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23情緒不安定

月曜日の朝の9時。なのに病院の待合の椅子に座っている。先ほどレントゲンと内視鏡をしてきた。


一つだけ特技がある。

内視鏡だ。

私はなんと内視鏡ではびくともしない。

オエってしないのだ。

もう何百回と繰り返してきた内視鏡は私にとってスライム以下の存在だ。


フッフーン。それだけ。


隣には最近情緒不安定なママ。

今日も私の手を強く握りしめている。口数は少ない。私の手を何度も握ってソワソワするのだ。

やはり私の病気の悪化が気になるのか。

若干だが、私も緊張している。

「痰が全身に巡ってもう末期です。よくここまで頑張って生きましたね。お疲れ様です。」

と言われてきっと最後にお寿司のたまごを食べてジ・エンド。


そんな幼稚な妄想をしている。


最後のたまご寿司は塩で食べるか、醤油にしようか。これは直前まで悩む所だ。


まぁ醤油に落ち着くだろう。

念の為二つ用意してもらうか。


「香椎ねむちゃーん診察室へどうぞー?」

看護師さんが私を呼ぶ。


「ねむ。行くよ。」

情緒不安定のママが静かに呟く。


うぃ。いきましょか。


私とママは診察室に向かう。



「先生、どうでしたか?」


診察室の椅子に座った瞬間、先生が何も言う前に、ママが食い気味に聞く。


先生はモニターに映ったレントゲンと、さっき撮ったばかりの内視鏡の写真をじっと見つめて、腕を組んだまま固まっている。


「うーん……炎症がないね」


ん?

炎症、ない?


「なんか新しい薬とか、リハビリとか始めたかな、ねむちゃん。」


先生は画面から目を離さずに言った。


「ねむ、答えて?」


【薬は飲んでません。リハビリも、何も言われてないのでしてません。】


いつものように手話で答えると、ママではなく、隣に座っている医療通訳(手話通訳)の人が、落ち着いた声で先生に伝えてくれる。


先生はふうっと小さく息を吐いた。


「そうかぁ……うん、やっぱり炎症は見えないな。一時的に落ち着いてるだけって可能性もあるけど……」


【でも、最近筋トレはしてます。大した理由じゃないけど。】


そう手話で付け足すと、通訳さんが先生に言葉を渡し、先生は少しだけ眉を上げた。


「筋トレ? どんなのやってるの?」


【二の腕とか、お尻とか、腹筋とか、腕立て伏せとか。あまり息が上がらない程度に。】


「なるほどね。前は、運動すると痰がたくさん出てきちゃってたよね。でも今は、運動したあとも何も出てこない?」


【はい。】


先生はもう一度、モニターに顔を近づけて、画面をカチカチと切り替える。


「あー……もしかしたら、筋力とか姿勢の変化が、いい方に働いたのかもしれないね。あと、ねむちゃん、前より姿勢がよくなってるし、表情もすごく明るいよ。」


【たまたまな気はしますが。】


「うん、“たまたま”の可能性もゼロじゃないけど……ちょっとこれ、二人とも見てくれる?」


先生はプリントアウトした写真を二枚、ひらりと机の上に置いて、ママと私の方へ滑らせた。


「こっちが半年前の、声帯があった場所の写真ね。赤くて、ところどころ白い斑点があるでしょ? これが炎症の跡。」


半年前の写真は、見慣れたはずなのに、改めて見るとやっぱり痛そうだ。


「で、こっちが今日の同じ場所。色が、きれいなオレンジピンクになってるの、わかるかな。腫れもないし、白い斑点もない。炎症の所見は、ほとんど見当たらないね。」


ママが、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。


「先生、こういう前例って……あるんですか?」


ママの声は、震えてるのか、押さえてるのか、どっちとも言えない感じだった。


「うーん……ねむちゃんの病気は、知っての通り、世界的にも症例がほとんどないからね。」


先生は少し言葉を選ぶように、ペンを指で転がしながら続ける。


「だから基本的には、“声帯麻痺”に近いケースを参考にしてるんだけど、声帯麻痺の患者さんには、元々、無理のない範囲での運動は推奨されてるんだ。ただ、それがそのままねむちゃんに当てはまるかどうかは、正直、はっきりとは言えない。今まではそもそも、運動するのが難しかったわけだしね。」


ママが、先生の言葉を逃すまいと、身を乗り出す。


「ちょっと待ってください。つまり今は、症状が……ほとんど無いって事なんでしょうか?」


先生は一度、私の顔をまっすぐ見てから、ゆっくりとうなずいた。


「そうだね。“今のところ”って条件はつくけど……ポジティブに言えば、かなり良くなっている。もしかすると――治ってきている、って表現もできるかもしれない。」


あんだとっ!!!


先生は慌てて、少し言い直す。


「もちろん、“声が出るようになる”って意味じゃないよ。声帯そのものがないから、“完全に治る”って言い方は正確じゃない。でも、声帯がないことによって起きていた“合併症”――つまり、痰が溜まりやすい状態や、炎症が起きやすい状態は、すごくいい方向に向かっている、とは言っていいと思う。」


その瞬間、ママはまたやらかした。


今度は、鼻水をダラダラ流しながら号泣である。


「……っ、よかった、よかったぁ……!」


ポカンとしてる私を思いっきり抱きしめ、その勢いで、自分が座っていた椅子をひっくり返した。


ガシャーン!


金属の脚が床に当たる派手な音にも、ママは全く反応しない。

慌てて、でもどこか楽しそうに笑いながら、手話通訳さんが椅子を元の位置に戻す。


先生も、さっきまでの険しい表情が嘘みたいに、少し晴れ晴れとした顔で私を見る。


「焦らなくていいからね。今日の結果は“たまたまいい日だった”だけかもしれない。でも、少なくとも悪くなっている要素はない。そこは自信を持っていいと思うよ。」


……いや。

私だけは、全然。まったく。これっぽっちも、納得していない。


あいつは性格が悪いのだ。


今まで何回も、油断した瞬間に裏切ってきたのを、私は覚えている。


またすぐ出てくる事は、わかっているのだよ、相棒!


観念しなっ!!



車の中ではまだ情緒不安定なママは健在だ。

まだ泣いている。


言ってやりたい。こいつはそんないいヤツじゃ無いと。また出てきてママを裏切るって。


だけど今はやめておこう。


チョンチョンとママの方を触る。

【ママ?このまま運転しないでね?】


「うん落ち着いたら運転する。最近ママダメだ。泣いてばっかり。この年になって嬉しい事でこんなに泣くなんて思わなかった。」


ん?嬉しい事?なんかママあったのか?


【何があったの?】


「えー?ねむが凄い明るくなってるのが原因。お前のせいだーっ!あははは!」


【私がママを泣かしてるの?】


「うんっ!超良い意味で泣かされてるっ!もっと泣かせてほしいかも。」

こいつは何を言ってるのだっ!私は何もしていないゾッ!


【そ、そっか。それなら次はギャン泣きするくらい。世界の中心でねむを叫んでもらうかな。】


「やめてよ。あのシーンは嬉しくも何とも無い。」

真顔になるママ。


落ち着いたか。


【行こっか。】


「うん!何聴く?」


「There will never be another you が聴きたいなぁ! ソニア・ヘニーのやつ。」 この曲は私のTOP5に入る大好きな曲。

実は、彼女が主演している『アイスランド』って映画自体は見たことがない。 それにこの甘い歌声も、クレジットされているソニア本人じゃなくて、ジョアン・メリルっていう歌手だってことも知ってる。

でも、この曲を聴くと、勝手に氷の上で踊るような優雅な映像が浮かんでくるんだ。 白いドレスを着たソニアが、リンクを滑る夢みたいな光景。

ジャズとして聴くと「本格派」ではないらしいけど、「こんなに綺麗で儚い瞬間は二度とない」っていう曲のテーマを、ジョアンの声が完璧に体現してる。 胸がキュンってなって、ため息が出ちゃう。


「オッケー!よし、もう今日は『病気療養』なんか撤回だっ! 今日さ! 学校サボらない?」


なにっ!ママからそんな不良発言初めてなんだけどっ!


【良いの!?】


「たまにはいいでしょう!悪い事たまには親子でしよおゼェっ!」


【うんっ!今日は不良姉妹でっ!】


「どこ行くっ!?」


【海でしょっ!海岸行きたいっ!】


「だと思ったっ!安全運転で行きまーす♪」


母と娘。で非行少女。


この後ママは学校に連絡をするのを忘れた。本当にいけない事をして学校に注意されたらしい。

電話越しに平謝りしているのに、顔はずっとニタニタと笑っていた。 やっぱり情緒不安定だ。

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