6薔薇と百合
休憩時間。私たちはトイレにいる。いわゆる連れションというやつだ。健常者は連れションってあんのかな…
トイレに向かう最中廊下はしんと静かで、窓から差し込む光が床をまだらに照らしていた。
私は、ずっと気になっていたことを切り出す。
【佳苗ちゃん!前に言ってたカッコイイ子って、やっぱりハル君のことなの!?】
振り返った佳苗ちゃんは、にやりと口角を上げて手を動かす。
【それがさ!全然違うの!!新しいカッコいい子見つけちゃって! でもハル君もイケメン!!】
……え? 違う?
私は眉をひそめながら問い返す。
【だって。ずっとハル君のこと見てなかった?】
佳苗ちゃんは両手を大げさに振って、嬉しそうに答えた。
【だって、あの褐色の感じカッコイイじゃん!中学生なのにピアスしちゃってさ!】
はー……ただのミーハーかい。
そこへ愛弓ちゃんが会話に割って入る。目をきらきらさせながら。
【ケネス君の大きさにはびっくりしたね!やっぱりアメリカ人ってみんな大きいのかな!】
勢い余って声まで出てしまう。
「きょ。オイオイっけ。ななとか!」
途端に自分でも照れくさそうに口を押さえて、私を見てくる。
ごめん、何言ってるか全然わかんない。
……でも。ろう者のちょっと不明瞭な発音って、やっぱり可愛いんだよな。
私は首を傾げて聞き返す。
【愛弓ちゃん、最後なんて言ったの?】
愛弓ちゃんは笑って、肩をぐっとすくめるような動作をしてみせる。
【ごめんごめん。「こう、モリモリって! あと肩とか!」】
……いや、モリモリであと肩とか? 手話してもよくわからん!
でもとりあえず頷いて返す。
【うん!全部モリモリだったね!】
……というか、ケネス君ってアメリカ人なの!?
これ、帰ったらみんなで話が止まらないやつ。
みんな違う会話してるから1人1人得た情報は違うわけだよね。面白そうだ。
今度は萌音ちゃんが口を挟む。声より先に、勢いある手話がぱっと飛んできた。
【私はエマちゃんのあの小さい顔とか、ユウちゃんのオッドアイとか憧れちゃったんだけど。ユウちゃん、ドイツの血が流れてるんだってさ!】
【え!?ドイツ!!そうなの!?】
同時に佳苗ちゃんも愛弓ちゃんも手を叩き驚きを表現する。マジで何も詳しいこと聞いてない。なんでみんなそんな情報持ってるのか。そんな時間あったかな。
というか、やっぱり家系図が気になる!
と、私が慌てる間にチャイムが鳴った。
えー。。休憩時間って、こんなに短かったっけ?
そう思った瞬間だった。
向かいの一階の廊下で、ふわりと黒いパーカーの影が曲がって消えるのが見えた。
一瞬で目を奪われる。
――肌も髪も真っ白。
でも、瞬きをしたときにはもう姿は消えていた。
……あれ? 気のせい?
「戻るぞ!ねむ!」
萌音ちゃんが遠くから、iPadの音声アプリを爆音で鳴らして呼んでくる。
やべ。なんだ今の。妖精か?
◇
教室に戻ると、まず目に飛び込んできたのは――床で腕立て伏せをしているケネス君の姿だった。
……いや、やめてくれ。ただでさえ情報量が多いのに、さらに混乱させないでほしい。
いやむしろこの風景が日常だとするとおもしろすぎるとも捉えられるな。
そんな光景を横目に、水橋先生が私たちを手招きした。
少しの時間をとって「振り返り」をするという。さっき健常の子たちと話してみて、どう感じたかを共有するらしい。
一方で氷見の子たちも、私たち――ろう者3人と障害者の私と話してどう思ったかを整理しているとのことだった。
先生がまず、佳苗ちゃんに視線を向ける。
「【少しの時間だったけどどう感じたか教えて?次はいちご狩りに行くんだけど、その前に聞かせてほしいな。お姉さんの佳苗ちゃんからいい?】」
佳苗ちゃんは軽く息を吐いてから、しっかりと手を動かした。
【率直に言えば、あまりにも会話が自然過ぎて引いちゃったかも。これは良い意味での“引き”です。あとは、ケネス君の行動力、ハル君のリーダーシップ、ユウちゃんの場を明るくする力、あとはエマちゃんの勇気。どれも驚かされました。そして……彼らは私達がろう者だということを、ほとんど意識していないように感じました。】
最後の一文で、佳苗ちゃんの目が真っすぐ落ち着いた。
かっこいい。やっぱり高校生になるとこんなに落ち着いて自分の感想を言えるのだろうか。
水橋先生は彼女の言葉をパソコンにカタカタと打ち込みながら、笑顔でうなずいた。
「【ありがとね。流石だね。佳苗ちゃんは個々の個性をしっかり見てるね!】」
次に、先生の目が萌音ちゃんへ。
「【じゃあ次は萌音ちゃん。どう思った?】」
萌音ちゃんは少し考えるように間を置いてから、静かに手を動かす。
【私は……氷見の子達が、私達を“ろう者”として扱っていないと感じました。ただの言語の違いとして、同じ人間として話している。むしろ、そういう境目が最初から無い人達なんだと思います。逆に考えると……私たち自身が“ろう者の集まり”っていう形で、自分達の世界を少し狭めてしまってるのかもしれない。そう思いました。】
言葉が終わった瞬間、教室の空気が静かになった。
水橋先生も目を丸くし、数秒だけ固まる。
「【なるほど……すごいこと言うねぇ。】」
先生は一呼吸おき、少し柔らかい笑みを浮かべて続けた。
「【でもね、特別だと思って欲しいことがひとつだけあるんだ。――こんなに学校全体で手話ができる人たちは、どこを探してもいないってこと。】」
その言葉に、胸の奥がちくりと熱くなる。
佳苗ちゃんが言った「引いた」という感覚。あれ、私も同じだ。
自分よりもずっと上手に手話を操る健常者たち。自然で、滑らかで、不思議すぎる。
萌音ちゃんは斜め上を見ながら「そうかも」と頷く表情を浮かべていた。
◇
萌音ちゃんが不意に切り出した。
【愛弓は?どう思った?】
うわ……完全にアニメでよく見る“グループディスカッション”状態。
みんなが順番に語っていって、最後に私。……お約束じゃん。胃がきゅっと痛くなる。
愛弓ちゃんは一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐ私を見た。
【私はね、エマちゃんがねむちゃんと重なったんだ。ねむちゃんは声が元々ないでしょ?エマちゃんは声はあるけど、吃音で思うように喋れない。……その儚さが似てるって思った】
彼女の手話はゆっくりで、でも一つひとつが胸に刺さる。
【私達は“ろう者”っていう仲間がいる。でもエマちゃんは、氷見でやっと仲間を見つけたって言ってた。そう思ったら、ねむちゃんはどうなんだろうって……ずっと一人だったんじゃないかって】
……図星すぎて、胸がぎゅっと締め付けられる。
喉の奥が熱くなって、呼吸が少し苦しい。
ちらりと横目で水橋生を見ると、先生も切ない顔をしていた。
……やばい、この空気。泣きそう。ダメだ。
私は慌てて手を振るように動かした。
【いやいや!大丈夫!本当に最近だけど、三人と話せるようになって元気出てきたんだよ!だから、そんな切ない顔やめて!今の私は元気!】
無理やり笑顔を作って、手を大きく振った。場を明るくしようと。
すると水橋先生がゆっくりと口を開いた。
「【もしかして……甘夏狩りに行った日から変わったの?ユウちゃんに会ったって言ってたよね】」
図星コンボだ。
私はこくりと頷いた。
【はい。ユウちゃんが何の躊躇もなく、手話で話しかけてくれたんです。その瞬間、世界が変わった気がして。同じ世界に居るんだって思えたんです。あれから、ユウちゃんみたいに手話が上手くなりたいって思ったし、佳苗ちゃんや愛弓ちゃん、萌音ちゃんのことももっと知りたいって気持ちが止まらなくなって……だからいっぱい話しかけるようになりました】
言葉にした瞬間、胸の奥の熱が少し溶けた気がした。
佳苗ちゃんがぱっと笑顔になり、手を勢いよく動かす。
【これから私達、“ろうズ姉妹”になんでも聞いてよ!手話仲間なんだから!】
おいおい……なんだこの感動展開。心臓がくすぐったい。
続けて萌音ちゃんが、にやっと笑って。
【ろうズ四姉妹にしよっ!】
水橋先生が少し困ったように眉を下げる。
【いや……いいのかな?ねむちゃんをろう者の輪に入れちゃって】
【ダメね】
すかさず萌音ちゃんは訂正。
愛弓ちゃんが冗談っぽく手を動かす。
【じゃあ“ローズと一輪の百合”は?】
【ダメ!その表現は引っかかるでしょ!差別とか同性愛とか……ややこしいから!】
佳苗ちゃんが笑いながら手を振り回すと、萌音ちゃんが肩をすくめて。
【めんどくさー!もうそんなの、この世から無くなればいいのにー!】
みんなの笑い声が教室に広がっていく。
ああ……なんか、いい雰囲気になってきたな。
でも私は——花なんて気取れない。一輪のゆりなんてもってのほか。せいぜいナムルの中で一つ浮いている黒いうねうねのやつくらいが似合ってる。
そんな私の心の中とは裏腹に、先生は目尻を潤ませていた。
「【私、こんなテンションあがるのひさしぶりかもっ!】」
片目から光る涙が落ちる。
その涙の理由は、まだ私にはわからなかった。
◇
「【じゃあ、最後に……ねむちゃん。いい?】」
先生は片手で涙を拭いながら、私に視線を向けた。
えええ!?今ので十分でしょ!
だいぶ語ったじゃん!私に回さなくても……。
それでも先生と三人はじっと私を見つめる。
期待の光に射抜かれて、逃げ場はない。
――無いよ。そんな立派な感想なんて。
【んー……早くいちご食べたい?】
一瞬で、空気がパキンと割れた。
真面目モードが粉々に砕けて、場の空気が逆流する音がした。
「【確かにっ!】」
三人が同時に手を叩いて笑い、ろう者特有のこもった、でも柔らかい声が弾けた。
その笑いにつられて、氷見の子たちまでチラチラこちらを覗いて微笑む。
……助かった。変な空気にするかと思ったけど、結果オーライ。
「【すごくいい振り返りだったよ! 真剣なのはこれで終わり!】」
水橋先生は大きく手を振って笑顔に戻り、場を切り替えた。
「【じゃあ、氷見の子たちと一緒にいちご狩りに行こう!】」
サークルが解散しかけたその時、前列から影がすっと伸びてきた。
ハル君だった。
「【ねむ、水飲んだ? ネブライザーとか持ってるの?】」
――え?
身体が一瞬固まる。
なんで「水」とか「ネブライザー」とか……そんな単語、知ってるの?
ハル君は少し真剣な顔で続けた。
「【ユウが、お前の胸の音が気になるって。】」
どうゆう事…?
息を吸った瞬間、確かに自分の喉から「ガラガラ」と微かな音が響いた。
……嘘でしょ? 私、自分でも気づいてなかったのに。
ユウちゃん、これが聞こえるの?
【なんでネブライザーって言葉知ってるの?】
問いかけると、ハル君は肩をすくめる。
「【いや、支援学校の人たちと交流するんだ。事前に勉強するよ。】」
……まじか。
いや、それにしても。
本人すら気づかない小さな異変に、耳を澄ませて拾い上げるなんて。
普通じゃない。
私は慌てて礼を言い、水橋先生のもとへ駆け寄った。
【痰が出てきちゃった。】
「あ! 水飲んでないの?」
先生は慌てて私のペットボトルを手に取る。
「ちょっと! 封も開けてないじゃん!」
お、おぅ。やっちまった……。
授業に夢中になりすぎて、自分の障害をすっかり忘れていた。
今までそんなこと、一度もなかったのに。
でも不思議だ。
ネガティブな気持ちは湧いてこない。
胸の中にあるのは――「やっちまったぜ!」と笑いたくなる感覚だけ。
私は思わず口元を押さえ、こみ上げる笑いを噛み殺した。
◇
先生は私の喉にそっと耳を当てた。
「……あ、痰さんいるね。念のために胸まで降りてないか確認するね?」
そう言って、鞄から聴診器を取り出す。銀色の冷たい金属が胸に触れると、思わず「ヒャッ」と気管から変な音が漏れて、肩がびくんと跳ねた。
おっと……見られてないか?
ちらりと周囲をうかがうと、ろうの子たちは慣れた様子で気に留めない。しかし、氷見の子たちは心配そうにこちらを見守っていた。胸の奥がむず痒くなる。
「うん。大丈夫。肺さんには降りてないみたい。じゃぁお水飲んで、ネブして、吸引しよっか!」
先生はにっこり笑いながら肩を軽く叩いてくれる。
ありゃ。これ見られちゃうか。
あんまり見られたくないな。
特にオエってなってる所。
そんなふうに思っていると、
「ケン。エマ。ユウ。外出るぞ?」
ハル君が気を使い4人とも教室の外に出てゆく。
何このジェントルマン……
ほんの数秒で空気が軽くなる。胸の奥に、じんわりと熱が広がった。
その時、秋元先生が近づいてきて、真剣な表情で口を開いた。
「ねむちゃん。私は少し、見せてもらっていいかな。」
瞳は真っ直ぐで、ただの好奇心じゃない。学びたい、理解したい、そして力になりたい——そんな思いが重なっていた。
まぁ。先生ならいいけど。
【いいよ。でも楽しくないよ?】
私は苦笑いで答える。
「ありがと。勉強させて?」
秋元先生は凄い真剣な顔で、見ていた。まるで私の学校に良く来る研修の看護師さん達の様な眼差しだった。
私は椅子に深く腰を下ろし、いつもの体勢を取る。拳を強く握りしめる。……
多分これくらいなら自分でできる深さかもしれないが、念の為だ。
いちごには代えられない。
これさえなければな……氷見の子と一緒に…
ん?これさえなければ?
氷見の子と一緒に。私はなんなの?
はて?何を思おうとしたのか。
わからん。
「はいオッケー!!」
先生はポンっと私の肩を叩き終わりの合図をする。
胸いっぱいに息を吸い込むと、体の隅々まで澄んだ冷たい風が駆け抜けていった。
お?空気がうまい。
◇
ほんの少し時間が空いてしまうだけで、氷見の子達との距離が少し離れる感覚を覚える。
秋元先生の合図で、私たちはいちご狩りに向けて準備を始めていた。
吸引機は水橋先生が肩に掛けてくれている。片方の肩が空いた分、身体がふっと軽くなって歩きやすい。
窓から差し込む陽の光が廊下の床に反射して、私たちの影を伸ばす。天井の蛍光灯の白い光と混ざり合って、不思議に明るい空気が漂っていた。
……でも、どうしても気になってしまうことがある。
今の私の身長は150センチくらい。ろうの三人――佳苗ちゃん、愛弓ちゃん、萌音ちゃん――も、私とそんなに変わらない背丈だ。高校生の佳苗ちゃんが少し高いくらい。
けれど、氷見の四人は違う。
ケネス君はすでに大人の先生より高い。廊下の蛍光灯の下に立つと、肩の影が壁に大きく映って「中学生」という言葉がまるで似合わない。
多分私の見立てだともう190センチ近くに到達している。
ハル君はお兄ちゃんと同じくらい。170センチ後半はあるはずで、歩くたびにふわりと髪が揺れるのが妙に大人っぽい。
ユウちゃんは座っていると私と変わらないのに、立ち上がれば私の顔ひとつ分は高い。宝石のような瞳と背の高さが相まって、もはや年下には見えない。
そしてエマちゃん。背丈は私とほとんど変わらないけれどやはり高い。すらっとした立ち姿と落ち着いた雰囲気。そして極小の顔のせいで、どう見ても年上に映る。
年下のはずなのに、全員が私たちより「お姉さん」に見える。
これって、私たちが小さいだけ?それとも外国の血ってやつ?
そんなことを考えていたら、スマホが震えた。
画面を見ると、前を歩いている佳苗ちゃんからのメッセージだ。
:「ねぇ。氷見の子達みんなモデルさんみたいじゃない?」
あ、やっぱり。私と同じこと考えてたんだ。
私は最速のフリックで返信する。
:「私も思ってた。全員私達より高いけど、やっぱり外国の血だからかな?」
送信。よし、早い。
その直後、バンッと大きな音が響いた。
前を見ると、佳苗ちゃんが廊下の角に思い切りぶつかって、尻もちをついていた。
あちゃー……。
私は思わず吹き出してしまう。
ながらスマホはダメだよ、ほんとに。




