はじめての感情
朝。
いつも通り、俺は寝坊しかけていた。
制服に急いで着替え、リュックを肩にかける。朝食は抜きだ。
駅まで全力で走る。
靴底がホームのタイルを叩く音、肺が痛くなる息。
「――っ、セーフ」
電車のドアが閉まる寸前に滑り込む。
肩で荒い息をしながら、スマホを取り出す。
6時14分。
なんでいつももう少し早く起きられないんだ。
心の中で文句を言いながら、汗をぬぐう。
原因はわかっている。
昨夜もバスケの動画を見て、寝るのが遅くなったのだ。
俺はバスケが好きだ。
とにかく、好きで仕方ない。
だから最近、朝練にも毎日行くことにした。
眠くても、きつくても、コートに立てば、全部どうでもよくなる。
この時間の電車は、人が少ない。
部活のやつ、早い仕事の人、そして――
いつも決まって同じ場所にいる人がいる。
車両の端、窓際の席。
小さな女の子が、本を読んでいる。
今日も同じだ。
ページをめくる指。
電車が揺れて、かすかな金属音が響く。
窓から朝の光が、彼女の横顔を静かに照らす。
俺はふと、視線をそらした。
……別に、見ていたわけじゃない。
ただ、気づいただけだ。
その子に初めて気づいたのは、六月だった。
俺が「朝練、毎日行こう」と決めた日。
それからほぼ毎日、同じ電車に乗っている。
そして――
その子も、毎日いる。
本を読んでいる。
いつも同じ席で。
名前も知らない。
学校も知らない。
でも、なぜか――
気づくと探してしまう。
今日もいるかなって。
俺はつり革を掴みながら、そっと視線を戻した。
ページをめくる手が、ふと止まった。
静かな、ほんの一瞬――
そして、目が合った。
彼女は少し驚いたように目を見開き、
すぐに視線を本へ落とす。
顔の半分が隠れるように本を抱えたその仕草。
指先がページの上を滑る。
電車の揺れに合わせて、髪の房がふわりと揺れる。
なぜか、見ているだけで心が少しざわつく。
その子の世界に、俺だけが迷い込んだみたいで――
――話しかけてみようかな。
小さな勇気が胸の中で芽生える。
けど、考えるとすぐに不安になる。
俺の高校は男子校。
女の子と話すのは、正直苦手だ。
それでも……
「……あの、本……」
小さく声を出してみる。
心臓が跳ねる。
この声が、届くのか、それとも気づかれないのか。
彼女は顔を上げ、ゆっくりと俺を見た――




