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磁場の干渉を受ける為、電子機器の持ち込みは禁止されている。持ち込めるものは些細な代物。それを持ち込む事によって変わる事と、変わらない事があるからだ。
もちろん、変わる事は良い事である。現状をよりよく、新しいものにしてくれるのであれば、それはそれで目的には繋がっている。しかし、問題は予想通りの変化を起こしてくれるかどうかなのである。
変わってしまったら、自分自身も変わってしまう。些細な変化では、その変化には気づけないかもしれないが、大きな変化があったとき、自分自身が世界の修正を受けてしまう。そうなったとき、それでも自分の思う通りのものになっていなかったと考えれば、やはり、これがラストチャンスと考えるのが妥当だろう。
だから余計なものは持っていかない。ディジタルデバイスは全て体から外して、金属でできているベルトなども全部外してしまう。
何とも地味な格好か。この歳になって言うのもあれだが、地味なものは地味だ。
服装は取りあえず当たり障りのない代物にしておいた。あまりにも奇抜だと問題があると言われたのもひとつだ。
いつ、どこで、どのようなきっかけで「分岐」するか解らない。あくまで必要なのはこちらの予想通りにする事なのだ。
強化窓の向こう側にいる男たちは「グットラック」と、言った。
凄まじい勢い。背中から来るそれと、一瞬の立ちくらみ。そして最後には頭を硬いもので殴られたかのような衝撃。吐き気にも見た、腹の気持ち悪さ。
そんなものがひと通り終わって、彼はようやく、たどり着いたのだと思った。
◇
体を起こして、いつも通り、朝食を作る。今日は妙に早く目が覚めた。恐らく休みのときの感覚と同じだ。休みの日は、何故かいつも早起きだった。
朝食は、豚肉を炒めて、そのあと野菜を炒める。塩と胡椒で味を調えて、隠し味に味噌を入れて完成。茶碗に飯を盛って、未だに起きない杏里を起こす。
「おい、起きろ。飯出来たぞ。食って学校いくぞ」
「……うー……ゆーくんは行かないクセに……」
否定はしない。それに今日は働きすらしない。
取りあえず、九時を回ったら連絡する予定である。午後からの仕事だ。朝は忙しい可能性があるので、朝のラッシュが終わる頃合を見て連絡する。……あの店に限って、凄まじい忙しさはないとは思うが……
テレビを点けて、部屋のカーテンを開けると、今日も良い天気である。差し込んできた光を浴びてやっと目が覚めて来たのか、杏里は布団から出て、食事に手をつけ始めた。それを見計らって、悠も自分の分に手をつける。
テーブルの端に置いてあるUSBを見つけて、そう言えば中身を見ていなかったな、と思いだす。今日の内に見ておこう。暇を見つけて、適当に放課後学校に行って返せば良い。
「今日病院行って来るんでしょ?」
「ん。あぁ。一応、今日は仕事も休むつもりだし、午後からは基本的に家にいるぞ。……とはいえ、部屋の掃除とか色々とやらないとだけどな」
部屋を見渡せば、ゴミ袋が放置され、トイレ掃除や風呂掃除も最近やっていなかったのを思い出す。そもそも、杏里がそう言った事を全くと言っていいほどしない―――寧ろ散らかす―――ので、こう言った時に掃除をする他ない。
「いらない雑誌は纏めてあるよな?」
「一応ねー。そこの隅にあるヤツー」
指差す先には、山のように積まれた雑誌があった。すべて、例の都市伝説の雑誌である。それ以外にも、オカルト雑誌、毎号ついてくるパーツを組み合わせてひとつの作品を作るとか言うものまで、雑誌系で散らかるのは主に杏里のせいである。ちなみにペットボトルが散らかるのは、悠のせいである。
取りあえず、それだけなら良いだろう。午後からの掃除で片づけてしまおう。今は部屋に在るから良いが、回収の日までは玄関に置く事になる。あまり広い玄関ではないので、回収の日に出さないといつまでもそこに溜まっていき、足の踏み場がなくなってしまう。
食事を終えて、台所に食事の使った食器に水を張る。その間、杏里は学校に行く準備を済ませており、いつも通りふたりで外に出る。
駅までの道のりを歩いて行くが、今日は少し会話の数も少ない。杏里も、悠が今日病院に行くと云う事もあり少し気が落ち込んでいるらしい。
「……」
「……そんなに心配するなって。たいした事ないって」
駅まで来ると、本格的に彼女の様子がおかしいので、取りあえず安心させる言葉を掛ける。
病院はこの町にあるので、彼女を学校まで送って行く事は今日出来ない。
「まぁ心配するなって。取りあえず終わったら連絡するよ」
携帯電話を振って、そう言う。
杏里は最後まで心配そうな顔をしていたが、時間も時間なのでそのまま駅のホームに向かって行った。それを見送って、悠は踵を返した。
いつもなら、彼女を送って、その後遊びに行き、そして働きに行く。そんなサイクルに不自然さを覚えた昨日。同じ毎日だったはずなのに……どこか違う。それこそ杏里の言った通り、同じだけど違う世界に落とされたのではないのだろうかと思ってしまう。
ポケットから携帯電話を取り出して、康介の電話番号に繋ぐ。メールでも良いのだが、悠は礼儀として最初は電話で、出なかった場合はメールで送る事にしている。
三回コール音が鳴ったあと、いつもの陽気な声が響いた。
「あ、お疲れ様です。猪狩です」
『あら、どうしたの?』
「すみません。ちょっと体調不良で、これから病院に行く予定なんで、本日お休みを頂きたいんですが……」
『本当? 大丈夫?』
この疑いの言葉を全く出さないあたり、彼の人の良さが窺える。
「ええ。一応ちょっと頭痛がするぐらいなので、具合によっては行くかも知れないですが……」
『いいわよぅ。今日ぐらい。そんなどっかのアルバイト見たいに何回も何回も休む子じゃないんだからぁ。一日ぐらい、羽を伸ばしなさいなー』
冗談交じりに彼はそんな事を言った。体調が悪いと云うのに、羽を伸ばすとは随分だが、その陽気さが逆にこう云うときはありがたい。
言葉に甘えて、今日は休みとする。どうせ暇だと言っていたので、厨房は康介が仕切り、配膳も別の人間に任せるのだろう。その辺りは、申し訳ないと思う。
携帯電話の電源を切って、ポケットの中に入れる。病院では携帯電話の電源を切らなければならない。それなら今の内に切ってしまっても問題ないだろう。
財布の中身を確認して、心もとないので銀行でお金を引き下ろす。一万円ぐらいあれば充分だろう。そしてそのまま郊外の病院へとバスで向かう。
少子高齢化社会の影響もあり、最近では町を見渡せば医者や、老人ホームの姿をよく見るようになった。が、規模の大きい病院はやはりひとつの町にひとつあるかどうか。この町の大きな病院も、バスを乗って一五分ほどの場所にある。
ただの風邪なら別にその辺の医者でもいいのだが……箇所が箇所なので、取りあえず大きな病院に行ってみる事にした。
病院の中は非常に気持ちが悪くなる色をしている。床も、壁も、全部が白白、白白白、白。看護婦の着ている服装も白に近いピンク色をしている。これだけ白ばかりだと立ちくらみすら覚える。
診察は一時間半ほど掛かった。フラッシュ暗算のような代物をやらされて、なにやらドラマで見るような機械の中に通され、幾つか質問をされて。気づけばもうそろそろ昼に近い。
肉体的には何ともないのだが、精神的に疲れていた。
診断の結果、別段、脳に異常はないとの事。記憶能力にも障害は今のところ見られないとの事。自覚症状は自分だけで、周りの人間はそうではない事を踏まえて医師が下した決断は―――
「『一過性記憶喪失』の疑いがありますね……」
「いっか……きおくそうしつ?」
「一過性記憶喪失です。いわゆる、一部分だけ記憶を失っているような状態です。齟齬があるのは、もしかすればそれを勝手にアナタが解釈している可能性もあります」
「は、はぁ」
「その点に関しては良い人を紹介いたしますよ。ストレスや、心の傷を抱えている人間が陥りやすいんですよ」
医者の男は、机の中の小さなケースを取り出して、中に入っている名刺の幾つかを眺めて一枚だけ渡した。
「ちょーっと……遠いですけどね」
それはつまり、その医者がいる場所が遠いと云う事だろう。住所などを確認する前に、色々と説明を受け、看護婦に促されるまま診察室を出た。
お値段はそれなりにしたが、内心では安堵の気持ちが流れていた。診断して、そこまでたいしたものではなかった事に安心したのだ。
記憶喪失とは、物語では大量生産されている代物だが、実際になっている人間を見た試しはなかった。まさか、自分自身がそうなってしまうとは思わなかったが。
取りあえず、朝食を食べてから一旦家に戻るとしよう。……と、その前に、携帯電話の電源を復旧させて、杏里にメールを送らなければならない。
歩きながら携帯電話を操作するのは、何気なくやってしまうものだが、一度それで痛い目にあっているので、悠はそれ以来携帯電話を歩きながらやる事はなくなった。人間は一度そう言う教訓を得ないと悪いと解っていてもやってしまう。
病院近くの住宅街。バス停の近くにある小さな公園を見つけて、悠はそれに向かって歩いて行く。
時刻は昼過ぎ。子供連れの母親たちが遊ぶ子供たちに目を配っている。彼らは時間に縛られる事なく、自由気ままに遊ぶ。遊ぶ行為こそが、彼らのコミュニケーションであり、自分自身を出す場所でもあるのだ。
空いているベンチに腰をおろして、携帯電話の電源を入れている間、思い出したかのように渡された名刺を取り出す。ポケットの中に入れていたせいか、角の方が折れまがったりしていたが、別に読解できなくなる訳ではない。
「……カウンセラー、瀬戸七海?」
せと、ななみ。
そう読んだ。
ちなみに場所は隣町で、電車で一〇分ほどだ。地図などは名刺なので当然書かれてはおらず、かわりに住所が名前の横に書かれている。
これはPCの出番である。最近は住所を入力するだけで、ネット上の地図を使って場所を確認するのが可能だ。便利な世の中になったが、それ以上に個人情報がすぐ身近に存在している事に、人々は恐怖する。
「精神的な病気、ねぇ」
実際、ストレスのようなものは溜まっているとは思えない。
仕事は忙しい訳ではなく、面倒だと感じる事も稀だ。朝起きて、食事して、遊んで、午後から仕事して帰ってきて……それを繰り返す。全く、普通ではない生活をしている。しかしそこに文句がある訳もなく、まだ、この環境に甘えていられると思っている。
「なんだかなぁ」
携帯電話に視線を移すと、ようやく電源が入って、いつも通りの待ち受けが出ている。タッチパネルを操作して、杏里にメールを打つ。
『特に問題はなかったよ。ただ、ちょっとストレスがうんぬんかんぬんらしい。帰ってきたら話すな』
「これでよし、っと」
送信ボタンを、指でタッチする。