27友情延滞金
お昼休み、私は机に突っ伏していた。
んなぁ……。
試験終わっても、まだ一週間も授業あるんかい。
釣り行きたいなぁ。
今日の給食、クリームシチューかぁ。
カレーが良かったなぁ。
ちょんちょん、と肩をつつかれる感触。
顔を上げて振り向くと、割烹着姿の萌音ちゃんが、おぼんを抱えてご飯を配っていた。白い三角巾から、揺れるピアスと補聴器のアクセサリーがきらっと光る。
ピアスは禁止だぞ?ゆるいなこの学校。
【ねむ? あんたご飯どれくらいにするの?】
【大盛りで。】
【あのさ。なんでそんな元気なのに、給食当番月一なのよ。もう私達と同じで週一にしなさいよ。】
【何よ。病弱にそんな重いもの持たせる気?】
【どこが病弱よ! あはは!】
萌音ちゃんは笑いながら、私のトレーにご飯をドサッとよそった。湯気がふわっと上がる。奥の方では配膳台のステンレスに、クリームシチューの白がとろりと揺れている。
なんだかんだでシチューもいいかもな。美味しそう。
一応、うちの学校のクラスは、こんなふうに分かれている。
1.聴覚障害クラス(ろう者)
2.知的障害クラス(重度)と、医療的ケア・病弱クラス(私たち)
3.知的障害クラス(軽度)と、肢体不自由クラス(車椅子の子たち)
4.重複障害クラス(いろいろミックス)
5.視覚障害クラス(目が見えない子たち)
紙の上ではきっちり分かれているけれど、現実はけっこうごちゃ混ぜだ。
2組と3組は、一緒に授業を受けることも多い。教科や体調によって、知的障害クラスの軽度と重度が入れ替わったり、肢体不自由の子と医療ケアの子が同じグループになったり。
ようは、先生たちの都合と私たちのコンディションで、日々ぐるぐる席替えされていくシステムなのだ。
その中で、私は「医療ケアが必要な子ども」のグループに入っている。……はず、なのだけど。
もうすぐ一ヶ月になるのに、私は医療ケアを一度も受けていない。
先日――愛弓ちゃんと萌音ちゃんが喧嘩した、
『ねむちゃん、この学校にいる意味ある?』事件が、じわっと脳裏に浮かぶ。
……ホンマや。どこ行ったらええねん、私。
それについて、今日は急遽、私とママと水橋先生で三者面談をすることになってしまった。
マジ勘弁である。私の予定表には「釣り」と「夏休み」がびっしりなのだ。そこに「進路」なんて文字、書き込みたくない。
【ねぇ、ねむ。最近ウエストがキュッとしまってるけど。今度ダイエット教えてよ。どんなのしてるのか。】
萌音ちゃんが、私の横っ腹をぺたぺた触ってくる。ひんやりした手のひらがTシャツ越しに当たって、くすぐったい。
【ほとんど何にもしてないよ。最近は二キロのダンベルで適当に腕回してるだけー。腹筋二十回と腕立て二十回。超絶簡単作業。】
【ええ! そんなんでいいの?】
【だって、つらいのやだし。】
【やり方とかも後で教えてね? じゃね!】
萌音ちゃんは私の机をポン、と叩いて、次の列へと走っていった。割烹着の背中のリボンが、ぴょこぴょこ揺れる。
あっ。ちょっと少ないかも、ご飯……。
ま、いっか。シチュー多めにもらおう。
◇
医療ケアの時間。
いつものように、処置用の椅子に座っている。
白いカーテン、消毒液のツンとした匂い、壁際で静かに光っている吸引機。
ここに来るだけで、昔のあれこれが一気に胸の奥でざわつく。
……なのに。
案の定、私の喉には相方は現れない。
おい。マジでいねぇのか?
来るなら早めに来い。来ないなら一生来んな。
心の中でだけ、いつもの毒舌を吐く。
痰ごときにここまで振り回されてきたのだ。相方呼ばわりしてやるだけ、ありがたく思え。
「ねむちゃん。今日も痰さんいないね。良かったね。」
目の前にしゃがんだ水橋先生が、私の喉元をそっとさする。
ひんやりした手のひらが、火照ってもいないのに安心させてくる。不思議だ。
【うん。もう会えないかもしれませんね。色々思い出があるんですけど。(悪い)】
わざと(悪い)を付け足して、手話で冗談めかしてみせる。
「ふふ。そうだね。色々あったね。いっぱい辛い思いしたもんね。救急車、何回乗ったのかとか覚えてる?」
先生の声はいつも通り柔らかいのに、言葉だけがずしっと重い。
【もう覚えてないくらいありますね。お金かけちゃってすいません。】
つい、いつもの自虐が口(手?)をついて出る。
「おい。そんな事話したいんじゃないよっ!」
先生がむっとした顔をして、私の頬を指でちょんっと弾いた。
その仕草が可笑しくて、思わず肩が揺れる。
【冗談です。】
ちゃんと片手をひらひらさせてフォローを入れる。
「この学校でいちばん乗ったの。ねむちゃんなんだよ?」
え?
その一言に、さすがの私も目を瞬かせる。
この学校には、いろんな子がいる。
それでも一番が私、って本気で言ってる?
「ねむちゃんの病気って、世界で数人しかいないからね……。小学生の時は私も何度もヒヤヒヤしたよ。」
先生はカルテをちらっと見てから、私の方に視線を戻す。
その目は、冗談じゃなく本気で怖かった過去を思い出している目だった。
そう。私の病気は症例が少ない。
いつ悪くなるのかも、なんで痰が急に増えるのかも、ちゃんとした理由は分かっていない。
特に小2から小5くらいまでは、毎月みたいに救急車で運ばれて、何度も死にかけた。
意識が飛んだのは……二回だっけ。
サイレンの音と、車内のきつい匂いと、ママの泣き声。
あれは、今思い出しても胃がキュッとなる。
物心ついた頃から小1くらいまでは、まだ「たまに」だったらしい。
でも、身体の成長と一緒に喉への負担が跳ね上がった――というのが先生の「だろう」理論。
「きっと、身体の成長のタイミングと重なったんだと思うよ。骨も筋肉も大きくなって、喉にかかる力が変わってね。……“だと思う”なんだけど。」
結局のところ、その「だと思う」なのだ。
だから今も、私の中では結論はひとつ。
今はたまたま、身体の成長の波と相性がいい時期なだけだ――たぶん。
【なんか、過去のことのようですが、まだトラウマはあります。】
言いながら、自分の喉をそっと撫でてみる。
今は静か。でも、ここが一瞬で裏切ってくるのを、私は知っている。
「そっか。まだ怖いよね。」
先生はきゅっと口を結んでから、ふっと表情を和らげた。
「まあ、その事で今日はママと一緒に話ししようね! 今日も医療ケアはクリア! 休み時間、行ってらっしゃいっ!」
いつもの調子で親指をぐっと立てて見せる先生。
私は「了解」のジェスチャーをしてくるりと回れ右。
医務室の扉を開けると、ひんやりした空気から一気に校舎の熱気に包まれる。
廊下には、給食が終わったばかりの匂いがまだ残っていた。
そして、そこには懐かしの女子――
医療ケアの時間にはいつもここに来ていて、最近は姿を見せなくなっていた、
柊木佳苗ちゃんの姿があった。
階段の手すりに背中を預け、ぼんやり天井を見上げている。
補聴器のない素の横顔は、少しだけ前より大人びて見えた。
◇
佳苗ちゃんは、私と目が合うとヒラッと大きく手を振った。
制服の裾がひらりと揺れて、そのままスローモーションみたいな歩幅で、ゆっくりゆっくり近づいてくる。
【来てくれたんだ。最近寂しかったよ。】
目元は笑ってるのに、どこかおでこのあたりに力が入っている。
私はそのまま正面から抱きついて、豊満な果実に顔を沈めた。
……いや、ほんとにそこにあるから仕方がない。物理的に。
胸のあたりから、柔らかい石鹸みたいな匂いがした。ちょっと落ち着く。
【ねむちゃん、この前はありがとね。目が覚めたっていうか。目が覚めた。】
おい。その言い回し、どっかの構文で見たぞ。二回繰り返すやつ。
【そっか。色々進展はあった?プライベートで。】
私は名残惜しく果実から顔だけ離す。
真面目な話だし、手話しっかり見ないとね。果実の弾力は両手で軽く確認はしておこう。ふわっと。ちょんっと。
【うん。色々あったけど。エマちゃんとは進展してないよ。連絡取り合ってない。でもエマちゃんは、私の信じてるものには気づいてないと思うんだ。そこだけが少し気になるかも。】
佳苗ちゃんは、手話をしながら視線をさまよわせる。
指先はいつも通り滑らかに動いているのに、目だけが不安そうに揺れていた。
【そうだね。言ったら言ったでどうなるのか想像できないね。辛い方向になる可能性の方が高いし。言わなくても、もどかしいし。】
自分で手話をしながら、胸の奥がチクっとする。
「言わないで楽でいる」って選択肢も、「言って崩れる」って可能性も、どっちも知ってる気がして。
【でも自然消滅とかは嫌だな。一回だけ話そうと思ってる。私の言葉で。ちゃんと言語を変換して。】
そう言ったときだけ、佳苗ちゃんの目に少し火が灯る。
膝の上でぎゅっと自分のスカートを握りしめていた。
【勧誘はダメだよ?】
わざと眉をひそめて、人差し指をフリフリさせてみる。
【もちろんっ!もう絶対にあんな事しない。ただ。変な話なんだけど。憧れがまだあって、諦めきれないというか。うん、諦めきれないの。】
また構文発動。
どうした佳苗。手話のストックの限界か? それとも本当に大事なところだから二回言ってるのか。
【それならよろしい。憧れは私もあります。だってエマちゃん可愛いもん。】
親指で自分の胸を指して、えへんとするポーズをしてやる。
【それなの。綺麗で可愛くて、スタイル良くて、顔が小さくて、性格もお淑やかで。なんか優雅だよね。知ってる?あの黒いきめ細かい肌。触るとぷにぷになの。いっぱい水分含んでるんだろうな。】
語るときだけ、急に手話が生き生きしだすなこの人。
目を細めて、指先で“ぷにぷに”を再現するみたいに空気をつまむ仕草までついてくる。
私は知ってるよ。
あんたが完全・外見重視の人間だってねっ!!イケメン好きで美女好き。
……嫌いじゃない。その正直さ。お肌ぷにぷに情報もちゃんとメモっとこう。
【そっか。あと、ろう者のコミュニティの子には謝った?】
少しトーンを落として聞いてみると、佳苗ちゃんはうつむいて、自分の膝を見つめた。
【うん。泣きながらね。でもね。パパとママには謝る必要ないって言われた。】
親指で涙が流れる仕草をしながら、それでも口元はきゅっと引き結ばれている。
そうだよね。こういうのってご両親が絡んでくるし、家のルールあるし、仕方ないか……
【でもね!ねむちゃんに言われてから、やっぱり他の人の世界も学ぼうって思ってるの。誰かを敵にするんじゃなくて、なんでこんなふうな解釈なんだろうとか、この子はどんな世界にいるのかなって疑問を持ったり。今まで学ぼうとしなかったのは、あまり良くなかったかなって。】
さっきまで自分の膝を見てた視線が、今度はちゃんと私の顔を捉える。
手話の動きも少しだけ大きくなって、そこに「決意」みたいなものが混ざってた。
【おお!いいじゃないですか!無知は罪ではありませんよ!その代わり学びたいという意志があればきっと救われますっ!】
私は、どこかで読んだ“それっぽい”言葉を、ドヤ顔で手話に乗せて投げつける。
意味の半分くらいは雰囲気でしゃべってる。
【誰の言葉?】
佳苗ちゃんが、くすっと笑って首をかしげる。
【どっかで読みました。もっと難しい言葉だったのは覚えてます。】
原文も誰かも覚えてないのにドヤってしまった。
でもまあ、方向性はきっと合ってる。はず。
【ふふ。ねむちゃんらしいね。その言い回しは多分ソクラテスかな。無知それ自体は恥ずべきことではない。恥ずべきは、無知のままに留まろうとすることだ。だと思うよ?】
【おおー!それそれっ!私のアイデンティティっ!!】
「アイデンティティ」の手話は調べてもなかったから、指文字で一文字ずつ必死に表現する。
【うん。私は無知のままに留まろうとしてたの。ねむちゃんのおかげだよ。ねむちゃんのアイデンティティ、暫く借りるね。】
佳苗ちゃんは、胸の前で両手をそっと重ねるポーズをして、私の方に少しだけ身を乗り出した。
その目はさっきよりずっと軽くなっている。
【延滞金発生するから、ちょくちょく会いに来てね?】
人差し指を立てて「延滞金」のところだけオーバーリアクションでやってみせる。
【分かった。前みたいにちょくちょく会いに来る。はぁ!ねむちゃん。発言も可愛くなったよね!はは!】
笑いながら、私の頬をつん、と指でつついてくる。
その動きが、前みたいな距離感に戻ってきているのがわかって、胸のあたりがじんわり温かくなった。
佳苗ちゃんとの、ちょっとめんどくさくて、でも幸せな会話は、ゆっくりと元の場所に戻ってきつつある。
良かった。
ここからまた、佳苗ちゃんが自分の世界も、他の世界も、ちゃんと歩いていけますように。
……なんて、ちょっとだけ私も祈ってみたりするのだ。




