契約
彼女は、にこっと笑った。
計算されたものじゃない。
けれど、あまりにも自然で、無防備で――だからこそ心臓に悪い笑顔だった。
「これ、誰にも言わないからさ――もう一回、飛んでみて?」
……それだけ?
拍子抜けするほど、単純な要求だった。
もっとこう、脅し文句とか、無茶な命令とかを覚悟していた俺は、思わず間抜けな顔をしてしまう。
「ここなら、誰も来ないでしょ」
高梨さんは、ぐるりと旧校舎の裏を見渡す。
確かに、人通りはほぼゼロ。
校舎の死角になっていて、用事がない限り誰も近づかない場所だ。
……とはいえ。
「本当に、ちょっとだけだよ」
俺は念を押しながら、少しだけ迷ってから頷いた。
「わかった」
「やったー!」
彼女は、子供みたいにぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。
……芸能人。
学校のマドンナ。
男子の視線を一身に集める存在。
そんな人が、今は俺の目の前で、無邪気に喜んでいる。
浮かぶだけでも“飛んだ”と言っていいだろう。
そう自分に言い聞かせ、俺は力を込める。
ふわり。
身体が、地面から離れた。
ほんの数十センチ。
それでも、確かな浮遊感。
「すご……」
高梨さんは、息を呑んだ。
「本当に、飛んでる……」
その目は、疑いじゃなかった。
好奇心でも、好奇心以上でもなく――
本気で、感動している目だった。
「ね、他にもできることある?」
……鋭い。
さすがに、勘がいい。
いや、この人が鈍いわけがない。
だが、ここで全部話すのは得策じゃない。
能力の全容を知られるメリットは、今のところ一つもない。
「いや……これだけだよ」
少しだけ、言葉を選んで答える。
「そっか。でも、それでも十分すごいって」
あっさりと納得した様子で、彼女は微笑んだ。
……助かった。
そのときだった。
ザッ、ザッ。
雪を踏みしめる足音が、はっきりと近づいてくる。
「……やばい、誰か来る」
反射的に、身体が動いた。
俺は彼女の腕を引き寄せ、そのまま物陰へと押し込む。
近い。
近すぎる。
コート越しでも分かる体温。
一瞬、思考が真っ白になる。
心臓の音が、彼女に聞こえてしまいそうだった。
すぐそばを、男女の生徒が通り過ぎていく。
「……こんなとこ呼び出してごめん」
「別にいいけど」
告白だの、振られただの。
そんな会話が耳に入った気がするが、正直どうでもよかった。
今は、それどころじゃない。
やがて足音が遠ざかる。
俺は、我に返ったように彼女から離れた。
「ご、ごめん! 咄嗟に……!」
「……別にいいけど」
そう言いながらも、じっと睨まれる。
怒っている、というより――
距離感を測られているような視線だった。
「でもさ」
高梨さんは、何事もなかったかのようにスマホを取り出す。
「連絡先、交換しよ?」
……拒否権、ある?
ない。
俺は観念してスマホを差し出した。
登録が終わると、彼女は満足そうに画面を見つめ、にやっと笑う。
「じゃあ約束ね」
その一言で、嫌な予感が確信に変わる。
「――一ヶ月間、私のお願い、聞いて」
軽い口調。
冗談みたいな言い方。
なのに、妙に重かった。
「安心して。誰にも言わないから」
……その代わり、か。
喉が鳴る。
「……了解しました」
そう答えた瞬間、俺は気づいていた。
これは、
始まりだ。
帰り道。
背後から、視線を感じた。
「……?」
振り向く。
誰もいない。
街灯の下に、俺一人。
――今の、気のせいだよな。
そう思おうとした瞬間、
胸の奥に、嫌なざわめきが残った。
この夜から、
俺の日常は、確実にズレ始めている。




