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「あらやだ悠ちゃん、今日早いじゃない」
時刻は一三時一六分ほど。目的地に到着すると、カウンターで暇そうにしている店主を見つけて、悠は苦笑する。
「店長こそ。今日はどうしたんです?」
「ご覧の通り、お暇なのよ」
この店の開店は朝八時。通勤ラッシュ、昼時を狙ってその時間帯に開いており、一三時から三〇分休憩をはさんでから、また開く。今は丁度、その三〇分の間。いつもは一四時ぐらいから来るのだが、少し早かったようだ。
「少しどころか、一時間半ほど早いわよ。いつも三時じゃない」
……首を傾げる。
「あれ。自分の時間って二時から二一時までじゃなかったですっけ?」
いつもの内容を口にすると、店長は目を点にして、懐からメモ帳を取り出す。
「はいどうぞ」
「……」
手帳の中を見ると、『猪狩悠:一五時から二一時』と書いてある。
「おかしいな……」
「おかしいな、はこっちの台詞よ。もう……まぁいいわ。じゃあ、今日から一四時で良いわよ」
「は、はぁ」
頭を掻きながら、悠は奥の方に行く。この辺りは記憶通り。全く問題無い。いつも通りの部屋で、いつも通りの小物。ひとつもおかしなところはないし、昨日と違ったところはない。
気のせい、だろう。他に変な事はひとつも起こっていない。ただ、先ほどの食事の件と言い、少し記憶に齟齬が発生しているだけだ。
「変な病気じゃなきゃ良いんだケド」
呟くと、部屋の隅にあるロッカーから仕事着を取り出して、着替える。私服は上着だけ脱いで、ズボンはそのままだ。一応、全身にアルコールスプレーで消毒をしてから『厨房』に入る。最近はこの手の事故が絶えないので、念には念を入れて、多めにスプレーしておく。
ポケットの中を確認して、余計なものはロッカーの中に入れておく。携帯電話は所持していても良いが、ここからしばらくは厨房なので、テーブルの上に置いていく。
「ん?」
すると、携帯電話の他にも何かがポケットの中に入っている。朝出るときには気づかなかった。
「……チケットか?」
そこには、良く解らない文字で書かれた、電車のチケットのようなものが入っていた。
身に覚えはないし、何語なのかよく解らない。いつも電車に乗るときは定期券なので、この手のチケットを買って電車に乗る事はめっきりなくなってしまった。
見れば端の方に穴が開いており、一度使ったあとがある。いつ電車に乗ったのか記憶にないが……まぁ良いだろう。杏里に聴けば覚えているかもしれない。
チケットはポケットに戻して、すぐに厨房へと向かう。
〝まぁ今日は暇そうな気がするケドな……〟
猪狩悠の勤めているこの店『HELLO』は、繁華街を少し抜けたところにある個人経営の喫茶店だ。このご時世だと言うのに、このような好立地な場所で個人経営の店が成り立つとは思わないが、現にこのHELLOは成り立っている。
繁華街の方を見渡してみれば、有名コーヒーショップ名義の喫茶店が並んでいるが、このようにひとつ外れた道にはこのHELLOぐらいしか喫茶店はない。最近では、有名牛丼チェーン店や、小型ファミリーレストランなどの普及により、こう言った個人経営の喫茶店は潰れつつある。
さて、この店の正規従業員は、店長である鮫洲康介の身内で構成されており、現在はすべてひっくるめて三人程度だ。その内のひとりが悠である。
別に悠は身内ではないのだが、とある事をきっかけに彼の目に止まってしまい、現在の従業員になるに至る。
「悠ちゃん早くきたし、今日は早めにあけちゃうわー」
「え、あ、はい」
店の方からそんな呑気な声が聴こえて思わず返事をする。あの口調だが、れっきとした男である。
悠としては、漫画みたいな人間がよくも実際にいたものだと思っていたのだが、実際にいたのだから仕方がない。受け入れるしかない。別に悪い人間ではないのだ。
店を開けると言うが、別にどこかの有名店舗のように開店を待っている客はいない。なので、しばらくは暇である。厨房から料理を店に出す穴から外を眺める。退屈なのだが、暇潰し道具もないので、店の入り口から見える外を眺めているか、定期的に切り替わる店内BGMを聴くぐらいしかない。
悠が店に来てから一時間ほど経過したが、コーヒーを頼んだ客しか着ておらず、絶賛暇状態である。
「……店内BGMじゃなくて、ラジオでも流しませんか?」
暇を持てあまし、厨房の水回りの確認まで始めてしまった悠は、店で暇そうに頬杖をついている康介に対してそう言った。
「えー……私はちょっと洒落たクラシックの方が好きよ」
「洒落たクラシックねぇ……」
とか言いつつも、この店に流れているのは某有名なバンドの曲で、クラシックとは程遠いように感じる。なお、この店にクラシックのCDは一枚もない。
故に、永遠にループする彼らの楽曲は、聴いているとどれだけ時間が経ったかを教えてくれる。アルバムひとつごと、大体どれぐらいの時間流れているのか、ここに勤めるようになってから体が覚えてしまったのである。何回目のこの曲が流れたら終わりの時間だ、と勝手に帰宅の準備を始めてしまうときもあった。
それだけこの店は暇である。客が入る時は稀、大量に入ってくる日は時折あるが、安定して客が入ってくる事はない。これほどまでに働く事が退屈だとは思わなかったぐらいだ。
当然、すべての店がこうであるはずがない。昼時になれば客は入るし、夕刻にもラッシュは存在している。単にこの店だけが人気がないだけだ。
よくも潰れない。
何度思った事か。
何故かこの店、潰れないでここに長らく残っているらしい。ギリギリのレベルで、これほどの立地の場所で生きているのだから、なにか裏があるのではないのだろうか、と思った事もあった。しかし、それが解明された事はない。
三〇分ぐらい経った頃、時刻は一六時になろうかとしたときに、客が二名ほど入ってきた。
「いらっしゃいませー」
店に入ってきたのは、歳も行った老人の男女二組。夫婦だろうか、仲睦ましく話をしながらゆっくりと近くの座席に座った。まだ足腰は弱っていないらしく、足取りは軽快であった。
さて、やっと今日初めての仕事になりそうだ。
仕事よー、などと言いながら、メモ帳に書いた注文を厨房のところにおくと、それを見て悠はその内容を確認、料理に差しかかる。
―――普通、この手の仕事の場合、ウェイター、ウェイトレスなど配膳や、掃除が主になるのだが、康介が悠に任せたのはまさかの厨房であった。
『いやねぇ、厨房をしていた料理人がこの前辞めちゃってねぇ』
と、云うのが彼女の言い分であった。かといって、こんな素人の自分に厨房を任せるとは一体どういう神経をしているのか……
『大丈夫よ。基本暇だし、料理の勉強や練習ぐらいはできるわよぉ。失敗品は格安で客に提供すれば良いんだし』
『失敗作は出したら拙いじゃないですか……』
などとやり取りした記憶がある。
レシピなどのノートは残っており、その通りに作るだけなのだが、それはそれで難しい。レシピ通りにすれば、レシピ通りの味と見た目になると思ったら大違いだ。
この厨房に立つようになって一年。まだまだだが、やっと普通の値段で客に出せるような代物になってきた。レシピからはまだ卒業できないが、これからもっと先になってもこの店にいるのであれば、新しいメニュー作りにも参加させるとは彼の言葉である。
味付けはともかく、盛りつけは基本的に好きにやらせてもらっている。さすがにレシピノートには盛りつけの写真までは載っていなかった事もあり、そこは個人的感性でやるしかない。雑な盛りつけはしていないつもりだが、最初の頃はあまり良い見た目ではなかったらしい。料理の質と同じで、見た目も最近になってようやく「マシ」と言われるようになった。
それを思えば、つい最近まで普通の人間だったと言うのに、こうして厨房に就職し、恋人なども出来て、よくも解らない生活を続けている。考え難い出来事は集中して起こるものだな、とよく思う。
厨房で働き始めた事もあり、料理に対する知識と、興味が沸くようになった。今では家でも暇があれば料理をするようになっている。休日は主に悠が料理をし、杏里がその感想を言うのがサイクルになっている。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございますー」
からん、と乾いた音を立てて店から出て行った中年男性を見送って、康介は安堵のため息をひとつ吐いた。
時刻は二〇時五〇分。既に今の客が最後の客になる。既に、料理を作り終えていた悠は静かに片づけをしていた。厨房の水回りの掃除は、厨房を使う悠の役割である。その他、バックヤードの清掃は康介の役割である。現在、別のアルバイトは入っておらず、正規従業員である悠を雇ってから、アルバイトは一度も雇っていないらしい。
別にふたりでも手が回らない事はない。厨房を悠が行い、配膳を康介が行う。客がいない暇な時間帯に店舗管理などの作業を康介がやっている。朝の通勤ラッシュ時には、正規従業員である別の方がやっている―――悠はその人の名前を忘れてしまった―――。
曰く、ラッシュ後から昼まで暇な時間が続くらしいので、その時間を利用して作業をしているらしい。
……清掃作業をすると、時間は二一時半ほどになっている。モップを専用のバケツの中に入れて、清掃用具が置いてある倉庫に入れると一息吐く。
「お疲れー。明日もお願いね」
「お疲れ様です」
頭をひとつ下げて、悠は店から出る。暇な時間が殆どな為、凄まじく疲れると言った事はないが、疲れるものは疲れる。
この季節のよるは少しずつ蒸し暑くなってくる。もう少しで夏と云う事もあり、初夏の風を感じる。
終電が無くなる前に急いで帰ろう。さて、家に帰ったら杏里になんと言われるかな、と今朝のやり取りを思い出しつつ帰宅の路につく。
また電車に揺られて数十分。時刻はもう二二時を過ぎている。やっと戻ってきた自分のアパートの階段に足を掛けたところで、見慣れた老婆を見つける。
「おや、ご帰宅かい?」
「どうも」
「今日はお疲れの様子だね」
「え、ええ……」
この老婆こそ、このアパートの大家である。しかし何故このような時間にここにいるのか……
彼女は確か足が悪いので、あまり外には出られないはずなのだが、今の彼女は杖も付かず、普通に立っているように見える。その様子に少し戸惑ってしまい、彼女もそれに少し気づいたようである。
「ん? なにかついてるかい?」
「あ、いえ……足、大丈夫なんですか?」
問い掛けると目を点にして、そして大袈裟に手を振りながら笑った。
「ご覧の通りピンピンよ! わたしゃ足腰が元気なだけが取り柄だからねぇ!」
……足腰が元気なだけが取り柄。
大家は別に足腰を悪くしていた事はない。ここ最近で、病気になった事もない。
自分の記憶とは少しどころか、かなり違うようだ。悠の知っている大家は、足腰が悪く、ここに来る時は杖か、下手すれば車椅子できている。彼女のこの豪快な笑い方や、性格は変わりないが、こんなに元気ではなかった。
今日はどうかしている。額に手を当てて、熱を確認するが、別に熱は無いらしい。
大家と他愛のない話を少しして、今度こそ階段を登って自分の部屋の前に立つ。当然、既に彼女が帰ってきているので部屋の隙間から光が漏れているのを外から確認している。
鍵は掛かっている。ひとりでいる時は鍵を掛けるように言っているので、当然と言えば当然だ。ポケットから鍵を取り出して、部屋の鍵穴に差し込み回す。がち、と鈍い音を立てて鍵は開く。
「ただいま」
扉を開けて第一声。自分が帰ってきた事を伝えると、部屋から杏里が顔を出した。玄関に靴を脱いで、部屋の鍵をしめ直すと、開くのに使った鍵をいつもの箱の中に入れる。
「おかえりー」
ポテトチップスを食べながら、彼女はテレビを見つつ、雑誌を広げていた。朝見ていた雑誌をまた見直しているのだろう。それならテレビは消してもらいたいところだ。
「両方みてるのー」
彼女の言い分である。
雑誌の方にあまり興味はないので、悠はテレビの方に視線を移すと、部屋の隅に腰を下ろす。
会話はなかったが、彼女が身をこちらに寄せて来たので、頭を一回撫でてやる。これだけ見ているとまるでわがままな猫だ。
杏里が近づいてきたので、雑誌の内容も嫌でも目に入ってくる。テレビと雑誌を行き来する。なるほど、確かに両方見る事も可能だろう。そもそも、テレビの方がBGMを聴いている感覚に近い。意外と内容が頭の中に入ってくるものだな、と感心する。
……別に、彼女は自分に何も言わないらしい。考えてみれば、もう学校に行かない日が続き過ぎており、彼女も半分諦めているのかもしれないな、と勝手に解釈する。行かなくなった当初は毎日のように何かを言われたものだ。
「あ」
そんな昔の事を思い出していると、彼女も何かを思い出したようだ。投げっぱなしにされている自身の鞄を取り出すと、中身を何やら漁り始めている。
「これ。倫太郎からー」
なにやら身に覚えのないUSBを渡される。
「あれ? 知らないの?」
「いやぜんっぜん」
「おかしーなぁ。倫太郎は渡せば解る、って言ってたのに……」
「つかこの家にPCとかねぇだろ……」
と、言うと杏里が目を点にする。先ほどの大家のときと同じだ。
「なに言ってんのさー。あるじゃん、パソ」
呆れ半分で彼女が押し入れから箱をひとつ取り出してきた。箱の中を開けてみると、ノートパソコンが一台、入っていた。
「あ……れ?」
完全に身に覚えのないものを渡されたかと思いきや、いつの間にかあったPCに驚きを隠せない。
「まぁ、正直私しか使ってないけどねー。主にソレ系のサイト巡りでー」
ソレ系、と云うのはオカルトサイトの事だろう。
テーブルの上にあるものを片づけつつ、杏里がPCをセッティングしていく。慣れた手つきで行っており、どうやら長い事この家にあるらしい。
「どうなってんだこりゃ」
頭を掻きながらその様子を眺めていると、杏里が首を傾げる。
「なに? どうしたの?」
悠は今日一日で起こった些細な記憶の食い違いについて話をする。
最初は同じようなラジオの内容を聴いたな、と云う事。そのラジオのパーソナリティのキャラクターに違和感を覚える。仕事先のシフトが違う事。そして大家の人間が自分の知っている病気を患わっていない事。
普通なら、物忘れや、病気などで片づけられるのだが、目の前にいる彼女は都市伝説などのオカルトが好きな人物なのである。話を終始真剣な顔をして聴いており、モニターに映像が映し打されたPCを操作して、とあるサイトの記事を見せる。
「その手の話だと、平行世界を歩行してきたと考える説が有力かな……。記憶の些細な齟齬があっても、根本的に生活、自分の記憶に間違いはないんだから、違うけど似たような世界に落とされて、違和感なく過ごしてきたって事になるのかな……。あぁ、でもそれなら、この世界に元々いたゆーちゃんはどうなったんだろう。うーん……」
正直ついていけない。しかし、これだけ不可思議な記憶齟齬が発生するとなれば、なにか体調的な問題があるのかもしれない。
「病院でもいくか……」
「大丈夫?」
冗談ではなく、本気で心配されているので、悠は微笑すると、頷く。
別に体に異変がある訳ではない。どこかが痛いや、違和感がある、と云う訳ではないのだ。あるのはただ、一部の記憶に違和感があるだけ。それはそれで怖さもある。脳と言えば人間が心臓と等しく失いたくない部分だ。
とにかく、なにかあるのかもしれない。明日、病院にでも行こうと決めた。