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15冰覌の月で

ラストオーダーの時間までの番屋街での体験は、あっという間に過ぎ去った。

気づけば、夕方の陽はもう赤く傾き、海面が金色に揺れている。


メンチカツとコロッケは、ユウちゃんと半分こした。

——友達と“半分こ”。

人生で初めての経験だった。

胸の奥がじんわり熱くなって、思わず笑ってしまうほど嬉しかった。


番屋街を離れ、先ほど通った街路樹の道を引き返す途中。

木々の隙間から、柔らかいオレンジ色の光がぽつりと溢れていた。


その光の下に、小さな看板が静かに下がっている。


冰覌の月


まるで隠れ家のように、気づかない人は気づかない。

けれど、よく見れば誰かにそっと招かれているような佇まいだった。


「ここね、おばあちゃんが金曜日と土曜日だけ開けてるお店なの。

 お魚料理がすっごく美味しくてさぁ。ねむちゃんに食べさせたかったの。

 ただだから安心して? 普通に食べたらお小遣いここだけでなくなっちゃうから。」


ただ……?

ということは、ここ……まさかの高級店?


心臓がドク、と一回大きく跳ねる。


ガラガラ……と引き戸を開けると、空気がふっと変わった。

潮風のにおいはすっと薄れ、代わりに出汁と焼き魚の香りがふわりと鼻をくすぐる。

“店”というより“誰かの家”みたいな温かさがある。


カウンターでは、真っ黒に日焼けした漁師さんらしきおじさんたちが、

ほろ酔いでお刺身をつまんでいる。


日本酒をグビッと飲み、

「クゥ〜ッ!」

と幸せそうな声。

仕事終わりの人間だけが出せる、あの独特の声だ。


「おばあちゃんっ!ねむちゃん連れてきたぁ!」


ユウちゃんの声が店内に明るく響く。


「あっらぁ、こんばんは〜。オッケー、2階に上がって〜。

 ナナも来るって連絡あっとったちゃ。 ナナが盛るゆーことでいいがやね?」


ユウちゃんが“おばあちゃん”と言った女性は、どう見ても40代前半。

肌は艶があり、動きも若い。そして"富山弁やちゃ"。


……え? ほんとにおばあちゃん?


「そーっ!だからおばあちゃん何もしなくていいよー!

 あとで2階に来てー? ねむちゃん紹介したいからぁ!」


「は〜い。ねむちゃんって言うがけ。ゆっくりしてかれ〜」


私は軽く会釈して、ユウちゃんの背中を追う。


階段横のテーブルでは、年配の男性が定食を食べながらユウちゃんへ声をかけた。


「ユウっ!お前、綺麗になりすぎじゃねぇか? 変な男に捕まるなよ?」


「捕まらないよぉ〜。私、2人も彼氏いるしっ!」


…………は?


そんな大爆弾は聞き捨てならない。


「どうせレオとコタツだろ?」


「そっ!ついでにお兄ちゃんも入れたら3人だねぇ!」


……よかった、全員家族だった。

思わず胸を撫でおろす。

変な想像してしまったじゃないか。


「心配ご無用ぉー! ねむちゃんここから靴脱いで2階行こっ!」


【うん。わかった!お邪魔します!】


階段を上る。

ギシ、ギシ……と、一段踏むごとに懐かしいような音が響く。

古い木がゆっくり呼吸しているみたいだ。


ほんの少し、お香の香りが混じる。

和室独特の、落ち着く匂い。


吹き抜けから流れ込むひんやりした空気が、

さっきまで早鐘みたいに打っていた心臓のリズムを落ち着かせてくれる。


この階段を登る先には——

きっと私の知らない世界が待っている気がした。



階段の最後の一段を踏みしめると、ふわりと古い木の香りが鼻をくすぐった。

二階は一瞬だけ外の喧騒が遠のく、不思議な静けさに包まれている。


天井には年季の入った木目が走り、その下を支える柱は、皮の模様がまだ残っているほど昔の姿を留めていた。

けれど触れてみると驚くほど滑らかで、長い時間の中で手入れされてきた温度が、指先にそっと移ってくる。


そんな空気に包まれながらふと下を見ると、

少し笑ってしまう愛らしい“生活の痕跡”が視界に入った。


——ハル、ユウ、ナナ、レオ、タオ、アコ、リュウ?


子どもたちの名前が横一列に並び、それぞれの横に小さな線。

壁に刻まれた、成長の印。


小さい頃の身長だ。


ふふっと自然に頬がゆるむ。

視線を上げていくと、同じ名前の列にさらにケネス、エマが増えていて、

なぜかケネスだけ線が異常に多い。


まるでここに刻まれた線そのものが、

芦名とカーソンの家族の歴史そのもので……

自分はその外側なんだと思っていたのに、

なぜか胸の奥がじんわり温かくなった。


——ああ、この家でみんな生きてきたんだ。


私はゆっくり立ち上がって、壁を見上げる。


ケネス。

ケネス。

ケネス……ケネス。


目線を上げても、まだケネス。


どんだけ測ってんだあいつ!


そんな呟きが喉から漏れそうになり、思わず笑いを噛みしめた。


……ほんとうに、いい家だな。


そんなふうに思っていたとき。


「ねむー。ここ座ってー? 座布団だけどいいかな? 椅子とかないのここ。」


ユウちゃんが、ぽんぽんと叩いた座布団が目の前に置かれた。

そこには少し大きめのちゃぶ台。

どこか懐かしくて、昔の日本がそのまま残っているような――

そんな落ち着いた木の色。


私は「お邪魔します」と心の中で呟きながら座る。


「さてーっ!ここからはただだべるだけっ!

確か葵君が迎えに来てくれるんだよね?

それまでゴロンゴロンしてていいからねっ!

料理は勝手に出てくるからー!

大船に乗った気分でくつろいでくれたまえー!」


言うが早いか、ユウちゃんはその場にぱたんと倒れ込み、

白い足をひょいと持ち上げるようにゴロッと寝転がった。


長い脚が畳の上でふわりと宙を掠め、

その拍子にちらりと見える布……

これは……

ヨシッ!!


言葉にならない何かが胸の奥で跳ねた。


でも、さっきまで感じていた“家の中の静けさ”と混ざりあって、

その光景さえも、なんだか柔らかなものに見えた。


——きっと、芦名家ってこういう空気で日々を生きてるんだな。


なんだか急に胸が熱くなる。

笑いながら、嬉しさと少しの切なさがじんわり混ざってしまう。


ここは、みんなの成長を見守ってきた家。

だけど今だけは、私もこの家の空気の中に座っている。


その事実が、すごく嬉しかった。



座布団の上で足を崩し、少し深呼吸して落ち着く。

ちゃぶ台をトントンと指先で叩くと、その小さな音にユウちゃんが反応して、ぱっと視線を向けてくれた。


【あそこの柱に書いてある“リュウ”って子。私、まだ会ったことないよね?】


ユウちゃんは仰向けの姿勢から、むくりと上半身を起こす。

その拍子に、ふわっと髪が揺れた。


「あー!あれね、コタツのことだよ? そっか、ねむちゃんは交流授業では会ってないのか。」


コタツ……ああ!


【たしか、火傷しちゃった子だっけ?】


「そそっ! そうだよー。あの日火傷して、ねむちゃんに会えなかったの。ほんと失礼しやした。いつか紹介しないとね〜!」


【へぇ……まだ会ってない子がいるって思うと、ちょっとワクワクするなぁ。】


「思ってくれる!? うれしっ! コタツなんか超可愛いよ。なんかねぇ、性格も大人しめでさ、やんちゃじゃないんだけど、見てるだけで癒されるタイプっ! エグいよっ! 写真もあるけど、初対面の衝撃を楽しむのもアリだよねっ!」


【うーん、見たいけど……実際に会ってからのお楽しみもいいかも!】


「あはははっ! でしょでしょ! 会った瞬間、心臓ズギュンだから〜!」


後日、そんな“ズギュン”どころじゃない衝撃を受けるなんて、

この時の私はまだ想像すらしていなかった。


期待を軽く上回るどころか、ぶっちぎりで超えてきた。

……その話はまた別の章で。


「ねぇ。身長測ってく?」


突然の提案に、私は固まる。


え? いや、それは……なんか申し訳ない。


【いいよいいよ! 私なんかがこんな幸せ空間に混ざるのは悪いよっ!】


「いいからいいからぁ! ねむちゃんの名前、私が書きたいのっ。ほら立って〜。背筋ポキポキさせる? 身長伸びるかもだしっ!」


【いや……いいです……】


「あっはー! 拒否られたぁ! うける〜!」


そう言いながらも、ユウちゃんは即行動。

私は流れに逆らえず、柱の前に立つことになった。


「ほほー。中学2年でここだねぇ。うん、小さいねぇ。1番小さいかもねぇ。うふふ、可愛いっ!」


……何っ!


思わず振り返ると、私の位置のすぐ上には 小学生の頃のユウちゃんたちの線 がいくつも並んでいた。


こっわ。

成長速度どうなっとんのこの人たち。


ユウちゃんが鉛筆を持ち、

ジジッ、と細い音を立てて線を引く。

今日の日付と私の名前を書き添えたあと、満足そうに頷いた。


「よし、いい感じ。」


その表情は、柔らかくて、嬉しそうで……なんかちょっと尊かった。

胸の奥がじんわり温かくなる。


こんな幸せな場所に私の名前を刻んでもいいんだろうか。

そんな罪悪感が少しだけ胸をかすめたけれど、

ユウちゃんはワキワキと脇を開いたり閉じたりして、意味不明なくらい嬉しそうだった。


……可愛いな、この人。


その時、階段がギシギシと軋み、誰かが上ってくる音がした。


「どおもぉ〜、ねむちゃん。ユウのおばあちゃんやちゃ。よろしゅう頼んちゃ。お茶もってきたが。」


現れた女性は——“おばあちゃん”という言葉から連想される人物と、まるで一致しなかった。

髪も肌も若々しく、明らかに四十代前半にしか見えない。


【……え? おばあちゃん?】


「ん? 若い思たんけ!? 思たやろ? なーん、そうながいちゃ! 私ね、童顔ながっ! ふふっ。エステ欠かしたことないがやちゃ。稼いだ金、ぜーんぶエステにつぎ込んどるが! あはは! よろしく頼んちゃ!」


……すごい人が来た。


明るくて、裏表がなくて、場の空気を一瞬で華やかにするタイプ。

ユウちゃんのあの“太陽のような明るさ”は、この人譲りなんだろうな、とすぐ分かった。


【香椎ねむです。お邪魔させてもらってありがとうございます。】


私の手話を、ユウちゃんがさりげなく通訳してくれる。


「まぁ〜! 魔法みたいでたいしたもんやちゃ〜。かっこいいが〜!」


あ。

この感覚、一緒なんだ。


“魔法みたい”という感想。

私と同じだ。

手話を見たときに、誰かがそんなふうに感じてくれるのは、正直すごく嬉しい。


「ほんなら、私ぁ仕事戻るがで〜。ナナは下におるって〜。もうすぐご飯届くと思うちゃ。」


「はーい! よろしくーー!!」


短いやり取りだったけど、

ユウちゃんのおばあちゃんが“良い人すぎる”のは、一瞬で分かった。


血の繋がりは……本当にあるのか疑問だけれど、

あの美貌は間違いなく“同じ系統遺伝子”だ。



階段の軋む音が、静かな二階にゆっくりと近づいてきた。

ギシ、ギシ。

その軽い足取りに、私はすぐピンと来る。


ナナちゃんだ。


「お待たせー。海鮮丼とあら汁持ってきたよー。」


階段の影から現れたのは、金曜仕様のヒジャブ姿のナナちゃん。

交流授業のときに見た“牙をむくナナ”とはまるで違う。

静かで、慎ましくて、どこか影のある気配。


「おーありがとっ!」


ユウちゃんは片手をあげて雑に礼を言う。

私は背筋を伸ばして会釈を返す。

初対面レベルで緊張してしまうほど、ナナちゃんの“静”は強い。


そして——

テーブルに置かれた海鮮丼を見た瞬間、息を呑んだ。


どんぶりの上に広がるのは

海をそのまますくって花瓶にいけたような、美しすぎる景色。


赤、桃色、乳白色の切り身が花びらのように重なり、

その中央には小さな食用花がふわりと輝く。

大葉の緑が風を通し、山葵の香りがかすかに立ちのぼる。


それはもう「盛り付け」なんてレベルじゃない。

“作品”だ。


【えっ!これナナちゃんが盛ったのっ!!凄いっ!プロじゃん!!】


「ありがとう。ねむちゃん。そうなんだ。私、お魚が好きで。料理も大好きなの。だから、ねむちゃんにご馳走したくて。」


声は控えめなのに、気持ちは真っ直ぐ。

語尾の熱が、胸をあたためた。


続けて、テーブルの端にはあら汁用の土鍋と小さなガスコンロ。

カチ、と火が灯る音が部屋に落ちる。

ほわっと温かさが広がって、海の匂いと混ざった。


丁寧だ。

丁寧すぎるくらい、丁寧だ。


【美味しそうっ!凄いっ!感動しちゃったっ!】


「ありがと。ねむちゃん。」


ナナちゃんがふっと目を細める。

その仕草はさっきまでのヒジャブ姿からは全く想像できないくらい柔らかい。


と、その時。


ナナちゃんの視線がすっと柱に向いた。

さっき私の身長を刻んだ、あの柱。


彼女は静かに立ち上がり、

名前と線が並ぶ家族の“歴史の壁”を見つめる。


——胸がぎゅっと固まる。


(やっぱり……私なんかが混ざるの、嫌だったよね……?

 思い出を汚しちゃったのかな……)


と、不安が喉に張り付いたその瞬間。


「これ。ねむちゃんだよね?」


淡々とした声。


「そだよー!」


ユウちゃんが能天気に答える。


ひと呼吸おいて——


「ふーん。じゃぁ姉妹きょうだいでいいの?」


…………え?


耳で聞いた気がしない。

胸の奥に直接響いたような言葉だった。


「あー……そだね。さっき私、妹になってって言ったもん。」


ユウちゃんはケロッと笑う。


「うん。新しい妹だ。」


ナナちゃんは柱から目を離さず、静かに言った。


そして、

その手がゆっくりとヒジャブに触れ——


シュルリ。


布が解け、肩に落ちる。

長い黒髪がふわっと広がって、月明かりみたいに艶が走った。


ヒジャブを外したナナちゃんは、

あの“炎のように尖ったナナ”とも、

“金曜の静かなナナ”とも違う。


“素の彼女”だ。


「ねむ。もう私達は姉妹みたいなもんだから。遠慮しないで?」


微笑んだその顔は、

アジアの夜に浮かぶ女神のようで息が止まった。


左右に座る二人——

ユウとナナ。

美人が両側にいるというより、

私を両側からそっと包んでくれる光景 に近い。


「ねむ。ありがと。来てくれて。食べよ?」


距離が近い。

声が近い。

心臓が跳ねる。


【う、うん。】


言葉が拙くなる。

胸がいっぱいで、感情が追いつかない。


——不安はある。

急に「姉妹」と言われたら戸惑うのも当然。


でも。


今、私が感じているこの胸の灯りは、

“拒絶される前提で生きてきた私”が初めて受け取った、

無条件の受容だった。


これって——


香椎ねむの人生が動いた瞬間なんじゃないか。


心の奥底で、そんな確信が静かに芽を出した。


人生でいちばん嬉しい時間が、

いま、私の目の前にある。


そうそう。


……私この中で一番年上です。


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