31氷の水平線
当然だけど、テレビとかでよく見る釣りって、だいたい「1匹、2匹釣れてよかったね〜」くらいのイメージだ。
どっちかのグループがちょっと大きめのお魚をゲットして、
「まぁ、こんなもんだよ。釣りってのはさ」
みたいな決め台詞で締める。あれが定番の“釣り映像”。
きっと現実もだいたいそんな感じなんだろう。
釣りは忍耐。竿を握って、波の音を聞きながら、アタリを待つ時間そのものを楽しむ。
――それが釣り。
そして今、私たちはというと。
「うぉーー!!! やべぇ! なんて日だっ!!!」
隣でナナちゃんが、目をギラッギラに光らせて猟奇的な笑みを浮かべている。正直ちょっと怖い。
そして私も、
(わわわわわわっ!! 何匹目よっ!!)
私の竿にも、さっきから何度目かわからないほどの強い引きが立て続けに来ている。
竿先がグイッと海の方へ持っていかれて、リールを握る指先に、ブルブルと生き物の重みが伝わってくる。
「ねむーっ! パパ! チヌ釣れたよっ! 見て〜!」
左の方でパパの声が聞こえる……
そんなひまは無いっ!!
こっちは今はリールを巻かせろっ!!
チヌ? キス? キジハタ?
探せっ! 島尾海岸に置いてきたっ!
時は今、入れ食い状態っ!
今まさに私は釣り王である。
海面の向こうで朝日がきらっと光って、波しぶきがオレンジ色に跳ねる。
その上を、私の仕掛けにかかった小さな影がバタバタ暴れる。
腕はもうパンパンで、手のひらは汗と海水でぐっしょりだ。
多分だけど、キスを10匹、キジハタを1匹は釣ってるはず。
……いや、正直もう正確な数字なんてわからない。
背中の方では、クーラーボックスの中から「バチャッ、バチャッ」と水音がして、
捕まったお魚たちがまだ元気に暴れているのが伝わってくる。
(いやーーっ!!!)
「ねむっ! 待ってて、今行くからっ!!」
今はナナちゃんと私のダブルヒット中。
とりあえず私は、教わったとおりに竿をぐっと立てて、魚を海から引き抜く。
キラッと銀色の体が宙を舞い狂喜乱舞状態。
水を得た魚って言葉、おかしくねっ!?
水から出した方が暴れてねっ!? 元気じゃねっ!?
私があたふたしている間に、すぐナナちゃんが駆け寄ってきて、
私の釣ったキスをひょいっとつかみ上げる。
「おいっ! ねむっ! 何匹釣ってんだよっ! 天才だろっ!!締める暇ねぇ! こんなの初めてっ!!」
ナナちゃんはケラケラ笑いながら、そのままキスをクーラーボックスに放り込む。
【なんで!? 釣りって暇なんじゃないの!?】
「そうだよ、いつもは暇なんだよ? でも今日はわかんねぇけど入れ食いだぁ! あはははっ!!おおい!もうジャリメが無ぇんだけどっ!! ウケるっ!!」
クーラーボックスを覗き込むと、ナナちゃんのを含めるとキスが20匹以上いて、数匹が銀色の体をバシャバシャさせている。
その間に混ざって、赤茶色のキジハタが4匹。
砂浜の少し先、岩積みの上で竿を振っているパパとベンさんの方を見れば、
あっちもあっちで、キジハタやチヌをぽんぽん釣り上げているようだ。
まて。こんなに釣って、ここら辺のお魚いなくならない??
……でも。
潮の匂い、竿の重み、手に残る魚の震え。
さっきまで想像の中の世界だった「釣り」が、一気に現実に塗り替えられていく。
釣り最高っ!!
◇
入れ食い状態はようやく落ち着き、私たちに静かな時間が戻ってきた。
さっきまでバチャバチャと騒がしかったクーラーボックスも、今は赤い氷水の中で魚がときどき尾を震わせるだけだ。
空はすっかり夏の色で、真上から刺すみたいな日差し。けれどまだ朝九時前で、人影はほとんどない。遠くで波が崩れる音と、時々カモメの声がするだけだ。
【ジャリメさん、なくなっちゃったね。】
私はクーラーボックスのふちに手を置き、中の銀色とオレンジ色の魚たちをのぞき込む。溶けかけの氷と血で水が薄く赤く染まっていて、さっきまで「可愛い〜」とか言ってた自分を少し反省した。ホラーじゃん、これ。
「こんな釣れると思わなかったからね。」
ナナちゃんは砂の上にどっかと座り、締め終わった魚を確認しながら、ジャバジャバとクーラーボックスを揺らしている。濡れた砂が太陽に照らされて、じわっと温かい湯たんぽみたいになってきた。
私はといえば、お尻を砂につけるのはちょっと躊躇して、半分だけ浮かせた中腰みたいな姿勢でナナちゃんの隣にしゃがみ込む。潮の匂いと、さっきまで触ってたゴカイの生臭さが混ざって、なんとも言えない夏のにおいだ。
……【ナナちゃん。】
「なに?」
砂を指先でいじりながら、ナナちゃんは海の方を見たまま返事をする。
【ひとつ、聞きたいことがあるの。】
「うん。」
【なんでナナちゃん達は、私にこんな優しくしてくれるの?】
「お前が可愛いからだよ。」
即答だった。間髪入れず。
でも、それだけじゃないよね、っていうのは私にもわかる。
【違うでしょ? 私以外にも候補があったはず。】
「……」
ナナちゃんは言葉を切って、私をちらりとも見ない。風が、彼女の長い髪を少しだけ持ち上げて、すぐ落とした。
【言えない事?】
「言える。」
【教えて欲しいな。】
「……ねむが、私たちのことを好きでいてくれるから。」
【それだけじゃ伝わらない。私ね、冰の杜学園に留学、勧められてるの。】
「本当っ!? なら来てよっ!!」
ナナちゃんがぱっと顔を上げる。瞳が太陽の光を反射して、いつもより明るく見えた。
【だけどね? 少し、与えられすぎかなって、思ってる。】
さっきまで穏やかだった胸のあたりが、じわっと重くなる。
──先日の三者面談で、私は自分の身体が「普通」に近づいていると、水橋先生から言われた。
自覚はある。現に今も、あの相棒──痰は出てこない。
姿勢もそうだ。前はいつも縮こまってたのに、最近は自然と背筋が伸びて、胸が少しだけ持ち上がった。
精神面だって変わった。前を見て歩くことが増えた。私の世界はずっと、足元のアスファルトとか土とか、学校の床だけだったのに。
だからこそ、本と音楽が好きになった。
前を見なくていい。上を見上げなくていい。ただ、ページの上かイヤホンの中だけ見ていればよかったから。
でも甘夏狩りの日から、全部変わってしまったのだ。
最初は単純だった。
ユウちゃんの、あの綺麗な瞳をもう一度見たい。いつも前髪で隠れているハルの瞳をきちんと見てみたい。ケンちゃんの顔を、首が痛くなるまで見上げてみたい。エマちゃんの手話を、横顔じゃなくて正面から読み取りたい。
そこから欲はどんどん増えていった。
氷見から見える立山連峰が綺麗だったから、また氷見に行きたい。
ユウちゃんに、私の綺麗な手話を見てもらいたい。
芦名やカーソンと「並んで」歩いてみたい。
ナナちゃんに、私が選んだ服を「どう?」って見せたい。
挙げ出したらキリがない。
原因は、全部あなたたちだ。
波がさらっと砂をさらう音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。太陽はもうけっこう高い位置なのに、海岸には他に誰もいない。世界に取り残されたみたいな静けさ。
でも、わからない。
甘夏狩りの日、交流授業の日。
佳苗ちゃんも、愛弓ちゃんも、萌音ちゃんも、一緒にそこにいた。あの教室では、私にみんなの意識が集中していたことも、うすうす気づいている。
もっと言えば、あの日は車椅子ユーザーの子も、小学部でナナちゃん達と交流していたはずだ。
私は、別に「特別」じゃない。むしろあの中で、一番根暗で、取り柄がないと思ってる。
それなのに。
【何かきっかけがあったんじゃないの? それが聞きたいな。】
「そんな事、どうでもいいだろ。私たちはねむのことがみんな好きなんだ。」
ナナちゃんは、砂に小枝でぐるぐると円を描きながら、こちらを見ないまま言う。
【何かきっかけがあったんだよね。そうだよね。あの中じゃ私が一番根暗だし、いろいろな才能ないからね。頭も悪いし……】
「関係ねぇよっ!! 自分にそんな事言うなよっ!」
ナナちゃんの声が、少しだけ震えた。
驚いて顔を向けると、眉間にしわを寄せて、こちらをしっかり睨んでいる。
【じゃぁ。理由。教えて。私をそっちに、自分の足で門を潜らせてよ。】
潮風が、二人の間をふわっと通り抜ける。
「……わかった。別に秘密じゃねえし。」
ナナちゃんは小さく息を吐いて、ようやく私の方を向いた。
切れ長の瞳の奥に、さっきまでとは違う色が灯る。
【ありがとう。】
私は竿から手を離し、両手を膝の上でぎゅっと握る。
波の音と、遠くでベンさん達が笑う声だけが、静かな島尾海岸に溶けていった。
◇
「ねむが……弟に似てるから」
ぽつりと落ちた言葉が、波の音よりもはっきり耳に残った。
弟? っていたっけ……あ。そういえば、唯一会ってない子。
コタツくん。
【私、会ったことないね】
「うん」
ナナちゃんは短く頷いて、少しだけ海の方に視線をそらした。
足元では、さっきまで入れ食いだった波打ち際が、嘘みたいに静かだ。
寄せて、引いて。さらさらと砂を撫でる音だけが続いてる。
「あいつにねむを見せてやりたい」
【私を?なんで?こんなわけわからない厨二病を?】
「はは。そうだね。わけのわからない厨二病で、キラキラしてて、不器用で、社会デビュー一年生を」
【そんなんでいいの?】
「うん。見せてやりたい。」
ナナちゃんは膝を抱えて座り直す。
海風が長い髪をふわっと持ち上げて、頬に貼りついては、また離れていく。
「あいつのことは知ってると思うけど、昼間は外に出られない。
歳を重ねれば皮膚も丈夫になって、だんだん出られるようになるって言われてるけど、調べると全部嘘だ。今も未来も太陽にめちゃくちゃ弱いんだ」
【うん】
「ねむに似てる。あいつは音にも敏感で、私たちとは違う音を感じてる。色も違う。
全部の情報に色や香りまでくっついてきて、たまに疲れて寝込んじゃうんだよ。
雨の日は太陽がないのに、不協和音だらけで“音酔い”してダウンする」
ナナちゃんの声は淡々としてるのに、指先だけが少し強く砂をつまんでいた。
「傍から見ると、すごいギフテッドに見えるけどね。
現実は、本人にとっては地獄だ。だから……」
そこで、ナナちゃんは私の方を見た。
まっすぐ、逃げない目。
「ねむが希望だった」
(は? そんな事あるか? 私が!?)
胸の奥が、ドクン、と変なふうに跳ねる。
さっきまで魚の引きで高鳴ってた心臓とは、全然違う鼓動だ。
「でも最初はそんな感じだったのにさ。
いつのまにか、私たちはねむの魅力に引き寄せられて、“コタツのため”じゃなくて“自分も楽しみたい”って理由で、個人的に付き合ってる。今もそうだ」
ナナちゃんはクーラーボックスを顎で指す。中では、さっきのキス達が氷の上で静かに並んでいる。
「ねむと私だけで釣りを楽しんでる。コタツを無視してね。
私こそ、ダメな姉ちゃんだわ」
【そっか。私が魅力的なのか】
「かなりね。もはや惚れてるわ」
サラッと言うな。心臓に悪い。
【実感湧かないけど。コタツ君に会わせて?】
「いいの?」
【うん。私ができる事があるなら。
一番のお姉さんなんだから。小さいし、頭は一番悪いけど】
「そりゃあ……うちの家、お祭りになっちゃうわ」
【大歓迎】
顔を上げると、水平線の向こうが、じわっと白く霞んでいた。
太陽はまだ真上じゃないけど、砂の熱と潮の匂いが、もう完全に夏休みの温度だ。
「あっ!!」
【なにっ!】
「今日は氷見の祇園祭だよ? 行く?」
祭りだと? なんだその最重要機密事項は……
【祇園? 氷見って京都なの?】
「……本当だ。いちばんバカかもねぇ。ふふ」
ナナちゃんが肩を震わせて笑う。
なんか、さっきまで“弟”の話をしてた同じ人とは思えないくらい、今はただの“女子”の顔だ。
「ごめん。ねむ、釣りは終わりだ。
少し覗こっか。氷見祇園祭」
【うんっ!!行くっ!】
島尾海岸の静かな波音の上に、これから始まるお祭りのざわざわが、少しだけ先に聞こえた気がした。




