33優しい時間
「あ、麻奈さん。ねむが起きたよ。ほら、泣き止もう?」
パパが小さく笑いながら、リモコンで部屋の照明を少し明るくする。
ふわっと白い光が強くなって、さっきまで映画館みたいに暗かったリビングが、いつもの「家の夜」に戻った。
ソファに沈み込んでいたママは、はっとしたように背筋を起こす。
目の縁は真っ赤で、手にはぐしゃぐしゃになったティッシュ。鼻を一度、豪快にチーンとやってから、ようやく私の方を向いた。
「ねむ、おはよう。今日は随分、楽しかったみたいだねぇ」
声は少し鼻にかかっているのに、表情はどこかスッキリしていて、泣き切った後の人の顔だ。
【うん。おはよう。……でもさ、私のビデオ見てるのとか、すごい恥ずかしいんだけど】
テレビでは、さっきからちっこい私が動き回っている。
マスクをした顔、よろよろしたペダルこぎ。
BGMはエモすぎるサンボーンのアルトサックス。反則だ。
「いいじゃん。パパの編集が良すぎて、アカデミー賞ものなんだけど。私の選曲もいいでしょ?」
ママは照れ隠しみたいに、ティッシュを丸めながら笑う。
【はぁ……それで。私、全然記憶ないんだけど、なんで自分の部屋でパジャマで寝てたの?】
階段を降りてくる途中からずっと気になっていた疑問をぶつけると、
テーブルの向こう側で腕を組んでいた葵お兄ちゃんが、ペットボトルを指先でコツコツ弾きながら答えた。
「お前は完全に疲れて寝ちっただけだよ。普段から動かねぇから、自分の防衛スイッチが入ったんじゃないの?あんな寝方、幼児しか見ないレベルの爆睡だったよ」
想像しただけで顔が熱くなる。
救急搬送とかじゃなくて、ただの電池切れかよ、私。
【起こしてくれたりしたの?】
今度はパパが、ソファから身を乗り出してくる。手にはマグカップ。中のコーヒー牛乳が、ちろっと揺れた。
「うん、何度も起こしたよ。でもさ、寝ながら手話するからさ。笑っちゃったよ。寝言じゃなくて寝手話。流石にベンさんもナナちゃんも笑ってた。器用だなって」
隣でお兄ちゃんがニヤニヤしながら乗っかる。
「俺も見たぞ?寝手話。コーヒー牛乳はもういいって言われた! なははは!」
【嘘っ! 私そんな器用なのっ!!】
自分の知らない自分の姿に、半分恥ずかしくて、半分ちょっと嬉しい。
ママがクスクス笑いながら、濡れた目尻を指で押さえた。
「あなたの“言語”なんだから。別に不思議じゃないわよ。ふふ」
“自分の言語”。
ママがさらっとそう言うと、胸の奥が温かくなる。
変な子でも、かわいそうな子でもなくて、「そういう子」としてちゃんと受け止められてる感じ。
パパはマグカップを一口飲んでから、ゆっくり言葉を探すみたいに話し始めた。
「パパはさ、多分こんな楽しかったの、久々だったかも。葵とはいっぱい遊んだし、ハンドボールもいっぱいした記憶あるんだけど……ねむと、こうやって外でレジャーできるなんて、夢にも思わなかった」
その声はいつもののんびりしたトーンなのに、少しだけ震えて聞こえた。
「今日はナナちゃんに取られちゃったけどさ、結構動画も撮ったし。明日は編集でもしようかな」
【いつ撮ったのよっ!!】
思わずツッコむと、パパは肩をすくめて笑う。
「僕とベンさんで交互に撮影してたよ。気づかれないようにね。ナナちゃんは、チラチラとカメラに目線が合うから、多分気づいてたと思うけど」
盗撮コンビめ。
でも、さっきまで流れてた映像を思い返すと、腹は立たない。
ただ、なんか照れる。
【ん。まぁ。いろいろ介護してくれたんだね。ありがとう。パパ。】
そう言ってぺこりと頭を下げると、パパは、ふわっと目尻を下げて笑った。
「うん。また行こう」
その「また行こう」が、ただの社交辞令じゃなくて、
本当に近いうちに、今日みたいな一日がもう一回やってくる予告みたいに聞こえた。
サンボーンのサックスはまだ、テレビの向こうで優しく鳴っている。
小さい頃の私が、ふらふらしながらもペダルを踏んでいる。
今の私は、ソファの横で立ったまま、それを見ている。
あの頃、夢にも思わなかった「今」に、私はちゃんと立っているんだな――
そんな実感が、胸に溜まっていく夜。
◇
テーブルを見ると、そこにはさっきまで海でバタバタしていた命たちが、きちんとお皿に並んでいた。
きつね色の衣をまとったキスの天ぷら。透き通る身がほんのり桜色に染まったお刺身。
油と出汁とお醤油の匂いが、まだ少し湿った私の髪の毛の間をすり抜けてくる。
トントン、とテーブルを指で叩いてみんなの注意を集める。
【これっ!今日釣った魚!?】
「そうだよ? ねむの分もちゃんとあるからね」
パパは嬉しそうに立ち上がると、スリッパをペタペタ鳴らしながらキッチンの方へ向かった。
冷蔵庫を開ける音、ラップの擦れる音。そのあと、トレーを持って戻ってくる。
キッチンペーパーをそっと剥がすと、その下からキスの開きがずらり。銀色の皮目がライトを受けてキラッと光った。
【おおー! 食べたいっ!】
「もう11時過ぎているよ? いいの?」
【うん! だって私お昼も晩ごはんも食べてないわけでしょ!? 食べる一択でしょっ!】
「だって麻奈さん〜食べるってー。」
呼ばれたママは、鼻をすんっと一回すすってから「はいはい」とだけ答える。
さっきまで涙の海を作っていたティッシュの山をすばやく片付けて、嫌な顔ひとつしないで立ち上がった。
「ねむ。キスってね、普通こんな大きいのなかなか釣れないんだよ? すごいね。うちの分だけでも20匹くらいあるし、本当に大漁だったね」
【うん。多分かなり釣れたんだと思う。パパの方も結構釣れたんでしょ?】
「うん。チヌとヒラメ。それからキジハタも10匹くらいかな。キスも合わせると、全部で50匹くらいは釣ったんじゃないかなぁ」
「マジ〜? やべぇ〜っ! 俺もそんな入れ食い経験してみたいなぁ!!」
テーブルの向こうで、お兄ちゃんがクッションにもたれながら羨ましそうに頭を掻く。
「全部もってっちゃっていいって言われたけどね。芦名さんちは大家族だし、もちろんカーソンさんのところにも持ち帰ってもらいたいから、僕らがもらったのは本当に一部だけだよ?」
「それでもこの量かよぉ。いいよなぁ〜」
お兄ちゃんは椅子をグラグラさせながら呟いた。
「ねむは今、女神様が近くにいるのかもね」
とママが一言。
ははっ。でも全部糸から外してくれたの、ナナちゃんだけどね。
あの人、ずっと手を止めずに動いてたな……。忙しそうで、でも楽しそうで。
女神も、心当たりはある。
多分、私の女神はユウちゃんとエマちゃんとナナちゃんだ。
【全部パパが捌いたの!?】
「ナナちゃんが教えてくれてね」
パパはポケットからスマホを取り出す。画面を数回フリックしてから、私の目の前に突き出した。
そこには、さっき釣れたキスやキジハタ、チヌ、ヒラメたちが、次々と三枚おろしにされていく動画が映っていた。
トントン、と小気味いい包丁の音。骨と皮がはがれる、あの独特のリズム。
【ええっ! 何これ、ナナちゃんが捌いてるの!?私にも送ってっ!!】
「もう送ってあるよ? あとで自分のスマホでゆっくり見て?」
おお……先読み力たかっ! 父上、侮れぬ。
そんなやりとりをしていると、ママがいつの間にかエプロンを身につけてキッチンの前に立っていた。
髪をゆるく一つにまとめて、いつもの“お母さんモード”の顔になる。
「キスのお刺身と、天ぷら。キジハタの煮付けねっ!あとーお魚のお味噌汁!ご飯はどれくらい?」
(おおぉぉぉ!!! なんじゃその贅沢メニュー。もちろん――)
【大盛りでっ!!】
「りょーかーい」
ママはにっと笑って、炊飯器のふたをパカッと開けた。
湯気と一緒に、お米の甘い匂いと、揚げたての油の匂いと、煮付けの生姜と醤油の香りがごちゃ混ぜになって、リビングいっぱいに広がっていく。
今日は、本当に生きて帰ってこれたんだなぁ。って、お腹が鳴りながら思った。
◇
んー。お味噌汁、うまぁ……っ!
湯気がふわっと顔に当たって、魚の香りが鼻の奥まで抜けていく。口に入れると、じわーっとお出汁が広がって、舌の両端がじんわりしびれるみたいにあったかい。
キジハタの煮付けも、ひと口。
ほろっと身が崩れて、甘じょっぱいタレが絡んでくる。なんか……高級な味がする気がする。旅館の晩ごはんってこんな感じなんじゃなかろうか。
どうなの?キジハタって高いの?庶民の舌が震えてるんだけど。
「あとはー、どれどれ? キスの天ぷらとか食べてみよう。」
箸でつまむと衣がふわっとしてて、油の照りがきらっと光る。醤油でも塩でもなく、そのまま一口。
サクッ。
うほぉーー!!
なにこれ!よくわかんないけどサクサクフワフワーー!!
衣が軽くて、中の白身がホロホロとほどける。これが今んところ今日の優勝。これがいちばん好きかもなぁー!
よし、次は……キスのお刺身っ!
透き通った白にうっすらピンクが混じってて、薄く引かれた身がお皿の上で並んでる。わさび少しつけて、醤油をちょんと。
……うめーっ!……いや……あれ? 醤油の味しかしないな……?
噛んでると甘いような気もするけど、天ぷらのインパクトが強すぎたのかもしれない。
私って馬鹿舌?
「そうだ、ねむ。」
パパがコトッと私のコップを持ち上げて、水を注いでくれる。氷がカランと鳴って、リビングの空気が少し落ち着く。
「明日の氷見の祇園祭、行く? 行くならだけど、芦名さんも行くみたいだよ?」
はて。
祇園祭は今日じゃなかったのか?
私、爆睡してチャンスを逃したんじゃなかったっけ?
今まさに「馬鹿舌ショック」受けてる最中なんだけど、情報が渋滞している。
【今日でしょ? 祇園祭。】
「うん。氷見の祇園祭は毎年、7月13日と14日。だから、明日の夜までやってるよ?」
【うそっ! 行くよ! 当然っ!】
「口もぐもぐしながら手話しないのぉー。」
隣のママから、すかさずお叱り。
その声音はいつもの日常のトーンで、ちょっとだけくすぐったい。こうやって注意されるの、なんか嫌いじゃない。
テーブルの向こうでは、お兄ちゃんが箸を止めてクスッと笑っている。テレビ画面にはまださっきまでの私のビデオの静止画が残っていて、過去の私と今の私が同じ空間にいるみたいだ。
「じゃあ、パパも一応車出してあげるから。芦名さんに連絡入れて? 二日連続で遊ぶなんて、体力は大丈夫?」
パパが少しだけ心配そうに笑う。
私は口の中に残っていたご飯とお味噌汁をゴクンと飲み込んでから、胸を張って手話をする。
【元気モリモリっ!】
両手でぐっと力こぶポーズ。
その仕草に、ママもお兄ちゃんもふっと表情を緩めた。
よっしゃ。祇園祭、決定っ!
…それと、コタツ君のことも。明日、またちゃんと聞いてみようかな。




