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【エッセイ】集

「自分らしさ」について思うこと

作者: 蠍座の黒猫

 最近、「自分らしさ」や、「個性」を大事にしましょう、育てましょうと聞きます。

 では、その反対は何を意味するのでしょうか。それは、「自分らしくなさ」ですか。「無個性」ですか。このことを考えるときに、私は「書」について思います。 私は「書」については素人です。それでも思うことがあります。

 まず、「文字」とは記号です。本来、意味を伝えるための記号でしかありません。記号には優れた伝達性を持たせるために、「標準化」が必要です。それは、共通の形であるということです。しかしながら、そもそも文字は手で書かれることが前提ですから、どうしても一人一人「くせ」がでます。この「くせ」は筆跡として現れます。だからこそ、文字の形を出来るだけ統一化するために「標準化」が必要となります。この「標準化」こそが、「文字を書くための技術」です。しかし、勘違いしないで下さい。今はまだ「文字」の話しかしていません。まだ「書」まで話が達していないということです。


 さて、教育で一般的に教えるのは「文字を書くための技術」でしょう。これにより、より効率的に伝達可能ないわゆる「読みやすい字」が書けるようになります。この技術を習得するためには、ひたすら手本の模倣をします。自分の字を、手本の字に出来るだけ似せていく作業です。ここでは、出来るだけ自分の個性を、筆跡を抑えて宥めて我慢しなければなりません。これは社会の中で生きるための訓練でもあります。

 それでは教科書に載っている文字(手書き)には、まったく個性などないのでしょうか。何も感じさせない機械的な文字ですか。私はそう感じたことはありません。むしろ記号的であろうとして、個を出来るだけ抑えたところにある省略の美ともいえるような美しさを感じていました。


 私は、書家のことをほとんど存じ上げません。なにかのメディアで目や耳にする程度でしかありません。そんな私が何を言うのかと、思うところもあるかも知れませんが、もう少しだけお付き合い下さい。

 話が少し飛びますが、私が結局のところ何が言いたいのかというと、筆で紙へ線を一本引くだけでも、個性は出てしまうと言うことです。もしも全くの均一な太さで真っ直ぐの線を引いたなら、それは強烈な個性ですし、波打っているならばそこに不安定な書き手を想像します。頓着しない何気無い一本の線に、訓練されていない剥き出しの「原始の自分」が現れます。それを踏まえつつ書家は、高度な「書の技法」(これは文字を書くための技法ではありません。)を駆使して、あるいは創造して書を描くのであろうと考えます。

 もしも、そこに突出したもののない、かといって大きな傷もない、一般的でありすぎる、いわゆる普通な、自分自身が映し出されているとしましょう。そこにあなたは不満を抱くかもしれません。しかし、その感覚は欠損ではありませんし、過剰でもありません。その時の時代に応じたバランスの取れた、調和した個性なのです。そのように自分を合わせることが出来ることこそが、突出した能力なのです。


 私の思う「自分らしさ」とは、見つけるものでも探すものでも育てるものでもなくて、ただどうしようもなく捨てきれないある日の自分自身のようなもののことであって、それでいて、果たして辿りつけない彼方の背中のようでもあります。昨日と今日と明日の自分を繋いでいるものとでも言うのでしょうか。「個性」とはつまり、今の自分自身でしかありません。数多くの捨ててしまった夢や、去って行った面影、今この瞬間にもよぎる思い、明日に待っている何か。それらが全て住んでいる、あなたの心の中のある部分を包括して、「自分らしさ」「個性」と呼ぶのだと思います。そして、それこそがあなた自身でもあるでしょう。そしてそこをじっと見つめたなら、大切な面影や、思いや、思い出が、呼びかけてくるでしょう。「お前は誰だ、お前は誰だ……」と。


 その呼びかけに答えるべく、私たちは彷徨います。ある人は日常の中で、ある人は芸術の中で、ある人は真理の中で。私も迷っています。その中で感じていることは、日常がいかに堅牢であるかです。そしてその堅牢さが何故に必要であるかです。

 日常は堅牢な技術であり思想です。記号化された日々をなぞることで、突出もない代わりに傷もない、そんな日々を過ごすことができるはずだという思想です。弱者のための思想であり、生存のための記号でもあります。そこに本来は個性などいらないのです。

 しかし、道を一本渡るだけでもその人らしさは現れてしまう。電話一本かけるだけでも個性は現れる。


 つまり、世間一般でいわれる「自分らしさ」「個性」とは、「日常の許容上限ぎりぎりの個性」という意味であり、「記号と判定できる範囲内での自分らしさ」という、日常の堅牢さを揺るがさないものでしかありません。本気で人間全てが個性を発揮したら、もっともっと世界は狂気に満ちて悲惨になるでしょう。私は、今でも十分に世界は悲惨だと思っています。だから、あえて日常を破壊する覚悟が無いなら、本気で自分らしさを追ってはなりません。その行為は生活を破壊し、関係を破たんさせ、人生を破滅させるかもしれません。自分自身の中にはそんな恐ろしいなにかがあります。あえてそれを掘り起こす必要などないのです。

 もしもそうしなければやむおえないあなた自身がいるならば、あなたも芸術に呑みこまれてしまったと、いうことです。誰も止めてはくれませんし、自分で止めることもできないでしょう。ただ滅びるまでやるだけです。 

実はあるアニメを見て思ったんですけどね。。(私は、そのアニメが大好きです)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文字を題材に、書くことや書を喩えに自分らしさについて考えが述べられています。 ところで、書は絵画のようなものですから措くとして、文字も、それを書くことも言葉を使うことには違いありません。要…
[一言] お久しぶりです。とても興味深く読ませていただきました。 筆跡についてだけなら、共有できる常識の枠組みを超えている人が時々いますね。一文字一文字、えーとこれは何ですか、と聞かなければならないの…
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