじゃない?」

 母さんが意地悪そうに言って、片目をつむった。

「後ろはどんな感じ? 変じゃない?」

 るなが頬を赤くして、照れながらくるりと一回転した。

 髪がふわりと舞い、隠れていた肩甲骨の辺りがあらわになった。そこには、レースで縁取られた、翼を模した白い刺繍があった。

 聖夜に天使が舞い降りるなんて、なんてありふれてて、なんて素敵なお話なんだ。

「とってもいい。まるで本物の天使みたいだ!」

 るなは調子にのって、続けざまに回った。そして何度目かにバランスを崩し、ソファに腰掛けていた僕に倒れかかった。

 るなの顔が、コマ送りのように僕に近づいてきた。

 え? これって走馬灯?

 僕は覚悟した。人間よりかなり重たいるなが、そこそこの勢いでぶつかってきたのだから、ちょっとくらいの怪我はするだろう。下手をすれば、本当に走馬灯になるかも。

 でも、予想に反して僕の頬には、柔らかいものが軽く触れただけだった。

 僕は、その行為が故意に行われたことと、その行為の名称は「頭突き」ではなく、香澄ちゃんが言うところの「ムーチョ」なんだということに気づいた。

 その唇は、僕の頬から離れる瞬間に、僕だけに聞こえるような声でつぶやいたからだ。

「お兄ちゃん、ありがとう」と。


 パーティが終わり、去年までと違ったふわふわした気分で部屋に戻る。でも、マックスには5パーセントほど足りない感じ。

 例えるなら、門前清一色一通平和の六、九萬待ち聴牌で、九萬ならイーペーコーがつくのに六萬でロンしちゃったみたいな。点数は変わらないんだから、どうせなら九萬振り込めよっていう、贅沢な希望。

 わかってる。5パーセントの正体は、わかってる。

 そのとき、僕の携帯が間の抜けた音楽を奏で始めた。

まさかもしやと胸の高鳴りを抑えつつ携帯を取り出すと、液晶画面に表示された名前は「香澄ちゃん」だった。彼女のことを考えたとたん電話がかかってくるなんて、ちょっと運命を感じてしまう。

「ソーシロ、メリークリスマス! 楽しんでる?」

「う、うん。まぁ。あ、あのさ、今ちょうど香……」

「初詣の予定は決まってる? 決まってなかったら一緒に行こう?」

「あ、うん。もちろん決まってないよ。当たり前だよ!」

「じゃ、八幡様の鳥居んとこに一時に集合。もちろん年越し直後の夜中の一時だから、間違えないよーに。あと、鳥居は一緒にくぐるんだからね? 抜け駆けしちゃだめだよ?」

「う、うん。わかってる」

「質問がなければ以上。解散!」

 質問する時間も与えてくれずに、香澄ちゃんは電話を切った。

 香澄ちゃんからの電話はいつもこうだ。びっくり箱みたいに始まって、掃除機のコードみたいに終わる。効果音をつけるなら、ビヨーン、シュルッて感じ。まぁ、特に質問はなかったから、別にいいんだけど。

「学校の人から?」

 いつの間にかパジャマに着替えたるなが言った。パジャマはピンクに水色のチェック模様で、地味なワンピースとは正反対の雰囲気だ。

「うん。残りの5パーセントだよ」

 たたんだワンピースを手にしたまま、「ん?」という顔をして、るなは首をかしげた。

「いや、こっちの話。今年はるなのおかげで、楽しいクリスマスだったよ」

「そうなんだ? お役に立てまして、光栄です」

 るなは前で手を組み、丁寧にお辞儀をした。そして、自分のしぐさがおかしかったらしく、照れたように「ふふっ」と笑った。

「うん。去年までは3人だったから、クリスマスっていってもさ、ちょっと豪華な普通の晩御飯って感じだったんだよな」

「…………」

 当然あると思っていた返事は、いつまでたっても帰ってこなかった。

「るな?」

「……私、来年も」

 るなが目を細めたまま、僕を見上げて言った。

「え?」

「ううん。……ずっと、ここにいられたらいいなぁ」

 僕はなにも言えなかった。

 言えるはずがない。るながモニター期間終了後もここにいられるかどうかは、るなの意思に関係なく決まる。だから、るなに「ずっとここにいろ」なんて言っても仕方がない。そんなことを言っても、苦しませるだけだ。

 僕がいいお兄ちゃんになって、優秀賞を取ればいいことだ。それだけのことなんだ。


 あっという間に大晦日がやってきた。

年越しそばを食べ、年末恒例の年またぎバラエティ番組「坊の使いとちゃうねんぞ!」を見たあと、家族そろって新年の挨拶。

「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 「坊使」は面白いが、いつの間にか年を越しているのが困りものだ。見終わった後で交わす、タイミングを外した新年の挨拶は、取ってつけた感がハンパじゃない。

「まぁ、人生を折り返している身としては、正月といってもそんなにはめでたくないね。『坊使』を見て笑ってる間にこっそりやってくる、空き巣狙いのようなもんだよ」

 例によって、また父さんが妙なことを言い出した。

「あら? あたしの人生は、まだ折り返してないけど?」

「なに言ってんの。あざみさんは僕より年上じゃないか」

 あざみってのは母さんの名前だ。

「バカだなコーシロは。男より女のほうが長生きするんだよ?」

 甲子郎は父さんの名前だ。

「あのさぁ、仮にも教職を生業にしている身に向かって、バカとか言っちゃう?」

「バカなこと言うやつはバカだ。バカにバカと言ってなにが悪いんだバカ! あんたはいまだに女のことが分かってない。こんなの初歩の初歩だよ?」

「五回も言った。前のも合わせて六回だ!」

「だが、バカなとこがいいわけだが。愛してるぞ、コーシロ」

「う? ううへぇ? へへ……」

 もう一回バカと言われたことに気づくこともなく、妙なうめき声を発して、父さんはぐにゃぐにゃになった。扱い楽っ!

 母さんと父さんは高校の先輩後輩の間柄で、その関係のまま今に至っているので、いまだに父さんは母さんの手のひらで転がされているような状態らしい。そんな頭の上がらない相手と、その関係を改善しないまま結婚しちゃうなんて、どうかしてる。

 まぁ、本人がそれを嫌だと思っていないのが救いなんだけど。

 これを反面教師にして、僕はああならないように肝に銘じよう。

「おっといけない。そろそろ時間だな」

 正月早々いちゃいちゃしている両親を残し、るなの頭をひと撫でして後を託すと、約束の神社に歩いて向かう。

 真っ暗な空に向かって息を吐くと、白いもやのように、ほんのひととき漂って、吸い込まれるように消えていくのが趣き深い。

 おお、漆黒の闇よ、わが聖なる息を食らえ! プネウマ・ストマトス! はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ! なん、だと……? すべて無効化してしまうというのか? もしや貴様、宇宙より来る放射冷却のエネルギーを……! なんということだ、これではわれらに勝ち目など……! 笑うがいい、ルシフェル。神に見捨てられた哀れな土塊のあがきを……! 大丈夫だ、問題ない。こんなこともあろうかと、メギド・フレイムを練成しておいたのだ。なにィ? それは絶対零度に対抗しうる唯一の! うおぉ食らええぇぇぇ!

 ……などと、中二病遊びに興じている間に、鳥居の前に着いた。

 辺りを見まわしたが、香澄ちゃんはまだ来ていないようだ。

「ちょっと早かったかな?」

「鳥居は一緒にくぐるのよ」というお達しだったので、鳥居をくぐらぬように、参拝客の邪魔にならないようにと、いろいろ注意しながら酔拳の練習でもしているみたいにふらふらしていたら、白い息を吐きながら香澄ちゃんが駆けてきた。

「お待たせ、ソーシロ!」

 目を細めて笑った。頬が紅く上気して、いつもより一段と可愛い。

「い、いや、全然待ってないよ」

 なんて言ったら、「招かれざる客」扱いしてるみたいに取られるか?

「……じゃなくて、待ってた」

 なんて言ったら、遅れてきたことを怒ってるみたいに取られるかも?

「……というか、主観的にはすごく待ってたけど、客観的にはそれほどでもないっていうか。老いに短し、待つ身に長しっていうか……」

「なにそれ?」

「ま、まぁ、いいじゃない。行こう?」 

言葉って難しいよね。

 約束どおり鳥居を一緒にくぐり、拝殿付近までやってきたものの、賽銭箱の前は人がごった返していた。最前列まで行くには、かなり時間がかかりそうだ。

 百円玉を中指と人差し指に挟み、

「あたしの腕なら、ここから賽銭箱に投げ込むのなんて楽勝だけどね。なんなら、あのでっかい鈴でバウンドさせて入れて見せようか? 鳴らす手間も省けるから、一石二鳥だよ?」

 などと罰当たりなことを言う香澄ちゃんをなだめつつ、ただ待ち続ける。

「そうだ、ソーシロ、ちょっとしゃがんでみて」

「……こう?」

 僕が地面に片膝を衝いたとたん、抵抗はおろか、反応すらできない。辛うじて認識だけはできるくらいの速さで、香澄ちゃんは僕の首にまたがった。そして、

「はい、立って!」

「……え、あ?」

 背中を叩かれ、僕は思わず立ち上がってしまった。

口を開けて舌を出している犬の口に薬を投げ込み、素早く顎を下から押さえて後頭部をポンとたたくと、自分が何をされたのかも分からぬままに、犬は薬を飲みこんでしまうと聞いたことがあるけど、まさにそんな感じ。

僕はいつの間にか、香澄ちゃんを肩車していたのだった。

「おおぅ、高い高い!」

 盛んにはしゃいでいるけど、僕はそれどころじゃない。

 首の周りを「ふにゅう」とした温かくて柔らかいものに取り囲まれている。割とスレンダーな香澄ちゃんだけど、さすが女の子だ。内股はめちゃくちゃ柔らかい。

それどころか、首の後ろの僧帽筋の辺りには、全男性が求めてやまない神秘なるアレやコレが息づいているのだ。今、まさに、このとき!

さらに、そこに意識を集中すると、香澄ちゃんが身じろぎするたびに、某骨付き揚げチキンが柔らかい肉の中にコリコリとした軟骨を内包しているのと同じように、「ふにゅう」とした肉の下の硬いものが、僕の頸椎とこすれあって「ごりっ」と存在を主張する。つまりこれがその、恥ずかしい丘と骨ってやつなんだな。

などと、僕と香澄ちゃんが触れあっている部分のたたずまいが、ワイヤーフレームのCG画像で僕の頭に飛び込んできた。残念ながらデータ不足のため、テクスチャーは貼られていない。続いて「ピロリン」という電子音とともに、画像はサーモグラフィーに切り替わり、僕の体温が上がっていくのが表示された。

さらに、サーモカメラが引きになると、周囲の人々が青や緑で表示されているのに、僕だけ赤や黄色で表示されるという、怪しすぎる映像になった。

衆人環視の中で高まる体温とリビドー。このまま鼻血なんか出したら恥ずかしすぎる、一生のトラウマになってしまう。

なんですかこれ? 正月早々罰ゲームですか? 

神様、僕がなにか悪いことをしましたか?

「神様、これだよ! この百円を入れた人の願いは必ず聞いてよ。他の人のは、まぁ、そこそこでいいからね!」

 と、僕がのたうち回りたい気分であるのを知ってか知らずか、さっきの百円玉を高く掲げ、とんでもないことを言い出した。

さらに、香澄ちゃんは肩車が気に入ったのか、僕の耳を掴んで「リーンイン」してみたり、僕の頭で「コンガの玄人」してみたりと、ゲームの筐体扱い。そのうえ、近くで父親に肩車されている幼女に「えへへぇ、いいだろー。こっちのほうが高いぞー」などと言って泣かせてみたりと、傍若無人の振る舞い。

矢継ぎ早にいろいろやってくれるので、驚いているヒマすらない。

「うーん。ソーシロの後頭部はあったかいねぇ。抱いて寝たいくらいだよ」

 とうとう僕の頭を胸に抱え込んでしまった。首筋には太もも、ぼんのくぼには永遠なるアレ、僧帽筋には神秘なるコレ。それに加えて、頭の上にはフルッフヘンドがふたつ。バイク用エアバッグみたいに、顔面以外のほとんどを柔らかいものに包まれ、僕の体温はさらに上がる。

「わわ、なんかまたあったかくなったよ?」

 そのぬくもりを貪欲に求めて、香澄ちゃんは、さらに強く僕の頭部にしがみつく。すると僕の体温はまた少し上がるという、体温上昇のスパイラル。

「幸せすぎて辛い」っていう言葉の意味が、分かりすぎるくらい分かったころ、僕らはやっと最前列まで来た。香澄ちぉんは「よっ!」と、掛け声をかけ、僕の頭を跳び箱のように超えて地上に降り立つ。

こっちは首が折れるかと思ったけど、偶然足が揃ったのが嬉しかったのか、両手をYの字に上げ、「10.00!」と叫んだ。

 かてて加えて、それで終わりかと思っていたら、賽銭をポイと放り込むと、鈴をぐわらぐわらと鳴らし、パシーンと手を打ってから、おもむろに香澄ちゃんが言った。

「えっと、どうやるんだっけ?」

「ここまで来て?」

 絶対この人は、券売機の前まで行ってから財布を出して値段を確認するようなばーさんになると思った。

「だって、インストとか付いてないもの」

 インストというのは、インストラクションカードの略で、ゲームの筐体に貼ってある遊び方を書いた紙のことだ。そんなの付いてるもんか。

「二礼二拍一礼だよ」

「ああ、おじぎ三回に拍手二回ね」

「通分しないの。まず、『はくしゅ』じゃなくて『かしわで』。鈴を鳴らして、二回おじぎをした後、柏手二回。で、最期にもう一回おじぎをする。あと、願い事があるなら、このときお願いするんだよ」

「めんどくさいなぁ」

「ちゃんとコマンド入れないと技は出ないでしょ? それと一緒だよ。お願いを聞いてもらうのにも作法がいるの」

 香澄ちゃんは、ぶつぶつ言いながらも僕が言った通りにやった。

「ソーシロはなに願った? 人類の進歩と調和?」

 お参りを済ませ、列を離れながら香澄ちゃんが聞いてきた。

なにそれ。大阪万博のテーマかなにか?

「いや、そこまでスケール大きくない。普通に家内安全と無病息災くらい。香澄ちゃんは? やっぱりアルブラⅧが出ますようにって?」

「ううん。それは、祈らなくても出るからね。せっかく年に一度の大願成就キャンペーンだもの。そんな、放ってといても叶うようなことを願うのはもったいないよ。もしかしたら三月の発売予定からもう一回くらい伸びるかもしれないけど、間違いなく今年中には出るからね、あたしの経験上」

「じゃ、なにをお祈りしたの?」

「もちろん、今年も勝てますように、に決まってるじゃない」

「勝つって、なにに?」

「この世のすべてに!」

 香澄ちゃんはこぶしを突き上げた。冷たい風が吹き抜けたのは、今が冬だから。……以外に理由はないはずだ。

「なにその顔。あたし、変なこと言った? この世は勝ってナンボでしょ? よく言うじゃない、『負けたヤツは裸に剥かれるのが決まりなンだ』って。だから勝たなきゃダメなのよ、すべてのものに!」

「それを『よく言う』ってのは、どの辺りでの話?」

 香澄ちゃんは僕の問いには答えず、すっと背を向けた。

「……なんでも勝ち組とか負け組とかって決めるじゃない? あたしは負けるのなんてヤだ。負け犬なんかじゃなくて、勝ち猫様になるんだから」

 そう言った背中は妙に寂しげだったので、僕は一言しか突っ込めなかった。

「勝手に日本語を作るな」

 香澄ちゃんはこっちを振り返って、にっと笑った。

「お正月って嬉しいけどさ、冬が半分終わっちゃうってことだから、寂しくもあるよね」

「なんだか、冬が好きって風に聞こえるんだけど」

「好きだけど?」

「なんで? 寒いの嫌じゃない?」

 ちなみに僕は、寒いのより暑いほうがいい。

「寒いのは嫌じゃないよ。だって、自分が熱くなればいいんだからね。でも、暑いのはどうしようもないじゃない。自分が冷めたって、暑いものは暑いし」

「ふぅん。じゃ、香澄ちゃんは夏が嫌いなんだ」

「一番嫌いなのは春だけどね」

「春が嫌いって、花粉症かなにか?」

「違うけど。なんかさ、夏は世紀末覇者で、春はその威を借るモヒカンヒャッハーって感じしない? 『逆らうんじゃねェぞ、オレ様の後ろにはよォ、夏王様がついてらっしゃるんだぜぇぇ』とか言って、調子に乗ってそうな気がするんだよね、春の野郎は」

季節を「野郎」呼ばわりですか。

「怖いのは世紀末覇者だけど、嫌いなのはモヒカンヒャッハー。そゆこと」

 どゆこと?

 問おうとして横を見ると、香澄ちゃんが消えていた。あわてて振り返ると、参道に並んでいたベビーカステラの夜店を指差している。

「? 買うの?」

「言ったでしょ? 夜店も大事なんだって」

そう言って、満面の笑みを浮かべた。 


 その数時間後、僕は再び、さっきと同じ神社にいた。それも、るなと一緒にだ。

もう一度ここに来たのは、るなが初詣をしてみたいと言い出したからだけど、初詣のダブルヘッダーなんて初めてだ。

そこまでの経緯については、多少説明しなくてはならないだろう。

 香澄ちゃんと別れて家に戻ったのは午前三時前だったけど、まだみんな起きていて、揃って居間でテレビを見ていた。その気持ちは僕にも分かる。寝てしまうと祭りが終わってしまうような気がして、なかなか寝付かれないんだよね。

「お帰り。なにをお願いしたんだ?」

「そういうの、他の人に話したら願いが叶わなくなるって言わない?」

 父さんの問いに、母さんが横槍を入れた。

「なに言ってんの、あざみさん。他の人に話さなくちゃ意味ないじゃない」

「なんでよ、コーシロ?」

「いい? 願いを他人に話すと、その人がどんな願い事を持っているのかを周囲の人たちが知るでしょ? そしたら周囲の人は、意識的にか無意識にかは別にして、その人に好意的な人は願いが叶う方向に行動するし、逆に悪意のある人は叶わない方向に行動する。図らずして、無記名の多数決が行われるわけだね。日ごろからいい行いをしていると願いが叶うって言われるのは、そういうことだよ。願いを聞くのは神様じゃなくて、周囲の人なんだ」

 初詣から帰ってきたばかりの息子の前で、神様に祈ってもご利益はないなんてこと、言わないでほしいな。こっちだってガチで信じてるわけじゃないけど、……なんだかなぁ。

「呪いのわら人形だって同じ原理だよ。被呪者の名前が入った呪いのアイテムを、人目に付きそうな場所に人知れず設置するからこそ、それを見つけた被呪者に『誰か分からない相手に殺したいほど恨まれている』という事実が伝わり、そのストレスが被呪者を殺すんだ」

「うわ、なんか悔しい。正月早々コーシロに言いくるめられちゃったわ」

「そりゃあ僕は先生だからね。言いくるめるのは得意さ」

 今度は、正月早々殺すとか呪いとか。最高に縁起の悪い一年のスタートだね。

「お兄ちゃん!」

「わ、びっくりした!」

 るなが、思いつめたような顔をして僕のコートの袖を引っ張っていた。

「……ど、どうした?」

「私も、初詣に行きたい!」 

「えぇ?」

「神様にお願いすると、願いが叶うんでしょ?」

「えぇぇ?」

 おいおい、さっきの「なんだかよくわかんないけど、祈願成就のシステムにはカラクリがある」って話を聞いてなかったのか?

「……だめ?」

 るなが表に出たいなんて言うのは初めてだから、そうしてあげたいけど……。

でも……。

「別に、バカ正直に『妹です』なんて言う必要ないんじゃないの?」

 膠着状態を破ったのは母さんだった。

「え……?」

「お正月だから遊びに来てる親戚の子です、とかさ。年下の親戚の子が、あんたのことを『お兄ちゃん』って呼んでたって、なんの不思議もないでしょ?」

「あ……!」

「まったく、あんたらふたりはよく似てるわ。純度百パーセントのバカを盛りつけた正直者から、正直を抜いたくらいのバカさだね」

 まったくその通りだった。目からウロコが落ちた。

僕の親戚関係について、完璧に把握している人なんて近所にはいないんだから、誰かに聞かれても適当に答えとけばよかったんだ。

今まで僕が悩んでいたことはなんだったんだろう。

「じゃ、ふたりにお年玉」

 母さんがふたつのポチ袋を差し出した。

「え? 私にも?」

 るなが目を丸くした。

「だってあんた、ウチの子でしょ? はい」

「あ、ありがとう。……嬉しい」

 るなはポチ袋を胸に抱いて、目を細めて俯いた。

「よかったな、るな」

 ここまではちょっといい話だったんだけど、問題はポチ袋の中身。

「……あのさ、僕が五千円で、るなが一万円って、なにかの間違いなんじゃない? 僕のほうがお兄ちゃんなんだけど?」

「だって、るなは家の手伝いしてるもの。差をつけて当たり前でしょ?」

 電気代は僕が払ってるんだけど、と思ったが、それを口に出すわけにもいかない。

「あんたには小遣いもやってんだから、細かいことをゴチャゴチャ言うんじゃないわよ」「はい、わかりました」

 それ以外に、僕は答える言葉を持たなかった。

「るなも、総司郎が『俺のと交換しろ』なんて脅迫してきても、聞くんじゃないよ?」

「う、うん」

 そう答えつつるなは、ちらっと僕のほうを伺った。

「そんなこと言わないよ!」

「もし言ったら、あんた、海老責め転がしぷりぷり巻きの刑だからね?」

 どんなのか想像できないけど、コミカルな中にも不安をかきたてる名称の刑罰だ。

「……コホン。じゃ、じゃあ、これもね」

 今度は父さんが、るなの手のひらに十円硬貨を何枚か置いた。なぜだか妙な汗を流している。ちょっと顔色も悪い。

「……四十円?」

「これは始終縁っていうシャレで、我が家の賽銭は四十円って決まってるんだよ」

「ふぅん、そうなんだ?」

 よく分からないといった感じで、るなは小首をかしげた。


 僕たちは、一眠りした後、夜明け間近の六時過ぎに家を出た。

 この辺りでは珍しく、小雪がちらついて、すでにいくらか積もっていた。

 るなは初めて見る本物の雪にはしゃいでいたけど、るなに傷が付いたら、僕みたいにプロテイン軟膏を塗っときゃ治るってわけじゃないので、滑って転んだりしないかと、僕は気が気じゃなかった。

 しかし、初めて外に出る日が、めったに降らない雪だなんて、ラッキーなんだかアンラッキーなんだか。

僕としては、どうせ降るなら、香澄ちゃんといるときに降ってほしかったけどな。

るなは、いつものワンピースの上に、家に来た時に着ていた上着を羽織った。さらに父さんのベレー帽を頭に乗せ、仕上げに大きな使い捨てマスクをしているから、風邪の予防に余念がない少年少女合唱団の団員、という感じになっている。

 一見、温かそうにも見えるから、冬の装いとして不自然ではなく、色もデザインも、なんとなくしっくりきている。こういう着こなしも考えてこの服を選んだのかと、少し感心した。さすが女の子だな。

「あれ……?」

 はしゃぐるなを見ていて、妙な違和感を覚えた。なんだろう?

 僕が考え込んでいると、るなが走りよって来て、さっきのポチ袋を差し出した。

「お兄ちゃん、……これ」

「これが、どうかしたのか?」

「あの、この服を買ったお金」

 思わずため息。

「……あのな、るな、あれはおまえにプレゼントしたものなんだ。だから、お返しなんかしなくていい。百歩譲って、品物で返すのならまだしも、お金で返すなんて論外だ。それは失礼なことなんだぞ。覚えておけ?」

「……ごめんなさい」

 るなはポチ袋を握り締めると、もともと小さな身体を、もっと小さくしてうなだれた。

「知らなかっただけなんだから、気にすることないさ。おまえが優しい子だってのは分かってるから、気持ちだけもらっとく。……それに、ほんとにもらったら、僕は海老責め転がしぷりぷり巻きとかいうのを食らっちゃうしな」

 僕はるなの頭の上にぽすっと手を置くと、帽子ごとぐりぐりと撫でた。

「私、告げ口なんてしないもん!」

「冗談だよ。冗談」

「冗談……」

 るなは眉毛を「八」の字にして僕を上目遣いで見ていたが、僕が笑ったら、ためらいながらも笑顔になった。シャレや冗談を理解するにはまだ早かったみたいだ。

 足跡でまだらになった新雪を踏みしめながら、鳥居をくぐる。

「ね、日に二回も同じ神社に来て大丈夫? 罰は当たらない? 変に思われない?」

 心配そうにるなが僕を見上げる。

「大丈夫だよ。心配ない」

 実は、同じ神社というのがミソなんだ。

僕はかなり目立つだろうから、記憶にも残りやすいだろう。だから別の神社に行くと、神社のはしごをしているヤツが「あ、あいつ、別の神社では別の子と来てたぞ」なんて思うかもしれない。もしもそいつが、香澄ちゃんの知り合いだったとしたら、こりゃえらいことだ。

でも、同じ神社に何度も来るヤツなんて、そうはいないだろう。それに、五時間も経ってりゃ、客も巫女さんも全部入れ替わってるはずだ。

……なんて、こんなこと思いつく自分がちょっとイヤだ。神様に対しても、女の子に対しても、とても不誠実な感じがする。いろんな方面にごめんなさいって心境。

手水場が近づいてきたので、僕はるなに話しかけた。

「るな、参拝の仕方は……」

「わかってる。ネットで調べたから。まず、手を洗うんだよね?」

「正解。おまえはいい子だなぁ」

 頭をなでると、るなはにっこり笑った。まったく、もしもるなに爪の垢があるのなら、香澄ちゃんに飲ませてやってほしいもんだね。

「あ、口をすすぐのは……」

 やめとけ、と言おうとしたが、るなはすでにひしゃくの水を手のひらに受け、それに口をつけていた。

「大丈夫か?」

「ただの水なら飲んでも大丈夫だよ。ジュースとか、食べ物はダメだけど」

「そうか、よかった」

 と答えたものの、るなが口に入れられるのは、なんの味もしない水だけということに、僕は切なくなった。父さんはああ言ったし、僕もいったんは納得した。るなには「味」という概念そのものがないのだとしても、なにも食べられないのは、やっぱり可愛そうだ。

僕はるなと暮らせて楽しいけど、人間らしく暮らすことができない機械に人間の心を持たせるなんて、ほんとはとても残酷なことなんじゃないだろうか。


 年が明けてすぐに訪れる参拝者と、夜が明けてから訪れる参拝者との、ちょうど境目の時間だったらしい。境内の人影はまばらで、僕らの順番はすぐにやってきた。

 るなは、真剣な顔で手を合わせ、目を閉じている。

どんなお祈りをしているんだろう。とても気になる。

でも、もしも「人間になりたい」なんて切ない願いだったら、僕は泣いてしまうかもしれない。だから聞かないことにした。

「お兄ちゃんは、どんなお願いをしたの?」

 聞かないつもりだったのに、向こうから聞いてきてしまった。父さんがあんなことを言ったから、ほかの人の願いごとは聞かなくちゃいけないんだって思ったのかもしれない。

困ったな。これに答えたら、るなのも聞いてやらなきゃ不自然になる。

「えっと、僕は……」 

「あれー? 江川崎?」

 右斜め前から話しかけてきたのは、中学校時代の同級生、伊藤だった。グッジョブだぞ、なんていいタイミングなんだ。

「あ、ハナオ、久しぶり!」

 僕はその偶然に身をゆだね、呼びかけに応えるべく、素早く右手を上げた。

伊藤というのは世を忍ばぬ本名だけど、同級生の男子からは、もっばら「ハナオ」と呼ばれていた。理由は明白で、顔のほかのパーツに比べて鼻がやけに大きく、顔の中心で存在を主張していたからだ。

「同窓会以来だよな?」

 と、伊藤。そうだ。誰が幹事だったか忘れちゃったけど、我がクラスは、中学を卒業して半年もたたない去年の夏休みに同窓会を開いたんだ。

「ほんとに、あの同窓会は最悪だったな。高校生に場所貸してくれるところが公民館しかなかったからって、公民館の会議室でジュース飲んで乾き物食って、たいして懐かしくもないヤツらと思い出話って、さまになんねーって。やっぱ十年以上たってから酒を酌み交わしつつってのが……あれ?」

 そう言って伊藤は、僕の左ひじの辺りを指さした。その指の先になにがあるのかは、見なくても分かる。

「その子、知り合いか?」

「初詣の人ごみに紛れてちょちょいとさらって。って、違うわ。こいつはいも、……親戚の子で、名前はるなって言うんだ」

 危うく妹と言いかけたが、こいつは僕がひとりっ子だということを知っているんだ。

 危機を回避した安堵感に油断ぶっこいていると、伊藤は、るなを指さしたままこちらに接近し、「あっ」という暇も与えずに、るなのマスクを引き下げたのだ。

「あっ……」

 この「あっ」は、るなが発したものだ。

「へぇ、可愛いじゃない。るなちゃんかー」

「あ、あの、こんにちは。るなです。よろしくお願い、します」

 るなが僕の陰から出て、ぺこりと頭を下げた。

「うんうん、声も可愛いなぁ。なんつーか、アニメ声って感じ?」

 伊藤は、るなに向かってニタニタしながら言うと、そこから先は僕に疑いのまなざしを向けながら言った。

「ところで、さっき『いも』って言いかけなかったか?」

「あ、ああ、名字が井本なんだ」

「ほほー、いもとるなちゃんか。『芋、採るな』。芋畑の張り紙みたいな名前だな」

 く、くだらねぇっっ!

「だ、だから、名字は言いたくなかったんだよ。ハナオが聞くから言ったけどな」

「けど、マジに可愛いな、ほんとにおまえと血がつながってんのか?」

「ああ、れっきとした、うちの母さんの腹違いの異父兄弟の子だぞ」

「ほほー、腹違いの異父兄弟かぁ。って、そら他人やがな!」

 伊藤は、僕の胸にぺしっと手の甲で突っ込みを入れてきた。黙って聞いていたるなが、くすくす笑い出した。

「うんうん。女の子は笑顔が一番。で、結局るなちゃんて何者なんだよ?」

「実は、こいつは僕の彼女だったんだよ!」

「な、なんだってー!」

 お約束のやり取り。

「……って、お前そういう趣味だったのかよ?」

「なにを言う。こいつはもう中三だぞ? 僕といっこしか違わないんだ。ごく普通の趣味じゃないか。どこがおかしいと言うんだ? 加えて言うなら、僕の隣にいるから小さく見えるけど、身長は百六十センチで、クラスでも背の高いほうなんだ。な?」

「う、うん。そ、そうだよ?」

 と、ひきつった笑顔で、るな。

「ほう。俺には五十センチは身長差があるように見えるんだが?」

 伊藤は、僕とるなの頭頂部を交互に指さしながら言った。

「目の錯覚か、蜃気楼のしわざじゃないのか? 時空震の可能性もあるな」

「なるほどそうかも。正月だしな、神社だしな」

 なぜ納得した?

「実は俺、背の高い女好きなんだよな。くれ!」

「やるか!」

「いや、残念だな。るなちゃんがおまえの妹なら、天下御免で『俺にくれ!』って言えるのに、彼女じゃちょっと言いにくいな。せいぜい『くれないか』くらいしか言えん」

「言うのかよ」

 て言うか、すでに言っただろ、ほんの十五秒前に!

「……で、彼女ってのもウソだろ?」

「ああ、全部ウソだ」

「全部かーい!」

 伊藤は再び突っ込みを入れてきた。正確に言うなら、名前以外全部ウソだ。

「おっ?」

 伊藤が急にもじもじし始めたと思ったら、腰に下げた鎖の先の携帯を取り出した。

「中内か。……もーし、俺だけど。今? 初詣。……ははは。るせーよバカ。ほっとけ。……これから? おー、マジかよ。行く行く! 行っちゃうぅん。……はんはん、南口な。わかった。じゃ、一時間後くらいに。……わーってるって!」

 電話を切ると、鎖をもとの場所に戻し、伊藤は僕のほうに向きなおった。

「……というわけで、高校のダチが呼んでるから、俺、行くわ」

「なにが『というわけ』なのか分からんが、とりあえず分かった」

「じゃ、るなちゃんをくれる気になったら、いつでも電話してくれ」

「未来永劫しねーし」

 伊藤は、その場で拝殿の方向におざなりな礼をすると、にやりと笑って軽く手を振り、今くぐったばかりの鳥居に向かって駆け出した。

「……せわしないヤツだな」

 僕は伊藤の背中を見送りつつ、少し寂しい気分になった。

 伊藤とは、よくゲーセンなんかに行ったりしたけど、高校が別になって、すっかり疎遠になってしまった。新しい出会いがあって、そちらとの関係が深まれば、次第に前の友達関係は薄れていく。それはあたりまえのことだけど、なんだか寂しい。 

僕がるなを連れていたからなのかもしれないけど、伊藤が僕の予定とか都合を聞かずに高校の友達の誘いに乗ったということは、僕はすでに「日常の遊び仲間リスト」から外され、「同窓会で会うべき旧友リスト」に入れられてる気がして、ちょっと切ない。

僕も、香澄ちゃんと出会ってからは、香澄ちゃんオンリーって感じだった。

そのせいで以前の友達との関係が薄れていくことに気づいていたけれど、さして不都合を感じていなかった。でも、その結果がさっきの伊藤の振舞いだったとしたら、僕は友達を大事にしてなかったのかも知れないって気分になる。

決してそんなつもりじゃなかったんだけど。

「面白い人だね」

 るなが、目をきらきらさせながら僕を見上げた。

「面白い人? 違うぞ。あれは、変な人というんだ」

「悪いよ。そんなこと言っちゃ」

 言いながら、クスクスとるなが笑う。ああ、よく考えたら、住良木一味を除けば、家族以外と話すのはこれが初めてだったんだ。

「なんだか、お兄ちゃんも言葉遣いが変わってたね」

「あぁ、そうかも。ハナオとは幼稚園から一緒だったから、あれが自然なんだよ」

「……そうなんだ」


 帰宅途中、ファッションセンターしらぬまの前を通りかかると、初売りだとかで八時開店だった。ついでなので、少し待って入ることにした。

 遅くなることを家に電話して、店の前で待つ。

 さっきの伊藤とのやり取りなんか、るなの正体に関して、けっこうきわどいものがあったと思うんだけど、すっかり僕は吹っ切れていた。天下御免のお正月なんだから、遠くの親戚が遊びに来ていたって、まったく不自然じゃない。確かにそうだ。たとえ親戚に会ったとしても、その人が父方なら、母方の遠い親戚の子だと答えればいいんだし、母方ならその逆でいい。

 いくらなんでも、ここまで人間っぽいるなに対し「おまえ、ロボットだな?」などと、ピンポイントで指摘するヤツなんかいるはずがない。もしいたとしても、「おまえ、頭は大丈夫か? こんなに人間っぽいロボットなんて、科学的にありえるか? それとも、証拠でもあるのかよ」と、勇気を出して言ってやればいいんだ。

 家の中に閉じ込めておく必要なんてなかったのに、正体がばれるのを恐れるあまりに、臆病になりすぎていた。るなにはひどいことをしたな。

 まもなく八時になり、しらぬまが開店した。

 入店するなりるなは、目を輝かせながら売り場を動き回り、一か所に留まることはほとんどなく、服を片っ端から身体に当ててみたり、試着したりを繰り返した。カタログの写真でしか見たことのなかったものが現実に目の前に現れたことが、信じられないくらいに嬉しいらしい。

 その姿を見ているのが楽しかったので、最初は僕も付いて回っていたけど、三十分ほど経ったころに付き合いきれなくなって、残りの時間を入り口近くの自販機周辺で過ごした。

周囲には疲れきったおじさんたちが屍のようになってたむろし、無言のままで共感しあっているようだった。

 僕もなんとなくその仲間入り。

 これって、甘い幸せの中にピリッと効いたスパイスのようなものなんだな。

 結局、一時間ほどしらぬまにいたけど、るなが買ったのは、カボチャみたいな形をした大きな帽子だけだった。

「かぶって帰りますから」

 レジ袋を断り、サッカー台に備え付けのハサミで値札を切り取る。

「これってエコなんだよね」

 と言いながら、捨てるかと思っていた値札を上着のポケットにしまった。

「それ、どうするんだ?」

「初めてのお買い物の記念にするの。レシートと一緒に」

「……おまえって、可愛いことするなぁ」

 僕はるなの頭をかいぐりかいぐりしながら、買い物が長いのと、記念日にこだわるのとは、しっかり女なんだなぁと感心していた。

 こんなに喜んでくれるなら、次はウニクレに連れて行ってやろう。

 そんなことを思いながらしらぬまを出ると、冷たい空気が一気に襲い掛かってきた。日が昇ってしばらく経つというのに、ほとんど気温は上がっていないようだ。

「うぅ、寒い。るな、早く帰ってテレビ見よう、テレビ。お正月番組が目白押しだぞ」

 先に店を出たるなを追いかけ、小走りしながら問いかける。

 るなが朝日の中で振り返り、「うん」と答えて微笑んだとき、さっき感じた違和感の正体に気づいて、僕は愕然とした。

 息だ。

 周囲を見回しても、るなひとりだけが、白い息を吐いていない。るなの息には水分が含まれていないから、白くはならないんだ。

そのことに気づかれたら、るなが人間じゃないことがばれてしまう。

 唯一の救いは、マスクをしていることによって、「直接口から白くない息が出ている」という、「決定的な不自然さ」から逃れられている「気がする」ことだ。 

 それに気づいてから自宅までの数百メートルは、往きの数倍の長さに感じられた。

 今までとまったく状況は変わっていないのに、「気づいてしまった」という、ただそれだけのことが行動を縛る。もしも僕らの行動の一部始終を眺めていた人がいたとすれば、逆に感づいてしまうだろうと思えるほどの不自然さだった。

 でも、それが分かっていても、今までどおりの行動なんて無理だ。

 僕は、はしゃぐるなをなだめながら、できるかぎり目立たぬように、そして不自然にならぬように、ほとんど地雷原を進むような気分で歩を進めた。

 るなは僕の態度の変化に戸惑って、「どうしたの?」って聞いてきたけど、僕には言えなかった。「おまえは人間じゃないんだから」なんて、僕には言えなかった。

 数分後、僕らは家にたどり着いた。僕は、ついさっきまで考えていた「るなをあちこちに連れて行く計画」が、少なくとも冬の間は実行困難だと知った。でも、春になれば、るなはこの家からいなくなってしまうかもしれない。 

 僕は、どうすればいいんだろう。

「ね、お兄ちゃん、この帽子九百八十円だって。だから、お母さんにもらったお年玉で、あと九回もこんな楽しいお買い物ができるんだよ。嬉しいな、私」

 帽子を両手で掲げて楽しそうに笑うるなを見て、僕は胸がズキンと締め付けられるように痛んだ。しばらく外に出してはやれないなんて、言えなかった。

「でも、ひとりで外に出るんじゃないぞ?」

「うん。分かってる」

 素直に笑うるなを見て、再び僕の胸は痛んだ。

 その痛みを紛らすように、首を数回横に振って、僕は机の引き出しに入れてあった北海道土産の缶を取り出した。

もともとは「面白い変人」というお菓子が入っていた缶だけど、本体と蓋は蝶番でつながっており、留め金も付いているので、中身を食べた後も捨てずに、宝物入れとしてとっておいたのだ。

パチンと留め金をはずし、中の仮免ライダーカードを取り出して、輪ゴムで止める。

「これ、やるから。残ったお小遣いとか入れとけ」

 缶を差し出すと、るなは大げさすぎるくらいに喜んだ。

「……そんなに喜ぶことか?」

「うん、嬉しいよ。だって、ここに私のものが増えるっていうことは、私はここに居てもいいってことだもの」

「ああ」

 僕は思い当たった。

 子供のころ、親戚の家にお泊りしたときのことだ。

 最初は楽しかったけど、だんだん「ここには自分のものがなにひとつないんだ」っていう強迫観念みたいなものが襲ってきて、とても心細くなったことを覚えている。

 今ではよその家でお泊りなんて、怖くてできない。

 だから、るなの気持ちはよくわかる。

「そういうの、増えるといいな」

「うん」

 缶を抱きしめて、るなが笑った。

 るながずっとここにいられて、他人に知られてはいけないなんて制約がなくなれば、どんなにいいだろう。ほんとうに、そうなったらいいなと、僕も思った。


「第四回アルブラⅧどーなるの会議……」

 一月中旬のある日の放課後、僕を学食に呼び出し、香澄ちゃんは不機嫌そうに言った。その理由は僕にも分かる。アルブラⅧがまたしても発売延期になったのだ。

「……まぁ? 予想していた事態ではあるし、アルブラなら二回までは普通に許容範囲だよね。世間様はそろそろお怒りモードだろうけど、あたしの限りなく広い心をもってすれば、三回までなら許せるし」

 「広い心」を表すように、香澄ちゃんは両手を広げて言った。

「本当に夏に発売されるのかな? 『G』には『致命的な問題が発生した』とか、不吉なこと書かれてあったけど」

「いやー、たいした問題じゃなくてもそう書くもんだよ。『たいしたことないけど延期します』じゃ、みんな納得しないでしょ。けど、これで二回目の延期だから、そろそろ本気で出しとかないとまずいよね。仏の顔も三度目の正直って言うし」

「言わないし」

「仏の顔も二度あることは三度あるって言うし」

「言わないし」

「二歩歩くごとにサンドウォームって言うし」

「言うわけないし」

「フランス貴族のサンドウィッチ伯爵って紳士」

「イギリス人だし」

「ソーシロ、つまんないこと言わないの」

「先に言ってきたのはそっちだし」

「……でも、発売日が伸びたせいでプレイできずに死んじゃったりしたら、死んでも死に切れないよね。そのうえ死んだのが発売前日だったりしたら、あたし、絶対に地縛霊になる自信があるわ」

 テーブルに突っ伏して、気だるげに言った。

「そんな、縁起でもない」

「あたしがそんなことになったら、まずは製作者を呪い殺すわね。それから、Ⅷをプレイしてる人に憑りついて、エンディングまで不眠不休でプレイさせるの」

「死んじゃうよ、そんなことさせたら」

「だから、あたしを死なせないように注意しなさい。あたしが死ぬと誰かが不幸になるわ。死ななかったらあたしも不幸にならないから助かるし」

 ビシっと僕を指差して言う。もう、なにがなんだかだ。

「くれぐれも気をつけなさいね!」

「せいぜい気を付けるよ」

 香澄ちゃんが死んじゃったら、少なくとも僕は不幸になるだろうしね。


一月下旬のある日、僕が学校から帰ると、部屋には誰もいなかった。

夕食の準備が始まる前のこの時間、僕の部屋では、いつもならるながテレビを見たり、本を読んだりしているのに、今日はどうしたことだろう。

「るな?」

 呼びかけても返事はない。コンテナをノックしても、やはり返事はなかった。

 まさか表に出たなんて事はないだろうなと、あらゆる可能性について思いをめぐらせながら、何気なくコンテナの扉を開いて、僕は驚いた。

慌てて閉じて、善後策を考えた。

ひとくちに「驚いた」と言っても、「おっとびっくり」から「ぎゃあああああ!」まで様々なレベルがあるけど、その時の「驚いた」は、限りなく「ぎゃあああああ!」に近いものだった。

また、同じレベルの驚きでも、突然両親から出生の秘密を告げられるような「静の驚き」と、夜の墓場で首のない男に追いかけられるような「動の驚き」があるけど、今回の場合はもちろん後者だ。

さらに、動の驚きにも、突然歩道に乗り上げた車が目の前を横切って壁に激突し、爆発炎上するような「110番的驚き」と、公共交通機関に乗り合わせた顔色の悪い男にいきなり吐血を頭からぶっかけられ、後でそいつがヤバい熱病患者だと聞かされたというような「119番的驚き」に分けられるが、これも後者に該当するだろうことは論を待たないところだ。

さらに細分化すると、……って、そんなこと考えてる場合か! 

あまりの驚きのために、思わず現実逃避してしまったようだ。

僕はポケットに引っかけたり落としたりしながら、素早くっぽく携帯を取り出した。

僕の携帯は、機能より操作のしやすさで選んだため、シニア向けの機種だ。だからボタンが大きい。それでも何度もボタンを押し間違えたり、二個同時に押してしまったりしながら、なんとか発信にこぎつけた。

 数回の呼び出し音のあとに、「ボツッ」という、相手が電話に出た音。

「あ、住良木さん、実は……!」

「あいたたたたた! 痛いわね。慌てて電話に出ようとしたから、タンスの角に足の小指をぶつけてしまったわ。あなたのせいよ、どうしていただけるの?!」

 電話に出るなり住良木は、ものすごい剣幕で怒りだした。

固定電話ならわかるけど、携帯に出ようとして、足の小指をタンスの角にぶつけたっていうのはおかしな話だ。でも、僕は素直に詫びた。

「あ、ごめんなさい。実は……」

「もう、電話に出る気分じゃなくなったわ。ピーと鳴ったら用件を手短に言ってちょうだい。……ピー」

「…………」

 留守番電話かよ!

 紛らわしいことしてんじゃねぇよ!

と、携帯を投げ捨てたくなったが、それを捨てるなんてとんでもない。そんなことをしたら僕が一方的に損だ。

「えー、すみません、住良木さん、江川崎です。るなが変なんです。なんか、とってもイヤなことになってるんです。すぐに来てほしいんです!」

 冷静に用件を申し述べようと努めたが、どうしてもテンションを保つことができず、最後の辺りは叫ぶような声になってしまった。そのせいで要領を得ない感じになったが、緊急性は伝わっただろう。そう判断した僕は電話を切った。

 いつかは分からないけれど、たぶん、そのうち住良木一味が来てくれるだろう。

ていうか、来てくれなきゃ困る。

SOSを発信しながら、いつ来るとも知れぬ助けを待ちながら、島影さえ見えぬ大海を小舟で漂うような不安な状態。住良木が来るまで、僕は何をすればいいのだろう。

 状況が好転していることを祈りつつ、恐る恐る、もう一度コンテナを開く。だが、残念ながらさっきと変わっていなかった。

そこには、身体じゅうをミミズのようなものに覆われたるなの姿があった。

ミミズと言っても植木鉢をほっくり返したときにまろび出てくるようなかわいげのあるヤツじゃなく、よく雨上がりの公園で干からびている、青黒くて表面がCDみたいに七色にテカって、太さがシャーペンほどもあり、長さはリコーダーほどもある厳ついヤツだ。

僕はこいつが苦手だ。て言うか嫌いだ。はっきり言うと怖いんだ。

昔読んだ漫画に、ミミズに黒砂糖をかけて、染み出したエキスを飲む、という世にもおぞましいシーンがあったんだけど、それがトラウマになっているんだと思う。

世の中には、犬が大嫌いで、仔犬にすり寄られただけで悲鳴を上げて逃げる人も存在する。それに比べれば、僕のミミズ嫌いは至極普通と言えるだろう。

「片仮名のマの下に男と書いて勇~、勇は勇気の勇~」

即興で作った変な歌を口ずさみながら、勇気を出してミミズに触れてみる。

「パン」と、指先から火花が飛び、足の先から頭のてっぺんまで重い衝撃が突き抜けた。1メートルくらいの高さから飛び降り、膝を曲げずにかかとで着地した時のような、ズシンとくる衝撃だ。

「いってぇ……」

 手は、ヘアブラシで思いっきりぶっ叩かれたみたいにジンジンしている。これは手出しをせずに、おとなしく助けを待つべきだろう。

 僕がそう判断したのには、ミミズが電気仕掛けだということが確認できたせいもあるけど、るなの様子がさほど切羽詰まっていなかったことも理由になる。頭から煙が出ているとかだったら、ちょっとくらいは無理するところだけど、赤い顔をして、呼吸が荒くなっている程度で、深刻な事態に陥っているようには見えなかった。

それにしても、目を閉じて眉間にしわを入れたその顔は、そんな風に感じるのは不謹慎だと思うけど、とてもセクシーで、とてもドキドキした。

とても可愛くて、きれいで、吐息は花のようなにおいがした。

いつまでも見ていたい。そう思った。

いつまでも。

いつまでも。



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