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29夜明けの隙

7月13日深夜3時


名前「ねむ」なのに、寝れぬ。

訴訟レベルだ。


私の名前は香椎ねむ。

万葉特別支援学校・中等部2年。

どこにでもいる、目立たない根暗女子。

趣味はラノベと音楽。あと妄想。


みんなと少しだけ違うところは――声が出ないところ。

「失った」じゃなくて、最初から「持ってない」。

そういう仕様でこの世にログインしてしまった。


さて。


私は今、その仕様を全く関係なくブチ壊す勢いで、深夜にギランギランである。


コーヒー牛乳が、美味すぎた。


冷蔵庫の中でキンキンに冷えたパック。

そこにお兄ちゃんが一言、悪魔のささやきをしたのだ。


「コーヒー牛乳に黒砂糖入れれば、超絶美味いぞ?」


結果。


私「ぐびっ」

→「うまっ!」

→「もう一杯」

→「あれ、まだいける」

→ 気づけばほぼ1リットル、胃はチャポンチャポンである。


カフェイン大量摂取で、身体はだるいのに、目だけがフル覚醒。

布団の上で天井を見つめながら、目だけが真夏の昆虫みたいにギラギラしていて、おまけにお腹はピーヒャラ鳴っている。


そして、今日は私の友達の芦名ナナちゃんと釣りの約束をしているのだ。

しかも待ち合わせは朝の5時……氷見の釣り具屋さん前で。


やばい。やばすぎる。

この世の失態ランキングがあったら、確実に上位入賞。

あと1時間後には起床しなければならぬのに、この大失態。


今日のために、ワークマンで防水用の靴も買った。

靴底の溝が深くて、ベージュのブーツ仕様。

くるぶしまでキュッと固定できて、見た目もアウトドアガールっぽくて超可愛い。


ナナちゃんに「見て見てっ」ってドヤ顔で見せる予定だ。


そして、人生初の本格的な釣り。

防波堤の上で竿を構えて、海を覗き込んで――

大きめの鯛を釣り上げて、ドヤ顔で写真を撮って、

夜には鯛茶漬けなんか食べちゃったりして。


(ほかほかのご飯の上に分厚い鯛の切り身をのせて、

 あつあつのお出汁をジャーッとかけて……くぅ……)


脳内に、まだ見ぬ鯛茶漬けの映像がフルHDで再生される。


それまでにはどうか――


どうか私の身体よ、持ち堪えてくれ。


ぐるるるる。


……



トイレ、行こ。



4時。起床。


……寝れるかーいっ!!


目はギンギン、身体だけズーンと重い。

布団の中で3秒だけ悩んでから、エイっと起き上がる。


とりあえず着替えるかっ!

今日の就寝は午後3時とかにすればプラマイゼロだ。


気持ちを切り替えていきましょう。

今日の服は、ハーフパンツの下にレギンス。

上はナイロン素材のTシャツに、アームカバーをつけて日焼け防止。

玄関には、風で飛ばないようにゴム付きハットもスタンバイ済みだ。


サングラスなんかあったら、もっと「やり手アングラー感」が出て良いのだが、

そもそも釣りは初めてだし、そんなフル装備しても誰得?ってなる。

その前に、誰も私なんか見てないだろうけど。


さて、パパはもう起きているようだな。


一階に降りるか。


階段の前で一度深呼吸して、お兄ちゃんを起こさないように

足音を殺して、ソロリソロリとすり足で進む。

家の中はまだ薄暗くて、廊下の空気もひんやりしている。


今日は、お兄ちゃん達の高校が富山の高校とハンドボールの試合があるらしい。

そしてこの試合に勝てば、強豪・冰渼ノ江高校と当たるとか。

練習試合ではボロ負けだったって聞いたから、

ぜひ「富山のどこだかわからない高校」に勝ってほしい。頑張るなよ?謎の高校。


一階に降りると、キッチンの灯りがついていて、

テーブルではパパが朝のコーヒー牛乳を飲んでいた。


二度と飲むかっ!!


「おはよぉ、ねむ。コーヒー牛乳飲む?」


………


3秒悩み、手話をパパに向けてヒュッヒュッと動かす。

【黒砂糖入ってる?】


「うん。入ってるよ?」


………


3秒悩み

【飲む。ちょっとだけ。】


(次回からは飲まない。これが最後だ。)


今、私のコーヒー牛乳を注いでくれているのがパパ。

香椎孝太郎。NPO団体「ひだまり」の社長である。


お仕事は、障害のある人の移動手段の確保や介護。病院に連れて行ったり、買い物に付き添ったり、送迎したり。

派手じゃないけど、暮らしの根っこの部分を支える、とっても大切なお仕事だ。


社長と言っても、会社の規模は大きくない。

その社員の中には、ママ――香椎麻奈もいる。

私の障害がきっかけで立ち上げた会社「ひだまり」。

本当に名前どおり、ひだまりみたいにあったかい人たちで成り立ってる素晴らしい会社なのである。


「はい、ねむ。『ちょっと』って言ったから、300ミリで作った。」


パパはくるっと振り向いて、少し湯気の立つコップを私の目の前にコトンと置く。


300て細ケェな。

見た目「ちょっと」ならなんでも良い。


「今日楽しみだね。パパも釣りは何年ぶりかなぁ……あれ。したことないかも…」


パパはいつもこんな感じ。のんびりと言うか、ふぁ〜ってしてると言うか。

私によく似た眠たそうな目で、マグカップを両手で包み込んでいる。


身長はママとあまり変わらなくて、性格はママの方が断然アクティブ。

パパは最近、少し髪の毛が薄くなってきたのをショックに感じているらしく、

リアップの使用量を余裕で規定オーバーしてジャバジャバ使う。


趣味はこれといってなくて、今は育毛にお小遣い全部を当てているらしい。


私は全然、薄い人は気にならないんだけどな。パパなら、ショーン・コネリーみたいな渋いハゲ方になりそうだし。


ハゲ。カッコいいとも思う。



そして私たち2人は、寝ているママを起こさないように、まだ薄暗い玄関を静かに抜けてひんやりした朝の空気の中を車へ向かった。

空は朝焼けから少しずつ白み始めたところで、世界全体がまだ寝ぼけているみたいだ。


ドアをそっと閉めると、住宅街の静けさが一瞬だけ揺れたあと、またすぐに元に戻る。

車内は昨夜のうちに準備したクーラーボックスやタオル、救急セットなんかで足元が少しだけごちゃっとしているけど、それもなんだか遠足前の車って感じで嫌いじゃない。

一応、釣り竿は持ってないのでナナちゃんとカーソンパパに借りる予定だ。


「ねむ。今日の曲はどうしようか?」


運転席でシートベルトを締めながら、パパが振り向かずに聞いてくる。

声はまだ寝起きテンションだけど、どこか嬉しそうだ。


パパはクラシック好き。

当然、私もクラシックは大好きだけど、知識量ではパパに全然勝てない。

私はどっちかと言うと、最近はジャズばっかり聴いている。スタンダードの安心感に甘えて生きている女だ。


んー、だから今日はパパが好きそうで、しかも朝っぽい曲にしよう。


コープランドの《アパラチアの春》

これがいいかも。昔、よくパパが朝に流していた曲だ。春じゃねぇけど…


スマホで曲を選びながら、その頃の記憶が勝手に立ち上がる。

キッチンでコーヒーをいれているパパの後ろ姿。

窓から差し込む朝の光。

まだランドセルの似合っていた私。

あの景色に、この曲はぴったり張りついている。


なぜかこの曲を聴くと、アメリカの田舎の朝にいるような気分になる。

因みに私は日本からは出たことない。


クラリネットとフルートの柔らかい息遣いが、

朝露で濡れた草の匂いを運んでくるみたいで、

まだ誰も起きていない、鳥の声すら遠くの方でしか聞こえない時間。

群青から薄紫、そして淡いピンクへと、

ゆっくりグラデーションを描いていく——そんなイメージ。


現実の私は、富山の片隅で眠気と戦ってるわけだが。


「良いセンスしてるねぇ。

多分この曲が終わる頃に到着すると思うよ? 寝てて良いからね?」


このふんわりした優しい声質。

わたしゃあんたの声好きだよ。


【んじゃ、お構いなく♪】


と、軽く手話で返して、私はシートに背中を預ける。

目を閉じて、深呼吸。


スゥーーー……


………………


……カフェインめ。

まだ邪魔をするのか。



序盤は少しうとうとしたが、中盤から音が一気に開けていくみたいに爽やかになってしまった。

すっかり目は覚めて、胸の中の「楽しみ」が残り少ない眠気を根こそぎ奪っていく。


外を見ると、空はもうすっかり明るい。

窓を少しだけ開けると、生ぬるい風がふわっと頬を撫でた。夏ど真ん中の匂いがする。

天気予報では、今日は氷見の最高気温38度。

氷見やなくて火見やで。


「ねむ。着いたよ。まだカーソンさんは来てないねぇ。どんな人なんだろう。」


車が止まった場所は、早朝だというのにシャッターが半分開いている釣り具屋さんの前だった。

ガラス越しに中を覗くと、壁一面に釣り竿が立てかけられ、その隙間を埋めるように小さな袋がビッシリぶら下がっている。ルアーとか仕掛けとか、よく分からないけど「釣りの世界」がぎゅっと詰まった空間だ。


運転席のパパは、バックミラーでまず私の様子を確認したあと、さりげなく手鏡を取り出して頭頂部に向ける。

バックミラー越しに、パパのつむじがどアップで現れる。


んー。まだ大丈夫でしょう。

ちょっと細いかもしれないけどね。


カーソンさん――つまり私の同級生のケネスと、一つ下のエマちゃんのお父さん――は、今日は芦名ナナちゃんの保護者役として来てくれる。

芦名家とカーソン家は、話に聞く限りものすごく仲がいい。


まだ見ぬ芦名パパと、これから会うカーソンパパは大学時代の大親友。

先日、高岡イオンモールで会った芦名ママの杏里さんと、カーソンママのクラウディアさんも大親友。


そんな「なんでも話せる仲」の家族同士が、同じ地域で暮らして、子どもたちも一緒に遊んでる。

すごく幸せな環境だなぁ……と、ちょっとだけ羨ましく思う。


そんなことをボンヤリ考えていると、一台の大きな車が釣り具屋の前に滑り込んできた。

黒くてゴツくて、存在感がやたら重い。


「キャデラックだー。カッコいいっ!!ねむ!見てっ!」


パパが、さっきまでのつむじチェックを忘れたみたいに興奮気味で後部座席の私に話しかけてくる。


ギャデラッツ? 知らんがな。興味ない。

車なんか、走ればなんでも一緒やろ。


……まぁ、パパがあんなに嬉しそうに言うなら、見てやろう。


どれどれ。


んー。運転しにくそうだな。

もう二回りくらい小さくても良いのではなかろうか?


そんなことを思っていると、私の愛するアプリ・WhatsAppに一件のメッセージが届いた。


ナナ

:今着いた。お店の中?


んーっ! ナナちゃんキターーっ!!


ねむ

:おはよっ!今車の中だよっ!降りるねっ!

ナナ

:わかた


ふっ。相変わらずの塩メッセージ。

テンション爆上がり女子と、基本クール女子。

この温度差のギャップの舞が、これから釣り場で繰り広げられると思うと、背中がゾワッとする。


パパと私はドアを開けて、車から降りた。

朝の空気は既に少し生ぬるくて、コンクリートの匂いと海の気配がうっすら混ざっている。


さて、どこかな? と周りを見回した瞬間――


目の前が真っ暗になった。


視界の上半分まで占領する、何か黒い壁みたいなもの。

顔を上げても、その黒い何かしか見えない。正面は「景色がない」という異常事態。


いや?違う。巨大なお尻?


さらに見上げると、黒く巨大な生き物が、のっそのっそと動いている。

さっきパパが言っていたキャデラップ?なんとかいう名前の車の後部座席のあたりで、何やらごそごそと準備しているらしい。


なぜ、私の目線の真正面にケツがある。

そしてこのケツだけでも、もしかして私の体重くらいありそうなんだが?


すると、


「ねむっ!こっち。おはよ。」


少し離れたところから、澄んだ声が飛んできた。

そちらを向くと、ナナちゃんが腕を組んで立っていた。


今日は土曜日だからヒジャブはつけていない。

長い黒髪がさらりと風に揺れる。

切れ長の瞳に、丁寧に描いたみたいな目尻のライン。お化粧していないのに、まるでアイラインを引いているみたいにくっきりしている。


身長も私より高くて、肩から腕にかけての筋肉は、うっすらと起伏が浮かんでいて、そのラインがなんだか美しい。スポーツ選手の身体ってこういう感じなのかもしれない。


【おはよっ!ナナちゃん!!この前いっぱい勉強教えてくれてありがとうっ!あとメッセージもいっぱいしてくれて嬉しかった!】


「ハッ。」

ナナちゃんは鼻で短く笑って、片眉をちょこんと上げる。

見下ろす視線は「この下等生物が」とでも言いたげなS顔。


普通なら「なんでそんな態度なの!?酷いっ!」って思うところだが、違うのだ。

この人はこの後、ちゃんと言う。


「いつでも連絡してこい。何時間でも付き合ってやるよ。ねむが気が済むまで。」


ほら。

小学生のくせに、この言葉遣いとツンデレ具合。破壊力おかしいでしょ。

まぁ、身長は私より高いし? スタイルも比べものにならんけどね……。


「ベンさん。ねむだ。初めてだろ?」


ナナちゃんは、さっきまで私の視界を占拠していた巨大な生き物に声をかけた。


「ああ。ねむさん、よろしくね。ベンジャミンだ。それで?ねむのダディは?」


地鳴りみたいな低い声が、胸の奥に響く。

同級生のケンちゃんも相当大きいが、それどころじゃない。

この人は“巨大”の上位互換だ。たぶん2メートルは余裕で超えている。首が痛いレベルで見上げないと顔が見えない。


雰囲気はちょっと重くて怖そうなのに、目元はどこか優しそうだ。

顔立ちはケンちゃんというより、エマちゃんに近い気がする。

短く整えられたカーリーヘアは、綺麗な頭の形に沿ってゆるいカーブを描いている。

両耳にはダイヤモンドみたいに光るピアスがついていて、黒い肌にキラッと映えていた。


でかい。


【手話わかりますか?】


念のため聞いてみる。


「ああ。わかる。誰よりもな。」


そっか、できるか……。

てか「誰よりもな」って、その一言いる? ちょっとカッコつけたでしょ今。


【あ、あの……身長は…いくつありますか?】


「2メートル10だ。ちなみに130キロある。」


…………


うん。

今日の釣りで死ぬことはなさそうだ。



「ど、どうも!私、香椎ねむの父で香椎孝太郎……」


パパが小走りでこっちに来て、途中まで言って固まった。


「ああ。どうも初めまして。今回はナナの両親が不在ですので、私が保護者として同行させていただきました。ベンジャミン・エドワード・カーソンと申します。よろしくお願いしま……どうしました?」


地面の奥から響いてくるみたいな、低くて厚みのある声。

ベンさんが首をかしげるたびに、胸板のあたりのシャツがわずかに揺れる。


……で、なんで2人ともフリーズしてんのよ。


パパは口をぽかーんと開けて、見上げたまま瞬きもしていない。

そりゃ度肝も抜かれるだろう。

目の前には、軽く2メートルは超えてそうな巨体。

肩幅も腕も、ケンちゃんが「ふつうの人」に見えるレベルでデカい。


70Hzくらいの低音が喉の奥から鳴ってる感じがして、近くにいるだけで胸の中がブルブル震える。


5秒ほど、気まずい沈黙。


その空気をスパッと切ったのは、やっぱりナナちゃんだった。


「ねむの父さん。今日は付き合ってくれてありがとう。私、ナナ。よろしくね。」


ナナちゃんが一歩前に出て、すっと頭を軽く下げる。その動きで綺麗な黒髪がさらりと靡く。


「ど、どうも、こちらこそ……!」


パパは我に返ったみたいに慌てて姿勢を直し、ナナちゃんにぺこりとお辞儀。

それから、さっき途中で止まっていた自己紹介をもう一度言い直し、今度はちゃんとベンさんに向き直る。


握手を交わす瞬間、パパの手が完全にベンさんの手の中に埋もれていた。

指が全部すっぽり。ミニチュアとフルサイズって感じ。


私も順番に握手させてもらったけど、手を包まれた瞬間、思わず「ひっ」と声にならない悲鳴が出そうになる。

あったかい。でかい。分厚い。

あれなら、今日どんなトラブルがあっても一撃でねじ伏せられる気がする。


「ねむ。一回店、入るぞ。手ぇ貸せ。」


私のペースなんか完全に無視して、ナナちゃんが当たり前みたいな顔で言う。


なんだろう。手……?


言われるままに片手を差し出すと、その手をナナちゃんはそっと包み込んだ。

ぎゅっとじゃなくて、少し力を抜いた、でも逃がさない握り方。


「一緒に入ろう。」


彼氏っ!!

こ、これが彼氏ムーブってやつなのでは!?

完全にリードされてるんですが!??


そういえば、初めて番屋街に行ったときも、ユウちゃんがこんなふうに私の手を握ってくれた。

そのときの体温と、心臓の高鳴りを思い出す。

きっとナナちゃんも、ユウちゃんにしてもらったことを、今度は私に返してくれているんだろうな。


そう思うと、心がポカポカ暖かい。


……気温はすでに暑いけどね!


自動ドアが、ウィーンと音を立てて開く。

ひんやりしたクーラーの風と一緒に、魚の匂いと海水とプラスチックが混ざったような、独特の「釣り具屋の匂い」がふわっと押し寄せてきた。


壁一面に並んだルアーや仕掛けが、カラフルな鱗みたいに光っている。

その中へ、私はナナちゃんに手を引かれながら一歩踏み出す。


わーい。ナナちゃんとデートだ。


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