12兄妹の共戦
たかおか動物病院は――待ち時間がえげつなく長い。
何度かお兄ちゃんに連れて行ってもらったことがあるが、
予約して時間通りに行っても最低40分は待たされる。
ただ、診察の丁寧さや先生の腕前は本物で、
文句を言いながらもしっかり“星5”をつけてしまうような、そんな病院だ。
今日はお兄ちゃんも小太郎も、きっと遅くなる。
そう思いながら、私はソファでiPadを持ったまま横になっていた。
しと…しと…と窓を叩く雨音。
部屋には雨特有の湿気と静けさが満ちていて、
私は半分夢の国に片足を突っ込んでいた。
(あ。雨降ってきたんだ。お兄ちゃん自転車だよね……)
ガチャ。
「ただいまー!」「シャーッ!」
……え?早い。
玄関から急ぎ足のドタドタとした音が響き、
そのままリビングの方へ一直線に近づいてくる。
なに?なにごと?
「ねむっ!!やったぞっ!!」
兄の声は、いつもより数段――いや十段くらいテンションが高い。
私は慌ててiPadの電源を切り、
眠気を吹き飛ばす勢いで身体を起こした。
(そして?何がやったのだ……?)
バンッ!!
扉が勢いよく開く。
「ねむっ!!芦名ユウの番号を手に入れたぞっ!!」
なっ……なんだとっ!!!!!
私は反射で飛び上がり、兄の目の前へダッシュで詰め寄る。
外は雨が降り始めたらしく、兄の服の肩と背中部分には、濡れた斑点がちらほら。
【なんで!?どうゆう経緯!?】
興奮のせいで手話がぐちゃぐちゃだ。
でもどうでも良い。そんなの後で直せば良い。
「動物病院にユウさんがいたんだよっ!そこでお前と連絡取りたいって言って番号聞いてきたっ!やったなっ!!」
兄は肩をガシッと掴んで揺らす。
「シャーッ!」
足元では小太郎まで何故か嬉しそうに“シャー”を鳴らす。
喜怒哀楽、全部“シャー”で表現する猫とは思えないテンションだ。
【凄いっ!お兄ちゃんっ!お前は世界で1番頼りになる自慢のお兄ちゃんだ!!】
「そうだろぉ!?よしっ!早速だけど一旦WhatsAppのアプリダウンロードしろっ!したらユウさんの番号登録したらそこに表示されるはずだっ!」
【ダウンロードはしてある!よくシステムわからないけどそうなの!?】
「見ろっ!!俺のWhatsAppっ!!」
兄がスマホを突きつける。
そこには――たったひとつだけ登録された名前。
『芦名優』
(……おおおおおっ!! 本物だ!!)
【わかったやってみるっ!!】
私たちはソファに並んで座り、慎重に番号を登録した。
たった11桁。
なのに指先が異様に重く、心臓がうるさいほど脈を打つ。
ゆっくり、ゆっくり。
震える親指で「登録」を押す。
「よし。アプリを開け。そしたらユウさんアイコンが出てくるはずだ。」
画面をタップする。
……出た。
クリーム&チョコタン色のミニチュアダックスフンドのアイコン。
名前は――『芦名優』。
【きたっ!!】
私はガッツポーズをし、兄とハイタッチ。
「よっしゃー!」
兄は自分のことのように喜んでくれる。
いや、もしかしたら私以上に喜んでいる。
「シャーッ!」
見ると、小太郎も心なしか嬉しそうにくるくる回りながら“シャー”。
尾がピンと立って、まるで「俺も嬉しいんだぜ!」と言っているみたいだった。
小太郎は基本的に
「よっ、葵!」「遊べ葵!」「やったな葵っ!」
すべて“シャー”で表現する。
兄限定の挨拶。
威嚇じゃない。
愛情のシャーなのだ。
私は試しに小太郎の顎にそっと指を当てる。
ゴロ……ゴロゴロゴロ……
うん。これは完全に “嬉しい” の方だ。
兄もついでに頭を撫でる。
「シャーッ!シャーッ!」
すぐ怒る。
いや、怒ってはいない。兄にだけ厳しいのだ。
そして――
バシッ!!
猫パンチ。
兄の手に直撃。
「痛っぇなぁ!このバカ猫がぁっ!!」
小太郎は“反撃成功!”と言わんばかりに軽いステップで走り去る。
しかしその後ろ姿は、逃げているというより
兄との遊びを全力で楽しんでいる子供そのもの。
二階への階段を軽やかに上り、ひょいと尻尾だけ見せて消えた。
◇
ふむ。
これからどうするか。
お兄ちゃんのハンドボールの試合は金曜日の夜。
でも金曜日は学校だしなぁ。
あれ?冰渼ノ江高校と冰の杜学園って結構離れてるよなぁ。そもそもお兄ちゃんのハンドボールの試合について行ってアポイントする意味あるのか?
んんん。。
考えていると兄が私の隣にバンッと勢いよく座る。
そして一瞬宙に浮く私。
「おい。どうした?早くユウさんに連絡取れよ。」
【いやね。どう言おうかなって。私人生で一度も人を誘った事ないの。だから友達と約束とかも当然初めて。】
嘘じゃない。本当である。比較的仲の良い、佳苗ちゃん。愛弓ちゃん。萌音ちゃんとも外であった事は一度もない。
「は?だから冰渼ノ江高校でお兄ちゃんがハンドボールの試合で同行することになったんだ。だから私久々に氷見に行けるんだ!ユウちゃんは何してる?でいいだろう。」
【いやだって。お兄ちゃんのハンドボールの同行ってことは私もなんかハンドボールのお手伝いしなきゃいけないでしょ?なんもしないのもユウちゃんに「この子お兄ちゃんの手伝いしないなんて最低っ!」なんか思われない?】
「あのさ。別に俺の試合なんかどうでもいいんだよ。ハンドボールなんかお前ルールしらねぇだろうし、なんも知らないお前が俺たちの手伝いとかするなんて迷惑になるだけだろ。俺が言ってんのは会話するきっかけって事。氷見に行くって事実があればそこからストーリーなんかいくらでも作れるだろう。」
ポンっ!と私は手を叩き、納得した。
【流石だなっ!お兄ちゃんっ!!】
「はいはい。早くメッセ送れよ。こっちもドキドキしてんだからよ。」
んなこと言われてもな……お前のドキドキと私のドキドキの種類は違うんだよ。
私はコミュ障。お兄ちゃんは下心でしょ。
んー。
:こんばんは。お久しぶりです。ねむです。
あーー。どうしようー。ここから先が思いつかないー……
くそ…何時間続くんだ。
そんなこんなで時間が経過していくとユウちゃんのアイコンに1と表示されピッーンと音がなった。
なんとユウちゃん自らメッセージが届いたのだっ!!!
神タイミング……
おそるおそるユウちゃんのアイコンをタップ。
:ねむちゃんー?次いつ遊べるー??
……な。。なんて簡単なメッセージ……
普通なら『お久しぶりですお元気ですか?』『ねむちゃんですか?私ユウです。』とかなのに。
恐ろしいくらいの簡潔さ。
それはそうと。
ユウちゃんから連絡だぁー!ヒャッホーい!
(よーし。どう返事すればいいのだー?)
あれ?遊べる日を聞いてるなら。金曜日じゃなくていいんじゃね?むしろ金曜日なんか夜しか遊べないわけだし。お兄ちゃんのハンドボールの邪魔になるから。みたいな感じで断られないか?
…やばいな。やろうとする行動がなんども詰む。
……えっと。私コミュ章の中でも最大レベルのコミュ章なのではなかろうか……
◇
まて。
このダブルチェックって、既読しましたって意味だよな。
画面の右下にちょこんと付いた青い印が、爆弾のタイマーに見えてくる。
あんまり長くこのまま既読放置しておくと、
ユウちゃんが「無視された……?」って傷ついてしまうかもしれない。
クソっ!
既読に気づいてしまった以上、猶予は5〜10分。それを超えたら——ねむ。お前は死ぬ。この設定で行こう。
(急げ! なんでもいい! とにかく返事!)
しかし手は震え、思考は白紙。
スマホのキーボードの上を、指がうろうろ彷徨うだけ。
——ブーッ、ブーッ、ブーッ。
スマホのバイブが手のひらの中で暴れだす。
(えっ……えっ……着信!?)
画面の上には
「芦名 優」
の文字。
こんなことしてるうちに……
ユウちゃんの方から着信が来てしまった……
(何度も……何度も……助けられてる……
私が悩んでいると、いつも君は先に——)
って、そんなモノローグしてる暇はねぇっ!!!
どおしよっ!!
私……聲。……ないんだけどっ!!!
背中から急に兄の声。
「ねむ。取れ。」
ビクッと反射して、通話ボタンをタップしてしまった。
画面に表示されていたのは“音声通話”。
その瞬間、耳元に明るい声が流れ込む。
:「ねむちゃんー?電話しちゃったー!元気ー?」
:「ユウ。ねむは声出ねぇだろ。バカなの?」
電話の向こうで男の子の声も聞こえてくる。
:「あっ!!!忘れてたっ!!!どおしよっ!ねむちゃん困ってるかもっ!!」
ユウちゃん……テンパってる!どんな顔してるの!?……かわ……いや違う!
:「待てっ!スマホかせっ!」
その声はハルだった。私と同じようにユウちゃんの側にはお兄ちゃんのハルが居たんだ。
:「えっと、ハルだよ!ご、ごめんね!ねむ。ユウがお前が話せないの忘れてたみたい。だ、だからメッセ待ってる。
そ、それか葵君にでも伝言とかさ言ってくれれば嬉しいな。葵君の番号はユウ知ってるみたいだし。じゃねっ!」
「バイバーイっ!」
「おい!なんでお前そんなテンショ——」
ツーツー……ツー……
電話はあっけなく切れた。
リビングには、私と兄の呼吸だけが残る。
「ねむ。」
兄が真面目な顔をして、私の目をしっかり覗き込む。
「お前。絶対にこの友達は手放すなよ?」
胸が、ぎゅっと鳴った。
ゆっくり頷く。
——わかってる。
さっきの会話の雰囲気でわかった。
ユウちゃんは、私を“特別扱い”しない。
障害者でも、声が出なくても、かわいそうだからでもなく——
ただの“ねむ”として接してくれる。
普通に、自然に。
私はその“普通”を、13年間、喉から手が出るほど欲しかったのかもしれない。
それを持っている子が、氷見にいる。
私はスマホを持ち直し、画面通話のボタンを押した。
呼び出し音は、2回。
すぐに画面が切り替わる。
:「おーー!ねむちゃーん!画面通話だぁ!あは!元気ー?」
画面いっぱいに映ったのは——
左右で色の違う、深海みたいな碧と真珠みたいな銀色の瞳。
肌は照明を跳ね返すほど白く、髪は絹糸みたいにさらりと揺れ——
まるで画面の向こうに“本物の妖精”がいるみたいだった。
芦名ユウちゃん。
恐ろしいほど可愛い。
:【ごめんっ!ユウちゃんっ!色々慣れてなくて返信遅れたっ!!】
私は画面に収まるくらいの小さめの手話で会話する事にした。
:「いいよー!全然ー!」
屈託のない笑顔が、画面越しに胸を軽くしてくれる。
喉に空気が通るような、そんな感覚。
:【あのね!基本的に私は部活とか無いし、病院も月曜だけなの。だからいつでも遊べるよっ!
ちなみに金曜日の夜、冰渼ノ江高校に行くのっ!お兄ちゃんのハンドボールの練習試合っ!】
:「そなのー!?金曜日の夜なら近くの漁港に行く予定あるからご飯とかする?一緒にー!?」
画面の外で、兄が無言でガッツポーズを決めた。
いや……お前は食べないだろ……?
:【いいの!?一緒に食べたいです!
っていうか一緒にユウちゃんと居たいっ!】
「おっふぅ。いきなり告白かい?いいよっ!一緒にいてあげるっ!時間さ!まだこっちわからないからまた連絡するでいい?」
:【うん!いいよ!】
:「わかった!それじゃまたねっ!」
:【またねっ!】
——ぷつ。
通話が切れた。
静寂が落ちた瞬間、心臓がドクンと跳ねる。
ほんの数分の通話で、体の中のエネルギーが全部吸い取られた気がした。
初めてのテレビ通話。
初めての“友達との約束”。
その二つが、私の体力ゲージを真っ赤に点滅させる。
でも——
胸の奥は、ずっとぽかぽかしていた。
◇
「ねむ。やったな。さっきのお前かっこよかったぞ。自慢の妹だ。」
兄はリビングの向かいのソファに誰かの演技をしながら腰をドスンと落とし、
片肘をかけながらニヤニヤしている。
演技力は大根どころか……もはや“ごぼう“だ。
いや、ごぼうに失礼かもしれない。
だがその嬉しそうな顔は、ちょっとだけ誇らしそうで。
そんな兄を見ると胸が温かくなる。
私も負けじと、それっぽく決めた。
【こんな事。お兄ちゃんが居ないとできなかったよ。ありがとう。自慢のお兄ちゃんだよ。】
本心だからこそ、羞恥がくすぐったく胸に残る。
ただ、私が今やった“silentの川口春奈風手話”は……
鏡に映っていたら確実に自分で殴っていたと思う。
そもそも手話のモノマネなんか無理だ。
兄は満足げに頷いてから、急に熱が冷めたように立ち上がる。
「よし。とりあえず、ユウさんから連絡来るまで待ちだな。
お前も少し休憩しとけ。俺は部屋戻る。
またなんかあったら声掛けろ。じゃね。」
そのまま私の額を軽くツンツンして、
階段を上がっていった。
足音が徐々に遠ざかる。
リビングにひとり取り残され、私は大きく息を吐く。
(……つかれたぁーーー!!)
心臓のバクバクがまだ収まらない。
ソファにぐでん、と倒れ込むと、天井の白いクロスがじんわり滲むように見えた。
でも。
胸の奥は、軽い。
あのテレビ通話の余韻が、まだあったかい。
(ワクワクする……)
今度は“学校の行事”じゃなくて、“プライベート”だ。
ただの、友達との約束。
普通の女子中学生が当たり前に経験してる時間。
(ユウちゃんに……会えるんだ……)
何度も何度も、心の中で反芻する。
口角が勝手に上がってしまう。
いーーー!!
やったーーー!!
私はソファで足をバタバタさせながら、
自分の胸をぎゅっと抱きしめた。
体全体が、小さな花火みたいに弾けそうなくらい嬉しかった。




