4秘密の界隈
4月末
「はいー。ねむちゃーん、おいでー?痰吸うヨォ。」
看護師さんが私を手招きする。
……ひぃ。もうええてー。昨日だってあんまり取れなかったやないかーい。
私はいやいや肩を落とし、**足を引きずるようにして**吸引機の前に向かう。
「どうしたの、最近すごい嫌な顔するね。」
そらそうでしょ。毎日こんなの好きでやる奴居ない。
私は看護師をギロリと睨んでから、何も言わずに椅子に座り、口を大きく開ける。
「うん!いい子っ!大きな口でやりやすいなぁー。」
看護師さんは機嫌を取るように、いつもの調子で煽ててくる。
ガラガラ……ガラガラ……。
喉の奥に管が入ってくる独特の不快感。異物が粘膜を擦る感触に、私は反射的に拳を握りしめる。生理的な涙がじわりと滲む。
「んー、今日の痰さんは奥に引っ込んじゃってるねー。」
……なんやとぉ!?
思わず肩と頭をガクンと落とす。
「はい、ゴロンしよっかぁー。」
笑顔で言う看護師。
絶望の私。
結局か。
……最近、前より痰は減ってきてたのに。
ってかガキ扱いするでない。
◇
吸引が終わり、私はふらふらと廊下の掲示板の前に立った。
喉の奥にまだ少し違和感が残っている。機械の音が耳に残響しているみたいで、頭の奥がじんじんする。
(ふぃー。今日もきつかったぁ。)
お?空気うまい!!
深く息を吐くと、胸の中に冷たい空気がすうっと流れ込んだ。肺の隅々にまで染みわたるようで、思わず肩が落ちる。
私は壁に貼られた掲示物に目をやる。
そこに毎日同じ文字が並んでいる。
ーー交流授業のお知らせ。今年は冰の杜学園で自然との触れ合いを体験。4月末予定ーー
4月のいつよっ!!何日!!
もう末ですけど!!
私は思わず掲示板を睨みつけた。
唇を噛んで胸の中でつぶやく。
――行きたい。
そんなふうに突っ立っていると、向こうから女の子が歩いてくる。
柊木佳苗ちゃん。聴覚障害をもつ子で、久しぶりに会った気がする。
あれ?今日は眼鏡を外してる。どしたん。
【ねむちゃん、おはよう。久しぶりだね。】
こもった可愛らしい声が、かすかに廊下に響いた。同時に、なめらかな手話で挨拶してくれる。
【おはよう。佳苗ちゃん。】
【氷見。行きたいの?】
やべ。見られてたか。
【うん。この前、佳苗ちゃんとここで話した次の日、偶然なんだけどママとお兄ちゃんと甘夏食べに行ったんだよ?】
そう返すと佳苗ちゃんが目を大きくして驚く表情をする。
【ねむちゃん。なんか。手話カッコよくない?】
彼女は小首をかしげながら、私の動きを真似するように手を動かす。
【なんか、手話ニュースみたい。】
ふふん。そうだろう、そうだろう。妾は覚醒したのだよ、汝も気づくか――とは言えない。恥ずかしい。
【うん。家で鏡みてずっとやってるの。】
小生は代々チキンの血を引く家系なのだよ。
――最近覚えた言葉を脳内でこっそり披露してみる。私は女だけど、小生、という響きが妙に気に入っている。
【でも凄いよ?カッコいい。】
佳苗ちゃんは笑顔を浮かべて、まっすぐに言ってくれる。
佳苗ちゃんは続ける。
【私今年は行くんだ。氷見。明後日だよ?これ。】
な、な、な、なぬっ!
【受付どうなってるんだろね?先生に聞いてみ、】
私は佳苗ちゃんの手話が終わる前に自分の教室に走った。
すまない。佳苗氏。
◇
パンパンパンパンっ!
私は水橋先生の肩を強めに何度も叩く。
「おー?どしたのー?ねむちゃん。」
先生はパチクリと瞬きをして私を見る。
【先生!氷見!交流授業!何で言ってくれないの!?】
私の手は自然と胸の前で握りしめられ、そのまま勢いよく上へと突き上げられた。怒りが胸の奥底から込み上げてくるのを、身体全体で表現していた。
「え、えっと…」
先生の困惑した声が聞こえる中、私はさらに両手の人差し指を立てて、こめかみの辺りに当てた。まるで鬼の角のように。これでもかというほどに、私の激怒を示す。
「ねむちゃん、ちょっと落ち着いて…」
【私も氷見行きたいの!】
次は両手を腰に手を当てて、怒り表現の引き出しは全て使い切る。プンスカ!
…最後のは表現弱いか…
「ねむちゃん!だって、ねむちゃん。もう面子に入ってるよ!?」
……へ?
すっかり熱が冷めてしまった。
「交流授業。確かねむちゃんが一番上に名前が書いてあったけど…」
え?
あ。そう言えば、行きたい人手を挙げてって言ってたな…
……挙げたわ!
私は先生とは目を合わさず、**ロボットのように**ゆっくりと回れ右をする。
チラりと先生を見て、両手をお祈りの様に何度も倒しながらその場を後にした。
申し訳ない!先生っ!
でもそんな私を見る先生は目がきらきらして、笑っている。叱られず、からかわれもせず、ただ嬉しそうに。
まるで私をてぇてぇと感じている様だ。
◇
私は再び佳苗ちゃんのいる廊下へ戻った。
さっきの騒ぎなどなかったかのように、何事もなかったかの様に鳴らない口笛を吹きながら、平然を装って佳苗ちゃんの前に立つ。
【ねむちゃん。なんかあった?】
佳苗ちゃんは首をかしげ、心配そうな目を向けてきた。
【いや?なにも?】
わざとらしく斜め上を見て、視線を逸らす。
【それより。私も佳苗ちゃんと氷見行く。よろしく。】
【え!?そうなの!?嬉しい!私の周りは誰も行かないから…当然高等部なのに行くなんて、おかしいよね。】
眉を八の字にしながら不安そうに手を動かす佳苗ちゃん。
【そんな事ないよ?きっといろんな経験できると思う。もしかしたらなんだけど、あっちの子達、みんな手話できるかもしれない。心配する事ないかも。】
その言葉に佳苗ちゃんはふっと微笑む。
【そうだといいね。】
でも、ほんの一瞬だけ、その目が「そんなわけあるかい」とからかっているようにも見えた。
【1人会ったよ?手話してくれる女の子に。四年生。】
【へー。耳聴こえないの?】
【聴こえるよ?趣味でやってるみたい。凄く上手だったよ?】
佳苗ちゃんの表情がぱっと変わる。
【ええ!趣味で手話するんだ。凄いな。】
——そう。私も最初はただ「すごい子」くらいにしか思っていなかった。
けれど今になって考えると、あの気配り、あの滑らかな動きはまるで長年ろう者界隈の中で磨かれてきたような自然さだった。
芦名ユウちゃん。あの子はいったい何者なんだろう。
そうだ。
【佳苗ちゃん!甘夏食べれるかも!】
その一言で佳苗ちゃんはぴたりと動きを止め、次の瞬間、小刻みにジャンプし始めた。
頬は赤く、目が輝いている。
胸元のメロンが弾むように上下して、喜びが全身からあふれ出していた。
思わず自分の胸をちらりと見下ろす。
……上履きがくっきり視界に入った。
いやいや。私はまだ中学生だ。焦るな、ねむ。これからの成長期を信じろ。
◇
交流授業。当日。
空はどこまでも青く、ポンポンと白い雲がいくつも浮かんでいた。春の陽射しは柔らかく、肌に心地よい。
どうやら全て私に非があった様だ。
交流授業のプリントは、ちゃんとママに渡されていたのだ。ママは何度もその話を持ちかけてくれていたらしいけれど、私は鏡の前で手話の練習に夢中で聞いていなかったのだ。きっと(そんなのわかってるから、話をかけるな)という態度に見えたんだろう。
ごめんなさい。母上。そして先生。
けれど半分は当たりだ。私は心のどこかで、またユウちゃんに会えるかもしれないと期待していた。だから少しでも綺麗な手話を見せたいと思って練習を重ねていたのだ。本来は逆であるべきなのに。
「はーい。バスに乗って下さーい。」
今日の交流授業は
ろうの子三人と私。
他には小学低学年の肢体不自由組3人だ。
なんかあの3人はなかなか仲良さそうだな。
ん?結構いるじゃーん!
甘夏目当てか?
私は朝イチに痰との格闘は終えたばかりだ。
ポカリスエットとマイ吸引機も肩にぶら下げている。
今日は絶対に痰には負けない。
制圧!!
お前の事など構っていられないのだ!!
氷見へ! いざ!!
私は拳を握りしめ、空を見上げる。
「ねむちゃーん。どしたのー?みんな乗り終わったよー?なんか忘れ物ー?」
ありゃ。
急いでバスに乗り込んだ。
◇
よろめきながら進むと手話仲間の御手洗さんが手招きをする。
御手洗愛弓ちゃん。
中学3年生の私の一つ上の聴覚障害者。
猫目の姫カットのロングヘアーの美人さん。
授業はいつも一緒だけど、あまり話さない。
でも、最近は私から話しかける様にしてるつもり。なぜなら手話のアウトプットが必要なのだ。
……いや道具みたいに言ったけどそんなふうには思ってないよ?
最近少し世界が楽しくなってきてるって思ってる。
だからいっぱいコミュニケーション取ろうと思ってるからだ。
私は愛弓ちゃんに挨拶をする。
【愛弓ちゃんおはよう。】
利き手で人差し指と親指を重ねて小さなハートを作ってからおはようの手話。
すると愛弓ちゃんも
【ねむちゃん。おはよう。】
と、両手を合わせて、頬につける。
サインネームってみんなは知ってるだろうか。
ろう者界隈だけがわかる秘密の名前。
私はろう者ではないが特別に片脚を入れさせてもらっている立場だ。
私は"ねむ"だから眠る仕草。
愛弓ちゃんも愛という漢字から指で小さなハートを作って愛弓ちゃんと呼ぶ様にしてる。
ちなみに佳苗ちゃんはメガネを整える様に手を動かした後に三つ編みを編む表現で佳苗ちゃんになる。
【佳苗ちゃんもおはよう。】
もう1人のろう者は現地集合で病院に行ってから合流だ。
【楽しみだね!甘夏。】
私は手話で伝えると、二人は少し顔が真顔になる。
愛弓ちゃんが少し笑いながら返してきた。
【ねむちゃん。甘夏なんか今日の授業の予定表に書いてないよ?】
ななな!何!!?
◇
バスに揺られ、後部座席で私はじっと俯いていた。
斜め前には佳苗ちゃん。本を開いて静かにページをめくっている。
……やばい。
「甘夏食べれるかも」なんて調子に乗って言っちゃった。
甘夏を食べに行ったとき、アラブ王子ニキが「また来てって」って言ってたから、てっきり食べれるもんだと思い込んでたんだよ。
あれ、完全にフライングじゃん。
佳苗ちゃん。ごめんなさい。
ちらりと覗くと、佳苗ちゃんの手元には――人間失格。
太宰治。表紙の赤黒いデザインが妙に重苦しい。
……ぐさっ。
タイトルが私に突き刺さる。
うぇえー。ごめんよぉ〜。佳苗ちゃん。
すると佳苗ちゃんが本から顔を上げ、口を小さくへの字にして私を見る。
【難しい。この本。ジャケットが良いから買ったけど、なんか哲学っぽいし、まわりくどい。】
声はこもってるけど、手話ははっきりしていた。
確かに。ラノベとは違い太宰は慣れが必要だ。しかもルビもあんまりついてなくて、いちいち調べないとだめだ。
あれ?私に人間失格って言ってるんじゃないの?
【ねむちゃん。知ってる?人間失格。】
【うん。最近読んだよ?毎回漢字調べて、何が言いたいのかわからないところは、ママとお兄ちゃんに聞いてた。読み終わるのは3日くらいかかったかなぁ。】
私の返事に、佳苗ちゃんは目を丸くした。
そこへ愛弓ちゃんが会話に加わる。
【ねむちゃん大丈夫?私、パパに「高校生になってから読みなさい」って言われたよ。】
確かに。太宰のあの重さは中学生には危険かも。疎外感とか自己破壊とか、心を蝕むテーマばかりだもんな。
【うん。葉蔵の気持ちは結局ほとんど分からなかった。でも、“寂しい”気持ちはすごく伝わったよ。】
私の手話に、佳苗ちゃんが驚いたように目を見開く。
【ねむちゃん、すごい。なんか最近、前のねむちゃんと違うように見える。】
ほえ?そうかな。
私的には楽しいという気持ちは若干あるが、成長した事は手話のキレくらいな気がする。ヒュヒュっピッピっ!とね!
愛弓ちゃんも笑いながら頷いた。
【私も思った。甘夏の話をしてくれた頃から、いっぱい話しかけてくれるし、元気になった気がする。】
……やっぱり。
これ、私、大覚醒始まってる?
アルティメットスキル獲得、間近かもしれない。
◇
バスはゴトゴトと揺れながら進んでいく。学校からは三十分ほどの道のりだ。窓の外では、春の陽射しを浴びた景色が流れていく。
後部座席では、それぞれが好きなことに没頭していた。佳苗ちゃんは「人間失格」をカバンに戻し、今度はiPadで「蹴りたい背中」を読んでいる。真剣な横顔は、もう海にも山にも興味がなさそうに見える。愛弓ちゃんは分厚い漫画を開き、夢中でページをめくっている。「本好きの下剋上」だ。そういえば、ろう者界隈って本好きが多い気がする。
前の席では、車椅子ユーザーの三人が楽しそうにポケモンの話で盛り上がっていた。弾けるような笑い声が響いていて、羨ましくなる。私は、あんなふうに無邪気に話せたことがあったかな……胸の奥が少しチクリとする。
私も友達居ればな…
やがてバスは氷見市街を抜け、海岸線へと出た。窓の外には、果てしなく広がる海と、立山連峰が青空の下にくっきりと浮かんでいる。だけど佳苗ちゃんは淡々とページをめくり、愛弓ちゃんは一度スマホでシャッターを切っただけですぐに画面に視線を戻す。
あれ?そんなもん?
この景色を共有して3人で氷見について語り合おうと思ったのに。
……いや。そんなもんだよね。年齢重ねると何も思わなくなる。
地元の大仏だって毎日見れば何も思わなくなるし。唯一テンションが変わらないのは、イオンモールの新しい店ができたときくらい。氷見にはイオンモール、あるのかな……。
バスは進み、見覚えのある風景が近づく。
ゆうちゃん、王子、ニキとネキ。
全員ここの海岸にいたんだよね。
心臓がドキドキしてきた……
海水公園の裏手に、冰の杜学園が静かに佇んでいた。駐車場にバスが止まると、すでにこちらに手を振っている子がいた。
五十里萌音ちゃん。愛弓ちゃんの親友で、中学3年生のろうの子だ。サインネームは「蓮の花」。画家モネの作品から取られた、彼女にぴったりの名前。
私達はそそくさとバスを降りて、萌音ちゃんとハイタッチ。
すると私はすぐに気付いた。
耳にキラリと輝くアクセ。補聴器だっ!新しい補聴器を買うてるやん!
【みんなおはよっ!!見て見て!朝病院に取りに行ってきたっ!】
萌音ちゃんは耳をこちらに向けて真新しい補聴器を見せびらかす。手話は雑に終わらせる。
その補聴器はピンクのクリアーカラーで小さいハートのシールが貼られていた。
おお!!オシャレっ!
萌音ちゃんは別に補聴器を付けてるからと言って全部聴こえるわけじゃない。
残存聴力と言って、わずかに音は聴こえる。
補聴器はその僅かに聴こえる音を最大限に生かすパートナーという事だ。
【いいね!その補聴器!可愛い!】
愛弓ちゃんが羨ましそうに覗き込む。彼女にも少し残存聴力はあるけれど、佳苗ちゃんはゼロに近い。だからこそ、新しい補聴器を手にした萌音ちゃんが輝いて見える。私も耳は聴こえるのに、目が離せなかった。
これでろうの仲間は全員揃った。そこに「私」というetcを加えて。
車椅子の子たちは先生と先に校門へ向かっていく。
【ねむ、なんかすごい笑顔だね?何かあったの?】
萌音ちゃんが私の変化に気づいて尋ねてくる。
【わからない!なんか楽しい!】
【そっか!それなら良いことだ!】
四人は顔を見合わせて笑った。そのまま一緒に、冰の杜の門へと歩いていった。




