10約束は徒然
すー。すー。すー。
ふがっ!!
(おう。久々の昼寝で爆睡かい。)
目を開けると、自分の部屋の薄い照明がぼんやり視界に滲んでいた。
ベッドじゃない。私は机の椅子にもたれながら、YouTubeを見ながら寝落ちしていたらしい。
画面にはサムネイルが流れ続け、動画の最後の
「ニュースです……」
の無機質な声だけが部屋の静けさに響いている。
ん? YouTubeつけっぱなしね?
〔今、難民が……日本……NGO団体……戦争……ウクラ…〕
字幕が流れるたび、薄暗い部屋がわずかに青白く照らされた。
ふぅー。戦争ねぇ……
私は、雨に濡れた窓ガラスの向こうにある灰色の空をぼんやり眺める。
窓を叩くポツポツという雨音が、やけに遠く聞こえる。
戦争が起きたら、私はどうなるのだろう。
きっと1番いらない部類だなぁ。
ふと、胸の奥に冷たい風が吹き抜ける。
魔法……使えたらなぁ……
第七階究極魔法。みんな仲良くアニメ鑑賞っ!
ジャンルはスローライフっ!!
……なんてね。
グッと背伸びをするとポキポキと背中が鳴り、少し心地が良い。
現実は、6月のじめっとした空気と私の寝癖頭だけだ。
あれからまだ氷見に行ってない。
連絡も取ってない。
もう私のこと忘れてるのかなぁー。
私は椅子を傾けて足をバタバタさせる。
ギシ、ギシ、と床が不満げに軋む。
会いたいなー!
ユウちゃんとか、ハルとか、ケネス君にー!
エマちゃんとも話したい―!
バタバタバタッ。
ああああ!会いたいなぁーー!
ってぬぅぅあーーー!!
ガラララガシャーン!!
一瞬、重力に裏切られた。
身体は後方に投げ出され、ローテーブルに豪快に激突。
テーブルに置いてあった麦茶のグラスが宙に舞い、
スローモーションみたいに茶色い水飛沫を広げて落下する。
冷たい液体が床に飛び散り、
大切にしていた弱虫ペダルの祐介のポストカードにピシャッ!!と染みていった。
(【ぬうぅおーー!!祐介ーー!!ごめんんん!】)
急いで袖で拭くけど、もう遅い。
祐介は麦茶の海で小麦色になり、
まるで南国でバカンスしてきた後みたいに日焼けしていた。
トントンッ!
「ねむ!!! 入るぞっ!!!!」
ドア越しに大きな声が響く。
うちの救助担当、いや、
世界でいちばん頼りになる兄、葵だ。
ガチャッ。
「どうしたっ!!」
兄は寝癖全開で飛び込んできた。
襟元はだらしなくはだけていて、
どう見ても本人も寝てた顔だ。
「怪我はっ!!」
慌てて私の目の前まで来て、
心配そうに眉を寄せながら覗き込む。
【祐介が日焼けしちゃった。】
私は、色変わりしたポストカードを片手に、
もう片手で兄に手話を送る。
兄は固まった。
「祐介って……巻島祐介?いや待て。
ただ麦茶こぼしただけであんな音なるか?」
まったく納得していない顔で、
兄は私の身体を頭のてっぺんから足先までチェックする。
【椅子から転げ落ちました。】
ぺこり、と頭を下げて謝罪の意。
「お前さ。この前もひっくり返ってiPad潰したよな?
気をつけろよっ!てかなんで一人でいつもひっくり返るんだよっ!?
なんか踊りの練習でもしてんのか?」
【私が踊りなんかできるわけないだろう。】
「……そりゃそうだな。
ねむが踊りなんか……ありえない。」
っち。
私は兄の脇腹をつねる。
「ああぁぁ!ごめんごめんっ!痛い痛いっ!!」
はぁ。
お兄ちゃんと私って……ほんと仲いいよなぁ。
でも運動はしたほうがいいかも。
将来ヤバそうだし。
でも痰が絡むから激しい運動は無理。
ジムとか通ったら絶対 “背伸びしてる中学生” 扱いされるだろうなぁ。
「おい、ねむ。あれから氷見は?行ったの?」
さすが兄様。言ってほしいことを言ってくれる。
【一度も行っておりません。】
真顔で宣言。
「あのさ、金曜日ハンドボールの試合が冰渼ノ江高校であるんだけど、一緒に来る?
お前はその間なんかアポ取っとけよ。
帰りは部活のバスで俺たちと帰れるだろ?」
【えっ!!?? 本当っ!!? 行くっ!!】
私の目は、たぶんユウちゃんの瞳レベルで輝いていた。
「決まりだな。監督に同行OKか聞いといてやるよ。
別に試合は見なくてもいいからさ。」
かっこよすぎるぞ、兄……
ユウちゃんと結婚しろ。
【ありがとっ!! 大好きっ!!】
「気持ち悪っ。」
兄はニヤッと笑って部屋を出ていく。
いやー、やっぱり持つべきものは兄だねぇ。
ふー。アポ、アポ…………
アポイント取れる手段ねぇーじゃねぇかよぉ!!!
◇
むむむ。ねむ。どおする?
何故連絡先を聞かなかったか。
これには理由がある。
——ハル、ユウちゃん、ケネス君。
3人とも LINE を使っていないのだっ!!
ウケるんだけど……ほんとに……
ハルなんて「ダウンロードしよっかな」なんて言っていたのに、私は反射的に
イヤイヤ大丈夫 と謎の断りを入れてしまった。
あの時のハルの「そお?」という顔を思い出すと、今でも頭を抱えたくなる。
でも知っている。
あの界隈には 「あえてLINEを使わない層」 が存在するのだ。
韓流アプリ“Kakao”派とか、
セキュア系の“シグナル”派とか、
そして——芦名・カーソンは WhatsApp 派。
……いや WhatsApp を中学生で普通に使いこなすの、逆にかっこよくない?
うむ。
とりあえずダウンロードしてみるのも良いかもしれない。
その前に喉乾いたな。麦茶……いや、麦茶はポストカードを日焼けさせる可能性がある。
今日はポカリかアクエリにしよう。
私は軽快な足取りで階段を駆け降りる。
木の階段が「コツ、コツ」と音を返し、家の空気が少し冷たい。
リビングに入ると——食卓テーブルいっぱいに 新築一軒家のチラシ が広がっていた。
おお?
家? 買うの? 香椎家。
んー……遅くない?
私は中学生、お兄ちゃんは高校生。
今から家買うって、なんというか……終盤感がすごい。
ここで補足だ。
富山県は 持ち家率が70%以上 という異常地帯だ。
そして一住宅の延べ床面積は全国トップ。
つまり、家がでかい。とにかくでかい。
なのに?
香椎家は賃貸ー♪
理由は……まあ私だ。
(ありがたさ半分、申し訳なさ半分。)
パパとママは私の学校が変わるたびに住む場所を変えてくれた。
お兄ちゃんは「ねむが元気になれるとこが一番だから、家は後でいい」と言ってくれた。
結果——香椎家、転勤でもないのに 三回引っ越し。
1回目:私の病院の近く、新潟。
2回目:普通校の近くの団地(→孤立して泣いてやめた)。
3回目:支援学校に通うため、今の賃貸一軒家。
……うん。
私、愛されてるねぇ……。
さてチラシに戻ろう。
新高岡駅徒歩20分、4000万。
たっか。いやどうなん?
富山駅まで車で20分、3000万。
ほぉ……これもどうなん?
黒部温泉徒歩20分、2500万。
おっ! これ安いねぇ!
4LDK、庭付き、ガレージあり。
コンビニ ×。
いやぁ……コンビニは欲しいよねぇ。
私は偉そうに腕を組み、チラシをめくっていく。
指先に紙のザラッとした感触。
窓の外では雨粒がちりちりと音を立て、部屋に静けさが溜まっていく。
……あれ?
私、何しに来たんだっけ?
完っ全に忘れている。
自分で自分に呆れながら、棚の上の東京ばな奈に手を伸ばし、もぐ……。
うま……
ふー。うまかった。
さて——寝るか。
私はまた階段を上がり、自分の部屋へ戻る。
ベッドのシーツはふわっと柔らかくて、まだ昼の温度が残っている。
あくびをしながら潜り込み、二度目の昼寝へ挑戦。
すぴー。
……ん?
……
ADHD やないかいっ!!!この行動っ!!
勢いよく起き上がり、足をドンッと床に叩きつける。
セーフッ!!
ポカリとアクエリ!
WhatsApp!!!
私は階段をかけ下りながら、
自分の頭をポンポン叩いてツッコミを入れる。
なーにやってんだ、私。
——その後。
気づいたら iPad を手に取り、ヤングマガジンの“ワンパンマン”を読み耽っていた。
この事実は、墓場まで持っていく。




