届かなかった手紙が、異世界を救う鍵だった件~麦畑の郵便局で僕は配達人になる~
死んだはずなのに、麦の匂いがする。
目を開けた瞬間、視界を埋め尽くしたのは黄金色だった。見渡す限りの麦畑。穂先が風に揺れて、さわさわと囁くような音を立てている。空は夕焼けでも朝焼けでもない、琥珀色の永遠みたいな光に満ちていた。
「……は?」
僕——柊蒼介、享年22歳——は、自分の手のひらを見下ろした。傷一つない。さっきまで、確かにトラックのヘッドライトが視界を焼いて、衝撃があって、それで——
「届けてください」
声がした。振り返る。
麦畑の中心に、朽ち果てた郵便局がぽつんと建っていた。木の外壁は灰色に風化し、赤かったであろうポストは錆に覆われている。その入り口に、少女が立っていた。
腰まで届く真っ白な髪。封蝋みたいに深い紅色の瞳。オーバーサイズの紺色の制服——金のボタンが鈍く光っている。郵便局長の制服だと、なぜか直感でわかった。
少女は僕に向かって、古びた革の郵便鞄を差し出した。
「届けられなかった手紙が、この世界を蝕んでいる」
「……待って。ここどこ? 僕、死んだんじゃ」
「規定により、届けてください」
会話が成立しない。少女は無表情のまま、鞄を押しつけてくる。仕方なく受け取ると、ずしりと重い。金具には錆が浮いていたが、そこに刻まれた文字だけは妙にはっきり読めた。
『ちゃんと届く』
嘘だろ、と思った。
「中を」
言われるまま、鞄を開ける。
——数百通。
手紙がぎっしり詰まっていた。黄ばんだ封筒、赤い封蝋で閉じられたもの、子供の字で宛名が書かれたもの。どれもこれも、時代も筆跡もバラバラだ。
一通を手に取る。宛先を読んで、息が止まった。
『宛先:魔王ゼノヴァルド・ディザスター様』
「……魔王?」
「はい」
別の一通。
『宛先:滅びたリシュテール王国 国民各位』
「滅びた国に届けろって、どうやって」
「配達人には、それが可能です」
少女は淡々と続けた。
「届かなかった想いは《未達の呪い》となり、世界を侵食します。あなたの使命は、時空を超えてすべての手紙を届けること」
「時空を超えて。すべて」
僕は鞄の中を見下ろした。数百通。いや、もっとあるかもしれない。底が見えない。
「届けるたびに、あなたは記憶を一つ失います」
「は?」
「届けなければ、世界が一つ消えます」
「はァ!?」
「規定です」
少女——後にリネットと名乗ることになる——は、初めてわずかに目を伏せた。
「……ごめんなさい」
何に対する謝罪なのか、その時の僕にはわからなかった。
「ポ印!」
突然、何かが僕の肩に降り立った。見ると、手のひらサイズの丸っこい鳩。いや、鳩……か? 羽根が封筒みたいな紙質で、目には消印みたいな円形模様がある。足には赤いリボン。
「……何、この生き物」
「ピジョンです。あなたの案内役」
「ポポ印!」
鳩もどきは得意げに胸を張った。
僕は深呼吸した。死んだ。異世界。郵便局。届かなかった手紙。記憶を失う。世界が消える。
情報量が多すぎる。
「……一つだけ、聞いていい?」
「どうぞ」
「届けるのは、手紙だけ?」
リネットは少しだけ間を置いた。琥珀色の光が、彼女の白い髪を淡く染めている。
「いいえ」
その声は、初めて少しだけ人間らしく揺れた気がした。
「届けるのは、誰かが誰かを想った——その瞬間です」
麦畑が風に揺れる。さわさわ、さわさわ。まるで無数の声が囁いているみたいに。
僕は鞄の紐を肩にかけ直した。
「……届けなきゃ、な」
口癖が、勝手に漏れた。
——こうして僕は、死んでから郵便配達人になった。
届ける手紙は数百通。届けるたびに何かを失い、届けなければ世界が終わる。
麦畑の郵便局。
僕の、途方もない配達が始まる。
---
最初の配達先は、拍子抜けするほど近かった。
「麦畑を抜けて東へ三刻。エルドナ村」
リネットが差し出した一通の手紙。宛名はこうだった。
『宛先:ミーシャ・オルドグラム様(故人)』
「故人って書いてある」
「はい」
「届けられるの?」
「届けてください。規定です」
「ポ印ー」
ピジョンが鞄の中に潜り込んで、手紙の匂いを嗅いでいる。そしてなぜか、しょっぱそうな顔をした。塩でも舐めたみたいに嘴を開閉させている。
「……何してるの」
「手紙の感情を味わっているのでしょう。悲しい手紙は、塩辛いそうです」
「塩辛い」
僕は手紙を見下ろした。封筒は新しくもなく、古くもない。十年くらい前のものに見える。差出人の名前は——
『差出人:ガレス・オルドグラム』
父親から、死んだ娘への手紙。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
——届かなかった手紙。
それは僕にとって、他人事じゃない。
---
エルドナ村は、小さな集落だった。石造りの家が二十軒ほど。中央に井戸。畑と牧場。どこにでもあるような、平和な村。
《未達の呪い》の影響は、見た目にはわからない。でもリネットは言っていた。『見えないところから、じわじわと蝕むのです』と。
村人に道を聞いて、墓地を目指す。
「お若いの、何の用だい?」
声をかけてきたのは、老婆だった。僕の格好——白シャツに紺のカーディガン、革の郵便鞄——を見て、怪訝そうな顔をしている。
「郵便配達です。ミーシャ・オルドグラムさんの、お墓を探していて」
老婆の表情が固まった。
「……ミーシャちゃんに、手紙?」
「はい」
「あの子が亡くなって、もう十年になるよ」
「……知っています」
老婆は僕を値踏みするように見つめ、それから溜息をついた。
「村外れの丘だよ。でも——あの子の父親には、気をつけな」
「父親?」
「ガレスさ。元A級冒険者だったんだが、今じゃ廃人同然でね。妻に続いて娘まで亡くして、ずっとあの墓の前に……」
老婆は言葉を濁した。
僕は礼を言って、丘へ向かった。
---
墓は、丘の上にあった。
小さな石碑。その前に、男がいた。
——でかい。
座っているのに、威圧感が尋常じゃない。白髪交じりの短髪、深い皺、杖を握る節くれだった手。右頬から顎にかけて、古い刀傷。年老いて背は曲がっているが、目だけは獰猛に光っている。
元A級冒険者。ガレス・オルドグラム。
「……何の用だ」
低い声。敵意はない。でも、拒絶がある。
僕は鞄から手紙を取り出した。
「配達です。ミーシャ・オルドグラムさん宛て」
男の目が、一瞬だけ揺れた。
「……何の冗談だ」
「冗談じゃないです。届かなかった手紙を届けに来ました」
「届かなかった?」
僕は手紙の差出人を見せた。
——ガレス・オルドグラム。
男の顔から、血の気が引いた。
「……それを、どこで」
「届けに来ました」
「やめろ」
「届けないと——」
「やめろと言っている!」
杖が振り下ろされた。反射的に飛び退く。地面が砕けた。老人の一撃じゃない。全盛期の四割だとしても、これがA級か。
「ポポ印!!」
ピジョンが羽を逆立てて警告を発する。
「その手紙は——俺が、出せなかったものだ」
男の声が震えていた。
「娘が病で倒れた時、俺は冒険に出ていた。妻に任せきりにした。戻った時には、もう手遅れだった」
「……」
「最期に、ごめんと言えなかった。だから手紙を書いた。でも——出せるわけがないだろう」
男は笑った。自嘲と苦痛の混じった、歪んだ笑み。
「死んだ娘に、手紙を出して何になる。届くはずがない。読まれるはずがない。俺の謝罪なんか、あの子には——」
「届きます」
僕は言った。
「届けられます。だから、来ました」
男が僕を見た。鋭い目。でもその奥に、十年分の後悔が澱のように溜まっているのが見えた気がした。
僕は封を開けた。
「何を——」
「届けます」
墓の前に跪く。手紙を広げる。そして——
読み上げた。
『ミーシャへ。
父さんは、ずっと謝れなかった。お前が熱を出した時、俺は魔物退治の依頼を受けていた。母さんから手紙が来て、すぐに帰るべきだった。でも俺は、「あと一日で終わる」と——』
男が息を呑む音がした。
『帰った時、お前はもう目を開けなかった。母さんは何も言わなかった。でも俺にはわかった。お前は最期に、父さんに会いたがっていたって。
——ごめんな、ミーシャ。
父さんは、お前のそばにいてやれなかった。剣を振ることしか能がなくて、お前の手を握ることもできなかった。
お前が作ってくれた押し花の栞、まだ持ってる。ずっと持ってる。
ごめんな。
愛してた。ずっと。今も。
——父より』
風が吹いた。麦の穂が揺れる音が、遠くから聞こえた。
僕の手の中で、手紙が淡く光った。そして——消えた。封筒ごと、光の粒になって、墓石に吸い込まれていく。
届いた。
そう、直感でわかった。
「……届いた、のか」
男が呟いた。その声は、もう震えていなかった。
「……届いた……のか……っ」
——崩れた。
元A級冒険者。歴戦の強者。その大男が、膝から崩れ落ちて、墓石にすがりついて、泣いていた。
「ミーシャ……ミーシャ……っ!」
嗚咽。十年分の、届けられなかった想いが溢れ出していた。
僕は黙って立っていた。かける言葉なんてない。でも、立ち去ることもできなかった。
ピジョンが僕の肩に戻ってきて、小さく「ポ印……」と鳴いた。今度はしょっぱそうじゃなかった。どこか、温かい味がしたのかもしれない。
---
「——あんた、何者だ」
しばらくして、男が立ち上がった。目は赤いが、もう泣いてはいなかった。
「柊蒼介です。配達人……らしいです」
「配達人」
「届かなかった手紙を届ける仕事、みたいな」
男は僕を見下ろした。身長差、二十センチ以上。威圧感は相変わらずだが、さっきまでの拒絶は消えていた。
「……俺は、ガレス。ガレス・オルドグラム」
「知ってます。手紙に——」
「元A級冒険者だ。今はただの老いぼれだが」
男は——ガレスは、僕の鞄を見た。
「そこにはまだ、手紙があるんだな」
「……数百通」
「全部届けるのか」
「届けないと、世界が消えるって」
「……で?」
「え?」
「一人で回るつもりか」
僕は言葉に詰まった。一人で。考えてなかった。リネットは郵便局から動けないみたいだし、ピジョンは戦闘力ゼロだし。
「あんたみたいなひょろいのが、《未達の呪い》の怨念体と戦えるとは思えん」
ガレスは杖を掴み直した。そして——
「……死ぬなよ」
それだけ言って、歩き出した。
「え、ちょっと」
「ついて来い。次の配達先まで送ってやる」
「いや、あの」
「俺にも——届けられなかった手紙がある」
ガレスは振り返らなかった。
「いつか、あんたに届けてもらう。だからそれまでは、死ぬな」
僕は呆然と立ち尽くして——それから、小さく笑った。
「……なんだそれ」
ピジョンが「ポ印!」と元気よく鳴いた。
麦畑の向こうに、夕日が沈んでいく。いや、この世界に夕日があるのかもわからないけど。
最初の配達、完了。
——あ。
「ポ印?」
……何か、忘れた気がする。
何だったっけ。大事な……何か。誰かの顔が、ぼやけて——
『届けるたびに、あなたは記憶を一つ失います』
リネットの声が蘇った。
僕は胸に手を当てた。欠けた何かの輪郭を探るように。でも、もう思い出せない。
——これが、代償か。
「おい、何をしている」
ガレスの声がした。
「……行きます」
僕は歩き出した。まだ数百通ある。届けるたびに失う。届けなければ世界が消える。
それでも。
「届けなきゃ、な」
口癖が、また漏れた。
---
七十二通目の配達を終えた夜だった。
「来る」
ガレスが杖を構えた。老齢とは思えない、獣じみた気配察知。三ヶ月の同行で、何度も助けられた。
「怨念体ですか」
「違う。もっと——でかい」
空気が変わった。
麦畑が、黒く染まっていく。黄金色の穂先が、一本また一本と灰色に枯れていく。腐臭。怨嗟。世界が悲鳴を上げているみたいな、不快な音が耳の奥で鳴る。
ピジョンが「ポポポポ印!!」と絶叫して、僕の鞄の中に潜り込んだ。見たことない怯え方だった。
「蒼介」
リネットの声。郵便局の扉から、彼女が駆け出してきた。珍しい。いつも局の中から出ないのに。
「来たのですね、あれが」
「あれって——」
地響き。
麦畑の向こうから、影が立ち上がった。
——巨大。
身長二メートル以上。筋骨隆々の体躯。左腕が肩から丸ごと欠損している。顔の半分を覆う黒い靄——呪詛痕。錆びついた鎧を纏い、背中には——
何百通もの手紙が、鎖で縛りつけられていた。
「届かなかった……」
声。低く、途切れ途切れ。
「俺には……何も……」
その瞬間、世界が砕けた。
男が腕を振っただけ。それだけで、衝撃波が麦畑を薙ぎ払った。ガレスが僕を突き飛ばす。地面が爆ぜた。土と穂が舞い上がる。
「ガレスさん!」
「下がれ! B級じゃねえ——こいつは——!」
「《未達の呪い》の核」
リネットが呟いた。
「三百年前の、元勇者」
「勇者……?」
「ヴォルグ・ディザスター。世界を救うはずだった人」
男が——ヴォルグが、こちらを見た。呪詛に蝕まれた瞳。でもその奥に、絶望だけじゃない何かが見えた気がした。
「郵便……配達人……か」
「ポ……印……」
ピジョンが震えている。
「届けに……来たのか……?」
「……」
「俺の……想いも……?」
——届けてくれ。
そう、聞こえた気がした。
でも次の瞬間、呪詛が彼の体を包んだ。黒い靄が膨張する。理性が消える。
「届くはずが……ないんだ……!」
咆哮。
大地が割れた。衝撃力——推定八トン以上。直撃したら、僕なんか肉片も残らない。
「蒼介、逃げろ!」
ガレスが立ち向かう。杖を捨て、腰の剣を抜いた。錆びた古剣。でもそれを握った瞬間、老人の体から覇気が溢れた。
元A級の、本気。
剣閃。ヴォルグの拳と交差する。金属音。衝撃波。ガレスが吹き飛ばされて、麦畑に叩きつけられた。
「ガレスさん!」
「逃げろっつってんだろ……!」
血を吐きながら、ガレスは立ち上がった。
「あいつは……俺じゃ止められねえ……。でも時間は稼ぐ……。だから——」
「逃げられません」
僕は言った。
「逃げたら、また誰かが犠牲になる。世界が消える。それに——」
僕は鞄を握りしめた。
「あの人、届けてくれって言ってた」
「何……?」
「届けたいんだと思います。三百年分の、届かなかった想いを」
リネットが僕を見た。紅い瞳が、わずかに揺れていた。
「……あなたには、見えるのですね」
「見えるっていうか——」
「規定にはありませんが」
リネットは首から下げた銀のスタンプを握りしめた。
「彼を救えるのは、あなたしかいない。でも今のあなたでは、届けられない。彼が背負う手紙は——」
「何百通。わかってます」
「すべて届けるには、あなたの記憶がすべて必要です」
「……え?」
「彼に届けた瞬間、あなたは——すべてを、忘れる」
名前も。過去も。祖母のことも。
僕は息を呑んだ。
ヴォルグがガレスを殴り飛ばす音が聞こえた。大地が揺れる。時間がない。
「今日じゃない」
リネットが言った。
「今日じゃ、届けられない。だから——」
「逃げろ、ってことですか」
「違います」
リネットは僕の手を取った。冷たい手。三百年の孤独が凍りついたみたいな、冷たさ。
「届けてください。彼以外の、すべてを。彼の背中にある手紙は、あなたが届けた手紙の数だけ剥がれ落ちる。すべて剥がれた時——」
「届けられる」
「はい」
僕は頷いた。そして——
「ピジョン」
「ポ印……?」
「ガレスさんを連れて、逃げて」
「ポポ印!?」
「僕は——時間を稼ぐ」
馬鹿な選択だとわかっている。でも、ガレスを見捨てられない。彼は僕に、娘への手紙を届けさせてくれた。僕に、配達の意味を教えてくれた。
「死ぬなよ」
ガレスの言葉が蘇る。
「死にません」
僕は走り出した。
「待ちなさい!」
リネットの声を背に、僕はヴォルグに向かって駆けた。
---
「おい……郵便配達人……」
ヴォルグが僕を見た。巨大な影。絶望の化身。
「何しに来た……」
「配達です」
僕は鞄を掲げた。
「あなたの手紙を届けに——いつか、必ず」
ヴォルグの動きが、一瞬だけ止まった。
「……届く、はずがない」
「届きます」
僕は笑った。震えてたけど、笑った。
「僕が届けます。だから——」
拳が振り下ろされた。
避けられない。間に合わない。
——でも。
「ポ印!!!」
ピジョンが飛んだ。羽根が——封筒の羽根が、光を放った。眩い光。ヴォルグが目を逸らした一瞬、僕は転がるように逃げた。
「ピジョン……!」
「ポ印!ポ印!」
ピジョンは僕の肩に戻ってきた。羽根が少し焦げている。でも、生きている。
ガレスがリネットに支えられて、郵便局の方へ向かっていた。間に合った。
「逃げろ……配達人……」
ヴォルグの声。
「今日は……見逃してやる……」
「……え?」
「俺を……救うと言ったな……」
呪詛が、少しだけ薄くなった気がした。
「……待っている。届けに来い」
それだけ言って、ヴォルグは麦畑の闇に消えていった。
僕は膝をついた。体が震えている。恐怖で。安堵で。それから——
「届けなきゃ、な」
口癖が、また漏れた。
空には、琥珀色の光。麦畑は、少しだけ——ほんの少しだけ、黄金色を取り戻していた。
---
四百三十七通目。
残りは、一通だけになった。
「……蒼介さん」
リネットが、震える声で言った。
僕は鞄から最後の手紙を取り出した。古びた封筒。差出人の名前は——読めない。滲んで、かすれて、判別できない。
「宛先を、見てください」
リネットの声には、今まで聞いたことのない感情があった。恐怖。罪悪感。そして——覚悟。
僕は宛名を見た。
『宛先:柊 蒼介様(22歳、事故前日)』
「……え?」
「ポ印……」
ピジョンが、悲しそうに鳴いた。
「最後の手紙は、あなた宛てです」
「僕? でも——」
「事故の前日。届いていれば、あなたは——」
リネットは言葉を切った。その紅い瞳から、初めて涙がこぼれた。
「……死ななかった」
---
差出人は、祖母だった。
滲んだ文字。でも、確かに見覚えがある。優しくて、少し癖のある、祖母の字。
「祖母の……手紙?」
「あなたのお祖母様は、亡くなる直前に手紙を出しました。でも——」
「届かなかった」
「配達の遅延。たった一日。その一日が、あなたを事故に導いた」
僕は封筒を握りしめた。
祖母の葬儀に向かう途中で、僕は事故に遭った。トラックが突っ込んできて。それで——
「この手紙が届いていれば、あなたは葬儀に向かう必要がなかった」
「なんで——」
「お祖母様の手紙には、こう書いてあります」
リネットは、最後の手紙を僕から受け取った。そして、封を開けた。
「規定により——私が、読み上げます」
---
『蒼介へ。
おばあちゃんは、もう長くないみたい。でも心配しないで。
あなたに伝えたいことがあるの。
葬儀には、来なくていい。
おばあちゃんはね、あなたが生きているだけで幸せだった。顔を見せてくれなくても。電話がなくても。あなたがどこかで息をしているって、それだけで——
幸せだったの。
だから、無理して来なくていい。危ない道を急いで来なくていい。あなたは、生きていて。それだけで——
おばあちゃんには、届いてるから。
あなたの想いは、ちゃんと届いてるから。
——愛している孫へ。ばあばより。』
リネットの声が震えていた。
僕は——泣いていた。
「届かなかった……」
膝から崩れ落ちた。
「届いてれば——僕は——」
生きていた。
祖母の葬儀に急いで向かう必要なんてなかった。あの交差点を走らなくてよかった。トラックに轢かれなくてよかった。
たった一通の手紙が、届かなかっただけで。
「……だから、あなたは配達人に選ばれた」
リネットが、僕の前に跪いた。
「届かなかった手紙の痛みを、誰よりも知っているから」
「でも——この手紙を届けたら——」
「過去が変わります。あなたは死なない。この世界に来ない。配達人にならない」
「じゃあ——」
「四百三十七通の配達が、なかったことになる」
---
僕は顔を上げた。
ガレスを見た。老人は、静かに頷いた。
「……俺の娘への手紙。あれは、確かに届いた」
「ポ印」
ピジョンが、僕の肩に頭を擦りつけてきた。
「あなたが届けなければ、世界は今も蝕まれていました」
リネットが言った。
「あなたが届けたから、ヴォルグの呪詛は薄れた。彼の背中の手紙は、すべて剥がれた」
「じゃあ——」
「最後の配達が、残っています」
僕は手紙を見下ろした。祖母からの、届かなかった手紙。これを届ければ——過去の僕に届ければ——
僕は死なない。
でも、配達人にもならない。
「因果が収束します」
リネットが言った。
「あなたが届けた想いは、消えません。世界が覚えている。でも——」
「僕の記憶は」
「すべて、失われます」
四百三十七通分の記憶。ガレスとの旅。ピジョンとの日々。リネットとの——
「……ごめんなさい」
リネットが、また泣いていた。
「私が——三百年前に、届けられなかったから」
「え?」
「ヴォルグへの手紙。勇者への手紙。私が、届けられなかったの。怖かったから。魔王の領域に行くのが怖くて——逃げた」
「リネットさん——」
「私のせいで、彼は堕ちた。世界は呪われた。あなたは死んだ」
「違う」
僕は立ち上がった。
「違う。あなたのせいじゃない」
リネットの肩を掴んだ。冷たい。でも、少しだけ——温かくなった気がした。
「届かなかった想いは、誰のせいでもない。ただ——届ければいい。今から」
「でも——」
「僕が届けます。全部」
僕は笑った。
「届けるのは手紙じゃない。誰かが誰かを想った、その瞬間だ」
リネットの目が、大きく見開かれた。
「——それは」
「あなたが教えてくれたことです」
僕は祖母の手紙を握りしめた。
「行ってきます。最後の配達に」
---
時空を超える感覚は、言葉にできない。
光と闇が混じり合って、意識が引き延ばされて、縮められて——
気づいたら、僕は見知った街角に立っていた。
二十二年前の、僕の家の前。
「……懐かしい」
ポストがある。赤い、郵便ポスト。
僕は手紙を、そっとポストに入れた。
カタン、と小さな音。
それだけで——
世界が、光に包まれた。
---
『蒼介へ。葬儀には、来なくていい——』
祖母の声が、聞こえた気がした。
『あなたは、生きていて』
視界が白くなる。記憶が、一つずつ消えていく。
ガレスの顔が——消えた。
ピジョンの鳴き声が——消えた。
リネットの、紅い瞳が——
「——蒼介さん」
声が聞こえた。遠くから。
「届きました。全部——届きました」
涙の混じった声。
「ありがとう——」
消えた。
---
僕は——
誰だ?
名前が、思い出せない。
どこにいる? 何をしていた?
何も、わからない。
でも——
「届けなきゃ、な」
口から、言葉が漏れた。
意味はわからない。でも、大事な言葉だと——体が覚えていた。
光が収まる。
視界が戻る。
——麦畑。
見渡す限りの、黄金色。
さわさわと、風が鳴いている。
「——お帰りなさい」
声がした。
振り返る。
白い髪。紅い瞳。オーバーサイズの紺色の制服。
少女が、泣きながら笑っていた。
「……誰?」
僕は訊いた。
少女は——リネットは——
「あなたの名前は、柊蒼介」
「柊……蒼介……」
「あなたは、配達人でした」
「配達人……」
「四百三十八通の手紙を、届けてくれました」
リネットは、僕の手を取った。温かい。さっきまでは冷たかったのに——違う、さっきって何だ?
「ポ印!」
何かが僕の肩に降り立った。丸っこい鳩。羽根が封筒みたいで、目が消印みたいな——
「ピジョン……」
名前が、勝手に出てきた。
「……覚えてる。なんで」
「想いは、消えません」
リネットが言った。
「届けた想いは、世界が覚えている。だから——あなたも、少しずつ思い出せる」
「思い出せる……」
「全部じゃなくても。少しずつ。ゆっくりと」
リネットは、初めて——本当に初めて——笑った。
「これからは、私が届けます」
「届ける?」
「あなたの記憶を。あなた自身に」
リネットは僕の手を引いた。
「だから——一緒に、いてください」
---
麦畑が、風に揺れている。
黄金色の海。琥珀色の空。
僕は——名前を取り戻したばかりの僕は——少女の手を握り返した。
「……届けなきゃ、な」
何を届けるのかは、まだわからない。
でも、この手の温もりは——
「ポ印!」
ピジョンが、元気よく鳴いた。
——確かに、届いている。
届けるのは、手紙じゃない。
誰かが誰かを想った、その瞬間だ。
そして今、僕は——
想いを、受け取った。
麦畑の郵便局。
僕の配達は、終わった。
でも、物語は——
まだ、続いていく。




