カメレオンの涙
カメレオンの涙
第一章:運命の出会い
俺は、本田誠二。偽名だ。冴えない中年男の役を演じ、結婚相談所の面談ブースに座っていた。俺は警察官。結婚詐欺グループを摘発するための、潜入捜査官だ。感情を入れず、ただ任務を遂行する。それが俺の矜持だった。相手に同情も、憐れみも抱かない。ただの仕事。それが、これまで俺が数々の潜入捜査を成功させてきた、唯一のルールだった。
だが、彼女と会った時、俺のシナリオは崩れた。
彼女の名は、沢村絵里。透き通るような肌、憂いを帯びた瞳。身につけているのは、安物のニットに、くたびれたスカート。見るからに経済的に困窮している様子だった。そんな彼女が、面談ブースの入り口で、まるで迷子の子供のように立ち尽くしていた。その小さな肩は、まるで傷ついた小動物のように儚く震えていた。俺は、その瞬間、長年の経験が告げる違和感と、これまで感じたことのない胸のざわめきを同時に覚えた。
彼女は、俺の正面に座ると、視線を床に落としたまま、両手をぎゅっと握りしめた。その指先が、わずかに赤くなっているのが見えた。
「私、人を好きになるって、どういうことなのか、分からなくて…」
か細い声でそう呟いた彼女に、俺は思わず、仮面の下の言葉を口にした。「人を好きになるのに、理由は要りません。ただ、その人のことを考えて、笑っている自分がいれば、それが一番大切なことだと思います」
俺は、任務に必要な言葉を探していたはずだった。だが、口から出たのは、俺自身の、本心からの言葉だった。彼女の瞳の奥に宿る絶望と、それでも愛を求めるかすかな光に、俺の理性が、初めて敗北した。
彼女は、はっと顔を上げ、俺をじっと見つめた。その瞳に、ほんの一瞬、光が宿った。そして、初めて心からの笑顔を見せた。その瞬間、俺は知っていた。これは、ただの任務ではない。俺は、この女性に、本気で恋をしてしまったのだ。
第二章:偽りの愛
俺は、任務と愛の狭間で揺れ動いた。絵里と会うたび、俺の心は温かくなっていく。俺は、警察のネットワークを使い、彼女の過去を調べた。結婚詐欺に手を染めているのは間違いなかった。だが、彼女の行動には、深い絶望と悲しみが潜んでいるように見えた。
「夫は、私の人生をすべて支配しようとした人でした…」
ある雨の夜、絵里は俺にすべてを打ち明けた。彼女の初恋の相手であり、結婚した元夫。彼は彼女の人生を支配し、終わりの見えない借金を押し付け、暴力で縛り付けていたという。彼女が過去形で語ることに、俺は気づかなかった。その瞳は、悲しむのではなく、遠い過去を懐かしむかのように、静かに揺れていた。その口元に浮かんだ微かな歪みが、俺の胸騒ぎを大きくした。まるで、過去を語る喜びと、それを欺瞞だと知っている焦燥が入り混じったような、複雑な表情だった。
「私、情報収集が得意なんです。趣味で、人探しとかもしてまして」
俺は、彼女を救うため、正体を明かさずに情報収集能力があるかのように振る舞った。そして、元夫が隠し持つ巨額の隠し財産の情報を彼女に伝えた。俺は、この金で彼女が人生をやり直せると信じていた。そして、いつか、この偽りの関係を本当の愛に変えられると信じていた。
第三章:最後の嘘
俺たちは結婚した。ささやかだが、温かい家庭を築いた。朝、二人で飲むコーヒーの香り。夜、寄り添って見るテレビの光。そんな何気ない日常が、俺にとっては何よりも大切なものだった。愛する妻との幸せな人生が始まると信じていた。
だが、ある日。過去の被害者である佐々木が、激しい足音を立てながらアパートのドアを叩き壊すように現れた。彼の目は血走り、荒い息遣いが廊下にまで響く。「沢村絵里!お前のような悪女は生きていてはいけない!」佐々木の怒号が、静かなアパートの一室に異様なまでの圧迫感をもたらした。絵里は悲鳴を上げ、恐怖に顔を歪ませ、まるで助けを求めるかのように俺の背後にしがみついた。その小さな肩が、かすかに、しかし確かに震えている。俺は、警察で培った交渉術を使い、彼の怒りを鎮めようとした。しかし、佐々木は聞く耳を持たず、絵里に手を伸ばそうとした。
その瞬間、絵里は俺の背後から身を乗り出し、机の上に置いてあった果物ナイフを、狙いを定めるように握り直すと、佐々木の胸に躊躇なく、深く突き立てた。鈍い音と共に、佐々木の動きがピタリと止まる。彼の目は見開かれ、信じられないものを見たような表情で絵里を見つめていた。
一瞬の出来事だった。そして、俺にはわかった。それは、ただの正当防衛ではなかった。突き刺したナイフの位置は、心臓を正確に射抜いていた。警察官としての長年の経験が、それが訓練された動きであり、偶然ではないことを告げていた。佐々木がアパートに現れたのは偶然ではない。きっと、絵里が居場所を教えたのだ。すべては、佐々木を「危険な暴漢」として殺害するための、周到な陽動作戦。そして、俺が警察官であることを知った上で、この状況を利用しようとしているのだ。元夫も、そして他にも何人もの被害者たちも……彼女の過去は、血で染まっているのだ。俺の愛も、警察官としてのスキルも、すべてが、彼女の計画を成功させるための道具に過ぎなかった。
それでも、俺は愛する妻をかばう決意をした。夜が更け、雨が窓を打ち付ける音だけが、静まり返った部屋に響く。俺は、佐々木のずっしりと重い死体を毛布でくるみ、冷たい汗が額を伝うのを感じながら、運び出そうとした。絵里は、その様子を、ただ静かに見つめていた。その瞳は、もはや怯えてはいなかった。濡れたような光を湛え、まるで獲物を前にした肉食獣のような、静かで鋭い光を宿していた。
「ねぇ、誠二さん」
絵里が、息を吐くような、囁くような声で俺を呼んだ。
「大丈夫だよ、絵里。君は悪くない」
俺がそう答えると、絵里は、作り物のような、しかしどこか寂しげな微笑を浮かべた。その笑顔は、これまでの彼女からは想像もできないほど、冷たく、そして美しかった。
「そうですね。……でも、あなたは、私の秘密をすべて知ってしまった」
その言葉に、俺は背筋が凍るような感覚を覚えた。部屋の空気が一瞬にして張り詰めたように感じた。俺が振り返ると、絵里は、俺が死体隠蔽に使おうと用意していたナイフを、まるで自分の手足のように扱っていた。彼女の瞳には、愛を装うための演技はもはやなかった。ただ、自身の平穏な人生を何よりも優先する、冷酷な意志だけが宿っていた。
「…本当は、あなたと、このまま、誰にも邪魔されずに生きていきたかった。でも……もう、戻れないの」
その一言は、まるでガラスが砕け散るような音を立てて、俺の胸に突き刺さった。彼女の心にも、確かに俺への愛情が、一瞬でも宿っていたのかもしれない。だが、彼女が長年守り続けてきた「秘密」の前では、その愛はあまりにも儚く、そして危険なものだったのだ。
「これで、誰も私の秘密を知らない」
そう言って、絵里はためらいも、感情の揺れも見せずに、ナイフを俺の胸に突き立てた。肉が裂ける、生々しい感触が、鈍い痛みを伴って俺の意識を蝕んでいく。床に倒れる際、背中を強く打ち付けた衝撃が、遠のく意識の中で最後に感じたものだった。彼女は、お腹をそっと、慈しむように撫でながら、静かに告げた。
「この子は、あなたの子供よ。さようなら、誠二さん」
俺は、自分が愛した女に、利用され、そして殺されたのだ。天井の染みが、滲んで、ぼやけていく。俺の警察官としての正義も、男としての愛も、すべてが、彼女の計画を成功させるための道具に過ぎなかった。しかし、彼女の最後の冷たい眼差しと、それでも慈しむように腹部を撫でる仕草に、俺は確かに見た。それは、数々の命を奪ってきた冷酷な犯罪者の仮面の下に隠された、一人の女の、歪んだ愛の形だった。愛を捨て、秘密を選んだ彼女が、唯一残した、繋ぎ止めようとしたもの。それが、俺の子供だった。遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。だが、それはもう、俺には関係のない音だった。カメレオンの涙、俺も、彼女も、この涙を流すしかなかった。