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1桜と無詠唱

富山の田舎町で暮らす中学生・香椎ねむ。 生まれつき声帯を持たない彼女は、孤独な静寂の中で生きていた。 しかし彼女には、指先で言葉を紡ぐ特別な力――手話があった。


ある日、ねむが出会ったのは、山奥の不思議な学園に通う少年少女たち。 容姿端麗、多才、そしてなぜか全員が「手話」を使いこなす彼らは、ねむを軽やかに“こちらの世界”へと連れ出す。


「障害」が「最強の武器」に変わるとき、止まっていた少女の日常が動き出す。 爽やかな感動と、少しの不思議が交差する、新感覚の青春の物語。

窓から見える校庭の桜並木が、風に揺れて花びらを散らせている。薄いピンクの絨毯が地面を覆って、まるで絵本の中の世界みたい。


気がつけばもう中学2年生か。

私は机に頬杖をしながら窓の外を眺める。


風が気持ちいい。開け放たれた窓から流れ込む空気は、桜の甘い香りを運んでくる。


うん。詩の才能あるかも。

……ラノベの読みすぎかもしれんけど。

これが厨二病ってやつなんだ。


ここは富山県の山間部に位置する自然豊かな場所。でも市街地に入るとまあまあ都会。

車で少し移動すると大きいイオンモールもあって、映画館もある。あと大仏が有名かな。

そりゃ、東京なるものや、大阪なるものを比べると田舎かもしれない。行った事ないけど。

でも、不自由なんてない。朝はママが学校まで送ってくれるし、ご飯も美味しい。お兄ちゃんも優しくて、パパはすごく真面目でママ一筋。幸せなんだろうな、私。


多分だけれど。


教室は静かだ。

いや、正確には「私にとって」静かなのかもしれない。

前の方では小学部の子たちが先生と一緒に絵本を読んでいる。ページをめくる音が時折聞こえる。

後ろの方では、誰かが鉛筆を転がしている音。コロコロと机の上を往復する、単調なリズム。

この学校では、みんなが同じペースで授業を受けるわけじゃない。

一人ひとりの「できること」「やりたいこと」に合わせて、それぞれの時間が流れている。

私の今の課題は国語のプリント。

漢字の書き取りなんだけど、正直もう終わってる。

提出は明日でいいって言われてるけど、やることがないとつい窓の外ばかり見てしまう。

ふぅ。

ふと目の前にあるiPadを見て思う。

Kindleに入れた小説の続き、読みたいな。

でも前に授業中に読んでたのがバレて、水橋先生に「ねむちゃん、気持ちはわかるけどね」って苦笑いされた。


辞めとくか。


まぁ、仕方ない。


そう思いながら、また桜に視線を戻す。

花びらが一枚、ゆっくりと宙を舞って、地面に降りていく。

その軌跡を目で追っていると——


そう思いにふけっているとガタンと私の隣の席から机と椅子が強めに当たる音がする。それと同時に。

「うあああああぶぁああああ、あ!ば!!」

ガタン!ガタン!


机を激しく揺らす音が響いた。岸田くんが椅子から立ち上がって、机に両手をついて唸っている。

首には力が入り、何本もの筋が浮きでいて、口元の両端には泡が溜まっている。


岸田くん、私の同級生。

普段は大人しいんだけれど、今日は機嫌が悪いみたい。何かが気に入らない時、彼はこうやって声を出す。言葉ではなく、感情をそのまま音にして表現する。

まぁ。いつも通りと言っておこうか。


「ううううぁああああ!」

岸田くんが消しゴムを手に取って、口に運ぼうとする。


私は落ち着いて立ち上がり、そっとその消しゴムを取って自分の机の中に隠した。


岸田くんは私の方を向いたが、何も言わない。少し困ったような表情をしているけれど、怒ってはいない。彼なりに、私がなぜそうしたのか理解してくれているみたい?


しばらくすると、また「んんん!あああ!」と声を出している。

まだ機嫌が直らないようだ。でも、もう危険なものに手を伸ばそうとはしない。

私は自分の席に戻って、また窓の外の桜を見る。


ふぅ。


今日も平和だ。


まあ、暇とも言うけれど。

こういったいつもと変わらない光景は私の心に平穏を与える。


廊下から足音が聞こえて、先生が教室に戻ってきた。


水橋先生。私の担任兼養護教諭の先生。

看護師免許も持っていて、更に教員免許を持っていると言うなかなか優秀な先生だ。

学校ではかなり頼りにされる存在。

こんなにも優秀なのに、フランクで私とラノベの話もしてくれる。最高の先生と言える。


「ねむちゃん、ごめんね!岸田くんのこと見ててくれて!」

私は無言で消しゴムを取り出して先生に渡した。


私はクールに無表情で、口をパクパクさせ、声には出さず宙に描くように手を動かす。

【食べる。だから。隠す。】と手話で伝える。まるで空間に陣式魔術を描き出すかのように。


「ええー!そうなの!ありがとう!頼りになるねえ、ねむちゃん!」


ふっ。今の動きはどうだったのだろうか。

最近鏡を見ながらどうクールに手話をするかを練習している。

これが私の“無詠唱”だ。。


……いや、本気で言ってるわけじゃないけど。


あ、ちなみにこの学校の先生たちは大体が簡単な手話を理解してくれる。

できない先生も簡単な手話だったら可能だ。

勿論全くわからない先生だっている。


さて。何故手話をしたかというと。

私は声が出せない。

生まれつき、声帯がない。

とっても珍しい病気。

……まあ、そのせいで小学校のときはいろんな意味で詰んでたんだけど。


でも耳は聞こえる。みんなの声も、音楽も、鳥のさえずりも、全部聞こえる。ただ、自分だけが音を出せない。


小学生一年生の時は普通の学校に数ヶ月いた。

でも、話についていけずに、わからない事はすぐに質問が出来ず。

グループ活動みたいな事はほぼ仲間外れだった。友達なんか一人もできない。

そんな記憶。


遠い……そう、昔の記憶。



私のクラスは2時間目が終わると安静時間がある。


私は看護師さんの前に立っている。

看護師さんなんだけど、皆んなが知ってる白衣の天使みたいな格好ではない。

私の目の前にいるのはポロシャツと動きやすいパンツ。そして緑色のエプロンをした女性や男性。

「はーい。ねむちゃん。あーんしてー?」

私は指示通りに口を開けて、拳に力を入れる。

看護師さんはチューブを喉に入れて痰を吸い出してくれた。

「はーい。ありがと。ねむちゃん。」

私は無言で涙を溜めながらその場を立ち去る。


っぷぅはー。


昔に比べて随分痰も減ってきたと思う。

私のこれまでの人生はこの痰との戦いの連続である。

声帯が無いせいで気道の構造的な問題から、慢性の気道感染症や鼻炎になりやすい。

時には肺に痰が入り呼吸ができなくなり危うく異世界に転生する寸前という事態も経験している。

次の人生は…そうだな。声は無くていいから何かチート的な能力が欲しい。例えばピアノとかドラムとか。


そんなこんなでよく生きながらえたものだ。


でも吸引。

もういいんじゃないかな自分でできるし。

痰の吸引はマイ吸引機があるから自分でできるのだ。

ただ、喉の奥まで行っちゃうとやって貰わないと異世界転生するって感じ。

エルフの世界っていいよな……


そもそも声を出した事が無いし、自分の環境で声がないからといって不便な事は殆ど無いし。


それより1番奥の歯がグラグラして痰の事忘れてたワイ。

私は手鏡を取り出して奥歯の揺らついている歯を人差し指で何度も触れる。

どうやら私は普通の女の子よりは成長が遅いらしい。

胸なんかまな板だ。「ッチ。。」

そんな遊びをしていると、


「ぶぁーーー!!ばばばぁ!わーーん!」

教室中にいつもの悲鳴というのか、感情が鳴り響く。


小学部の深沢さんが車椅子に乗りながらも身体を必死に抑えている先生の腕をつねっている。泣き喚きながら、彼女は必死に抵抗していた。

看護師さんは苦痛な表情を浮かべながら優しく声を女の子に変えている。

「大丈夫だよー。すぐ終わるからねぇ。」

私は慣れたけど、吸引って人によっては本当にストレスが強い。

でもこりゃ仕方なし!

2人とも。

がんばれ!


この支援学校には、岸田くんや深沢さんのような子たちがたくさん通っている。


もちろん普通の子もいっぱいいる。どんな悩みを抱えているかはわからない。

車椅子で移動している子もいれば、義足をつけている子もいる。

手のない子。生まれつきの子もいれば、事故で失った子もいる。でもみんな、器用に足や口を使って字を書いたり絵を描いたりしている。

耳の聞こえない子は私と同じように手話でコミュニケーションを取っている。でも仲が良いって訳ではない。


そして、声の出せない子が1人。


私だ。


おっと。そうだそうだ。自己紹介。

私の名前は香椎かしいねむ。

万葉特別支援学校中等部”医療ケア”クラス2年生

声帯未形成症の無詠唱魔術師。

得意なことは、タイピングとフリック入力。手話という陣式魔法。

あとは活字中毒で丁度今禁断症状が出ている。

掲示板の活字を読みながら落ち着いている所。

あと最近はラノベ結構読むかな。

異世界転生の悪役令嬢、魔術学校のハイブリッドが好み。

いいよなぁ…悪役令嬢…


目標?特にない。


こんな私が一体何をできるというのか。

なんかの部品でも組み立てる事くらいしかできんだろう。


趣味?読書と音楽が大好き。

こんな厨二病の中学生が好きな音楽なんてたかが知れてると思ったお前。

チッチッチ。

なんとクラシックやジャズというオールドミュージック推しなのだよ。

もちろんアニソン、ポップス、ヒップホップも大好き。


この世では私の心を満たしてくれる唯一のものは読書と音楽なんだ。



ちょんちょんと私の肩を叩く感触

【ねむちゃん。教室。戻ろ?】

高等部一年生の柊木さんが私に手話で伝えた。

柊木佳苗ちゃん。"ろう者"である。ろう者とは耳が聴こえない人達の事だ。

三つ編みで赤縁メガネ。

身長も高く、いかにもお姉さんと言う感じだ。

そして、大きな胸が私を威嚇する。

佳苗ちゃんはちょくちょくこの時間に高等部の校舎からこちらの校舎に来てわざわざ医療ケアの様子を見学しに来るのだ。

勉強熱心である。

【うん。次は自立活動?】

私達の静かな会話は音がなく、手の動きと顔を表情で伝え合う。

でも柊木さんの声帯は正常なので、こもった可愛い声が少しだけ漏れる。


好きなんだよね……聴覚障害者の声……

こんなの絶対言えないけど。


あ。声無いから言えないんだけどね。


【次は。ICTだよ。一緒。】

ほほー。

次はICTコミュニケーション機器練習。

普通の子はあるのかな。こんな授業。


ふふ。要はiPadだ。ご褒美授業。

私はここらの機器関連は得意分野なのでほとんどやる事が無い。

なので私は最近iPadで絵を描いてる。我ながら下手くそ過ぎて草を越えて森状態。

今日は何して自分の才能を見つけようかうずうずしている。


あ。絵を描いてるっていうのはこっそりだよ?


【わかった。行こ?】

私は手話をしたついでに佳苗さんに手を伸ばし、手を繋ぎながら教室へ戻った。


こんなふうに手を繋いでいるけど、学校で会話するのは3日に一回くらい。


友達いるの?


ふっふっふ。


わからぬ。


会話できる子は何人かいるが、外で一緒に遊んだり、休みの日に一緒に出かけるなど一度も無い!


どうだ。なかなかのぼっちだろう。


喋れない厨二病で、無詠唱魔術と悪役令嬢に憧れる隠キャラに、誰が遊びたいと思うのだ。


そんな事を思ってると佳苗さんが急に止まった。


【ねぇ。これ。みて?ねむちゃん。】

佳苗さんは掲示板を指差した。


〔交流授業のお知らせ。今年は冰の杜学園で自然との触れ合いを体験。定員あり。4月末予定〕


交流授業とは異なる学校や地域、学年、学級、あるいは国や文化の違う子どもたちが、一緒に学んだり活動したりする授業のこと。

多くは社会的弱者に当たる私達はこの学校に留まり、他校の生徒がこちらに来る事が多い。

だが次回は違う。氷見の学校に行かなければならないのだ。


(えぇ。。私達が行くのぉ……だるぅ。)


だが今回は希望者のみの限定である。


【ねむちゃんはこれ行くの?】

佳苗ちゃんはクリっとした目をパチパチと開き首を傾げる。

【私は行かない。自然とか別に好きじゃない。】

表情を変えずに私は淡々腕を動かす。

【私。去年から行ってみたかったんだ。これ。】

佳苗ちゃんは何故か寂しそうな表情をして掲示板を見つめた。

まるで、過去に切ない過去があったかのような。そんな空気が流れた。


【なんで?】

私は大して必要の無い勇気を振り絞り……聞いてみた。

ゴクリと唾を飲む音が私の中に響く。


【多分だけど。凄く。カッコいい。男子が。いる。】

……

そっちかいっ!!

その儚げな表情やめろっ!


【そうなんだ。私も。一応。検討しておく】

はぁ。恋する少女のお年頃なのねぇ。

あれ?なんで検討するなんて言っちゃった?


いいか。やっぱり辞めたって言えば。

コミュ障の私が希望者の選択肢のある中、わざわざ健常者の学校にいっても会話できんだろう。

そんな暇があったら複数キャストのオーディオブックとKindleのコンボでゆったりとラノベを堪能したいものだ。



放課後私は帰宅待合室でママの帰りを待っていた。


別に毎日ではない。帰りはいつもバスで帰宅するが今日は帰りに本屋に行く約束していたから一緒に帰る。

私はKindle派なのだが、好きなラノベは実物で買いたいのだ。細かく言うと、Kindleも紙も買う。やっぱり紙の本は本棚に並べることでインテリアになり、表紙を眺めるだけでも楽しめる。ページをめくる紙の感触ってのはやはり必要だ。


そして肝心の母は仕事で少しトラブルがあったらしく、遅れるようだ。

その間私は美術の時間で途中まで作っていた、粘土ペンギンのディテール調整中。

丁度隣が美術室だったからついでにね。


中2で粘土遊び?知らんがな。勝手に学校がカリキュラム組んだんだから。


“ディテール”なんて言葉を使ってはいるが、実際は悲惨な光景だ。

先生も、佳苗ちゃんも他の生徒の表情も苦笑いをして誰も評価はしてくれない。

いつもここまでに至ったプロセス。どんな事を思って作るかの思考を褒める。


ペンギンって足。何本だっけ…あれ…手と?足と翼で六本……幻獣じゃん…これじゃ…昆虫って足何本だっけ…


私は至って真剣だ。

美術に関してはお兄ちゃんに神の領域だと馬鹿にされる。


身体がいう事聞かないだけよ。


やがて、背後から駆け寄る声。

「ねむー! ごめんね、遅れちゃった! 帰ろ!」

ママの声は、待合室の静けさをやわらかく破った。


ポニーテールからこぼれ落ちた髪が、急いで来た証のように揺れている。

私は手を止め、粘土をそっとロッカーの上に置き、ビニールを被せた。

だが被せた表紙で先ほど装着した腕がもげる。

私とペンギンの目が合うがこう思ってるように見える。


「才能ねぇな。」


私はこのペンギンにイラつきを感じ、ペンギンに中指を立てた。

ビニールをかぶるペンギンも私を嘲笑してるようにも見える。


(明日覚えてろよ?)


そして、言葉を使わずママの手を掴み、外へ出る。



車に乗り込む。今日は仕事用の車で、後部座席には車椅子が畳まれていた。

走り出すと、段差を越えるたびに金属が小さく鳴り、静寂にかすかなリズムを刻む。


信号待ちの時ママにちょんちょんと合図。

【ママ。髪の毛乱れてるよ?後ろゆえてない。】

そう伝えるとママはバックミラーをみてまた焦る。

「嘘!?うわ!本当だ!恥ずかしいー。」

ママはシュシュをとり、ゴムを取り髪の毛をフワッと靡かせた。

ママは凄く美人な方だと思う。

目も大きくて、身体も細い。お兄ちゃんはママの血を濃く受け継いでるからカッコいい。

逆に私はパパの血が濃いのか、地味な顔だ。


…いいな。ママみたいになりたいのに。


「そうだ!ねむ!明日氷見に行ってみない?みかん狩り。甘夏って種類なんだよね!」

私はお昼に佳苗ちゃんが言っていた事を思い出す。

氷見か。あのイケメンのいる街?

んー。まぁいいか。

甘夏が食べられるなら行ってもいいかな。


みかん好きだし。


【いいよ!甘夏食べたい!!】


静かな車内に、母の笑みが広がる。

窓の外では、街が淡く暮れていった。



家に帰ると、ようやく癒しの時間が訪れる。

私が欲しいタイトルはなかったが、無かったついでに続き物をAmazonでポチッとしてしまった本がある。タイトルは「数学好き女子高生が悪役令嬢に!?」。一巻丸ごと無料だったので読んだら面白すぎて、今月のお小遣いを全部つぎ込み、最新刊まで大人買いしてしまった。もちろんアカウントは家族と共有だから、全員にバレている。そして第一巻には見知らぬしおりが二つもマークされている。ママかお兄ちゃんが読んだのは確実だ。


内容は、数学の知識を魔術のプログラミングに応用し、誰でも使える新しい魔法を生み出していく物語。辺境伯の長女としてわがままに生きていたお嬢様に、ある日突然、数学好きの女子高生が転生してしまうというストーリーだ。


──たぎる。




どれくらい時間が経っただろうか、時計を見ると午後六時半。晩ご飯は七時半くらいだから、全部読み切れるかもしれない。でも一巻を何度も読み返して浸るのもいい。私は勉強机に腰を下ろし、戦闘モードに入った。


よし、全部読むか。


物語に没頭していると、下の階から足音が響く。どんどん上がってきて、隣の部屋でバッグを投げるような音。お兄ちゃんだ。すぐに私の部屋をノックしてくる。


トントン。


本を閉じてドアを開けると、開口一番。

「おお!ねむ!どこまで読んだ?全部?」


──ただいまもない。主語もない。でも言いたいことはわかる。


【全部は読んでない。一巻をじっくり読んでるとこ。】と手話で伝える。

「なんだよ。早く続き行けよ。お前が先に読まないと俺たちも進めねぇんだよ。頼むわ。」


言いたいことだけ言って、扉を閉める。その雑さ、ある意味で安心する。


名前は香椎葵。私のお兄ちゃん。

高校2年生で頭もよくて、スポーツ万能。将来の夢は自衛隊か政治家できればスポーツ選手。模範解答すぎて逆にスキがない。性格はさっぱりしていて、思いやりがあって、私にはすごく優しい。自慢の兄だ。


趣味も合わせてくれる。少女漫画だろうと百合ものだろうと関係ない。私と一緒に笑って、感想を語り合ってくれる。……多分そのせいで友達を作るのに結構苦労をしているんだろうと思う。



深夜、胸が苦しくて目が覚めた。

暗闇の中、天井の木目がぼんやりと浮かび上がっている。


最初は夢の中の出来事かと思った。でも、喉の奥から這い上がってくる違和感は、確実に現実のものだった。


痰が絡んで、喉の奥でガラガラと音がする。

ゆっくりと身体を起こすと、視界が少し揺れた。


枕元に置いていた吸引機を手に取る。充電式の小さなやつ。これがないと生きていけない。

私は二階の洗面所を行き来して痰を吐き出し、水を含んだ。

静まり返った家の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。

洗面台の鏡に映る自分の顔は、青白くて、まるで幽霊みたいだ。

目の下には薄く隈ができている。


私は慣れた手つきで吸引機を操作するが、なかなか痰が取れない。ガラガラと音を立てるだけで時間だけが過ぎて行く。

チューブを喉に入れる。何度やっても慣れない感覚。涙が滲む。


でも、泣いてる暇はない。呼吸ができなくなる方が怖い。

──せっかく良くなってきてたのに。

めんどくさ。


明日は甘夏食べたいのに。

壁掛け時計の秒針が、やけに大きな音を立てている。

カチ、カチ、カチ。

その音に合わせるように、私の心臓も不規則に脈打っている。


そんなことを考えていると、開けっぱなしのドアの向こうに兄の姿が立っていた。

寝癖のついた髪。少しだけ眠そうな目。でも、表情は真剣だ。

多分、私の部屋のドアを開けておいたから、音が聞こえたんだろう。


「ねむ。カッピングしてやるから、ベッド座りな?」


兄の声は低くて、落ち着いている。この声を聞くと、不思議と安心する。

無言で頷き、姿勢を変えてベッドに腰を下ろす。


ベッドのスプリングが小さく軋む。

兄は私の後ろに回り込み、Tシャツの裾を少しめくり上げた。

背中にリズムよくパンパンと響く衝撃。

手のひらを椀型にして、背中を叩く。

これがカッピング(背部叩打)痰を物理的に上に押し上げる方法だ。


小さい頃は看護師さんに教わって、ママがやってくれていた。

でも最近は、兄がやってくれることが多い。

痰が少しずつ上へ押し上げられていく感覚がある。


トントン、トントン。

一定のリズム。強すぎず、弱すぎず。

兄の手は大きくて、温かい。


そのあと、うつ伏せになると、兄の手のひらがゆっくりと背中をさすった。

上から下へ。ゆっくりと。

まるで、赤ちゃんをあやすみたいに。

言葉はない。ただ作業の音もない。

あるのは、淡々と繰り返される動作と、私の呼吸だけ。

時計の秒針は、まだカチカチと音を刻んでいる。

窓の外からは、時折車の音が聞こえる。深夜でも、世界は動いている。


やがて、痰が外に出てくれた。

ティッシュに吐き出すと、少しだけ茶色がかっていた。

……やっぱり、炎症してるな。

時計を見ると午前2時を回っていた。

「ねむ。どお?楽になった?」

兄は私の正面にしゃがみ込んで、目を覗き込んでくる。

兄は微笑みながら私の頭を撫でる。

【うん。ありがとう。すごく楽になった。】

手話で伝える。手が少し震えているのは、疲れのせいか、それとも安堵のせいか。

そう伝えると、常温のポカリを差し出してくれた。

青いキャップのやつだ。いつも冷蔵庫に常備してある。

兄は多分、私のために常温で置いておいてくれたんだと思う。冷たいと喉に刺激が強いから。

「水分ちゃんと取れよ?また苦しくなったら呼べ。ドア開けてるから。」


真剣な眼差し。私は頷く。

ポカリを一口飲む。甘くて、ほんの少ししょっぱい。喉を通るとき、少しだけ沁みた。

そのあと、兄は私の額を二本の指で軽く叩いた。


トン。


アニメ『NARUTO』のイタチの真似。

「また今度だ」って言いながら、額を突く、あのシーン。

小学生のとき、私がせがんで真似してもらったのだ。

それがいつの間にか、兄と私の間の「おやすみ」の合図になっていた。


私が昔せがんだせいで、いまだに続いている儀式。

恥ずかしいけど、嫌いじゃない。

ドアの前で一度だけ振り返る兄。

廊下の薄明かりが、兄のシルエットを浮かび上がらせている。

「明日、俺も甘夏食うから。一緒に行こうな。……本読まないで寝ろよ?」

最後の一言は、完全にお見通し。

枕元に置いてあるKindleを、チラッと見てから言った。

そう言い残して部屋に戻っていった。


──お兄ちゃんも来てくれるんだ。やった。


ポカリを飲み干して、ベッドに横になる。

さっきまでの苦しさが嘘みたいに、呼吸が楽だ。

Kindleに手を伸ばしかけて、やめた。

今日は、兄の言うことを聞こう。

目を閉じると、まだ背中に兄の手の温もりが残っている気がした。



朝目を覚ますと、昨日の苦しさなんて嘘みたいに消えていて、空気がやけにうまい。


カーテンの隙間から、まぶしい光が差し込んでいる。


時計を見ると、午前9時。いつもより遅い。

多分、昨夜のことがあったから、ママが起こさないでおいてくれたんだろう。

窓から差し込む日差しの先には、私の机に腰掛けてiPadを読んでいる兄の姿。


制服じゃない。

長袖の黒Tシャツにチノパン姿だ。

頭には前髪をあげてカチューシャをつけている。家でのいつものスタイルだ。

最近はニキビが気になってるらしく、肌に髪の毛をつけたくないらしい。

気にしなくても綺麗なオデコしてるのに。

それにお兄ちゃんは短い方がカッコいいと思うんだけど。


いや。ただ単にちょずいてるだけなのか。


どちらにしろ私と違い綺麗な顔立ちなんだから。髪の毛切ってその顔面はもっと公開すべきだ。


起き上がって兄の肩をちょんちょんと叩き、朝の挨拶を手話で送る。


【おはよう。昨日はありがとう。すごく楽になった。今は元気だよ。】

少し大きめに手を動かす。


「おう。……あのさ、このしおりって、ねむ? もしかして母さんが二巻まで読んでない?」

兄は眉を寄せ、iPadをじっと睨んでいる。

あ。私のiPad勝手に使ってる。

まぁ、兄とは同じApple IDだから、ダウンロードした本は共有してるんだけど。


ちゃんと届いてるのだろうか?私の感謝と元気だよ。の返しは無視されている。


iPadを覗き込むと、確かに二巻の後半にしおりマークがある。

『数学令嬢』。昨日大人買いしたラノベ。

私は今、一巻の終わりあたり。なのに。

……これは確実にママだ。くそっ、私より進んでる。私が最初に買ったのに!


【お兄ちゃんは? どこまで読んだ?】


「俺はまだ、ねむと同じとこ。今二周目。……早く読めよ。いつもは速いくせに、なんでこれは遅いんだよ。」

と不満そうな顔。


【うん。今日読む。】


そう伝えると、兄は私の頭を軽く撫でて「あっそ」とだけ言い、自分の部屋へ戻っていった。

少しだけ眠そうだ。多分、私のことが気になって寝てなかったんだろうな。


背中が少し丸まっている。疲れてる証拠。

ごめんね、お兄ちゃん。


兄の背中を見送ってから服を脱ぎ、甘夏狩りのための服を吟味する。


鏡を見ていつも思う。


(お兄ちゃんに似ていない。)

私の目はいつも眠そうだ。典型的な垂れ目でジト目である。比べてお兄ちゃんはぱっちり二重のイケメン。


まぁ。いいんだけどね。

私の顔が可愛くても、豚に真珠だろう。

可愛い顔なんか私に使いこなせる訳がない。


私は両手で自分の顔を叩きネガティブな妄想を一蹴した。


そしてクローゼットを開けると、パーカー、Tシャツ、ワンピース……

長袖のほうがいいかな。……ところでみかんってどうやって木になってるんだ? 地面に転がってる? それともいちごみたいにポツポツ?

普通に木になってるんだろうけど、高さは? 手が届くの? 脚立使うの?

考えれば考えるほどわからなくなる。


「ぐぐれカス」という言葉が頭をよぎる。

今は死語らしいけど、昔のラノベだとよく出てきたな。語呂がいいから普段でも使いたい。まぁ、使う機会なんてないけど。

声に出せないから、心の中で何度も唱える。

ぐぐれカス。ぐぐれカス。

……やっぱり語呂がいい。


今後は生成AIで調べるから。

ジェネレート…良くお兄ちゃんがわからなかったらジェネれと言うから。


だから、ジェネれカスになるのだろうか。


いいね!ジェネれカス!!


誰か使ってる人いないかなぁ……


そんな妄想をしながら服を選んでいると、ママが部屋に入ってきた。

ノックの音がして、ドアが開く。

ママは長袖のTシャツに紺色のカーディガンを着ている。下はゆったり目のジーパンだ。


うん。私もママに似た感じで行こうかな。


「ねむ? 昨日苦しくなっちゃったんだって?」

私はこくりと頷く。

ママの目は、少し赤い。泣いてた?

「今日は甘夏どうする?」

心配そうに覗き込んでくる。


【大丈夫。お兄ちゃんがいてくれたから。甘夏食べに行く。】

そう伝えると、ママは優しく微笑んで私を抱きしめた。


ママの匂い。柔軟剤の香り。


抱きしめられると、子どもに戻ったみたいな気持ちになる。


「わかったよ。朝ごはん少なめにして、食べたらお兄ちゃんと行こっか。」

頷いた瞬間、ふとひらめく。


【ママ! 数学令嬢、二巻まで読んだでしょ!?】

腰に手を当て、じろりと睨みつける。

「へ? なにそれ! 面白そう! でも私、読んでないよ?」


ママは首を傾げている。演技じゃない。本当に知らないみたいだ。

……ありゃ? じゃあ誰だ。


そこに私に似た男性。パパが入ってきた。

垂れ目のいかにも優しそうな人。

“ひだまり”という文字の書いたTシャツを着ている。

ひだまりとはパパとママが運営しているNPO団体のTシャツだ。

お仕事は障害者の移動支援と生活介護のお仕事。とっても大変なお仕事だ。

聲を持たない子(私)が生まれた事をきっかけに脱サラして設立した会社。


少し複雑な思いはあるが、とてもやりがいがあって、2人はいつもキラキラしているようにも思える。


私はそんな両親が大好きだ。


「ねむ、大丈夫? ゼェゼェしたんだって?」

眉を八の字にして心配そうに覗き込む。

「また葵がカッピングしてくれたの。本当にあの子には頭が上がらないよ。」

ママはそう言いながらお兄ちゃんの部屋を見つめる。


「そうか。よかった……」

パパも同じ。お兄ちゃんの部屋を見つめる。

両親の表情が、一瞬だけ暗くなる。

多分、心配してくれてるんだと思う。

でも、それ以上に、兄に負担をかけていることを申し訳なく思っているんだろう。


ただ私は会話そっちのけで、パパを睨む。


「ねむ? どうした?」

【パパ。読んだでしょ、数学令嬢。】

ピッピっとエッジの効いた手話で問い詰める。


「あー! 今お屋敷が火事になってるとこだよ!」

悪気ゼロの満面の笑み。


――最悪だ。


――うわっ。ネタバレしやがった、この親!!

ママが「ちょっと!」と言いながらパパの肩を叩く。


パパは「え? 何?」と不思議そうな顔をしている。

……この父親。たまに抜けてるんだよなぁ。


でも、嫌いじゃない。

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