消えた子供と影の怪物
翌朝。薄いカーテン越しに差し込む朝日で、部屋の空気が淡い金色に染まっていた。ルカが先に目を覚まし、伸びをすると、隣ではルドルフがまだ静かな寝息を立てている。旅人らしい粗末な鞄が枕元に置かれ、手帳とペンが覗いていた。
「……ほんとに、作家なんだな」
小さくつぶやく。誰に聞かれることもなく、言葉は朝の光に溶けた。ルカは立ち上がり、外の空気を吸いに玄関を開けた。丘の下の街からは、人々の声や馬車の音がもう響いてくる。市場の準備で賑わっているのだろう。
そのざわめきの中に、妙に張り詰めた声色が混じっているような気がした。胸の奥に不安が灯る。だがひとまず、ルカは台所で簡単な朝食を整え、ルドルフを起こした。
「おはよう。今日は市場に行ってみましょうか。祭りのあとはきっと、面白いものが並びますよ!」
「そうだな、俺も見ておきたい。いろんな話の種になりそうだ」
ルドルフは寝癖のついた髪を慌てて直し、手帳を鞄にしまい込んだ。
二人で丘を下り、石畳の大通りへと出る。朝の市場は、鮮やかな野菜や果物、香草や花々の匂いに満ちていた。行商人たちが威勢のいい声を張り上げ、子どもたちが走り回る。その光景は一見、平穏でいつも通りに見える。
しかし、よく見ると人々の表情はこわばり、笑い声はどこか力を欠いていた。買い物をしながらも、あちこちで人々が顔を寄せ合い、ひそひそと囁き合っている。その声が、二人の耳に自然と流れ込んできた。
「――子どもが行方不明になったらしい」
ルカは立ち止まり、思わず振り返った。声の主は果物を売る女商人で、隣の店主と深刻そうに話し込んでいる。
「祭りの夜を最後に、家に戻っていないんだって。家族が必死に探してるけど、手がかりがまるでなくて……」
「そんな……」
ルカは小さく息を呑んだ。祭りの夜の賑わいを思い出す。あの群衆の中で、小さな子どもが一人紛れて消えてしまったというのだろうか。
「誰も見てないのか?」
「ええ、まるで跡形もなく消えたみたいに」
噂はすぐに周囲の人々の耳に入り、瞬く間に広がっていった。商人も客も、声を潜めては囁き合う。空気は次第にざわめきから不安へと色を変えていった。
そのうち、もう一つ別の噂が混ざり始める。
「街外れの森に、怪物が出るらしい」
「黒い影を見たって人がいる。夜に動く不気味なものだって」
その言葉が、恐怖を煽る火種となった。誰かが口にすれば、すぐに別の誰かがさらに尾ひれをつける。
「子どもは怪物に食われたんじゃないか」
「いや、さらわれてどこかに連れて行かれたのかも」
根拠のない推測が真実のように語られ、人々の心を掻き乱す。市場の喧噪は次第に、目に見えない恐怖の波に飲まれていった。
ルカは身震いした。怪物――そんな話を信じる気にはなれなかったが、失踪した子どものことを思えば笑い飛ばすこともできなかった。
隣でルドルフが低くつぶやいた。
「……シェイドかもしれない」
「シェイド…?」
ルカは首をかしげる。
ルドルフは一度周囲を見回し、声を落として説明した。
「闇に棲む存在だよ。人の恐怖や憎しみに引き寄せられて、形を持たぬ怪物になる。黒いヘドロみたいな体で、触手や翼を生やして獲物を捕らえるんだ。分裂したり、人や動物の姿を曖昧に真似ることもある……見ているだけで吐き気を誘う、そんな存在だ」
ルカの胸に冷たいものが落ちた。想像するだけで心臓が強く脈打つ。
「そ、そんなの……本当にいるの?」
「僕も実際に見たわけじゃない。だが、もし触れられたら―――まずいことになる。」
ルカは唇を噛む。心の奥に、あの夢の大樹のことがよぎった。現実とは違うはずの夢の光景が、どうしてか今、この不安と響き合っている気がした。
「……でも、子どもが危ないのは確かなんだよね」
「そうだ。放っておくわけにはいかない」
二人は小さくうなずき合った。胸の奥に芽生えた決意は、言葉にせずとも互いに伝わっていた。
だが周囲の人々は、噂に怯えて森に近づこうとはしなかった。誰もが「行方不明は気の毒だ」と口では言うが、腰を上げる者はいない。恐怖は人の足をすくませる。
ルドルフは手帳を取り出し、ぱらりと開いた。白紙のページに視線を落としながら、静かに言った。
「俺たちだけでも、せめて街外れまで行ってみよう。真偽を確かめて、子どもの手がかりを探そう」
ルカはその横顔を見つめた。作家を目指す彼が、この出来事を記録に残そうとしていることが分かった。だがそれ以上に、子どもを助けたいという真摯な思いが滲んでいた。
「……うん、行こう」
ルカの胸の奥には、言葉にできない衝動があった。夢の中で見た大樹と、この不思議な出来事が、どこかでつながっている。そんな確信にも似た予感があった。
こうして二人は、まだ朝の光に包まれた市場を抜け、街外れへ向かって歩き出した。恐怖に押しつぶされる人々の背中を離れ、未知の影が潜む森へと足を進めた。