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届かなかった手紙が、異世界を救う鍵だった件~麦畑の郵便局で僕は配達人になる~

作者: uta
掲載日:2026/06/19

死んだはずなのに、麦の匂いがする。


目を開けた瞬間、視界を埋め尽くしたのは黄金色だった。見渡す限りの麦畑。穂先が風に揺れて、さわさわと囁くような音を立てている。空は夕焼けでも朝焼けでもない、琥珀色の永遠みたいな光に満ちていた。


「……は?」


僕——柊蒼介、享年22歳——は、自分の手のひらを見下ろした。傷一つない。さっきまで、確かにトラックのヘッドライトが視界を焼いて、衝撃があって、それで——


「届けてください」


声がした。振り返る。


麦畑の中心に、朽ち果てた郵便局がぽつんと建っていた。木の外壁は灰色に風化し、赤かったであろうポストは錆に覆われている。その入り口に、少女が立っていた。


腰まで届く真っ白な髪。封蝋みたいに深い紅色の瞳。オーバーサイズの紺色の制服——金のボタンが鈍く光っている。郵便局長の制服だと、なぜか直感でわかった。


少女は僕に向かって、古びた革の郵便鞄を差し出した。


「届けられなかった手紙が、この世界を蝕んでいる」


「……待って。ここどこ? 僕、死んだんじゃ」


「規定により、届けてください」


会話が成立しない。少女は無表情のまま、鞄を押しつけてくる。仕方なく受け取ると、ずしりと重い。金具には錆が浮いていたが、そこに刻まれた文字だけは妙にはっきり読めた。


『ちゃんと届く』


嘘だろ、と思った。


「中を」


言われるまま、鞄を開ける。


——数百通。


手紙がぎっしり詰まっていた。黄ばんだ封筒、赤い封蝋で閉じられたもの、子供の字で宛名が書かれたもの。どれもこれも、時代も筆跡もバラバラだ。


一通を手に取る。宛先を読んで、息が止まった。


『宛先:魔王ゼノヴァルド・ディザスター様』


「……魔王?」


「はい」


別の一通。


『宛先:滅びたリシュテール王国 国民各位』


「滅びた国に届けろって、どうやって」


「配達人には、それが可能です」


少女は淡々と続けた。


「届かなかった想いは《未達の呪い》となり、世界を侵食します。あなたの使命は、時空を超えてすべての手紙を届けること」


「時空を超えて。すべて」


僕は鞄の中を見下ろした。数百通。いや、もっとあるかもしれない。底が見えない。


「届けるたびに、あなたは記憶を一つ失います」


「は?」


「届けなければ、世界が一つ消えます」


「はァ!?」


「規定です」


少女——後にリネットと名乗ることになる——は、初めてわずかに目を伏せた。


「……ごめんなさい」


何に対する謝罪なのか、その時の僕にはわからなかった。


「ポ印!」


突然、何かが僕の肩に降り立った。見ると、手のひらサイズの丸っこい鳩。いや、鳩……か? 羽根が封筒みたいな紙質で、目には消印みたいな円形模様がある。足には赤いリボン。


「……何、この生き物」


「ピジョンです。あなたの案内役」


「ポポ印!」


鳩もどきは得意げに胸を張った。


僕は深呼吸した。死んだ。異世界。郵便局。届かなかった手紙。記憶を失う。世界が消える。


情報量が多すぎる。


「……一つだけ、聞いていい?」


「どうぞ」


「届けるのは、手紙だけ?」


リネットは少しだけ間を置いた。琥珀色の光が、彼女の白い髪を淡く染めている。


「いいえ」


その声は、初めて少しだけ人間らしく揺れた気がした。


「届けるのは、誰かが誰かを想った——その瞬間です」


麦畑が風に揺れる。さわさわ、さわさわ。まるで無数の声が囁いているみたいに。


僕は鞄の紐を肩にかけ直した。


「……届けなきゃ、な」


口癖が、勝手に漏れた。


——こうして僕は、死んでから郵便配達人になった。


届ける手紙は数百通。届けるたびに何かを失い、届けなければ世界が終わる。


麦畑の郵便局。


僕の、途方もない配達が始まる。


---


最初の配達先は、拍子抜けするほど近かった。


「麦畑を抜けて東へ三刻。エルドナ村」


リネットが差し出した一通の手紙。宛名はこうだった。


『宛先:ミーシャ・オルドグラム様(故人)』


「故人って書いてある」


「はい」


「届けられるの?」


「届けてください。規定です」


「ポ印ー」


ピジョンが鞄の中に潜り込んで、手紙の匂いを嗅いでいる。そしてなぜか、しょっぱそうな顔をした。塩でも舐めたみたいに嘴を開閉させている。


「……何してるの」


「手紙の感情を味わっているのでしょう。悲しい手紙は、塩辛いそうです」


「塩辛い」


僕は手紙を見下ろした。封筒は新しくもなく、古くもない。十年くらい前のものに見える。差出人の名前は——


『差出人:ガレス・オルドグラム』


父親から、死んだ娘への手紙。


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


——届かなかった手紙。


それは僕にとって、他人事じゃない。


---


エルドナ村は、小さな集落だった。石造りの家が二十軒ほど。中央に井戸。畑と牧場。どこにでもあるような、平和な村。


《未達の呪い》の影響は、見た目にはわからない。でもリネットは言っていた。『見えないところから、じわじわと蝕むのです』と。


村人に道を聞いて、墓地を目指す。


「お若いの、何の用だい?」


声をかけてきたのは、老婆だった。僕の格好——白シャツに紺のカーディガン、革の郵便鞄——を見て、怪訝そうな顔をしている。


「郵便配達です。ミーシャ・オルドグラムさんの、お墓を探していて」


老婆の表情が固まった。


「……ミーシャちゃんに、手紙?」


「はい」


「あの子が亡くなって、もう十年になるよ」


「……知っています」


老婆は僕を値踏みするように見つめ、それから溜息をついた。


「村外れの丘だよ。でも——あの子の父親には、気をつけな」


「父親?」


「ガレスさ。元A級冒険者だったんだが、今じゃ廃人同然でね。妻に続いて娘まで亡くして、ずっとあの墓の前に……」


老婆は言葉を濁した。


僕は礼を言って、丘へ向かった。


---


墓は、丘の上にあった。


小さな石碑。その前に、男がいた。


——でかい。


座っているのに、威圧感が尋常じゃない。白髪交じりの短髪、深い皺、杖を握る節くれだった手。右頬から顎にかけて、古い刀傷。年老いて背は曲がっているが、目だけは獰猛に光っている。


元A級冒険者。ガレス・オルドグラム。


「……何の用だ」


低い声。敵意はない。でも、拒絶がある。


僕は鞄から手紙を取り出した。


「配達です。ミーシャ・オルドグラムさん宛て」


男の目が、一瞬だけ揺れた。


「……何の冗談だ」


「冗談じゃないです。届かなかった手紙を届けに来ました」


「届かなかった?」


僕は手紙の差出人を見せた。


——ガレス・オルドグラム。


男の顔から、血の気が引いた。


「……それを、どこで」


「届けに来ました」


「やめろ」


「届けないと——」


「やめろと言っている!」


杖が振り下ろされた。反射的に飛び退く。地面が砕けた。老人の一撃じゃない。全盛期の四割だとしても、これがA級か。


「ポポ印!!」


ピジョンが羽を逆立てて警告を発する。


「その手紙は——俺が、出せなかったものだ」


男の声が震えていた。


「娘が病で倒れた時、俺は冒険に出ていた。妻に任せきりにした。戻った時には、もう手遅れだった」


「……」


「最期に、ごめんと言えなかった。だから手紙を書いた。でも——出せるわけがないだろう」


男は笑った。自嘲と苦痛の混じった、歪んだ笑み。


「死んだ娘に、手紙を出して何になる。届くはずがない。読まれるはずがない。俺の謝罪なんか、あの子には——」


「届きます」


僕は言った。


「届けられます。だから、来ました」


男が僕を見た。鋭い目。でもその奥に、十年分の後悔が澱のように溜まっているのが見えた気がした。


僕は封を開けた。


「何を——」


「届けます」


墓の前に跪く。手紙を広げる。そして——


読み上げた。


『ミーシャへ。


父さんは、ずっと謝れなかった。お前が熱を出した時、俺は魔物退治の依頼を受けていた。母さんから手紙が来て、すぐに帰るべきだった。でも俺は、「あと一日で終わる」と——』


男が息を呑む音がした。


『帰った時、お前はもう目を開けなかった。母さんは何も言わなかった。でも俺にはわかった。お前は最期に、父さんに会いたがっていたって。


——ごめんな、ミーシャ。


父さんは、お前のそばにいてやれなかった。剣を振ることしか能がなくて、お前の手を握ることもできなかった。


お前が作ってくれた押し花の栞、まだ持ってる。ずっと持ってる。


ごめんな。


愛してた。ずっと。今も。


——父より』


風が吹いた。麦の穂が揺れる音が、遠くから聞こえた。


僕の手の中で、手紙が淡く光った。そして——消えた。封筒ごと、光の粒になって、墓石に吸い込まれていく。


届いた。


そう、直感でわかった。


「……届いた、のか」


男が呟いた。その声は、もう震えていなかった。


「……届いた……のか……っ」


——崩れた。


元A級冒険者。歴戦の強者。その大男が、膝から崩れ落ちて、墓石にすがりついて、泣いていた。


「ミーシャ……ミーシャ……っ!」


嗚咽。十年分の、届けられなかった想いが溢れ出していた。


僕は黙って立っていた。かける言葉なんてない。でも、立ち去ることもできなかった。


ピジョンが僕の肩に戻ってきて、小さく「ポ印……」と鳴いた。今度はしょっぱそうじゃなかった。どこか、温かい味がしたのかもしれない。


---


「——あんた、何者だ」


しばらくして、男が立ち上がった。目は赤いが、もう泣いてはいなかった。


「柊蒼介です。配達人……らしいです」


「配達人」


「届かなかった手紙を届ける仕事、みたいな」


男は僕を見下ろした。身長差、二十センチ以上。威圧感は相変わらずだが、さっきまでの拒絶は消えていた。


「……俺は、ガレス。ガレス・オルドグラム」


「知ってます。手紙に——」


「元A級冒険者だ。今はただの老いぼれだが」


男は——ガレスは、僕の鞄を見た。


「そこにはまだ、手紙があるんだな」


「……数百通」


「全部届けるのか」


「届けないと、世界が消えるって」


「……で?」


「え?」


「一人で回るつもりか」


僕は言葉に詰まった。一人で。考えてなかった。リネットは郵便局から動けないみたいだし、ピジョンは戦闘力ゼロだし。


「あんたみたいなひょろいのが、《未達の呪い》の怨念体と戦えるとは思えん」


ガレスは杖を掴み直した。そして——


「……死ぬなよ」


それだけ言って、歩き出した。


「え、ちょっと」


「ついて来い。次の配達先まで送ってやる」


「いや、あの」


「俺にも——届けられなかった手紙がある」


ガレスは振り返らなかった。


「いつか、あんたに届けてもらう。だからそれまでは、死ぬな」


僕は呆然と立ち尽くして——それから、小さく笑った。


「……なんだそれ」


ピジョンが「ポ印!」と元気よく鳴いた。


麦畑の向こうに、夕日が沈んでいく。いや、この世界に夕日があるのかもわからないけど。


最初の配達、完了。


——あ。


「ポ印?」


……何か、忘れた気がする。


何だったっけ。大事な……何か。誰かの顔が、ぼやけて——


『届けるたびに、あなたは記憶を一つ失います』


リネットの声が蘇った。


僕は胸に手を当てた。欠けた何かの輪郭を探るように。でも、もう思い出せない。


——これが、代償か。


「おい、何をしている」


ガレスの声がした。


「……行きます」


僕は歩き出した。まだ数百通ある。届けるたびに失う。届けなければ世界が消える。


それでも。


「届けなきゃ、な」


口癖が、また漏れた。


---


七十二通目の配達を終えた夜だった。


「来る」


ガレスが杖を構えた。老齢とは思えない、獣じみた気配察知。三ヶ月の同行で、何度も助けられた。


「怨念体ですか」


「違う。もっと——でかい」


空気が変わった。


麦畑が、黒く染まっていく。黄金色の穂先が、一本また一本と灰色に枯れていく。腐臭。怨嗟。世界が悲鳴を上げているみたいな、不快な音が耳の奥で鳴る。


ピジョンが「ポポポポ印!!」と絶叫して、僕の鞄の中に潜り込んだ。見たことない怯え方だった。


「蒼介」


リネットの声。郵便局の扉から、彼女が駆け出してきた。珍しい。いつも局の中から出ないのに。


「来たのですね、あれが」


「あれって——」


地響き。


麦畑の向こうから、影が立ち上がった。


——巨大。


身長二メートル以上。筋骨隆々の体躯。左腕が肩から丸ごと欠損している。顔の半分を覆う黒い靄——呪詛痕。錆びついた鎧を纏い、背中には——


何百通もの手紙が、鎖で縛りつけられていた。


「届かなかった……」


声。低く、途切れ途切れ。


「俺には……何も……」


その瞬間、世界が砕けた。


男が腕を振っただけ。それだけで、衝撃波が麦畑を薙ぎ払った。ガレスが僕を突き飛ばす。地面が爆ぜた。土と穂が舞い上がる。


「ガレスさん!」


「下がれ! B級じゃねえ——こいつは——!」


「《未達の呪い》の核」


リネットが呟いた。


「三百年前の、元勇者」


「勇者……?」


「ヴォルグ・ディザスター。世界を救うはずだった人」


男が——ヴォルグが、こちらを見た。呪詛に蝕まれた瞳。でもその奥に、絶望だけじゃない何かが見えた気がした。


「郵便……配達人……か」


「ポ……印……」


ピジョンが震えている。


「届けに……来たのか……?」


「……」


「俺の……想いも……?」


——届けてくれ。


そう、聞こえた気がした。


でも次の瞬間、呪詛が彼の体を包んだ。黒い靄が膨張する。理性が消える。


「届くはずが……ないんだ……!」


咆哮。


大地が割れた。衝撃力——推定八トン以上。直撃したら、僕なんか肉片も残らない。


「蒼介、逃げろ!」


ガレスが立ち向かう。杖を捨て、腰の剣を抜いた。錆びた古剣。でもそれを握った瞬間、老人の体から覇気が溢れた。


元A級の、本気。


剣閃。ヴォルグの拳と交差する。金属音。衝撃波。ガレスが吹き飛ばされて、麦畑に叩きつけられた。


「ガレスさん!」


「逃げろっつってんだろ……!」


血を吐きながら、ガレスは立ち上がった。


「あいつは……俺じゃ止められねえ……。でも時間は稼ぐ……。だから——」


「逃げられません」


僕は言った。


「逃げたら、また誰かが犠牲になる。世界が消える。それに——」


僕は鞄を握りしめた。


「あの人、届けてくれって言ってた」


「何……?」


「届けたいんだと思います。三百年分の、届かなかった想いを」


リネットが僕を見た。紅い瞳が、わずかに揺れていた。


「……あなたには、見えるのですね」


「見えるっていうか——」


「規定にはありませんが」


リネットは首から下げた銀のスタンプを握りしめた。


「彼を救えるのは、あなたしかいない。でも今のあなたでは、届けられない。彼が背負う手紙は——」


「何百通。わかってます」


「すべて届けるには、あなたの記憶がすべて必要です」


「……え?」


「彼に届けた瞬間、あなたは——すべてを、忘れる」


名前も。過去も。祖母のことも。


僕は息を呑んだ。


ヴォルグがガレスを殴り飛ばす音が聞こえた。大地が揺れる。時間がない。


「今日じゃない」


リネットが言った。


「今日じゃ、届けられない。だから——」


「逃げろ、ってことですか」


「違います」


リネットは僕の手を取った。冷たい手。三百年の孤独が凍りついたみたいな、冷たさ。


「届けてください。彼以外の、すべてを。彼の背中にある手紙は、あなたが届けた手紙の数だけ剥がれ落ちる。すべて剥がれた時——」


「届けられる」


「はい」


僕は頷いた。そして——


「ピジョン」


「ポ印……?」


「ガレスさんを連れて、逃げて」


「ポポ印!?」


「僕は——時間を稼ぐ」


馬鹿な選択だとわかっている。でも、ガレスを見捨てられない。彼は僕に、娘への手紙を届けさせてくれた。僕に、配達の意味を教えてくれた。


「死ぬなよ」


ガレスの言葉が蘇る。


「死にません」


僕は走り出した。


「待ちなさい!」


リネットの声を背に、僕はヴォルグに向かって駆けた。


---


「おい……郵便配達人……」


ヴォルグが僕を見た。巨大な影。絶望の化身。


「何しに来た……」


「配達です」


僕は鞄を掲げた。


「あなたの手紙を届けに——いつか、必ず」


ヴォルグの動きが、一瞬だけ止まった。


「……届く、はずがない」


「届きます」


僕は笑った。震えてたけど、笑った。


「僕が届けます。だから——」


拳が振り下ろされた。


避けられない。間に合わない。


——でも。


「ポ印!!!」


ピジョンが飛んだ。羽根が——封筒の羽根が、光を放った。眩い光。ヴォルグが目を逸らした一瞬、僕は転がるように逃げた。


「ピジョン……!」


「ポ印!ポ印!」


ピジョンは僕の肩に戻ってきた。羽根が少し焦げている。でも、生きている。


ガレスがリネットに支えられて、郵便局の方へ向かっていた。間に合った。


「逃げろ……配達人……」


ヴォルグの声。


「今日は……見逃してやる……」


「……え?」


「俺を……救うと言ったな……」


呪詛が、少しだけ薄くなった気がした。


「……待っている。届けに来い」


それだけ言って、ヴォルグは麦畑の闇に消えていった。


僕は膝をついた。体が震えている。恐怖で。安堵で。それから——


「届けなきゃ、な」


口癖が、また漏れた。


空には、琥珀色の光。麦畑は、少しだけ——ほんの少しだけ、黄金色を取り戻していた。


---


四百三十七通目。


残りは、一通だけになった。


「……蒼介さん」


リネットが、震える声で言った。


僕は鞄から最後の手紙を取り出した。古びた封筒。差出人の名前は——読めない。滲んで、かすれて、判別できない。


「宛先を、見てください」


リネットの声には、今まで聞いたことのない感情があった。恐怖。罪悪感。そして——覚悟。


僕は宛名を見た。


『宛先:柊 蒼介様(22歳、事故前日)』


「……え?」


「ポ印……」


ピジョンが、悲しそうに鳴いた。


「最後の手紙は、あなた宛てです」


「僕? でも——」


「事故の前日。届いていれば、あなたは——」


リネットは言葉を切った。その紅い瞳から、初めて涙がこぼれた。


「……死ななかった」


---


差出人は、祖母だった。


滲んだ文字。でも、確かに見覚えがある。優しくて、少し癖のある、祖母の字。


「祖母の……手紙?」


「あなたのお祖母様は、亡くなる直前に手紙を出しました。でも——」


「届かなかった」


「配達の遅延。たった一日。その一日が、あなたを事故に導いた」


僕は封筒を握りしめた。


祖母の葬儀に向かう途中で、僕は事故に遭った。トラックが突っ込んできて。それで——


「この手紙が届いていれば、あなたは葬儀に向かう必要がなかった」


「なんで——」


「お祖母様の手紙には、こう書いてあります」


リネットは、最後の手紙を僕から受け取った。そして、封を開けた。


「規定により——私が、読み上げます」


---


『蒼介へ。


おばあちゃんは、もう長くないみたい。でも心配しないで。


あなたに伝えたいことがあるの。


葬儀には、来なくていい。


おばあちゃんはね、あなたが生きているだけで幸せだった。顔を見せてくれなくても。電話がなくても。あなたがどこかで息をしているって、それだけで——


幸せだったの。


だから、無理して来なくていい。危ない道を急いで来なくていい。あなたは、生きていて。それだけで——


おばあちゃんには、届いてるから。


あなたの想いは、ちゃんと届いてるから。


——愛している孫へ。ばあばより。』


リネットの声が震えていた。


僕は——泣いていた。


「届かなかった……」


膝から崩れ落ちた。


「届いてれば——僕は——」


生きていた。


祖母の葬儀に急いで向かう必要なんてなかった。あの交差点を走らなくてよかった。トラックに轢かれなくてよかった。


たった一通の手紙が、届かなかっただけで。


「……だから、あなたは配達人に選ばれた」


リネットが、僕の前に跪いた。


「届かなかった手紙の痛みを、誰よりも知っているから」


「でも——この手紙を届けたら——」


「過去が変わります。あなたは死なない。この世界に来ない。配達人にならない」


「じゃあ——」


「四百三十七通の配達が、なかったことになる」


---


僕は顔を上げた。


ガレスを見た。老人は、静かに頷いた。


「……俺の娘への手紙。あれは、確かに届いた」


「ポ印」


ピジョンが、僕の肩に頭を擦りつけてきた。


「あなたが届けなければ、世界は今も蝕まれていました」


リネットが言った。


「あなたが届けたから、ヴォルグの呪詛は薄れた。彼の背中の手紙は、すべて剥がれた」


「じゃあ——」


「最後の配達が、残っています」


僕は手紙を見下ろした。祖母からの、届かなかった手紙。これを届ければ——過去の僕に届ければ——


僕は死なない。


でも、配達人にもならない。


「因果が収束します」


リネットが言った。


「あなたが届けた想いは、消えません。世界が覚えている。でも——」


「僕の記憶は」


「すべて、失われます」


四百三十七通分の記憶。ガレスとの旅。ピジョンとの日々。リネットとの——


「……ごめんなさい」


リネットが、また泣いていた。


「私が——三百年前に、届けられなかったから」


「え?」


「ヴォルグへの手紙。勇者への手紙。私が、届けられなかったの。怖かったから。魔王の領域に行くのが怖くて——逃げた」


「リネットさん——」


「私のせいで、彼は堕ちた。世界は呪われた。あなたは死んだ」


「違う」


僕は立ち上がった。


「違う。あなたのせいじゃない」


リネットの肩を掴んだ。冷たい。でも、少しだけ——温かくなった気がした。


「届かなかった想いは、誰のせいでもない。ただ——届ければいい。今から」


「でも——」


「僕が届けます。全部」


僕は笑った。


「届けるのは手紙じゃない。誰かが誰かを想った、その瞬間だ」


リネットの目が、大きく見開かれた。


「——それは」


「あなたが教えてくれたことです」


僕は祖母の手紙を握りしめた。


「行ってきます。最後の配達に」


---


時空を超える感覚は、言葉にできない。


光と闇が混じり合って、意識が引き延ばされて、縮められて——


気づいたら、僕は見知った街角に立っていた。


二十二年前の、僕の家の前。


「……懐かしい」


ポストがある。赤い、郵便ポスト。


僕は手紙を、そっとポストに入れた。


カタン、と小さな音。


それだけで——


世界が、光に包まれた。


---


『蒼介へ。葬儀には、来なくていい——』


祖母の声が、聞こえた気がした。


『あなたは、生きていて』


視界が白くなる。記憶が、一つずつ消えていく。


ガレスの顔が——消えた。


ピジョンの鳴き声が——消えた。


リネットの、紅い瞳が——


「——蒼介さん」


声が聞こえた。遠くから。


「届きました。全部——届きました」


涙の混じった声。


「ありがとう——」


消えた。


---


僕は——


誰だ?


名前が、思い出せない。


どこにいる? 何をしていた?


何も、わからない。


でも——


「届けなきゃ、な」


口から、言葉が漏れた。


意味はわからない。でも、大事な言葉だと——体が覚えていた。


光が収まる。


視界が戻る。


——麦畑。


見渡す限りの、黄金色。


さわさわと、風が鳴いている。


「——お帰りなさい」


声がした。


振り返る。


白い髪。紅い瞳。オーバーサイズの紺色の制服。


少女が、泣きながら笑っていた。


「……誰?」


僕は訊いた。


少女は——リネットは——


「あなたの名前は、柊蒼介」


「柊……蒼介……」


「あなたは、配達人でした」


「配達人……」


「四百三十八通の手紙を、届けてくれました」


リネットは、僕の手を取った。温かい。さっきまでは冷たかったのに——違う、さっきって何だ?


「ポ印!」


何かが僕の肩に降り立った。丸っこい鳩。羽根が封筒みたいで、目が消印みたいな——


「ピジョン……」


名前が、勝手に出てきた。


「……覚えてる。なんで」


「想いは、消えません」


リネットが言った。


「届けた想いは、世界が覚えている。だから——あなたも、少しずつ思い出せる」


「思い出せる……」


「全部じゃなくても。少しずつ。ゆっくりと」


リネットは、初めて——本当に初めて——笑った。


「これからは、私が届けます」


「届ける?」


「あなたの記憶を。あなた自身に」


リネットは僕の手を引いた。


「だから——一緒に、いてください」


---


麦畑が、風に揺れている。


黄金色の海。琥珀色の空。


僕は——名前を取り戻したばかりの僕は——少女の手を握り返した。


「……届けなきゃ、な」


何を届けるのかは、まだわからない。


でも、この手の温もりは——


「ポ印!」


ピジョンが、元気よく鳴いた。


——確かに、届いている。



届けるのは、手紙じゃない。


誰かが誰かを想った、その瞬間だ。


そして今、僕は——


想いを、受け取った。



麦畑の郵便局。


僕の配達は、終わった。


でも、物語は——


まだ、続いていく。

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