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16静寂と別れ

穏やかな時間がゆっくりと流れていた。

ナナちゃんは、今日の職業体験であった出来事をユウちゃんに楽しそうに話している。


ユウちゃんは肩肘をテーブルにつき、頬に手を添えたまま静かに相槌を打つ。

ほのかな笑みを浮かべてナナちゃんを見つめるその表情には、どこか“姉”の余裕があった。

優しく受け止めるまなざしに、改めてこの子は本当にお姉さんなんだな、と胸の奥が温かくなる。


「そっか。お疲れさん。」


そのひと言に、ナナちゃんの顔にぱっと明るい色が灯る。

小さな卓上に、柔らかい空気が広がっていく。


そんな2人の会話の片隅で――

私はというと、海鮮丼のあまりの旨さに、心の中で絶叫していた。


美味い! 美味いっ!! 旨すぎるっ!!!


白く透き通った切り身は、歯を入れた瞬間にコリッと跳ね返る弾力。

桃色の身は、噛むたびに脂がじゅわっと舌を包み込み、海の香りがふわりと広がる。

マグロは安定の信頼感で、味わうたびに「うん、これこれ!」と心が頷く。


山葵醤油が溶けた酢飯は、ほのかな甘さがあって、海鮮たちを完璧に引き立てる。

ひと口ごとに幸福が押し寄せてきて、思わず箸を握り直す手に力が入る。


そして――あら汁。

土鍋からよそわれた瞬間、お味噌の豊かな香りが湯気となって私を包み込んだ。

口に含めば“じゅるり”と優しい音が舌の上で転がり、さっきまで海鮮の余韻で賑わっていた口の中を一度リセットしてくれる。

そのたびに海鮮丼の最初の感動が、新品のように蘇ってしまうのだ。


ほかほかの中にはプリプリのツミレ。

歯を立てると、弾けるような食感と魚の旨味が広がり――


これ作ったやつ、神っ!!


……と思った瞬間、

顔を上げると、ちょうど目の前に“その神”がいた。


あ!目の前に神っ!!


なんかもう、海鮮丼とあら汁のコンビネーションが犯罪的に美味すぎる。

私はカッカカッカと勢いよく海鮮丼を掻き込みながら、孫悟空ばりの食べっぷりを披露していた。


「ふふ。いい食べっぷり。それに見た目ガッついてるのに、実はゆっくり咀嚼してるのが可愛い。デザート食べる?」

ナナちゃんが楽しそうに笑って問いかける。


【いいのっ!?】


まだ海鮮丼を頬張ったまま、私は手話で返す。

……下品だ。でも、今は勝てない。だって美味すぎる。


ナナちゃんは立ち上がり、慣れた手つきでヒジャブをサッと巻き直す。


「待ってて?」


「私もなんかアイスちょーだいー!」


「わかったー。」


小さな二階の座敷に、揺れる灯りと、優しい湯気と、笑い声。

扉の外からは微かに潮の香り。


――なんだろう、この雰囲気。

最高だ。



「ねむちゃん。少しガラガラ言ってるね。お胸。」


食べ終わった余韻に浸りながら、私は海鮮丼の幸福感に包まれていた。

だが、ユウちゃんの言葉でハッとする。

——そうだ。今日は昼から一度も吸引していなかった。


それにしても、私には聞こえないはずの肺の音に気づくユウちゃん。

何者なんだ本当に。


【あ!気づかなかった。痰取らないと。少し見苦しいけどいい?】


そう伝えると、ナナちゃんが身を乗り出す。


「ねむ。見ていい? お姉ちゃんもお願いしたら?」


どうやら吸引の様子を見たいらしい。

いや、全然構わないけれど、そんな面白いものじゃないぞ……?


【いいよ? 2人とも見てても。何にも面白くないけどね。】


私は横に置いてあった吸引機へ手を伸ばし、電源を入れる。

低いコンプレッサー音が、部屋の静けさを震わせるように広がった。


チューブの先端を口へそっと差し込み、深く息を整える。

ここからが一番恥ずかしい——痰がチューブを通って容器へ落ちる瞬間だ。

流石に私もこれは“人に見られると気まずい行為”だってわかる。


喉の奥でガラガラと音がして、すぐに痰が吸い上げられていく。

透明の管を通って、ぽとりと落ちる。


……そして一瞬。


ふぅーー!


胸いっぱいの空気が、ようやく自由に出入りする。

ただの呼吸がこんなにも美味しい。


「へぇ。これ確か他人だとやっちゃダメなんだよね? 資格が必要なんだっけ。」


ユウちゃんが吸引機を覗き込みながら呟く。

その通りだ。吸引は医師の指示を受けた介護職か看護師のみ許されている行為。


【そう。よく知ってるね。】


するとナナちゃんが急に真剣な表情で言う。

「もしさ、ねむが本当に苦しくて辛かったら私達が見てあげないとダメだから勉強しとかないとね。もちろん周りに大人がいれば別の話だけど。」


その言葉にユウちゃんも続いた。

「そうだね。なんかこの前読んだ本に、介護士は咽頭手前の10センチだったよね。」


「あー。そうすると痰までたどり着けないね。鼻から入れた場合でしょ?」


「そうなんだけど、口からの場合は喉ちんちんまでだから、ねむとの症例とは全く別物なんだよね。だからお年寄り限定の話になるねー。」


「でもねむはカニューレつけてないから、どちらにしろ私達がやるとなるとかなり難易度高いね。やっちゃいけない感凄いわ。」


「うーん。」


……え?

待って、なんでそんな会話ができるの?

どういうこと?


【ねぇ!なんでそんな事知ってるの?】


問いかけると、ユウちゃんはふわっと笑った。


「ねむちゃんと仲良くなりたいなら当然勉強しないとってっ! とりあえず私とナナとハルで3人で参考書よんだよ?」


【あ、ありがと……】


胸の奥に違和感と驚きが走る。

私は正直……ユウちゃんは少し天然で、ナナちゃんは勉強を面倒くさがるタイプだと思い込んでいた。

勝手にイメージを決めつけていた。


ヤバい。私、最低だ……。


この子たちは、私の“リスク”や“負担”をちゃんと理解した上で寄り添おうとしてくれていた。

私はそんな覚悟を知ろうともせず、ただテンションだけで接していた。


【ごめんなさいっ! ユウちゃん! ナナちゃん! なんか私すごい失礼な印象を勝手に作ってたっ!】


苦しい。

——障害者を友達にするリスク。それを背負わせている事実を、私は忘れていた。


最悪だ。


「あはははは!! かしこまるなヨォねむちゃんー!」

ユウちゃんが可笑しそうに笑いながら言う。

「別にそんな固い事、私達も思ってないってぇー! 私は単純にねむちゃんと仲良くしたいって思ったし。

エマなんかもう“ねむちゃんとアニメの話したい〜”って毎日うねうねしてるんだから。

ハルだって“あいつ今何してんのかな……”って恋する乙女みたいな顔するし!

要するに、私達が勝手にねむちゃんと仲良くしたいって思って、勝手に調べたり作戦練ってただけ。

それとも、なんか嫌だなって思った事あった?」


眉尻を下げて、少し困ったような優しい顔。

胸がまたぎゅっとなる。


【全く!ありません!!!】


「なら少しずつでいいから受け入れてくれよ。ねむ。」


ナナちゃんも、同じく優しい顔で言った。


ああ……ダメだ。

こんな大事な友達を困らせてしまっている。


私は深く息を吸って、素直に伝えた。


【ありがとう。本当に嬉しい。そしてこんな雰囲気にしてごめんなさい。】


おんぶに抱っこ。

……まさに、私に相応しい言葉だ。



「ねむちゃん。聞いて? 多分ねむちゃんの頭の中には、リスクって言葉があるんじゃない?」


ユウちゃんの声は、驚くほど静かでやわらかい。

胸の奥の深いところを、そっと優しく突いたような感覚がした。


……図星だ。


【はい。大きく。私の肩に乗っております。】


肩にのしかかっていた重さを、私はようやく言葉にできた。

するとユウちゃんは、ふんわり微笑む。


「そうだよね。命に関わるものだしね。でも当然、私達はそこは全然軽視してないよ?

いっぱい話し合って、ねむちゃんに相応しい友達になるために、これからも努力したいって思ってる。」


言葉一つひとつが、真っ直ぐだった。

優しいのに、芯がある。

私の心の“痛い部分”を傷つけないように触れながら、それでもしっかり握ってくる。


「姉妹。でしょ? お姉ちゃん。」


ナナちゃんが横で、当然のように言う。

その唐突さが、むしろ本気の証みたいに聞こえる。


「そそ。その姉妹になるためには、やっぱりお互いのこと知らなくちゃねっ!

あとは、ねむちゃんのご両親やお兄ちゃんにも“私達はここに居るよ”ってちゃんと報告しないとねっ!

だからもちろん、私のママも今日はここら辺に常駐してるよ? ワンコの散歩してると思うけど。少しずつでいいから、仲良くしてほしいなっ!」


ユウちゃんは手を胸に添えるようにして、まっすぐ私を見る。

その瞳は、まるで蛍火のように澄んでいて、暗がりの中でぽうっと灯っているみたいだった。


とてつもない人間力。


まるで蛍のような優しい暖かさ。

触れたら消えてしまいそうなのに、確かにそこにあって、心を照らしてくれる。


氷見には蛍が飛ぶ。

あの光を初めて見たときのような、胸の奥が溶けていく感じ——

それが今、私の目の前にも広がっている。


目の前の姉妹や、ハル達のおかげで。


【一生大事にしますっ!!】


気持ちが、抑えられなかった。


「「はい?」」


【あなた達をぉ!】


熱がのぼった顔で必死に伝える私を、2人は揃って不思議そうに首を傾げた。

……伝わってない。泣けてくる。ねむ、かっこ悪い。


「「はい?」」


もう一度、完全に同じトーンで返ってきたところで——


スマホから“ピロン”とLINEの通知音が鳴った。


お兄ちゃんだ。



気がつけば、店内の照明が少しだけ柔らかく感じるほど夜が深まっていた。

時計を見るともう20時。

あっという間に時間が過ぎていて驚く。


遅くなったけどその分だけユウちゃんとナナちゃんと過ごした“濃い時間”が胸の中に広がっていた。


スマホが光る。


LINE

:練習試合終わったから迎えにいく。どこにいる?


:今冰覌の月っていう和食屋さん


:そしたら場所の地図送って?行くから。


:ここです。(地図を送る)


:じゃぁ近くに行くから待ってて。


【お兄ちゃんから連絡来た。お迎えで近くに来るって。】


「あー。もうそんな時間かぁ。放課後だけってすぐ時間たっちゃうよねぇ。」


ユウちゃんは畳の上に大の字で倒れこみ、

ふわり、と長い髪が広がった。

その仕草だけで“今日は本当に楽しかったんだな”と伝わってくる。ありがてぇ。


「じゃぁ私は片付けしようかな。ねむはお兄ちゃんが来るまでゆっくりしてて?」


ナナちゃんはそう言って、シュルッと慣れた手つきでヒジャブを整える。

そのまま軽やかに階段を降りていく後ろ姿を見送り、私は深呼吸した。


【ありがとね。ユウちゃん。凄く嬉しかった。今日ずっと。】


「そお?私もずっと嬉しかった。ねむちゃんと一緒にいれて。泊まりにきてね?私もねむちゃんの家行きたいな。」


【あー。私の家かぁ。お兄ちゃんいるよ?】


「あー。葵君?いいじゃん、ゲームでもしたりして。」


……いやいやいや。

あなたは知らないでしょうけど、あの兄はあなたのこと大好きなんです。

もし部屋に居合わせたら……興奮して寝れなくなるぞ?

私は心の中で土下座をしておく。


「ねぇ。ねむちゃん。音楽とか好き?」


来た……!

大好きどころじゃない。呼吸と同じレベルで音楽が好き。


【もうね。この世で1番音楽好きかも。その次にラノベ。】


「へーーーっ!」


ユウちゃんはムクリと上体を起こし、

さっきまで大の字だったのが嘘のように目をキラキラ輝かせて私へと身を乗り出す。

その整った顔が、数センチ先に迫ってくる。


「何が好きなの!?ジャズとかクラシックすき?ポップス中心?」


空気が一瞬で熱を帯びた。


【うんとね。今1番聴くのはジャズかも。最近はエラ・フィッツジェラルドとかルイ・アームストロングとかのデュエットにハマってる。】


「うそっ!!!!」


叫んだと思った瞬間、

ユウちゃんはいきなりハンドスプリングで立ち上がった。


もちろんパンツは丸見えだ。

でも強い!美しい!運動神経どうなってるの!?


「ナナーーー!!来てーー!早くーー!」


は!?

何!?

何事!?


階下からドタドタと足音が駆け上がってくる。


「どうしたの!?何?」


「ねぇ!ねむちゃん1番ジャズが好きなんだって!しかも今エラとルイの名前出てきたっ!」


「うそっ!ビッグバンド聴く?」


【は、はい。マンハッタン・ジャズ・オーケストラとか?ベニー・グッドマンとかでなら……】


「うおっ!姉ちゃんよくやったなっ!知ってたの!?ねむがジャズ好きなの!?」


「知らなーいっ!!」


「ありがとっ!ねむ!最高っ!戻るねっ!」


……なぜ私は感謝されているのか。


ジャズ好きだと何かあるの……??

私、何か重大な扉を開いた?


「あのね。ナナはドラムが大好きなんだよ。ジャズが特に好きなんだ。話合うかもね!あとレオもジャズギターが好きだから絶対仲良くなれると思う。もちろん私もジャズ大好き。オスカー・ピーターソンとかわかる?」


【わかるよ!凄い難しいピアノ弾きながら唸るおじちゃんっ!凄い上手い人でしょ?】


「そうっ!よかったー!話尽きないねっ!ねむちゃんとならっ!」


奇跡起きた!?

趣味全一致!?

ジャズトリオ結成できるんだけど!?

ナナちゃんはドラム、レオ君はギター、ユウちゃんはピアノ……!


最高やん……!


その瞬間。


——ピコーンッ。


LINEが鳴った。


うるさいッ!!

兄者ッ!!タイミングが悪すぎるッ!!



兄から「外で待ってる」と連絡が来た。

画面の光が店内の暗がりに淡く映えて、それだけで“帰る時間”の訪れを知らせている気がした。


【ユウちゃん今日はありがとね。】


「うん。楽しかった。またねっ!お店の外まで送るね?」


ユウちゃんは、すっと立ち上がる。

その柔らかな所作の一つ一つが、夜の余韻をふわりと揺らしていた。


私たちは階段をゆっくり降りる。

足音が古い木の段に小さく吸い込まれて、さっきまでの賑やかな時間と対比するように静かだった。


一階へ降りると、店内は先ほどよりも客が増えていて、温かいざわめきが広がっていた。

カウンター奥ではナナちゃんが一生懸命お皿を洗っている。

水しぶきがライトに反射してキラキラと光り、なんだかその背中が頼もしい。


そして、

“綺麗すぎる”おばあちゃんの綺麗な黒髪はほんのり灯りに照らされ、まるで淡い月光をまとっているようだ。

彼女はお客さんと柔らかく笑みながら会話をしていて、店全体を包む“安心感の源”だった。


「あら?帰るの?また来てね?」

そう言って微笑みかけてくれた顔は、心がほっとほどけるような優しさに満ちていた。


私はナナちゃんとお婆ちゃんに手話で感謝を伝え、深く頭を下げて店を出る。


夜の空気は冷たく、けれどどこか澄んでいて気持ちよかった。

外灯の下には、ジャージ姿のお兄ちゃんが立っていた。

少し汗の残る匂いが、部活帰りの“日常”を思い出させる。


「あっ!ユウさん!お疲れ様ですっ!ねむの事ありがとうございます!」


兄は勢いよく頭を下げた。

後輩かっ!


「葵君っ!ありがとっ!葵くんのおかげでねむちゃんと仲良くなれましたっ!」


ユウちゃんがにっこり笑って、兄にハイタッチを求める。

兄は慌ててジャージの袖で手を拭い、若干緊張気味に手を合わせた。


“なんか……お兄ちゃん、初々しい。”


頬をわずかに赤らめている兄の姿は、私の知っている“家の兄”ではなく、

どこか“男子高校生としての兄葵”だった。


そのままユウちゃん達と別れて、私たちは氷見駅へ向かう。



夜の氷見駅。

待合室は電車の少ない地方特有の、静かな落ち着きに満ちていた。

天井の蛍光灯の白い光が硬くて、街灯の暖色とは違った夜の静けさがあった。


「どうだった?ねむ。楽しかった?」


兄は椅子に座りながら、肩で少し息をしていた。

練習試合帰りの疲労なのか、表情に薄らと疲れが見える。

でも、その目の奥は私の返事を期待して優しく光っていた。


【うん。超楽しかった。お兄ちゃんのおかげ。本当にありがとう。】


「そっか。そりゃよかった。」


兄は安堵したように微笑む。

彼の笑顔は昔から変わらず、どこかしらんぷりとした優しさがあった。


「お兄ちゃんは冰渼ノ江高校にボロ負け。強すぎるんだよ冰渼ノ江。バケモンばっか。」


冰渼ノ江高校……

確かハンドボールが強いと噂の学校だ。

兄が“バケモン”呼ばわりするほどとは。


会話の途中、兄がふっと笑って私の顔を見る。


「お前、なんか凄い顔が緩んでるな。相当楽しかったと見える。」


【うん。人生で一番だったかも。】


兄は肩の力を抜いて、もう一度優しく笑った。

今日のことで、私がまた一つ成長したと思ってくれたのだろう。

家族ってこういう瞬間に、とてつもなくあったかい。


「そっか。母ちゃんと父ちゃんに報告だな。ねむがレベルアップしたって。」


【うん。レベル10から60くらいまで行ったかも。】


「へー。セフィロス倒せそうだな。」


【ノーダメだね。】


二人で小さく笑い合う。

待合室に響く笑い声は控えめなのに、胸の中は満たされていた。

今日という一日は、きっと忘れられない。


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