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30 キスと接吻

ナナちゃんは、まだ手を繋いだまま、ふっと私を流し目で見た。

口元だけ、いたずらっぽくゆるむ。


「ねむ? キスは好き?」


キス……


キスっ!! あのキスっ!!


【あややや、ままままだ、経験ない。】

とっさに手話がどもる。

するとナナちゃんは目を細めて、まるで可哀想な小動物でも見るみたいな顔になった。


「魚のキス。」

魚にキスをするの? なに!? 何をいって?


「チヌ、キジハタ、ヒラメ、キス。どれが一番好き?」

魚かいっ!!!

なんやねんっ! キスて!! 紛らわしい名前しおってっ!! 訴えられろっ!


【うん。えっと。全部わからない。】


正直に言うしかない。

自分でもわかってる。こんな奴が「釣りしたい」とか言っていいのか?

「お前釣りする資格ねぇよ」って海に沈められない?


「そっか。ならジャリメで行くか……」

ナナちゃんは顎に手を当てて、小さくブツブツ言いながら、道具の棚を見上げる。


【わからなくてごめん。】

思わず頭を下げると、ナナちゃんは眉をひそめた。


「は? なんで謝るの? ねむは最初からなんでもわかる天才なの? そこはもっと“だるめ”に絡んでこいよ。」


【……うん。わかった。だるめに絡めってどういう意味?】


「ああ、こういう事。」

言った瞬間、ナナちゃんは本当に“だる絡み”してきた。


「ねぇむぅ〜、わからないからぁ、もっと丁寧に教えてよぉ〜? いけずぅ〜。ああっ! 今日のブーツ新品なのぉ? 可愛いじゃぁん。私と釣り行くから張り切ってきたんでしょぉ? おませさんなんだからぁ……みたいな。」


長い右腕が、私の首に絡みつく。

もう片方の手の人差し指で、私の頬をじりじりとなぞる。

耳元に落とされる声は、完全に痴女のそれである。

背中がゾワッとする。


だぁるぅ!!

こいつ演技もできるのかっ! ってかどっちが本物なんだっ!


「なんだよ、その目。いつまで他人行儀なんだよ。もっとひっついてこいよ。距離遠いんだよ。……ってかよ、もう手はいいから腕組め。」

は? 暑苦しいだろ。

でも、ナナちゃんの目は本気だ。

黒目に近い深い色が、じっと私を捉えて離さない。


「私はもっと近くにいたいんだ。ほら。早くしろよ。」

ぐうの音も出ない。

私は言われた通り、ナナちゃんの腕に手を通す。

肩と肩が触れる。身体のラインがくっきりわかる距離。


あれ? 百合ちゃう? これ。


「そうそう。これ。言う通りにできるじゃん。ねむはネコか。了解。」

おいコラっ! お前がそうさせたんだよっ!

そもそもあんたがタチなんだからネコになるしかねぇだろっ!

まぁ……ネコ……は否定しない。


そんなやり取りをしながら、ナナちゃんは慣れた手つきで針や黒いオモリを、迷いなくカゴへ放り込んでいく。

壁一面の仕掛けの袋がシャラシャラと揺れて、小さなビニール音が店のBGMみたいに響く。


そして、会計カウンターの近くでピタリと足を止めた。


「ジャリメとアオイソメでいいか。」

独り言みたいに呟く。


【ねぇ、ナナちゃん。これなあに?】

なるべくナナちゃんから離れないように、腕を組んだまま手話する。

ガラスケースの中には、なにか赤っぽいひも状の物がうねうねと固まっている。


「エサだよ。」


エサ……?


遠くからだと、単なる赤い紐の塊にしか見えなかった。

私は目を細めて、もう一歩近づく。

蛍光灯の光が水面に反射して、クリーム色と赤紫の細長いものが、もぞもぞと蠢いている。


(う! 動いてるっ!! なに! これっ!)


さらに顔を近づけると、それははっきりと「ミミズのようなものの塊」だと理解してしまった。


ぬぉおおおああああ!!


私は反射的に後ずさり、そのまま勢いよくナナちゃんに抱きつく。


「ねむ。どうした? キスならいつでもいいよ? 私結構上手いから安心して? 初めて?」

バカ言ってんじゃねぇよっ!!

目の前には地球外生命体。抱きついた先には痴女のバイセクシャル!!

逃げ場がないっ!


【いやいやいやっ! これっ! エサなの!?】

震える指でケースを指さす。


「うん。そうだよ? これを針につけて海に投げるの。」


【これを!?】


「そう。」


【針に刺すの!?】


「そう。」


【死んじゃう!?】


「痛がる。」


【手で刺す!?】


「そう。」


【血とか汁は出る!?】


「出る。」


……釣りってこんな難易度高いのかよ。



お会計はベンさんがしてくれることになった。


「ナナ。これだけでいいのか? ラインとかはあるのか?」

低くて太い声が店内にふわっと広がる。普通なら低音って聞き取りづらいはずなのに、この人の声は胸の奥でちゃんと輪郭を持って響く。


「大丈夫。あるから。ベンさん、悪いね」

ナナちゃんは、当たり前みたいな顔でベンさんの巨大なお尻をスリスリ撫でながらお礼を言う。完全に慣れた手つきだ。


「ああ。気にするな。子供の遊びだ」


「うん。ありがとう」


「店員さん。領収書は芦名で頼む」

おいっ!!


なんでやねんっ!カッコよかったのにっ!ボケ担当なの?この人。


私とナナちゃんがキャッキャしているあいだ、ベンさんとパパはパパ達なりに上手くコミュニケーションをとっていたらしい。ふと横目で見た時、竿コーナーの前で身振り手振りを交えながら楽しそうに話していた。


ベンさんはクラシックが好きなんだって。

特に教会音楽や聖歌が好みらしい。

なるほど、パパと話が合うわけだ。パパもバッハとか宗教曲が大好物だし。ふたりの間に漂う空気は、初対面というよりもう何回か会ってる人みたいに自然で、ちょっと安心してしまう。


そんなこんなで、私達は釣り場へ向かうことになった。



着いたのは島尾海岸。


氷見のいちばん南の端っこにある海岸で、ここから私たちの住む高岡まで、海沿いにずーっと砂浜が続いている。少し離れたところには、雨晴海岸の女岩がちいさく突き出ていて、その向こうに薄く立山連峰のシルエット。さらに目を凝らせば、富山最大の橋・新湊大橋が細い線みたいに空と海の間にかかっている。


早朝の空は、もうすっかり夜が抜けていて、それでもまだ昼前の冷たさを少しだけ残している。

波は寄せては引いて、また寄せて。白い泡が切れ目なく砂の上を撫でていくたび、潮と砂と海藻が混ざった、甘いような苦いような匂いが胸いっぱいに広がる。


私たち四人は、車のトランクから釣り竿とクーラーボックス、さっき買った小物類を次々に引っ張り出し、ガチャガチャと音を立てながら海岸へ近づいていった。


スーッ……ザッパーン。


……意外とうるさいな。

おっと失礼。

さすがに失礼か。意外と音が大きいな、にしておこう。


「よし。じゃあ私とねむは護岸に近い浜にいるから、適当に私達の周りでやってもらっていい? ベンさん。私が作ったおにぎりが車にあるから。食べたかったら、ねむのパパと食べて?」


ナナちゃんは、潮風に髪を揺らしながらいつもの調子で指示を飛ばす。


「ああ。じゃあいただく。いくつ食べていい」


「あるだけ全部」


「ありがとう。梅干しは苦手だ」


「入ってねぇよ」


「流石だ」


テンポ。早っ。

ボケとツッコミがもう完成されている。言葉少なめなのに、長年の習慣みたいな安心感がある。親子っていうか、相棒っていうか。会話しなくても、互いの次の行動が読めている、そんな空気。


「ねむー。頑張ってね。怪我しないようにするんだよ?」


パパがクーラーボックスを担ぎながら、ちょっと心配そうにこっちを振り返る。

朝の光の中で聞く、少し掠れた声。やっぱり私はこの声がいちばん好きだ。耳だけじゃなくて、喉の奥まで優しく撫でられるみたいで落ち着く。


【ありがと。パパも楽しんでねっ!】

手話で返すと、パパは満足そうに頷いてベンさんの後を追っていった。


……で? なにするのだ。ここから。


「ねむの竿はこれ。最初は私が全部やってあげるから。別に何にも考えなくていい。仕掛けも全部やってあげるから。見てるだけでいいからねっ!」

にやり、とナナちゃんの表情が一段明るくなる。

目の奥が、普段よりちょっとだけ子どもっぽくきらっと光った。


ほんとに好きなんだろうな、釣りのこと。


ナナちゃんは、砂の上に道具を並べると、迷いのない手つきで準備を始めた。

竿を伸ばし、ガイドに糸を通し、スナップをつけ……。

ホイホイと次の作業に移っていく手元は、段取りが頭の中に完璧に入っている感じで、見ていて気持ちいい。


2本の竿が、シュッと音を立てるみたいに空に伸びる。

その先で、銀色の糸が朝の光を細く反射した。


ピッ。シュッ。


実際には音なんか鳴ってないのに、そんな効果音が脳内で勝手に再生されるくらい、ナナちゃんの手捌きはキレがあって、無駄がない。


美しい。


そして――私が今日いちばん楽しみにしていた(&恐れていた)瞬間が、とうとうやって来た。


「ねむ。ジャリメ。石ゴカイともいうんだけど、これが怖いんだろ? 見なくてもいいよ?」


【いや。これ興味ある】


「そう? 遠慮なくやるからな?」


【うん。進めて?】

ナナちゃんは、ケースの蓋をパカッと開けて、ためらいなくゴカイを素手でつまむ。

赤紫の細長いのが、にょろりと指の間で身をよじる。


長さに納得がいかないのか、ナナちゃんは何の感情も乗せずに、指でブチッとちぎった。


(うぉぇぇ……)


ちぎれたゴカイは、輪ゴムみたいにくねくね暴れ、まだ「生きてますけど!?」と言わんばかりなのに、ナナちゃんは追い討ちをかける。針の先をその口元にグリグリ押し当て、ズブズブと串刺しにしていく。


(うぉぇぇ……)


気づけば、ゴカイは針にぐるっと通されて、腸詰ソーセージみたいなシルエットになっていた。


「これで仕掛けは終わり。竿持って?」

ナナちゃんは、エサのついた仕掛けを水面に垂らしながら、私に竿を渡す。

手に伝わるグラスロッドのひんやりした感触。リールの重さが何故か心地いい。


そこからのナナちゃんは、さっきまでの容赦ないゴカイ処理と同一人物とは思えないほど、驚くほど優しく接してくれる。


右手の位置、左手の添え方、振りかぶる角度。

ひとつひとつの動作を、肩や肘に軽く触れながら、押しつけるというよりガイドするみたいに教えてくれる。無理に身体をぐいっと動かしたりは絶対しない。


「こうして、こう。力はそんなにいらない。竿の『しなり』に仕事させる感じ。……うん、そう。上手いよ」

たぶんだけど――この状況では、私が質問できないってことをちゃんとわかってやってる。


竿を持っていると両手が塞がる。

私が手話をするには、どうしてもどこかで竿を脇に挟むか、誰かに預けるかしないといけない。


だからナナちゃんは、

「なぜこうするのか」

「よく聞かれるポイントはどこか」

を、最初からセットで口に出してくれる。私に「質問の余白」を残しすぎないようにしてくれているのだと思う。


悪い意味なんかじゃない。

私は基本、自分から「ちょっといい?」って割り込んでいくタイプじゃない。


私を視界に入れてくれている人としか、会話は成立しない。

視界から外れた瞬間、この世界から一時的にフェードアウトする。そんな感覚がずっとあった。


だから、今みたいに両手が塞がっている状況だと、質問はさらにハードルが上がる。頷くのが精一杯、みたいな時間が増える。


もちろん、竿を脇に挟んで無理やり手話をすることもできる。でも、そのたびに会話がブツッ、ブツッと切れる。


ナナちゃんは、たぶんそれを避けたいんだ。


一回の説明で、できるだけ私の不安を潰してくれている。


「はい、ねむ。こんな感じ。やってみな。わからない事はどんな状況だっていい、聞いて? 私のタイミングなんか気にしなくていい。例えば、ここでもし私が巨大なチヌと対戦中でも、今日の晩御飯の質問したっていいって事さ。知りたい時に知った方がいいだろ? 今までみたいに遠慮しないで? いい?」


……ユウちゃんに似て、こいつも完璧超人なのかもしれない。

エグいて……泣けるて……


【へいっ! わかりましたっ!】


……ちなみにこの言葉は片手でできる。

片手で OK の形を作って、もう片方の手は竿を握ったまま。胸に軽く手をあてて、そのままスッと下ろす。口の形を「はい」じゃなくて「へいっ!」にすればニュアンスも完璧。


手話、意外と簡単でしょ?


――ナナちゃん。ありがとっ!!


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