プロローグ
物理暴力は今や昔。文明人ならば挨拶で殴れ。
「どうもこんにちは。」
その瞬間、応接間の扉から私は動けなくなっていた。
軽く腰を折った男の黒い瞳には、情けない私の全身が鏡のように映っている。
細身に見える紺のスーツの下には、鍛え抜かれた筋肉の隆起がはっきりと浮かんでいた。
勝てない。
本能がそう告げた。
たった今、私は“挨拶”に惨敗したのだ。
ジェルで丁寧に撫でつけられた七三フェードが月光を反射し、揃えられた踵は地に杭を打ち込んだように揺るがない。
その姿は、地面に突き立った一振りの刀。
背後に立つ彼の礼影―大鷹の巨人―が肩に手を添える様は、今にも刀を抜き放ち、私を両断する幻を見せる。
鈍い銀色のワイヤーグラスが光を弾き、切れ長の目に宿る気迫を照らしていた。
これこそが挨拶。
挨拶を制する者がすべてを制す。
向かい合った瞬間に、優劣は決まる。
なぜだ。何が違う。
相手は同格の第八次企業の新規事業担当。経験も浅く、挨拶の心得も大したことはないと高を括っていた。
優秀なのは当たり前。特権を得るには、考えなしの自由市民とは圧倒的な差を見せつけねばならない。
幼少より道場に通い、同輩が桃色遊戯に溺れる間も鍛錬を続けてきた。
自分はこんなところで終わらない。第3次子会社の輩を負かした実績もある。
負けるはずがない――数秒前まではそう信じていた。
それなのに。
なぜ私は、この男とこれほどの差を感じてしまうのか。
情けない。情けない。
丹田に力が入り、涙腺に集まるものを必死に堪え、視線だけは逸らさないようにする。
課内選任の激闘を勝ち抜いて天狗になった矢先にこの大敗。目も当てられない。
恥ずかしい。恥ずかしい。
顔が溶けるほど熱い。
声量で相手を下す我が爆鼓流挨拶で返す気概など、もはや残っていない。
今さら渾身の挨拶を返しても、ただの“大きい声の元気な挨拶”にしか見えないだろう。
磨き上げてきた奥義が稚拙と評価される恐怖が、喉を締めつける。
イーストウェークベース拡張のプラント拡充権を賭けたこの商談は、すでにご破算だ。
イニシアチブは相手にある。
こちらの要求は通らない。
私は敗北を認めてしまった。そして彼は勝利を確信している。
これが決まれば得られる貢献ポイントは計り知れないのに。
やっと掴んだチャンスなのに。
足をすくわれるのはいつも一瞬だ。
慢心、楽観、怠惰――いつも私の邪魔をする。
特権階級は霞の彼方。
数分前の自信満々の自分の顔面に、この握りしめた拳を叩きつけてやりたい。
悔しい。悔しい。
このままで終わるものか。
どんな手を使っても、何年かかろうとも、この男を越えねば野望は叶わない。
今こそ誓おう。八百万の神々に。
必ずリベンジを果たし、我が礼影・二ホンオオカミがお前を屈服させると。
決して忘れぬぞ。
錦山末吉。
世渡り上手の基本は愛想のいい挨拶だと理解し始めましたが、シャイボーイの私にはどうにもうまくこなせないので駄文へ昇華させようと思います。
定期更新は難しいですが、お時間がありましたら楽しんでいただけると嬉しいです。




