2甘夏と宝石
私たちは車の窓を少し開け、春のやわらかな風を受けながら氷見市へと向かっていた。
道沿いには菜の花が黄色く揺れ、遠くでひばりの声が空に溶けている。車内に流れ込む空気はどこか甘く、冬の名残をほんのり残している。
途中で、私が通う万葉支援学校の前を通り過ぎる。
窓越しに見える校舎はいつもと変わらず静かに佇み、グラウンドには風に転がされるボールがひとつ。
そういえば、この道の向こう側へは行ったことがあっただろうか――そんなことをふと思う。
隣ではお兄ちゃんが口を開けたまま眠っている。ときおり身体をビクッと痙攣させ、そのたびに前髪が揺れた。
その姿に私は小さく笑みをこぼす。
深夜の私の介護で疲れているのだろう。
平和だ。
パパは今日も仕事。
ママはハンドルを握りながら、ちらりとバックミラーに目をやる。
ママはパパと一緒に、障害を持つ人たちの生活を支える仕事をしている。病院への送迎や食事作り、部屋の片づけ。誰かの日常を支えることが、二人にとっての毎日だ。
私が生まれる前は、ごく普通の会社勤めをしていたと聞いている。けれど私の障害をきっかけに、今の道を選んだ。
たまに帰宅したママの腕には、青あざや歯型が残っている。
同時に私の学校でも混乱した生徒が先生に襲いかかるなんて事はたまに見るし、めいいっぱい先生の腕を噛んでいた事は見た事ある。
当然だけど。先生は我慢した後どうしようもなくなると突き放す。
当然と言ったが、そのまま我慢し続けていたらいたら先生のお肉はちぎれてしまう。
それを見ている私は思う。
きっとママ達も大変なのだろうと。
でも二人はいつも口を揃えて言う。
「この仕事に助けられてる。充実してるんだよ」――と。
本当にそうなのだろうか。
私はこの病気のせいで、何年も人に迷惑をかけ続けている気がする。
きっとパパもママも、本当は泣く泣く今の仕事を選んだのだ。そう思うと胸が痛む。
早く大人になって、この身体から解放されたい。
「もうそろそろ着くよー。葵を起こして」
ママの声に振り向くと、窓の外に青い海が横たわっていた。
続けてママは言う。
「すごいよ、今日は立山連峰がくっきり見える」
私は兄を起こす手を止め、外の景色に目を奪われる。
海の上に、氷の山脈が広がっていた。
水平線から弧を描くように連なるその白は、空の青と溶け合い、ゆらめく陽光にきらめいている。
思わず心の中でつぶやく。
――綺麗。
だからこの地は「氷見」と呼ぶんだぁ。
真意は知らない。
するとお兄ちゃんがムクっと起き上がる。
するとおもむろに、
「春だねぇ。。母さん。ジャズのCheek to Cheek流して?」
「いいねぇ!少しテンポどうする!?」
Cheek to Cheek 原曲のことはよく知らないけれど、大好きなジャズスタンダードの一つ。
「ねむ!なんか選んで!」
ママは何故か楽しそうに、音楽も鳴っていないのにリズムに乗っている。
ふっふ。
これっきゃないと思うレコードがある。
エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングのデュエットだ。
エラとルイがまさに頬と頬をくっつけてるみたいに愉快に踊っているような歌声。
天国での曲なのにこんな明るい天国があればいいなって思える、ポジティブな曲だ。
エラが誘って、ルイが答える。ルイが誘って、エラが答える。そして会話の後には笑いが溢れるような感覚。
よく帰り道の夕方に聴いてる曲だけど、正午の立山連峰を観ながらのCheek to Cheekも最高だ。
しかもこれからワクワクの甘夏狩りがあると思うと私達の心を震わせてくれる。
お兄ちゃんは指で裏拍を取りながら風を感じ、私は兄の膝に体重を乗せながら氷見の海と立山連峰を覗き込む。
「Heaven, I’m in heaven♪」
「And my heart beats so that I can hardly speak♫」
ママとお兄ちゃんは口ずさみ、私は首を縦に振り、スイングを感じながら海沿いの道を快適に進んでいった。
◇
「えっとー。もう近くなんだよねぇ。冰の杜学園の近く……なんだけど。」
ママは少しスピードを落としてキョロキョロしながら、あたりを見渡す。
その時大型トラックの侵入で車が止まった。
すると私の視線の先にひとりの人影が映った。
道路脇の木製の防護柵に腰掛ける女の子。
風に靡く栗色の髪は陽光を受けて艶やかに光り、透き通るような肌には儚さが漂っている。
細い肩をすくめ、遠い何かを見つめるような切ない表情をしていた。
な、なんて綺麗な子なんだろう。
私は釘付けになる。
ふと横を見ると、Cheek to Cheekを歌い終わって満足し、再び眠りについた兄がいつの間にか目を覚まして同じ方向を見ていた。
「おい、ねむ。あの子……やばくね?女神?」
お兄ちゃんはもう目がハート…ではない。まるでこの世のものとは思えない、驚きの表情をしている。
美的感覚は、どうやら兄妹で同じらしい。
彼もまた、その少女に心を射抜かれていた。
◇
一瞬だったが、私が受けた衝撃は過去最高で、生まれて1番興奮してしまったかもしれない。。
AIで作るより完璧でナチュラルな顔。
さらに防護柵から下がる脚はとても綺麗で驚くほど長かった。
特に気になったのが太く整った眉毛と目の色。
目の色は何故かはわからない。虹色に見えた。
気持ちの高鳴りなのか。幻覚もあるのだろうかとも思ってしまった。
すると
前を見ると、すらりとした男の子がポケットに手を入れたまま、横断歩道の前に立っていた。
ママは一時停止して、その子が渡り切るのを待つ。
「葵、ねむ。見て?すごい可愛いイケメン!外国人かなぁ。すごーい!!うわー!」
今度はママが釘付けにされている。
そして興奮が止まらない。
男の子の髪は天然パーマだろうか。両耳には金色?のピアス。無造作な髪が春風に揺れ、どこか退屈そうな雰囲気を纏っている。その仕草に、道端の空気までもゆっくり流れているように感じた。
私たち三人は自然とその歩みを目で追ってしまう。
横断歩道を渡り終えた男の子は私達に振り返りポケットに手を入れながら軽く会釈した。
目の色は薄茶色で少し不思議そうに私達を見ていた。
それはそうだ。
後部座席に座っているお兄ちゃんと私は身を乗り出して彼を観ている。そしてママも当然前のめりで彼を凝視しているのだ。
流石に彼から見たこの光景は失礼ではないかと思う。
彼からだけではない。客観的に見ると私達は変な家族に写っているだろう。
何よりの救いは車の中。
彼からしか私達は見えていないのだ。
「か、母さん。早く進んでよ。後ろから車来るよ?」
お兄ちゃんはトントンとママの肩を叩いた。
「あっ、見惚れちゃった!もうすぐそこだよ?」
ママは慌ててアクセルを踏み込む。
すぐ左手に、校庭の銀杏並木がちらりと見える。冰の杜学園だ。
あ、佳苗ちゃんが言ってた学校だ。
ハッと思い出すのに0.2秒。
【多分だけど。すごく。カッコいい。男の子が。いる。】
――あ!あいつじゃね!?佳苗ちゃんが言ってた男の子って!
私は慌てて振り返ったが、その姿はもうなかった。
「おい、ねむ。あの子に一目惚れか?俺が降りて言ってきてやってもいいぞ?」
クソ兄が。そんなんじゃねぇよ。
私はお兄ちゃんの二の腕をつねりあげる。
「痛い痛い痛い!ごめんって!」
バックミラー越しに、ママの笑顔がのぞいていた。
……まぁ、イケメンは認める。アラブの王子様みたいな雰囲気の子だった。
車は学校を過ぎると細道へ。S字カーブをうねるように登り、両脇には畑や菜の花が広がる。山肌を黄色に染める菜の花が、風に揺れるたびに波のようにきらめいていた。
頂に近づくと、段々に並ぶ棚田が目の前に現れる。
光を映した水面が階段状に重なり、空と大地の境目を描き出している。
「うわー!なにこれ!?富山にこんなところあったの!?超映えスポットじゃん!長年住んでるけど知らなかったよ!」
ママは少女のように目を輝かせ、窓を開けて叫んだ。
車を数台停められるスペースに入り、私たちは車を降りる。
春の空気が頬を撫で、菜の花の香りが風に乗って漂ってくる。
「ねむ、水一本飲んどけ。トイレも綺麗だから我慢することないぞ?」
お兄ちゃんが気を遣って水を渡してくれる。
私は黙って頷き、差し出された手を受け取り、頭を撫でられた。
……やっぱり、半分こいつのせいだと思う。
私に友達がいない理由。
ママはデジカメとスマホを交互に構え、私とお兄ちゃんを撮っては景色を撮り続ける。
その時、棚田を見下ろした私は、思わず目を疑った。
ーーなんだあれ。
これは流石に情報量が多すぎてなかなか表現が難しい。
土で汚れた白いタンクトップを着ている。
彼は青年?なのか?いや、遠くから見ても大きな体格だ。きっと大人だろう。
黒人が棚田の端っこで、寝転がりながらタッパーいっぱいのおにぎりをむさぼり食っていた。筋肉が凄い。
少し食べると腕立て伏せを綺麗なフォームでゆっくり何回も繰り返えす。
終わったら胸を抑えて1人で悶絶している。
と、思ったらおにぎりをむさぼる。
たまに本当に苦しそうに、のたうち回っているのだ。苦しそうなのに……少し笑っている……
怖い。
コワモテ屈強タンクトップニキ。
いや!まだタンクトップは寒いだろう。
しばらく様子を見ていると、おにぎりに土がついたのか、一生懸命手で払っている。それを何度か繰り返すが、諦めたのか土ごと貪る。
そして1人で何度も頷き"美味い"と言っているようだった。
土……私の目から見ても結構ついてた……
絶対にジャリジャリいうやつ。
彼は案の定「あ"ぁ!!」と声をあげて手を口に当てていた。
ジャリったのだろう。
だが彼は飲み込む。
まるで野人だ。
「おい、ねむ。お前、すげー笑ってるけどどうした?珍しいな。」
お兄ちゃんが意外そうに声をかけてきた。
は?珍しい?私が?
不思議に思い、問い返す。
【私が、笑ってるの、珍しいの?】
「そりゃ、一人で笑ってるところなんか家じゃ見たことねぇよ。」
……え?そうなの?
いや、まぁ確かに。一人で笑ってたら、ちょっとキモいかもしれない。
そりゃ珍しいかもな。
なんか、勝手に納得してしまった。
◇
春の風に混じって、後ろから柔らかな声が響いた。
「こんにちはー!」
振り返ると、六十代くらいの女性が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「こんにちは。予約された香椎さんですか?」
「はいっ!そうです!香椎と申します。本日、みかん狩りを三名で予約させていただきました。」
ママがぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます。私、農家の柳田と申します。どうぞこちらへ。少し上がったところに甘夏の畑がありますから。」
柳田と名乗った女性は、どこか上品で落ち着いた雰囲気をまとっていた。その立ち居振る舞いは、田園風景の中にいても優雅さを失わない。
ママは周囲を見回しながら目を輝かせる。
「すごいですね。こんなに綺麗な場所があるなんて。ちょっと感動しちゃいました。」
「そうなんですよ。元々甘夏の幹はあったんですが、管理を手伝ってくれる人たちのおかげで、ここまで綺麗になったんです。ほんの数年前までは荒れていたんですよ。」
柳田さんは説明しながら、緩やかな坂道を案内してくれる。
登りきると、一面の桜並木が視界に広がった。枝先にはまだ花が残っていて、春の名残を漂わせている。その奥には緑の芝生が広がり、空の青さと相まって絵画のような光景だった。
「うわ、まじ?めっちゃいいところじゃん!今ならまだお花見できるんじゃない?なんで人いないの?」
お兄ちゃんは驚きの声をあげる。
柳田さんが笑みを浮かべた。
「登ってくる途中、アスファルトが急に新しくなっていたでしょ?あそこから先は私有地だったんです。だから人が少ないんですよ。」
「なるほど、みんな知らないわけだ。」
ママは納得したように頷きながら辺りを見渡した。
さらに奥へと進むと、目に飛び込んできたのは鮮やかな黄色の甘夏の実。陽光を受けて輝きながら、枝にたわわに実っている。
── 一気に胸が高鳴った。
受付を済ませるために小さな木造の小屋に入ると、柳田さんがさらに丁寧に説明をしてくれる。その声に耳を傾けながら、これから始まる体験に心が躍った。
その時だった。
ガラガラ、と背後の扉が開く。
「恭子ちゃん、お客さん来た?こっちは準備できたって!」
え?柳田さんて恭子ちゃんっていうの!?可愛い!
いやいやそんなこたぁどうでも良い。
現れたのは、さっき胸壁に座っていた女の子だった。
近くで見ると、さらに息を呑む。
彼女の瞳は左右で色が違う。右目は夜明けを閉じ込めたような深い碧、左目は真珠のような神秘的なグレー色。整った顔立ちに風に揺れる栗色の髪が映えて、まるで異世界から抜け出してきたようだった。
ふと隣を見ると、兄が口を半開きにして呆然と立ち尽くしていた。丸い瞳はビー玉のように光り、言葉を失っている。
──彼の表情がすべてを物語っていた。
彼女は、ただの美少女ではない。
まさに“女神”だった。
◇
「あ!来てるねー!おじゃましやしたんー♪」
少女は軽やかに小屋から飛び出していった。まるで舞台の幕間に現れる妖精みたいに。
母がぽつりと呟く。
「なにあれ?人?異世界転生?可愛すぎるでしょ…」
やっぱりママと私は血が繋がっている。感想の方向性がほぼ一緒だ。
「いや、あんなの異世界にもいないだろ。逆に怖いわ。外見全振りのチートコードが必要だよ。」
兄も半ば本気で言っている。私も少しわかる。あまりに次元が違うと、 驚きよりも恐怖に近い感覚が胸に宿る。まるで勝負にならない相手と対峙した時の敗北感。
柳田さんが説明を一旦止め、ふふ、と含み笑いをした。
「芦名さんちはみんな綺麗な顔立ちなんですよ。村全体が元気をもらってるの。あの子たちを見るだけで癒されるんですよねぇ。」
話しながら、さっきの少女のことを柔らかく語る。声に誇らしさが混じっていた。
「今日剪定してくれてるから、よかったらお話ししてみたら?あの子、とっても頭がいいですよ。」
……いや顔が良くて頭がいいのはまさにチートだ。
私はいいかな。関わったら心臓が持たない。甘夏に集中しよう。兄なら行きたいんじゃないかと思ったけれど。
「いや、いいです。遠慮しておきます。」
兄は意外にも首を横に振った。
【してきなよ。私とママは甘夏狩りに来たんだし。】
私は手話で兄に伝える。すると、柳田さんがぱちりと目を丸くした。
「あら、手話?あの子も手話をするんですよ。偶然ですね。」
「え?いいね!お前こそ話せよ。頼むから。俺は無理だ。」
兄が小声で言い返す。なに言ってんだ、このクソ兄。私の性格知ってるだろ。コミュ障に頼むな。
「いいじゃん。挨拶くらいしてきなよ、ねむ。」
母は私の肩を軽く叩きつつ場を繋ぐ。すぐに柳田さんに話を戻した。
「なんで手話を?あの子、耳が不自由なんですか?」
柳田さんは頬に指を当てて少し考え込み、にこやかに答える。
「いいえ?耳は聞こえます。。むしろ凄い耳は良いと思う。でも詳しいことはわかりません。家族で手話遊びにしてるのをよく見ますよ?それも聞いてみるといいかもね。」
遊びで……手話? 私の中の常識が少し揺らぐ。
「その子、何歳なんですか?高校生くらいですか?」
母が何気なく尋ねると、柳田さんはさらりと笑って返した。
「中学一年生ですよ。大人っぽく見えますよね。」
――嘘。中学一年? 私より年下?
思わず兄を見ると、彼も信じられない顔をしていた。
「え?ねむの年下? まじかよ。全然違うな。」
……おい。どういう意味だ、その「全然違うな」は。
私は兄の脇腹をつねってやった。
「イタタタ!ごめんって!」
母がくすっと笑っている。
胸の奥がもやもやする。嫉妬なのか、苛立ちなのか、自分でも判別がつかない。
今まで他の子に関わりたいなんて一度も思わなかったのに――。
あの子だけは、気になって仕方がない。
どんな子なんだろう。
◇
私たちは外に出て、甘夏の実がたわわに実る木々の前に立った。
正直、甘夏狩りどころじゃない。頭の片隅では、さっきの女の子のことがぐるぐるしている。別に話しかける必要なんてないはずなのに。
ふと横を見ると、お兄ちゃんも落ち着かない様子でキョロキョロしていた。
……お前も一緒かい。
そんな中、ママだけは少女みたいに目を輝かせ、甘夏をいろんな角度から眺めては柳田さんに「どれが甘いの?」なんて質問を繰り返している。
気楽だな、ほんと。
気を取り直して辺りを見渡す。
春の陽射しは柔らかく、木々の隙間を縫って差し込む光が果樹園を照らしていた。黄金色に染まった甘夏が連なる光景は、まるで宝物が山になっているみたいだ。
ママに手招きされて、私も籠を持って小径を歩く。足もとにはふかふかの土。ときどき小石を踏むと「コツン」と澄んだ音が響く。朝露の残る葉っぱが陽を受けてきらめき、甘夏の爽やかな香りがふわっと鼻を抜ける。
緑から黄色へと移ろう果実たち。私の手のひらほどの大きさの実が、枝を重そうにしならせ、陽に照らされてつやつやと光っていた。思わず見惚れてしまう。
そんな時だった。
「この辺りが食べ頃だよ?」
声に振り返ると、そこに立っていたのは――あの女の子。
太陽の光を背に受けた彼女は、甘夏の輝きを後光のようにまとっていた。
ぬぉっ……直視できぬっ!
光がまぶしすぎて、まるで神聖魔法の直撃を受けたみたいだ。私はとっさに顔に手を当てて光を遮る。
お兄ちゃんは……大丈夫か?
恐る恐る視線を向けると、なんと片膝をついて戦闘不能状態になっていた。
早すぎ!兄者!
一方のママは、どうやら光属性らしい。まるでダメージを受けていないどころか、嬉々として彼女に近づいていく。
「え?本当!?ありがとう!」
くそ……闇属性の私は、あの後光にはどうしても耐えられない。
ママはまた私達に手招きをしている。
心臓がドキドキして、今にも爆発しそうだ。
なんだこの感覚。
――この年で死ぬのか、私。
◇
私は神聖魔法を全身に浴びながら、ママと少女へと歩み寄った。
兄者はどうだ?
後ろを振り返ると、彼は両膝をついて地面と会話している。
……コイツもうダメだ。捨ててこう。
ママのそばに辿り着く。しかしママは甘夏ではなく、その子の瞳を凝視していた。まるで魅惑の呪文にかけられたかのように。
「ど、どうしたの?香椎さん? だっけ?」
少女は首を傾け、不思議そうにママを見つめる。
その瞬間、ママはハッと正気に戻った。
「いや……君の目。碧の中に甘夏が映ってるって思ったら、本当にオレンジ色が散りばめられてるんだね。それに、左の真珠の中にも甘夏……」
少女は少し照れたように笑みを浮かべ、答える。
「うん。パパとママから貰ったの」
嬉しそうに言うその声の奥に、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、寂しさの影が差したように見えた。
本当に……一瞬だけ。
「へぇ、すごい……。んで!?これが食べ頃なんだね!?」
ママは視線を甘夏に移す。
「そう!甘いよぉ〜。失楽園くらい甘いかも!」
少女は笑顔で答えた。
「え? 失楽園ってあの?私世代じゃないんだけど…あれって、甘いのかな…渋みもありそうだけど…君は…恋してるの?」
ママが楽しそうに、いや少し冷や汗をかきながら問いかける。
「したことないかなぁ!」
少女はハハッと笑い声を交えて返す。
……え?失楽園って何?どういう意味?
ママを見ると、彼女は肩を少し落とし、苦笑いを浮かべていた。
どこか不思議と、襟元がずれているように見えた。
◇
「おいでよ。君も。この甘夏もプリプリだよ?そだ、名前なんて言うの?」
少女が突然、私に声をかけてきた。
けれど私は答えられなかった。声が出せないからではない。ただ、胸の奥がぎゅっと固まってしまったように、身体が動かなかったのだ。
少女は首を傾げ、じっと私を見つめる。その視線がゆっくりと喉元に落ちていく。――赤ん坊のころに受けた手術の痕。今ではほとんど目立たないけれど、私にとっては消えない印。
「【おいで?大丈夫だから。一緒に食べよ?ここで剥いてあげる。】」
その子は手話で話しかけてきた。
そしてふとママを見ると両手で口を押さえて何故か顔を伏せていた。
そんなママは少し涙を我慢したように見える。
驚いた。まるで何年も手話を使ってきたかのように、滑らかで、表情も指先も美しかった。
私は声も手話もなく、ただ真っ黄色に光る甘夏を指さす。理由なんて自分でも分からない。ただその子は、にこっと笑って答えてくれた。
「【オッケー!これだね!もぎたて、美味しいよ〜!?】」
別に手話なんかしてくれなくてもいい。私は聞こえるのだから。
けれど――その行為が、どうしようもなく嬉しかった。胸の奥が熱くなり、泣き出しそうになる。
健常者からの手話なんて光景は長らくこの生活をしていれば日常茶飯事だ。別に泣き出すような状況じゃない。
ただ、初対面なのにあまりにも自然過ぎて、私の知ってる世界とあまりにも違う世界なのに私が踏み入れても異物と捉えてない彼女に嬉しさにも似た恐怖を感じてるのかもしれない。
少女は小さな鋏で枝をプツリと切り、腰から取り出したペティナイフを手にする。慣れた仕草で実の上下を落とすと、果汁がしずくのように光って彼女の指先を濡らした。
白いわたをすっと削ぎ落とすと、透明な薄皮に包まれた果肉が顔を出す。皮をりんごのようにくるくると剥くと、黄金色の実が陽の光を受けて宝石みたいにきらめいた。
切り終えた皮を袋に入れると、少女は白い境目に小さな切れ込みを入れ、房をひとつ取り出した。
「はい、食べて?」
きらきらと輝く果肉を、そっと私に差し出してくれる。
私は言葉もなくそれを受け取り、震える手で恐る恐る口に含んだ。
――瞬間、世界が変わる。
果汁が弾け、酸味が鋭く舌を打つ。でもすぐに甘みが押し寄せ、酸っぱさを包み込みながら溶け合っていく。オレンジとも違う、甘夏ならではの爽やかさ。苦味はどこにもなく、ただ優しい甘さだけが残る。
「君、どうしたの?」
少女の声が柔らかく届いた。見上げると、心配そうに私を覗き込む宝石が二つ。
「美味しくなかった?」
そんなわけない。
分からない。ただ、涙が止まらなかった。
甘夏を頬張りながら、私はただ、泣き続けていた。
◇
「あらぁ。どうしたんだろ。」
ママは私の頭を撫でながら抱きしめ、背中をやさしくポンポンと叩いた。
口の中にはまだ大きな甘夏が残っているのに、涙が溢れて顎に力が入らない。
ただハァハァと息を吸いながら、空を見上げて泣いてる。
少女の顔は見られないまま、しばらく時間だけが過ぎる。
どうしよう。早く伝えないと。
――君の優しさが、すごく嬉しかったって。
耳元で、ママがそっと囁く。
「ねむ? 今しかないよ。伝えてあげて?」
視線を少し下げると、少女は眉をハの字にして、心配そうにこちらを見ていた。
勇気を振り絞る。
【ありがとう。凄く、美味しい。】
……違う。本当に伝えたいのはそれだけじゃないのに。
手話の引き出しが少なくて、うまく言葉が出てこない。
「【うん!じゃあもっといっぱい食べよう! 私も食べる!! もっと近くおいで!?早食いとかしちゃったりして!!あはは!】」
少女は、しんみりした空気をブルドーザーみたいに雰囲気を潰して突っ込んでる。
その勢いに身を任せ、私はもう一度彼女のそばへ。
私のほうが年上なのに――
どんな状況だよ、これ。
「お母さんも一緒に食べよ?」
少女は手際よく甘夏を切り分け、私とママに差し出してくれる。
ママを見ると、目頭に涙がたまっていた。
……どうしてママまで泣いてるのだろう?
しばらくのあいだ、少女が甘夏を剥き、私たちは黙って受け取って食べる――そんなやり取りが続いた。
ふと兄が気になって振り向くと、さっきと同じ姿勢のまま。
両膝を地面につき、視線は少女に釘付けだ。
……おい。
あれから一歩も動いてないのか、兄者。
そっか。…惚れちゃったか。
◇
お兄ちゃんを見ていると、後ろから見覚えのある男の子がポケットに手を入れて近づいてきた。
その男の子は兄に声をかける。
「君、大丈夫?膝濡れちゃいますよ?」
そう、さっき横断歩道で見た“アラブの王子様”だ。
兄は泥で汚れた膝を気にしつつ、へらっと笑った。
「あ、ああ。腰抜けてるんだ。へへ。」
両手でパッパと泥を払いながら答える兄。王子様は軽く頷くと、隣にいた少女へぶっきらぼうに声を投げた。
「ユウ、キッチン空いた。」
それだけ言って、すぐに背を向けて去っていく。
だが少し視線が気になった。
車の中で家族3人で王子をガン見していたの。バレてるよね。
ごめんなさい。
「ありがとうっ!!」
ユウちゃん?は大きな声で返事をし、私たちの方へ振り向く。
「【あ、私、芦名ユウって言います。自己紹介してなかった。テヘペロ。】」
手話をした後テヘペロまで指文字で告げ、最後に舌を出してウィンク。コツンと自分の頭をグーで叩いてみせる。
……待て。テヘペロって、私が妄想の中だけで使う“死語”じゃん。しかもそれを手話でやるとは!私も使おう。
「ほら、挨拶しな?」
ママが私の背中をポンと押す。
仕方なく私は手を動かす。
【香椎ねむです。よろしくお願いします。】
語彙が少ない。もっと伝えたいのに、どうしても単調になってしまう。
…さっきまで泣いていたのに。でも今はきっと、少し笑えてる気がする。
「さっきの子は知り合いなの?ユウちゃん。」
ママが尋ねると、ユウちゃんは肩をすくめて笑った。
「【あ!あれ、お兄ちゃん。照れ屋だからいつもあんな感じ。草でしょ?】」
“草”まで自然に使いこなすあたり、ほんと恐ろしい子だ。ママも思わずクスクス笑っている。
「【ねむちゃん、よろしくね?あと笑顔!可愛いね!】」
ユウちゃんはふわっと微笑みながら言った。
……っ。ユウちゃんに言われると、なんだろう。胸がぎゅっと熱くなる。
「君も可愛いです。あー、葵です。か、香椎あ、葵。」
兄が割り込むように名乗った。
「オウゥ!アー・アオイ・カカシ君?センキューセンキュー!食べる?甘夏。剥いたやつ!」
兄のどもりを一切気にせず、そのままリピートして笑うユウちゃん。
あれ、この子……天然なのか?
「いただきますっ!!!」
兄は背筋をピンと伸ばし、妙に大声で答えた。




