子犬のワルツ
「雅江さん、こっちの背中側も、もっときちんと拭いてよ!」
「あぁ、すみません、お義母さん…いつも気づかなくて、ごめんなさいねぇ。」
「本当だよ!まったく、出来の悪い嫁だよ。お隣の佐藤さんが羨ましい!
同じように嫁に介護してもらってても、快適だって、褒めてたよ!」
「ごめんなさいねぇ…あ、お茶が切れてますね。今淹れなおしてきますねぇ。」
ゆったりと介護用ベッドの横から向き直り、キッチンに向かう。
まだ湯が沸く前の無音の世界の中で、未だに雅江の文句を言っている義母の声がまるで虫の羽音のように聞こえる。
こんなにも長い間、誰かの文句を言い続けることが出来るのは、ある種の才能ではないか。
雅江は日本茶の封を開けながらそんなことを考える。
義母の介護をするようになってから5年目になる。
元来、気性の荒い女性であった。
そこに輪をかけ、急病で半身不随となり終日ベッドで過ごす日々でさらに性格がきつくなった。
夫は仕事一辺倒な人で、家の中のことに、いい意味でも悪い意味でも口を出してこない。
(――この状況では、悪い意味の色合いの方が強いけれど。)
雅江はぼんやりと火をとめ、お茶を丁寧に淹れて、義母の元へ運ぶ。
注ぎ終えると、ちょうど時間は15時頃だ。
(――あ! もうそろそろね!)
義母の部屋からちょうど対角線にある1Fの客間。
その角にある出窓にぴったりと張り付いて耳を澄ます。
するとお隣の佐藤さん宅から、ショパンの「子犬のワルツ」が聴こえてくる。
軽快な出だしから、中盤のまるで子犬がじゃれついているような、そんなリズム。
小動物が懐いて縋ってくるような、愛くるしい様子が目に浮かぶ曲だ。
佐藤さんはこの辺りでも裕福な家庭で、音楽に造詣が深いらしい。
若い頃から15時ごろになると高尚なオペラ音楽やらクラシック音楽が流れることで有名だった。
そして数年前から嫁の裕子が義父を介護しだしてからは、このショパンの子犬のワルツが定番になった。
(――佐藤さん、裕子さんがいつも介護をよくしてくれてるって褒めてたんだ…。)
窓から、音の流れる方を見つめながら、雅江は切ない思いにかられていた。
雅江にとって、この子犬のワルツのひと時は、介護生活を送るうえで欠かせないものとなっていた。
毎日15時にこの出窓に来ては、音源の出どころである邸宅を見つめながら、自分の人生に思いを馳せる。
すると軽快な曲に合わせるように、心の澱がどこかへすっと流されていく。
長い介護生活の中でのストレスのはけ口になっていた。
そんな日々がもう3年も続いたある日、終わりは突然やってきた。
「お隣の佐藤さん、施設に入ったんだってね。
怖いね~。裕子さんが、まさかあんなことするなんてね~!」
「そうですね、まさか介護のふりして虐待してたなんてね…。
怖いですね、お義母さん。」
「…私も少し雅江さんに辛かったかもしれないわね…。
今度のことで色々考えなおしたのよ…ごめんなさいねぇ…。」
デイケアサービスからの通報で、裕子が日常的に義父を虐待していたことが明らかとなった。
警察沙汰の末、お隣の家は現在もぬけの殻となっている。
話を聞くと、なんと子犬のワルツの音がなっている間、虐待されていたらしい。
クラシック音楽を隠れ蓑にして暴力をふるっていたのだ。
雅江は自分の癒しの時間が、誰かの悲劇の時間だったのだと知り、
胃の当たりがぎゅっと縮む思いがするのであった。
◆ ◆ ◆
ある日の午後、15時過ぎ。
隣家から流れてくるショパンの「子犬のワルツ」を、出窓に張り付くように真剣に聞いている女がいた。
その出窓からはちょうど隣家の和室が見える。
部屋の中がちょうど見え隠れするくらいの角度だ。
しかし見ようと思う気持ちが強ければ、鮮明に見えてくるものがある。
出窓の女は聞こえるか聞こえないかくらいの囁き声で、
曲の終わりまで何かを呟いている。
「…そうだ、もっと叩け。…もっと叩くんだ。
…私にはできないから、代わりにもっと叩くんだ。
…見つからないように、見えない部位にするんだよ…。」
了




