32夢中のねむ
場所は氷見。
キャデラックという、どう考えても無駄にデカい車の中にいる。祇園祭の開始まで、私たちは氷見教育文化センターの駐車場で休憩中だ。
パパとベンさんは、さっき締めた魚をそれぞれの家に届けに行っている。香椎家のベンツ(フィット)でね。
「子どもだけ残して、車勝手に動いたら危ないからね」と、ハンドルロックを装着して、エンジンだけつけたまま、車内はクーラーで程よく冷やされている。真夏の外とは別世界だ。シートの革がひんやりして気持ちいい。
意外だったのは、パパとベンさんが、あれから一気に仲良くなっていたことだ。
クラシックの話から始まり、お互いのAGAの進行状況を真顔で報告し合い、「大人の神聖育毛帝国プロジェクト」を立ち上げた。(名前をつけたのは私だ。)
髪にいい食べ物、塗り薬、生活リズム――そんな話を、私たちの目の前で一ミリも恥じらわずに語り合うふたりは、もう完全に“男友達”の顔をしていた。
【お薬はないの?】
と聞いたら、「男にとっては重大な副作用があるからな」「もしもの時は外科に頼る」と、なぜか真剣に意見一致していた。どんな副作用だよ。パワーが落ちるのか?
そして私はというと――
夢の中である。
なぜかというと、昨日からほぼ寝ていないからだ。コーヒー牛乳ガブ飲みのせいで夜通し目がギラギラ、そこから釣りへ突入し、気づけば四十時間近くまともに寝てなかった。
キャデラックの後部座席をフルフラットにしてもらい、私は大きなバスタオルをかけられて大の字で沈没している。
エアコンの低い唸りと、遠くから聞こえる蝉の声が、ぼんやりとした意識をさらに深く引きずり込んでいく。
祇園祭は体験できるのだろうか。
◇
キャデラックの重い扉が、ガコンと音を立てて開く。
閉め直された窓の隙間から、外の熱気が一瞬だけ流れ込む。。
外の熱気が一瞬だけ流れ込み、むわっとした夏の匂いが車内に混ざる。
後部座席では、同い年の姉が、釣具のメンテナンスをしていた。金属のガイドを布で拭き、リールに軽くオイルをさして、糸のヨレを指先で確かめる。
その横でその横で、香椎ねむが、口を半開きにして幸せそうに眠っていた。
二つ歳上とは思えないほど無防備で、涎まで垂らしている。
前髪が額に貼りつき、指でちょんと触れたら起きてしまいそうなくらい無防備な寝顔だ。
「おい、ナナ。聞いたらさ、ねむも祭り行くって張り切ってたから見にきたら……爆睡してんじゃねえかよ。」
ドアの外から顔を覗かせたのは、芦名レオ。ナナと同い年の次男だ。汗で少し濡れた前髪をかきあげながら、青い瞳で車内を見回す。
「おお、レオ。あんまりデケェ声出すなよ。」
ナナは膝の上のロッドから手を離さず、ちらっと弟を見る。
「こいつ、昨日から釣りが楽しみすぎて一睡もしてねえんだとよ。でも本当の理由はさ、夜にコーヒー牛乳1リットル飲んで目がバキバキだったからなんだってよ。おもろすぎんだろ。」
「ねむってアホなんだな。愛されるバカってのはこのことかな。」
レオは呆れたように笑いながらも、興味深そうにねむの寝顔に身を乗り出す。
シートの上で丸くなったねむの喉元には、いつもの吸引機のベルトがかかっているが、今日は静かだ。
「ってことはよ、こいつあと半日は起きねえんじゃねえの?どうするよ。」
レオの青い瞳が、じーっとねむの頬から喉へ、胸の上下まで確認するように動く。
「まあ、ベンさん達が戻ってきたら解散だろうな。」
ナナはロッドのガイドをひとつひとつ指で撫でながら言う。
「祇園祭は明日までやってんだし、別に今日行かなくてもいいんじゃね?」
ナナはふと手を止め、レオの方を見る。
「レオ。ねむがコタツに会ってくれるってよ。」
「マジ?」
レオの声色が一段変わる。
さっきまでの茶化すようなトーンではなく、ほんの少しだけ、期待と緊張が混ざった低さ。
「ああ。いきなり上手くいくとは思ってねぇけどさ。」
ナナは釣具の布を畳み、目線をねむに落とす。
「コタツの、なんかのきっかけになってくれればいいなって。」
「おぉ……でも最初は夜の方がいいよな。」
レオはねむの喉元をちらりと見てから、ナナに視線を戻す。
「ねむは?喉の調子どうだった?」
「今日は吸引、一回も見てない。」
ナナは少しだけ真剣な顔になる。
「不思議に思ってたんだよね。私、結構ソワソワしてたんだけど。」
ナナは一旦、釣具のメンテナンスをやめて、ねむの顔を覗き込んだ。
軽くしゃがみ込んで、寝息に合わせてわずかに上下する胸と、静かな喉を確認する。
「コタツも、ねむがきっかけで変わらねぇかなぁ。」
そう呟きながら、ねむの口元からこぼれた涎を指先でピッと拭ってあげる。
その仕草は、いつもの毒舌や痴女ムーブからは想像できないくらい、優しくて、柔らかい。
レオはその横顔を見て、肩をすくめた。
「お前よ、なんか妹みたいに母性出してるけどさ。」
レオはニヤリと笑う。
「ねむって中2だぞ?お前より歳上だからな?」
「私は関係ねぇよ。」
ナナは即答する。
「歳だとか、身長だとか、性別だとか。好きなものは好きなんだ。」
「あっそ。」
レオは苦笑しながら車から身体を引き抜き、外の熱気に身を晒す。
「嫌われることはすんなよ。……んで?ナナ。食いたいもんある?俺と喧嘩しないうちに買ってきてやるよ。」
「おお。じゃあ、お好み焼きとビッグポークフランクのギンギンのやつ。」
「死ね。」
吐き捨てるように言いながらも、レオは足早に屋台の方へ歩いていく。
キャデラックの中には、エアコンの音と、遠くの太鼓の練習らしきリズム、そして幸せそうに寝息を立てるねむの気配だけが残っていた。
◇
カチカチ カチカチ。
……夢。
静かだ。
ひんやりして気持ちいい。
まるで、自分の部屋のベッドで冷房25℃に設定して、全力で遊び尽くして、もう限界を超えた身体が勝手に電源オフになったみたいな、あの最高の寝落ち。
ふっと、まぶたをゆっくり持ち上げる。
視界に飛び込んでくるのは、見慣れた天井。
薄いクリーム色の壁。カーテンの隙間から、細く差し込む青白い光。
時間は──
ベッド脇の時計が、律儀にカチカチと秒針を刻んでいる。
短い針は11の少し手前。長い針は12の上。
夜中の11時。
虫の声と、時計の音だけが、静かな夜の空気の中で小さくおしゃべりしている。
カーテンの隙間からのぞくお月さまは、さっきまで見ていた“夢みたいな世界”の続きみたいに、やけに綺麗だ。
……綺麗なんだけど。
(いやいやいやいや)
私はバッ!と飛び起きる。
合ってるじゃねぇかよ!!
現実じゃねぇかよっ!!
語り通りかよっ!!
さっきまでの感覚が、そのまんま今ここにあるのおかしくない!?
頭を抱えて、ゆっくり今日一日の記憶を巻き戻していく。
……釣り。
そうだ、朝から島尾海岸で釣りして。
それからナナちゃんと一緒にキャデラック乗って、祇園祭の話して。
パパとベンさんは、釣った魚を香椎家の車でお互いの家に運びに行ってて──
【この車の冷房は風が優しいねー】
なんて会話してたところまでは覚えてる。
そこから記憶がすっぽり抜け落ちている。
(はっ!)
痰かっ!!??
こいつが私を黄泉の国に誘ったか!?
また気絶コースだったのか!?
スーーーッ。ハーーー。
……全然なんともねぇっ!!
胸の奥は静かで、あの嫌なつっかえもない。
むしろいつもより喉の通りも呼吸も軽くて、拍子抜けするくらいだ。
視線を下に落とすと、私はきっちりパジャマ姿。
さっきまでレギンスにハーフパンツだったはずなのに。
着替えた記憶なんか一ミリもない。
こんな状況は、呼吸困難で救急車に乗せられて、気づいたら病院のベッドの上──あのパターンと同じだ。
ただひとつ違うのは、ここが病院じゃなくて、自分の部屋ってこと。
ベッドからそろっと足を下ろし、立ち上がって鏡の前に立つ。
乱れてはいるけど、いつもの寝ぐせ。
目の下のクマもない。顔色も悪くない。
(……ほんとに何があったんだ、これ)
時計はやっぱり23時を指している。
パパとママはまだ起きてる時間だろう。お兄ちゃんも、多分。
私は部屋のドアノブをそっと回して開ける。
廊下に顔を出すと、お兄ちゃんの部屋の扉が半開きになっていた。
中をチラっと覗くけれど、机の上のスタンドは消えていて、小太郎の姿もない。
(って事は、全員リビングか)
階段を降りようとすると、下の方からかすかに音楽が聴こえてきた。
ジャズだ。
しかも、聴き覚えのあるメロディー。
原曲はスティーヴィー・ワンダーの「Isn’t She Lovely」。
スティーヴィーの実の娘、Aishaの誕生を祝って作られた曲で、録音には本当に赤ちゃんの泣き声とかお風呂に入れる音とか入ってて、超ハッピーな曲。
でも、今流れているのは、そのハッピーソングをバラードにねじ曲げた、デイヴィッド・サンボーン版だ。
有名なメロディーを、あの泣きのアルトサックスでねっとり歌い上げるやつ。
「これがサンボーンだ……!」ってジャズ好きが全員うなずく、鳥肌モノの名演。
なんでこんなしっとりしたやつを、家族で聴いてるわけ?
パーティーじゃなくて、完全に“回想モード”の選曲なんだが。
階段を一段ずつ降りていくと、サックスの音が少しずつ大きくなっていく。
低い音が床を伝って足裏をくすぐる。
リビングのドアの下から、TVの光がじわっと漏れているのが見えた。
ガチャリ。
ドアを開けると、温かい空気と一緒にサンボーンの音がどっと押し寄せる。
リビングのテーブルには、お兄ちゃん・葵。
ソファにはママとパパが、少し猫背で寄りかかるように座っていた。
電気は少し落としてあって、部屋の明かりはほとんどテレビの光だけ。青とオレンジが交互に壁を照らしている。
私が降りてきたことに気づいたのか、お兄ちゃんがちらっとこっちを見て、口だけで「おはよ」と形を作る。
私は頷いてから、改めてパパとママの方を見る。
テレビには、小さい頃の私のビデオが映っていた。
多分、小学一年生くらい。
一番しんどかった時期の私。
それでも頑張って、自転車に乗ろうとしている。
パパが後ろからサドルを必死に支えてくれていて、前にはお兄ちゃんが両手を広げて立っている。
きっと、あそこまで行けたらゴール、っていう約束なんだろう。
画面の中の私は、今より背も低くて、髪も短くて、顔もまぁまぁ丸い。
そして、喉には今よりずっとくっきりした大きな手術跡が、くっきり線を引いている。
それにサンボーンのサックスが重なる。
「Isn’t She Lovely」が、完全に「よく生きてきたね」みたいなバラードに変換されていて、もう反則だ。
(なにこの演出。泣かせにきてるだろ……)
気持ち悪いけど、サンボーンに泣かされるのは、正直わかる。
今の私は、かなり危うい。
そして、案の定。
最近情緒不安定気味なママは、鼻水を垂らして目を真っ赤っ赤にしていた。
ハンカチはすでにびしょびしょで、多分さっきからずーっと泣いてたんだろう。
良いんだけどさ。
この「家族で昔のねむビデオ上映会 with デイヴィッド・サンボーン」っていう重めの状況と、
今朝からの記憶が、一ミリも繋がってくれない私である。




