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9憂鬱で優然

楽しい雰囲気と、ほんの少しの狂気を味わいながら——

教室には不思議な“余韻”のような時間が流れていた。


外の春の光は少し傾き、カーテン越しに淡く差し込み、机の表面を柔らかく照らす。

その光に照らされる子どもたちの横顔は、どこかゆったりしていて、先ほどまでの賑やかさが嘘みたいに静かだった。


そんな穏やかな空気を、チャイムの音がすっと切り裂いた。

交流会の終わりを告げる、あの乾いた金属音。


胸の奥で、わずかに何かが沈み落ちる。


(……終わっちゃうんだ。)


無意識に、吐く息が細く長くなる。



ふと、ろう者メンバーを探す。

彼らは教室の端の方、陽だまりのような場所に集まっていた。


小学部の車椅子メンバーが、ひしめくように輪になり、その中心ではハルとエマちゃんが、車椅子の仕組みや段差の越え方を、ろう者三人に熱心に説明していた。


ハルは「なるほどね?」と何度も頷き、時折「ここメモっとけ」とエマちゃんに指示している。

エマちゃんは真剣そのもので、眉根を寄せながらスケッチのように細かくメモを取っていた。


——あちらは、文化系の空気だ。

落ち着いていて、穏やかで、知的な匂いがする。


一方で、教室の反対側では水橋先生が、休憩時間だというのに秋元先生と二人でスタビライザーを構え、無言で教室全体を撮影し続けている。


真顔で撮影しているその姿は、もはやドキュメンタリー班だった。


廊下を見ると、氷見の先生がナナちゃんを仁王立ちにさせて説教している。

その横で、なぜかレオ君も背筋を伸ばして並んで立たされていた。顔はどう見ても“心ここにあらず”。


ケネス君はその様子を横目に見ながら、廊下の窓枠に片手をついて黙々と腕立て伏せをしている。

巨大な影が規則正しく上下に動くたび、床がわずかに震えているように見えた。


(……なんだこの学校。最後の最後まで濃い。)



気づけば、私の膝の上にはタオちゃん。

絵本みたいな分厚い手話の本を開き、小さな指で一つひとつの絵をなぞるように読んでいる。


膝の下にはあこちゃんがしゃがみこみ、私のiPadをスッスッと流れる指遣いで操作しながら、フランス手話とアメリカ手話の特徴を英文で読んでいる。

ページを切り替えるたびに髪がふわっと揺れ、時々「へぇ〜」と可愛い声を漏らす。


——あれ。

まるで、何年もここに通っているような感覚。


初めて来た場所なのに、ずっと前から知っているみたいで。

教室のざわめきすら、懐かしいもののように思える。


でも、その温かさと引き換えに、

胸の奥が締め付けられるような感覚も生まれていた。


(……もう、お別れなんだ。)


寂しさは、気配を見せる前にそっと胸の奥に沈んでいた。

けれど、確かにそこにあった。


給食の途中で姿を消したユウちゃん。

そして黒いパーカーに包まれ、顔も見えなかったコタツ君。

あのふたりはいなかった。


最後に、もう一度だけ挨拶したかったのに。


ゆっくりと冰の杜の先生方が教室の前に集まり、終わりの準備をしている。

その一つ一つの動作が、“本当の終わり”を静かに告げているようで、胸がざわついた。


(本当に……終わるんだ。)


名残惜しさが、目の奥をきゅっと熱くする。


こうして、冰の杜学園との交流授業は終わりを迎えた。



バスに乗り込む。

座席のクッションが体を包んだ瞬間、現実に引き戻されるようだった。


まだ——ユウちゃんの姿はない。


外では、氷見の子たちが何人も駆け寄り、窓のこっちへ手を振っている。


車椅子の子たちは声を張り上げて「バイバーイ!」と叫び、

ろう者の子たちは大きく腕を振りながらスマホで連写を続けている。


みんなの笑顔は本当に楽しそうで、眩しい。


……でも。


私はキョロキョロと、たった一人だけを探していた。


(ユウちゃん……)


最後にひとことでもいいから、手話で「ありがとう」って伝えたかった。

あの子はいつも、光と影の境界線みたいに静かで、

なのに一度話すと心の奥にすっと入ってくる、不思議な温度の子だった。


——もう一度、会いたい。


そう思った瞬間、バスのドアは無情にも閉まり、

エアブレーキの音と共に、車体がわずかに揺れた。


私はゆっくりと手を下ろし、窓に映る自分の手だけが、静かに動いた。


【ユウちゃんもありがとう。またね】


隣で誰かが見ていなくてもいい。

これは、私だけの小さな挨拶。


しばらくして、景色は海沿いの街並みから、ゆるやかに山側へと変わっていった。


「終わっちゃったねぇ。交流授業。」


突然、優しい声が降ってくる。


【そうだね。寂しいな。】


返した瞬間、ふと違和感。


ん?誰?


「さぁ〜、万葉支援学校ってどんなところなんだろねぇ。何度も車で前通ってるけど、気にした事なかったかなぁ。二上山だっけ?近くなんだよねぇ。ピアノとかあるのかな。」


——声の主は、前の席から身を乗り出している誰か。


「ぴーっ!」


私の喉が、びっくりして勝手に音を出した。

同時に、


「ぎゃああああ!!」


水橋先生の絶叫が車内に響き渡る。


【な、な、な!? なんでユウちゃんがいるの!?】


「やぁ。私は早退扱いだから。みんなと高岡方面に乗せてもらおうかと思って。プチサプライズ。」


——ユウちゃん。


振り返ると、あの白い肌の子が、何食わぬ顔で座っていた。

目が合った瞬間、胸がぎゅっと跳ねた。


ろう者三人は大笑いしながら、私の反応を楽しんでいる。

どうやら知っていたらしい。


【いやね?もう私達が乗り込む前にユウちゃん、バスにいたんだよぉ。学校の近くの動物病院行く予定なんだって。】


萌音ちゃんがくすくす笑い、

ユウちゃんの肩をぽんぽん叩きながらイチャイチャしている。


【ってか、なんで水橋先生が一番びっくりしてるの!?】


「いやね!! ちょっとセンチに浸ってたら、ユウちゃんの存在、完全に消してたっ!!」


【【【【天然か!!!】】】】


車内のあちこちから手話ツッコミが飛び交った。


【で?ユウちゃん、動物病院行ったあと、バスで帰るの?】


平常心を装いながら質問するけど、心臓はまだ暴れている。

こんな近くに、まさか本当に座っているとは。


「そりゃぁ、バスか電車で帰るさ。」


【でも、バッグとかペットのクレートとか持ってないよねぇ?】


愛弓ちゃんも同じ疑問を抱いたようで、ユウちゃんの全身を上下にチェックする。


その瞬間、ユウの顔が“はっ”と固まった。


「……あー。財布か……クレート……」


………え?


「忘れちゃった!!!!!」


【【【【天然かーーーっ!!!!!!】】】】


バスが揺れるくらいの大合唱が起きた。


そして私は、胸の奥が少し温かくなった。

離れたと思ったら、すぐ隣に戻ってきたみたいに。


(一緒に帰れるんだ。)


その事実が、ただそれだけで嬉しかった。



自分の家の机の椅子に腰掛けた私は、交流授業の余韻がまだ身体のどこかに残っているのを感じながら、ゆっくり資料を整理していた。


机の上には、芦名家とカーソン家の名前リスト、先生方の名前、そして——

実は一度も読まなかった交流授業のスケジュール表。


今さらながら凝視する。


……めっちゃ書いてあるじゃん、これ。


生徒の名前も全員分。

どの時間に誰と何をするかも、丁寧に全部。


(読めよ、私……)


お世話になった秋元先生は主任らしい。

あの落ち着いた存在感、納得だ。

全部を見渡している感じがして、頼れる先生だった。


津雲先生の名前はプリントにはない。

でも、お医者さんでカウンセラーでもあった。

あの人が保健室に“普通に”いたの、よく考えたら凄すぎる。


プリントに載っているのは、コタツ君をおんぶしていた鷹合先生。

すれ違いだったけど、明るくて速いテンポのしゃべり方が印象的。

(なるほど、あの人が保健室の先生……つまり医者と保健室の先生の二人体制、ということか。

ハルの言ってた「大丈夫だよ」の裏付けみたいなものが、今さらにじわっと理解できる。)


スケジュール表をめくりながら、私はひとりずつ“今日会った子たち”の顔を思い浮かべていった。



ケネス君。


黒人の大柄の……いや、“男の子”なんて言葉じゃ足りない。

存在感が完全に大人。

見た目は怖かったけど、話したら一番まともで、むしろ安心感があった。


それに、ハルやユウちゃんと“対等”に話してた。

あの二人にあそこまで信頼されてる感じ……なんか、いい。



エマちゃん。


ほとんど話せなかったなぁ。

大人しくて、所作が丁寧で、お淑やか。

でも、カバンにつけていたボルトのキーホルダーを私は見逃さなかった。


「推し、ボルトなんだ……」と気づいた瞬間の、あの可愛さ。


(私はイタチかサスケ派なんだよねぇ……)



ハル。


雰囲気は常に“だるそう”。

でも弟や妹達のことになると、一気に兄みが溢れるタイプ。


多分だけど——

私と知能指数、全然違う気がする。


言葉の選び方、目線の配り方、状況の仕切り方、段取り。

全部が落ち着いていて、冷静で、優しい。


そして……

カッコいい。


正直、ハルのこと考えると背中がむずむずして変になる。

落ち着かない。なんか痒い。



ユウちゃん。


最後まで天然だった。

ワンちゃんの検査入院のために早退だったらしいけど……

あのあと本当にどうやって高岡から氷見に帰ったんだろう。


超綺麗で、ど天然で、

でも短所すら魅力になってる。


透明感が人じゃない。



ナナちゃん。


……思い出すだけでゾワッと背中が寒くなる。


あの刺すような目つき。

暴言のキレ。

自分の強さを疑ってない、あの圧倒的な覇気。


でも、車椅子の子にスプーンを運んでいた時の表情は——

信じられないくらい優しかった。


あのギャップは反則。



レオ君。


あれは……王子。

青い瞳、彫りの深い顔立ち。

一目で日本人じゃないとわかる美貌。

なのに日本語は完璧。


そりゃモテるわ……。


タオちゃんとアコちゃんを見るときの優しい目線も、破壊力が高すぎる。


佳苗ちゃんから見たら確実に「トゥンク」案件。



タオちゃん。


芦名たちとは属性が違う。

むしろ“私たち側”。

障害とかそういう話じゃなくて、

穏やかで、人の気持ちを読むタイプ。


ペンだこ。

教科書の何度も開いた跡。

努力家の証拠。


この子、多分すごい伸びる。



アコちゃん。


多分……天才。


最年少らしいけど、言語を次々覚えて、

タオちゃんに教えて、

英語の文章も普通に読んでた。


そして空気を読む天才でもある。


楽しむ時は全力で、

学ぶ時は真剣に。


……でも裏がありそうな気もする。



コタツ君。


一番わからない子。


昼間は外に出られない。

体調面では私と一番近いのかもしれない。


顔も声も、どんな子なのかも分からない。


次は——少し話せるかな。



次……

次っていつ??


アポ取ってないけど!!!!


勢いのまま机をバンッと叩いて立ち上がろうとした瞬間——

椅子が引っかかり、私はそのまま後頭部から豪快に吹っ飛んだ。


ガラガラガシャーン!!


iPadはふわぁ……っと宙を舞い、

椅子は前方へ滑空。


倒れた姿がクローゼットの鏡に映り、

まるでパイルドライバーを食らったプロレスラーみたいだった。



「どうした!!ねむ!!!開けるぞっ!!」


愛しの兄が走り込んでくる。


「ねむ?何?これ?」


私はパイルドライバー直後みたいな状態で固まっている。

そして残念ながら——私のパンツ(オーバーパンツ)は丸見え。


【助けて】


お兄ちゃんはそっと私を抱き上げ、

お姫様抱っこでベッドにぽんっと置いた。


散らかったペンを拾い、椅子を戻し、

床に落ちたiPadを拾って——


「あっ!!」


何よ今度は。


「ねむ!iPadの画面!!バリバリだぞ!!」


なにッ!!?


私はダメージも忘れて飛び起き、画面を確認する。


……やってしまった。


どうしよう……。


「お前そんなことより身体は大丈夫なの?

なんか顔はケロッとしてたから心配してなかったけど……

いや、今は全然ケロッとしてないな。

むしろここ最近で一番辛そうな顔してる。」


そりゃそうだ。

自分の宝がこんな姿になるなんて……


はぁぁぁ……


【身体は大丈夫。でも心がボロボロになった。辛い。】


私はベッドにうつ伏せでダイブした。


「買いに行く?俺のおさがりやるよ。俺、新しいの買おうと思ってたし。

お前は mini の方が使いやすいだろ?俺はもう少し大きいやつ欲しかったんだよね。」


その言葉で私は跳ね起きる。


【本当っ!?】


「本当。でもこの惨状は母さんか父さんに言えよ?」


【うん!!】


その瞬間、私の目の輝きは今日一番だっただろう。

いや、ユウちゃんを見た時のあのトキメキより輝いていたかもしれない。


兄の iPad mini が私のものになる——

それだけで世界が明るくなった。


……


後に母には

「修理しなさい。物は大事にして。」

と叱られ、肩を落とす私であった。


「ッチ」

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