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11俺の愛するものは全員バカかもしれない

俺の妹は——バカかもしれない。


いや、別に悲観してるわけじゃない。むしろ微笑ましい。

というのも、これまでの妹は“感情を出す”という行為をほとんどしてこなかったからだ。

あの無表情で、淡々とした手話だけのやり取り。正直、妹が何を思ってるか一ミリもわからない時期が長かった。


それが——


氷見で甘夏狩りをした日を境に、がっつり性格が変わった。


あの日から、ねむは表情がやたらと豊かになった。

よく笑い、よく喜び、よくふてくされ、よく膨れる。

次の交流授業で冰の杜学園へ行ってからは拍車がかかって、帰ってきた当日はテンションも語彙も5倍増し。


仕舞いには椅子から転がりパイルドライバーでもくらったかのような格好で倒れていた。

でも表情は明るく、少し笑っていた。


どうやら、あの女神ユウ様やら他の生徒たちと仲良くなったらしい。


……まぁ、それはいい。

問題は——


アイツ、連絡先を交換してこなかった。


信じられるか?

あれだけ仲良くしておいて、LINEも交換しないで帰宅したんだぞ?


しかもだ。もし女神ユウ様とねむが仲良くなれば、俺にも交流のチャンスがワンチャンあったんだ。


なんて使えないんだ俺の妹は。


……まぁ、可愛いから許すけど。



そういえば。

うちのバカ猫、小太郎の尿結石の経過はどうなったんだっけ。

たしか病院に行ったのは1ヶ月前か。そろそろ再検査だな。


俺は家の中を見回す。


小太郎——バカ猫の由来は簡単だ。

こいつ、俺の部屋にだけ毎回忍び込んで、大事なプランターを何度もひっくり返す。

原因は不明。いや、悪意しか感じない。

ねむの部屋にもプランターはあるのに、そっちは一切手をつけないのだ。


さらにムカつくのは——ねむの言うことはよく聞くくせに、俺の言うことは一切聞かない。


なのに俺の部屋には入り浸り、たまに威嚇してくる。俺だけに。


何考えてんだあの猫は。


「おーいバカ猫ー?どこだー?病院行こうぜー?」


反応なし。

ちっ、また隠れてやがる。


リビングに行くと、ねむがソファでiPadを見ながら寝転がっていた。

薄いカーテン越しに夕方の光が差し込み、ねむの髪の先を柔らかく照らす。

最近のねむは何をしてても明るい。部屋の空気まで明るくなる。


「ねむ。バカ猫見なかった?」


ねむはもそっと起き上がり、眠そうな目で俺を見る。


【知らない。お兄ちゃんのお部屋じゃないの?】


手話もだるそう。

いや、そのだるさは昔からだけど、今は“感情がちゃんとあるだるさ”なんだよな。

前までは、感情が死んだような海面ゼロの湖みたいな手話だったから。


「ねむ。呼んでくんない?」


頼むと、ねむは指をパチンパチンと鳴らし、太ももをトントン叩く。


直後。


「ミャーー」


キッチンの影からバカ猫が現れ、当然のようにねむの膝へ跳び乗った。

喉をゴロゴロ鳴らしながら、ねむを見上げる目は完全に“崇拝のまなざし”だ。


ゴロゴロ ゴロゴロ……


ねむが指先で小太郎の顎をくいっと撫でると、

「世界平和かな?」ってくらい幸福そうな顔を見せやがる。


「ったく。早く出てこいよ。」


俺も撫でようと手を伸ばした瞬間——


「シャッ!!」


威嚇。


本気の目だ。

猫パンチこそ飛んでこないが、気持ちは伝わった……クソッ。


マジでムカつく。


「小太郎っ!クレート入れっ!病院行くぞっ!」


「シャーッ!!」


逃げた。

ねむの膝から飛び降り、廊下へ一直線。


……バカ猫め。




自転車で10分ほど走った場所に、小太郎行きつけの動物病院がある。


家を出る前、俺は後部キャリアに古いクッションを敷き、その上にクレートを括りつけた。

金属のバックルがカチリと鳴って、紐が軋むほど強く締まる。


「よし。……落ちないな、これで。」


こういうとき、“休日に親の車で行けばいいじゃん”みたいな甘ったるい考えは、俺にはない。

小太郎は俺が拾ってきた猫で、俺が飼いたいと頼みこんだ猫だ。

だからこいつが死ぬまで、世話も飯も爪切りも責任も全部、俺の仕事だ。

……まあ、病院代は親が出してくれる。その点は本当に感謝している。


ありがとうございます。


「よっしゃー! 行くぞ、バカ猫っ!」

「シャーッ!!」


クレートの中から威嚇の唸り声。

でもそんなもの、俺には一切効かない。

勝手に怒ってろ。


自転車を漕ぎ出すと、夏の湿った風がTシャツを撫でていく。

タイヤがアスファルトの上をシャッ、シャッと滑り、クレートが後ろでガタガタ鳴る。


しばらく走れば、大きな道路——国道8号線が視界いっぱいに広がる。

車の排気とアスファルトの熱の独特のにおいが鼻を抜けた。


この道を西側へしばらく進み、山を登れば妹の学校がある。

さらにそのまま160号線をまっすぐ北へ行けば、妹が大好きな氷見市だ。


氷見は……まあ、言っちゃ悪いが本当に“何もない”。

映画館もイオンモールも大型ゲーセンもない。

あるのは海と魚と、俺の推し——女神ユウ様。


(はぁ〜、またお会いしたい。拝みたい。写真撮りたい。握手したい。声を聞きたい。)


そんなくだらねぇことを考えていると、病院の看板が見えてきた。

白い壁に青い文字。古い建物なのに、どこか清潔感がある。


ここは本当に信頼できる病院だ。

小太郎の去勢手術も、尿結石の治療も、ホテル預かりも全部ここ。

ただ——待ち時間だけは地獄だ。


予約時間に来ても一時間は待たされる。

毎回思う。

(ここだけは……なんとかならねぇのか……)


病院前に自転車を停め、後部のクレートの紐を解く。

中をちらっと覗く。


「シャーッ!!」


……よし。元気だな。


中に異変がないことを確認して、俺は診察券を受付に出し、待合室へ腰を下ろした。

白い床は少し優しいワックスの匂いがする。

壁には動物のパネルが並び、どの犬も猫も妙に優しい目をしている。

当の小太郎はといえば——


「ミャァアァ……」


クレートの隅で丸くなり、尻尾だけがイライラしたみたいにパタンパタン動いている。

かわいい……いや、かわいくねぇな。多分。


「おい、バカ猫。もう少しだから耐えろよ?」

「シャーーッ!!」


よしよし。

その元気さが今日の診察に必要なんだよ、バカ猫。



今日は妙に人が少ない。

診察券を出して椅子に腰を下ろすと、待合室の空気はいつもより静かで、

壁に貼られた動物のポスターすらゆったり見えた。


(……これ、今日は早く呼ばれるかもな。)


そう思いながらクレートの中のバカ猫——小太郎を見ると、

奴は急に方向転換し、クレートのストッパーをカリカリと引っ掻いていた。

薄暗い箱の隙間からのぞくその目は、完全に“狩りモード”。


……その視線の先は、隣に座ろうとしている女性の脚だった。


ほんのり甘い潮の香りがふっと漂う。

海風の香りと混ざった柔らかい匂い。

それだけで、俺は条件反射でチラッとそっちを見る。


(うわぁ……脚、長ぇな。)


男としての本能。

一眼くらい、許してくれ。頼む。


さりげなく視線を上げた瞬間——

俺の脳は、一瞬でホワイトアウトした。


究極魔法ホーリー——即死。


そこにいたのは、

つい数分前まで妄想していた女神そのもの。


膝を揃え、内股で椅子に座り、退屈そうに呼び出しを待っている——

ユウ様。


世界の彩度が一段階上がった気がした。


「ユユユユ、ユウさん!!!」


思わず声が裏返り、俺の魂が口から飛び出す。


「ん?」


ユウさんはこてん、と首を傾げて俺を見る。

たったそれだけで、心臓が溶ける。

やばっ。マジでオッドアイじゃん。

めちゃくちゃ綺麗……


(いや……覚えてなくて当然だよな。最高神が凡人覚える理由なんてないわ……仕方ない……)


「あ。俺、ねむの兄なんだけど。葵。香椎ね? 一回だけ甘夏狩りでお世話になりました?

 あの時はありがとうございました!」


記憶の中の神聖イベントをフル動員して説明する俺。


ユウ様は一拍おいて——ぱぁっと笑った。


「あっ!葵君じゃん!うさぎ飼ってるの!?」


は?


美しい……いや、違う違う違う。

どこからうさぎが出てくる!?


俺の相棒はどう見ても——


クレート越しに「シャーッ!!」してるバカ猫だ。


視線をそっと壁に移すと、

そこには“ペット保険(うさぎ版)”のポスター。


どうやらユウさんの頭の中が、今うさぎでいっぱいになったらしい。


(……可愛いかよ。いや、可愛いとかそういう問題じゃねぇ……)


「あー。違う違う。この子、猫。小太郎っていうの。尿結石で定期的に通ってるんだ。」


「あー!ミャーちゃんかっ! おー!可愛いぃー!凄いー! よちよちよち〜!」


「ミャァーン」


小太郎が——鳴いた。

しかも 甘え声 だ。

俺に向けたことのない“初仕事”。


(やばい……猫生で初めて、俺の役に立ってる……!

 小太郎……ありがとう……お前、今日だけで家宝だ……!)


「わぁ〜!すごいねぇ! 小太郎ちゃ〜ん!ほれほれ〜!

 へぇ〜!女の子?」


なんでだよ!!

今テメェが“小太郎”って言っただろ!!


「あ。いや。」


訂正しようとした瞬間——


「あ。女の子とか男の子とかどうでもいいよね。LGBTQとかあるし。」


猫にLGBTQはねぇっ!!!


(……いや、いいのか?

 いや、よくない。でも可愛いから許す……いや……いや……)


そんなツッコミが脳内で高速回転していたとき——

俺ははっと思い出す。


ねむがアポを取りたがってることを。


(今しかない……!

 俺が“姉の未来”のために動くしか……!!)


覚悟を決めた瞬間、先に声をかけてきたのはユウ様だった。


「あ。葵くん。」


「は、はいっ!!」


「ねぇ。電話番号、教えてくれない?」


……え?


な、ななな、なんだと!?

女神から!?

俺に!?

電話番号を!?


香椎兄妹の歴史が、ガラッと変わる瞬間——!


「もちろん!! ちょっと待ってくだ……」


「香椎小太郎く〜ん、お待たせしましたー! 診察室へどうぞ〜!」


獣医さんの声が、

全人類で一番空気を読まないタイミングで落ちてきた。


ふざけんなぁぁぁぁ!!!!


今じゃねぇだろ!!!

よりによって“今”じゃねぇだろ!!


「葵君、ごめんねっ。診察室先に行こ?」


ユウ様は、光をまとった一億ドルの笑顔で微笑む。


「あ、あぁ……うん。ちょっと待っててね……」


小太郎。

頼むから、暴れないでくれ。

今日だけは……今日だけは猫生で一番おとなしくしてくれ……!



俺はクレートから小太郎を雑に取り出し、診察台に置いた。

本来なら “おい、怖くないぞー” とか声をかけてやるんだろうが、そんな余裕はない。


——後ろ扉のの向こうにユウ様がいる。


それだけで脈拍は普段の倍。

手汗で診察台が曇るレベルだ。


獣医はいつも通り小太郎の体重を測り俺に質問をする。


「どうですか?小太郎君。オシッコあれからしてます?お水も飲んでますかねぇ。」

「はい。水はトライプ混ぜたら毎回完飲してくれるようになりましたっ!」


トライプっつうのは草食動物の胃袋だ。詳しい事は知らないが、栄養満点の臭ェペットフード。


「んー!いいですねっ!トライプ美味しいもんねぇ。」

獣医の声がやけに遠く聞こえる。

まるで水中から聞いているみたいだ。

俺の意識は診察室の外、待合室の椅子に優雅に腰かけている “最高神ユウ様” にひたすら張り付いている。


小太郎には最高級のご飯をいつも用意していた。K9ナチュラルのフリーズドライシリーズだ。

ただ栄養価が高すぎて逆に尿結晶になってしまった。

最近はヒルズシリーズのマルチ尿ケアのみで、週一回だけのK9ナチュラルをあげている。

やはりK9ナチュラルの食いつきは半端じゃない。

体重は毎日測り、日記につけている。

4キロから4.5キロ。おやつの数。うんち、おしっこの回数は毎回ついけてるのだ。


小太郎の毛を撫でながら、獣医は続ける。


「んー!毛並みも良いし。バッチリですねっ!そしたらおしっこの採取致しますので、また待合室でお待ちください。」

「はいっ!!!」


俺はすぐさま回れ右。小太郎をクレートに戻すのも忘れ、そのまま勢いのまま診察室を飛び出した。


扉が閉まる直前、小太郎の「シャァー!」という小さな声が聞こえたが、知らん。


外に出ると、世界の色が急に明るくなった気がした。


——ユウ様が、まだいる。


白いTシャツにジーンズ、足を組んで座っているだけなのに、もう反則。

待合室という名の殺風景な空間が、まるで“雑誌の1ページ”に変わる。


「すいませんお待たせしました。今尿の採取して結果待ちです。」


「おかえりー」

ユウさんの言葉はフランクでまるで俺が彼氏のような疑似体験しているようだ。

マジで幸せ。


「そうだ。番号でしたね。」

そうだと言っときながら俺は番号交換の事しか頭にはない。


「芦名ルルちゃーん。診察室どおぞー?」


なんでだよっ!クソっ!

また世界一空気を読まない獣医が俺を邪魔する。

いや。ここまで来ればもう俺は待ってりゃ良いだけだし。

余裕をもって、心を安定させろ。


「はーい!じゃぁ葵君あとでねっ!」

「はい。待ってます。」


ユウ様が立ち上がる。

足の長さに改めて絶句する。

ジーンズのラインが美しすぎる。


——次元が違う。


だが何故か違和感を感じた。


感じたのだ。何故か。それはすぐに答えが出る。


すぐに待合室から出てくるユウ様。


「あれ?どうしました?」


「テヘっ!」

ユウ様は舌をちょこっと出して何故か照れている?

「犬。忘れちゃったっ!!!」


嘘だろ……


そんな事あり得るのか……

動物病院に犬を忘れるなんて……

俺はこのとてつもない光景に打ちひしがれる。


待合室はどっと笑いに包まれて、獣医さんもお腹を抱えて少しだけ目に涙を浮かべていた。


何故か動物病院は幸せのシャワーを浴びたかのように明るくなった。


そして


俺の愛するものは全員バカかもしれない……


そう思ったのだ。



俺はユウさんとの番号をゲットした。

話すと、やはりねむの番号を知りたかったらしい。


ユウさんは俺に番号を知らせると顔を真っ赤にして動物病院を後にした。


小太郎の結果は良好。結晶は消滅した。

自転車にクレートをセットして一呼吸。


「ヨッシャーっ!!」

「シャッー!!」

俺と小太郎は歓喜を共有し、帰路についた。


「小太郎よっやったぞっ!!今日はK9ナチュラルだっ!!」

「シャッー!」

おおっ!喜んでるなっ!


「今日は俺たちの勝利だっ!」

「シャッー!!」


自転車のペダルはいつもより軽く、巻島祐介のごとく軽快に進んだ。


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