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-1day
視界に入ってきたのは、なにもない天井だった。
正確には、部屋に光を照らす電灯だけがある状態だ。
……嫌な夢を見ていていた気がする。とても奇妙で、嫌な夢だった気がする。
妙な気だるさがあるのは、このベッドの上で寝ているのが自分だけではないからだろう。視線を横にやると、自分の腰のあたりに脚を絡めて寝ている女がいる。
相変わらずの寝相の悪さに、苦笑すると、こちらも重い体を起こす。一応だが、別に夜に間違いが起こった訳ではない。ため息が出るほど、この女はそのような事に関しては無頓着であった。故に、こちらも我慢せざるを得ない。
ひとり暮らしの部屋だが、片付いているのも、単にこの女が部屋を掃除するのが苦手だからだ。だから、自分がやるのが日課になりつつある。
部屋の半分は、女のスペースである。で、残り半分が男のスペースである。
男のスペースには正直なにもない。毎週買っている雑誌が山積みになっているぐらいで、それ以外はなにもないに等しい。それに、あまり広い部屋ではない。半分ずつスペースを撮っていると、ひとりに対する物を置く量は、必然的に少なくなってくる。
腰に絡まっている女の脚をほどくと、男はゆっくりと立ちあがって、欠伸をひとつ。まだ彼女は寝ている。部屋の電気は点けないでおこう。
変な夢を見たいせいか、時刻はまだ四時半を差していた。確か、昨日は疲れていてすぐに寝た記憶があるので、恐らく六時間は寝ているだろう。充分過ぎる睡眠時間だ。
カーテンを少し開けると、外はまだ暗い。もうすぐ夏になる。そうすれば、日も長くなって、この時間でも陽の光が差し込んで来るようになるだろう。
かけてあるハンガーを取って今着ている寝巻を掛けると、部屋の隅に畳まれているいつもの服を取り出して、それを着こむ。いつまでも寝巻のままだと、そのまま二度目にしてしまうからだ。
彼女を起こさぬよう、ゆっくりと部屋を出ると、細い廊下のところにある台所の電気をつける。腹が減ったので、何か作ろうと云う考えだ。
とは言っても、あそこで寝ている女ほど料理が上手い訳ではない。男の料理と云うものは、いつも大雑把なものだ。
冷蔵庫の中を開けると、昨日買った食材が幾つか入っている。今週は、この冷蔵庫の中身で乗り切ろうと思っている為、最低限使うものだけを少しずつ使っていく。
朝、腹が減る。しかし、彼女はそうではないらしい。朝起きてそのまま出かけてしまう事もあるので、食事を先に用意しておく事で昼間に予想以上の出費を抑える事ができる。
そんな事を考えていると、朝は軽く作るのが常になってしまった。多少、物足りない感覚はあるが、それでも、食べないよりは幾分かましである。昼までもてば良い。
冷蔵庫の中にあった野菜を幾つか取ると、それをフライパンで炒めていく。調味料に、塩、胡椒としょうゆ。濃すぎるぐらいが丁度いい。適当にかき混ぜて、しんなりしてきたところでふたり分の皿にそれを乗せると冷めないようにラップを掛けて、一旦置いておく。
次に卵を取り出すといつもの目玉焼きを用意する。朝はやはり目玉焼きが軽くて、楽に作る事ができる。……ちなみに彼女は半熟でなければ食べないので、適度なところで火を止めて、そのまま皿の上に乗せた。
炊飯器はまだ煙を立てて、中の飯を炊いている途中だ。セットされたタイマーは五時半。時計を見るとまだ五時少し前。早く作り過ぎたかも知れないと軽く後悔しつつ、目玉焼きの皿もラップに掛けてテーブルの上に並べておく。
ゆっくりと部屋に戻ると、彼女はまだ寝息を立てていた。音をたてないように歩き、布団の横にある携帯電話とイヤホンを取り上げると、イヤホンを部屋の端にあるモニターに差し込んで、電源を入れた。
朝早いと云う事もあり、いつも見ているニュース番組はまだ始まっていなかった。あと一時間もすると始まる。取りあえず、退屈なので椅子を持ってきて、イヤホンが届く範囲でテレビを見る事にする。
ニュースの内容は正直、昨日寝る前に見たテレビの内容と然程変わらない。深夜帯のニュースから六時間ばかりしか経っておらず、しかもその間人の活動は少ない。何かが大きく変わるような事などまずない。
今日も他愛のない一日になりそうだと、安堵のため息を吐きながらテレビ画面を見ていると、不意に自分の服の裾を捕まれるような感覚を覚えて、視線を下に向けると、そこには目を覚ましたらしい、彼女が目を擦りながら座っていた。
「よう、おはよう」
彼女はまだ眠いのか「んー」とだけ言って視線をテレビ画面の方に向けている。
目の前の恋人よりも、テレビの方が気になるとは、それなりに心が痛む状況であるが、もう慣れた。この人物は、自分の楽しさを一番にして生きているのだ。
だからこそ、彼女と恋人になろうと思ったのだが……つまり、互いに利害が一致しており、互いに一緒にいて楽しいと思えるからこそ、恋人になったのだ。
「飯はもう少し待ってくれ。まだご飯が炊けないんだ」
「んー……」
すると振り返って、また頭から布団の中に戻って行った。二度寝するらしい。
「おいおい、あんまり寝過ぎるなよ。また頭痛くなるぞ」
「んー」
……朝起きてこの方、彼女の言葉で「んー」以外の台詞を聴いていない。今日は相当重症のようである。
既に目が覚めている人間に対して遠慮する事はない。男はイヤホンをモニターから引き抜いて、部屋の電気も点けると、椅子をモニターから適度に離してからまたテレビを見始める。
暇、と云う訳ではないのだが、朝はこうしてゆっくりするのが日課になっているのだ。余裕を持って朝起きて、それから昼の行動に移す。人生を焦らず、ゆっくりと生きていければ良い。そう、昔から思っている。
時刻も六時半を回れば、彼女の目も醒める。やっと布団を出て来て、テーブルの上の食事に手を出し始めていた。
「目玉焼き冷めてる! ちょっと、ゆーくーんっ!?」
「はいはい」
台所から戻ってきた猪狩悠は、恋人である仁木坂杏里のもとに座ると、その理由を述べる。
「えー、今日は俺が早起きでしたので、早めに料理を作りました。お嬢さまには誠に申し訳ありませんが、今日は冷めた目玉焼きを頂いてやってはくれないでしょうか?」
わざとらしく、口調を変えてそういうと、杏里は少し考えたような仕草をしたあと、微笑して。
「作り直し」
手でハートマークを作って、そう言った。
ここは本来怒るべきところなのであるが、朝からイライラもしたくなかったので、そこは了承する事にした。杏里も別に我がままな性格ではないのだが、今日に限って作り直しを要求する当たり、もしかしたらなにかあるのかも知れない。
〝半熟の熱い目玉焼きを食べないと死んじゃう病に掛かったとか……〟
実際そんな病気はない。冗談半分だ。偶々、そんな気分だったのだろう。
残った目玉焼きは悠が頂いた。卵は嫌いじゃないが、一食で二個も三個も食べるようなものではない。
フライパンを軽く水で流したあと、また油を少したらして彼女の為の半熟目玉焼きを作り直す。
テーブルの上には今度こそ、温かい、半熟な目玉焼きがあった。
「これこれ! ナイスゆーくん!」
親指を立てて、恋人をねぎらう。
個人的には、もっと別の方法でねぎらってもらいたいものだが、彼女が自分からする事は滅多にないので、こちらも必然的にアプローチする事は少なくなってきていた。
こんな状態だと云うのに、別段互いの愛情が変わる訳もなく、恋人であり続けていた。それはそう言うものだと、互いに互いを理解しているからこそ。自分の趣味・嗜好を理解して付き合ってくれる存在はこの人間しかいない、と知っているからだ。
正直な話、彼女はそう思っている。悠はと言うと、他にも運命の人間と云うのは他にいるような気がしていたのだが、それでも好きなものは仕方がない。現状、どれだけ自分が幸せであるかは言うまでもない。
目玉焼きを飯の上に乗せて、黄身の箇所に穴を開けると、醤油をたらし、かき混ぜる。それなら生卵を掛けた方が早いのではないのだろうか、と思った事もある。
『それは卵かけご飯! これは目玉焼きご飯! そして私は目玉焼きご飯が好き!』
と言われたので、彼女なりの拘りなのだろう。
フライパンを台所に置いて、洗い物は今日の夜にでもやろう。どうせ、昼と夕方はいないのだから、料理をする事はない。するとしても、それは料理ではなく、電子レンジに入れて温めるだけの、レトルト食品だろう。
簡単な食事を食べ終えるのに三〇分もかからない。食べ終えた茶碗などを同じように流し台において、水を張っておく。部屋でくつろいでいる杏里は、熱心に本を読んでいるようである。
彼女の横に座って、わざとらしく、体をくっつけてみると、彼女もそれに反応して体を近付けてくれる。こう言った、さりげない時に感じる互いを想う気持ちと云うのは、悠を安心させる。
「最新号?」
「そそ! 今月は『夢か!? 幻か!? 知る人ぞ知る、この世とあの世を結ぶ駅!』特集!」
雑誌はと言うと、どこから出版されているかどうかは解らないが、世間のオカルトな話、都市伝説などを取り扱っている雑誌である。
この部屋の、杏里のスペースは基本的にこう言った雑誌や、いわくつきのグッズで溢れている。
いわゆる彼女はこう言った都市伝説などの話が好きな『オタク』と言われる現代人なのだろう。別に、最近ではその用語を聴く事は珍しくなくなってきた。テレビ番組では頻繁に取り上げられ、聖地などと言われて崇められている場所もあるらしい。
仁木坂杏里は紛れもない変人なのである。普通の人間には少し理解しがたい。と言って、学校にいるようなオタクとはまた違ったラインを生きている。難しいところだ。
しかし友人関係は良好なのがまた珍しい人間だ。持ち前の性格か、それとも流行りの話題に敏感なのかどうかは解らないが、そう言った趣味以外の人間とも普通に仲良くしている姿を見る。
学校の学級にひとつは存在している上位カーストの中の、一番手に届きやすい場所にいる人間。それが悠の印象である。
「……今、失礼な事考えなかった?」
「全然」
妙に鋭い。
ふぅん、と、悠の顔を少し見つめたあと、微笑んでまた雑誌の方に視線を戻した。
この何気ない時間と言うのがまた早く過ぎてしまうものである。いつまでも続けば良いと何度も思うのだが、時間にそんな融通は利くはずもない。
時計が七時一五分を差すと、そんな時間も終わりを告げる。そろそろ、出かける準備をしなければならない。
「ほら、そろそろ行かないとだろ? 学校」
「んー? ……えー……」
「気持ちは解らんでもない」
考えてみれば、杏里はまだ寝巻のままであり、まだ着替えてすらいない。
学校に行く事を渋る彼女を言いくるめて、やっと着替えが終わると、時刻は七時半を過ぎる。部屋の火の元、戸締まりなどを確認して、最後は必要最低限な場所以外のブレーカーを全部落として、ようやく部屋から出る。
「あー……しんど。あぁ、しんど」
部屋の中に居た元気な彼女とは裏腹に、外に出て、学校に向かうときの彼女は気分が落ち込んでいる。それは悠も同じなので、意見としては同一だが行かない訳にもいかない。
悠と杏里が住むこのアパートは築四〇年ほどのアパートである。しかし二、三年前にリフォームしたらしく、外見と内装は四〇年とは思わせない清潔感で溢れている。部屋はすべてで六部屋、二階建て。住んでいるのは三名とは、ここを契約するときの大家の話である。
ふたつある鍵の内ひとつを杏里に渡して、準備は万端である。杏里が手を差し出すと、それを悠が受け取る。通学時は学校にたどり着くまではこんな状態である。冬になれば、もっと密着して歩く事もある。
「今日はちゃんと学校いくよね?」
繋いだ手を振り回しながら、杏里が悠に向かって問い掛ける。
「どうかな」
「えー。これで何度目よ。そもそも私の事言えないじゃない!」
「心配するな。その辺は」
「心配じゃなくて不満! なんで私だけ学校いかなきゃいけないのかって事!」
なるほど、そう言う事か。
悠は苦笑する。しかしこのやり取りもよく飽きない。毎日しているが、毎日別の会話をしているような感覚もする。何気ない話に幸せを感じているのなら、まだ自分は大丈夫なのだろうと思う。
ふたりの会話と言うのは基本的には自分たちの趣味の話しかしない。プライベートは共有しているので、あまり隠し事もない。完全に隠し事がない訳ではない。同じ屋根の下に住んでいるにしろ、互いに腹の内に隠し事はあるだろう。
話す内容に困った悠は、今日の忘れかけの夢の話をする事にした。
内容としては、妙な電車と、誰も居ない駅。そしていつの間にか元に戻ってきたと云う何ともない話なのであるが、それが杏里には違って聞こえるらしい。
「それは伝説の! あの世とこの世を結ぶ駅!
通説は色々とあるけど、キサラギとかヤミとか! その手の話をすると長くなるけど、本当に存在しているのならぜひ、戻って来れる範囲で行って見たいところだよね! あぁ、そうなると、その先にある異界・異次元・平行世界とか言うものにも興味が沸いてくるよね! そもそも平行世界と云うものが本当に存在しているのかとか、私たちが住んでいる三次元の別次元なのに同じ三次元が存在していられるのかとか!」
まだ話足りないとばかりに、携帯電話を取り出してその記事を見せ、何やら細かく説明をしている。最寄駅にたどり着いて、電車の中に乗ったと云うのにその口はふさがる事がなく、一体彼女の引き出しにはどれだけのボキャブラリィがあるのか……未だに解明できていない。
〝世間はそんな都市伝説を探すよりも、身近な人間の『何故?』を解明した方が良いんじゃないのだろうか……〟
悠の見た夢だけでここまで話を広げられるあたり、彼女のそう言った話を自分の領域にもっていく才能があるのだろう。将来は、マスコミや、魚屋になった方が良いだろう。
最寄り駅まではアパートから徒歩一〇分。そこから、定期券を使って電車に乗り、揺られる事二〇分。電車を乗り換えて再び二〇分ほど。それだけの手間と時間を掛けて、悠たちが通う高校のある町にたどり着く。家を出てから合計一時間ほどだ。
さらにそこから歩かなければならないので、実質、一時間一五分ほど所要する。
都会に近いにしろ、このように電車を乗り換えては歩くと云うのは億劫なところがある。本来であれば、学校の近くのアパートを借りるのが好ましいのだが、金銭的にも仕方がない。
そもそも、今住んでいるアパートすら、知り合いの伝手で安くしてもらっている。あの辺りの土地で家賃五万を切っているアパートは少ないだろう。
学校に近づくと、学生の姿も増えてくる。
悠たちの通う『私立大手波高等学校』は、普通科と芸術科のふたつのコースがある学校である。普通科には男子生徒が多く、芸術科には女子生徒が多い。現在、普通科は半分男子校と化しており、女子生徒の数はかなり少ない。
芸術科がある学校と云う事もあり、大手波高校には指定の制服などはなく、私服での登校が可能になっている。故に、悠と杏里も私服で登校している。
「……じゃ、俺はこれで! また夕方迎えにくるよ」
「え! 今日こそは学校に一緒に来て貰うよ!」
家を出てから学校近くまでは手を繋いでいるのだが、学校が近くなると手を離す理由はこれである。手をつないだままだと、杏里にそのまま手を掴まれて連れていかれるので、そうならないように、手を離す。
じりじりと詰め寄る杏里だが、しかし、こうなってしまえば悠の方が行動に移すのが早い。
「……んじゃ! そう言うワケで!」
そのまま踵を返して、全力疾走で悠は走りだした。杏里が手を伸ばすが、それは空を切り、追いかける暇なくその場から姿を消してしまった。
掴めなかった手のひらを眺めたあと、杏里は深いため息をついて、学校に向かって歩を進めた。