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天鵞絨の鼓動と花露〜運命の歯車が巡る時〜  作者: さくらもち
目覚めの季節、旅立ちの花
9/13

綿毛の伝言


森の奥へ進むたび、湿った匂いが鼻を刺した。夜露に濡れた草が足元を冷やし、枝葉の隙間から射す朝の光が、まだ青さを残す空気を淡く照らしていた。

ルカは肩で息をしながら、必死に前を見据える。心臓が胸を叩く音ばかりが、やけに大きく響いた。


「……早く見つけないと」


もし間に合わなかったらどうしよう。胸の奥でその想像が何度も頭をかすめる。怖くてたまらない。足が止まりそうになるたび、ルカは自分を叱咤し、ルドルフの背を追った。


「焦るな。呼吸を整えろ、ルカ」


前を行くルドルフの低い声が、森の静けさに溶ける。


「こんな森、ただの木立だ。化け物が潜んでるわけじゃない」

「……でも」


言いかけた言葉は、胸の奥に溜まった不安に呑まれて消えた。


ルドルフはちらと振り返り、柔らかく微笑む。


「怖いのは分かる。でもな、人は“影”だけじゃない。森も街も、俺たちを生かす光に包まれてる。忘れるなよ」


その言葉にルカは小さく頷いた。けれど胸のざわつきは消えないまま、二人はさらに森の奥へと足を踏み入れる。


やがて、木立の向こうで小さな影が横たわっているのが見えた。


「――いた!」


駆け寄った瞬間、息が詰まる。ぐったりと倒れている子ども。その小さな体は泥で汚れ、服は破れ、冷たい朝露に濡れていた。目の前が真っ暗になる。もし、このまま冷たくなっていたら――。


震える手でそっと肩に触れた。


「……あ」


かすかに、胸が上下していた。その瞬間、張り詰めていたものが崩れ落ち、ルカはその場に膝をつきそうになる。息がある。それだけで体中の力が抜けた。けれど完全な安堵には至らない。子どもの顔は青白く、熱も感じられない。時間は残されていないかもしれない――。


ルドルフがすぐに膝をつき、子どもの体を抱え上げた。表情には焦りが滲んでいる。


「……よかった、生きてる。でも……このままじゃ……」


彼は唇を噛んで一瞬迷い、視線を森の外の方向へと向けた。


「ルカ。少し下がっててくれるか」


その声音には決意があった。ルカは頷き、一歩後ろに下がる。


すると次の瞬間、足元の土がかすかに震えた。ルドルフの周囲に、柔らかな黄色の光を帯びて、たんぽぽの花がぽつり、ぽつりと咲きはじめる。


「……!」


その異様な光景に、ルカは思わず息を呑んだ。花は音もなく綿毛へと姿を変え、ふわりと宙に浮かび上がる。朝の光を反射し、小さな光の粒が無数に生まれたように見えた。


ルドルフは子どもを抱きながら、はっきりと声を放つ。


「子どもを見つけました。親御さんにはそこで待機していてください。今そっちに連れていきます」


声は静かなのに、確かに力を帯びていた。すると綿毛は一斉に風に乗り、きらめきながら空へ溶けていく。光の屑のように舞い上がり、木々の間をすり抜け、遠くへ――。


ルカの胸は強く締め付けられた。ありえないものを目にした衝撃に、世界の理が音を立てて崩れていく感覚が押し寄せる。怖い。けれど、同時に憧れに似た熱が心に広がる。


「……今の……なんですか?」


掠れた声で問うと、ルドルフはしばらく口を閉ざした。綿毛が遠くへ消えていくのを見送りながら、彼はほんのわずかに目を伏せる。その横顔に、ためらいがあった。どこまで話すべきか迷っている――。だが次の瞬間、彼は小さく息を吐き、決意したようにルカへと向き直った。


「……ルカ。お前なら、話してもいい気がする」


少しだけ照れたように、けれど誠実な声音で。


「この世には、生まれたと同時に花の加護を受ける人間が存在するんだ。花の加護……特殊能力を扱える者」

「……超能力者、みたいなものですか?」

「いわばそんなもんだよな。でもその数は、世界規模で見てもとてもレアなんだ」


ルドルフは腕の中の子どもを抱き直しながら続けた。


「俺の加護は、たんぽぽ。人と人をつなぐ“真心の愛”を司る花だ。こうして綿毛を通じて、遠くの人に言葉を届けることができる」


彼の声には、わずかな誇りと、そして影のようなものが滲んでいた。


「昔は誰にも届かなくて、無力感ばかりだった。でも……続けてきたら、こうして誰かを救える時もあるんだ」


その言葉に、ルカは息を呑む。世界には、自分の知らない理が確かに存在する。目の前で力を行使するルドルフは、恐ろしくもあり、そして美しかった。


――けれど、自分にはそんなものはない。


胸の奥に冷たい思いが広がる。両親を早くに亡くし、親戚の家をたらい回しにされ、孤独の中で必死に生きてきた自分に、加護など与えられるはずがない。そう思おうとするのに、なぜだろう。心の奥がざわめいている。


熱い。胸の奥に、じんわりと熱が灯る。小さな芽が硬い殻を押し上げようとするような、ちくりとした痛み。


爪の先がほんのり熱を帯びるような感覚に、ルカは思わず自分の手を見つめた。


「……どうした?」


ルドルフが振り返る。ルカは慌てて首を振った。


「なんでもないです。ただ……ちょっと、不思議な気持ちになっただけ」


言葉を濁しながらも、胸のざわめきは消えない。世界が変わろうとしている。自分の内側で何かが芽吹こうとしている。


ルカはまだ、それが何を意味するのか知らなかった。




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