祭りの夜、ふたつの影
夜、祭りの余韻が街に残り、石畳の通りにはまだ人々の笑い声や笛の音が漂っていた。だが、昼間の喧騒に比べれば随分と落ち着き、屋台の灯りもひとつ、またひとつと片付けられていく。紙花が風に流され、淡く揺れる灯篭の光の下で、ルカとルドルフは肩を並べて歩いていた。
「……あ、しまった」
ルドルフがふと立ち止まり、額に手を当てた。
「どうしました?」
「宿だよ。祭りで浮かれて、予約するのをすっかり忘れてた」
ルカは目を瞬き、彼の横顔を覗き込んだ。確かにこの時期、村の宿は早々に満室になる。旅人や商人、見物客で賑わう花祭りの日に、空いている宿を探すのはほとんど不可能だろう。
「もしかして、泊まる場所がないんですか?」
「その通り。広場のベンチで夜明かし……なんてのもネタ的には悪くないけどな」
冗談めかして笑うルドルフの声は明るかったが、その後ろ姿にどこか困ったような影が差しているのをルカは見逃さなかった。
しばらく迷った末、ルカは勇気を振り絞る。
「……あの、もしよければ、うちに来ますか?」
言った瞬間、胸の鼓動がどくんと跳ねた。顔が熱くなるのを感じる。祭りの夜に、ほとんど見知らぬ旅人を自分の家に招くなんて。だが、放っておけなかった。
ルドルフは少し目を見開いたが、すぐに穏やかに笑った。
「……いいのか? 迷惑じゃないか?」
「べ、別に広くはないですけど……その、床くらいならありますから」
「助かるよ。ありがとう、ルカ」
彼の笑顔を見て、ルカの頬はますます赤くなった。
町外れの丘をのぼると、夜空の下に小さな家がぽつんと建っていた。花祭りの賑わいがまだ続いている街の明かりを、遠くに眺められる場所だ。
ルカは扉の前に立ち、息をついた。
「ここです。……俺の家」
ルドルフは目を細めて見上げた。質素な造りの家だが、窓辺には鉢植えの花が並び、丘の風にそよいでいる。祭りの喧騒から離れた静けさが、そこにだけ時間を止めたようだった。
「いい場所だな。街全体を見下ろせるし、空も広い。まるで物語の舞台みたいだ」
ルカは少し苦笑して扉を開いた。
「……そう言ってもらえるのは、初めてです」
中はやはり質素で、木の床に机と椅子が一組。壁には本棚があり、古びた本が少しだけ並んでいた。窓際の机には小さな花瓶。そこに野の花が挿してある。
ルドルフは辺りを見回しながら、そっと声をかけた。
「ずっとここで暮らしているのか?」
ルカは一瞬ためらい、それからうなずいた。
「両親は、俺がまだ小さいころに亡くなって……。その後は親戚の家を転々としたんです。でも、どこも長くは続かなくて。結局、自分の場所を探すようにして、この家に来ました」
その声は淡々としていたが、言葉の奥には、幼い日の孤独がにじんでいた。
ルドルフはすぐに返す言葉を見つけられず、ただ真剣な眼差しで彼を見つめた。
「……それで、一人で?」
「はい。……けど、花があれば寂しくはないんですよ。丘の風も、夜空も。ここなら、誰に邪魔されることもない」
ルドルフは小さく息を吐き、微笑んだ。
「強いんだな、ルカは」
「そんなこと……」
ルカは視線を落とし、小さく首を振った。
気まずさを和らげるように、ルカは台所へ向かった。
「……お茶出しますね。昨日のスープが少し残ってるから、温めます」
「助かるよ。実は宿を取るのをすっかり忘れてて……本当にルカがいてくれて良かった」
ルドルフは笑みを浮かべながら、荷を机の傍に下ろした。
温かいスープと少しのパンを分け合い、やがて二人は窓際の椅子に腰を下ろす。外には丘を渡る風が吹き、遠くからはまだ祭りの余韻がかすかに届いていた。
「ルカは…将来、どんな夢を持ってるんだ?」
スープを飲み干し、しばらくしてルドルフが切り出した。
ルカは言葉を探すように沈黙した。夢。将来のこと。
「……よく分からないんです。どうなりたいか、何をしたいか、考えても形にならなくて。ただ、この丘で花を見て、たまに近くの林や街を散歩したり……それだけで、一日が過ぎていく」
窓からの風に揺れる花瓶の花を見つめ、ルカは静かに続けた。
「みんなみたいに未来を思い描けたらいいのにって思います。でも、俺にはできないみたいで」
ルドルフはしばし黙ってから、手帳を開いた。
「……夢が分からない、か。だけどそれも、物語の始まりになる。俺は今、小説家の見習いでね。旅をして世界を見て、書き留めながら、まだ自分の物語を探してる」
ルカは驚いたように顔を上げた。
「……見習い?」
「ああ。知名度はまだない。でも、出会いや迷いを全部書き留めていけば、いつか誰かにとっての大切な一冊になるんじゃないかって思ってる」
その言葉に、ルカの胸に小さな灯がともった気がした。自分の迷いさえも物語になる。そう思えたのは、初めてだった。
しばしの沈黙が流れた。窓辺の花瓶の花が、丘を渡る夜風に揺れて小さな影を壁に落とす。
ルカはその揺れをじっと見つめていたが、やがて小さく息を吸い込んだ。
「……ひとつだけ。ずっと心に残ってるものがあるんです」
その声はためらいがちだったが、どこか切実さを帯びていた。
ルドルフが手帳を置き、身を乗り出す。
「なんだ?」
ルカは少しうつむき、両手を膝の上で握りしめる。
「夢を……よく見るんです。夜ごとじゃないけど、とてもはっきりしていて。忘れられない」
「夢?」
「はい。……そこには、大きな樹があります。幹は深い緑で、枝には天鵞絨みたいな布が垂れ下がっていて……光を受けると、赤や紫に揺れるんです。泉の真ん中に立っていて、花びらみたいな光が、ずっと降り続けている」
語るにつれ、ルカの瞳はどこか遠くを見ていた。
「その樹の下に立つと、不思議と心が満たされるんです。怖いことも寂しいことも全部消えて……ただ、静かで、暖かい」
ルドルフは息をのんだ。手帳を再び開き、急いでペンを走らせる。
心の中では、以前読んだ伝承の断片や物語の記録が脳裏をよぎる。
(……これは、あの“天鵞絨の大樹”のことかもしれない……いやでも、言うべきじゃない)
口に出す前に、ルドルフは言葉を飲み込む。
今話してしまえば、ルカの夢の神秘が壊れてしまうかもしれない。何より、まだただの夢かもしれない──そう考えると、黙っておく方が自然だと思えた。
「……面白い夢だな。物語にしたら、きっと読者を惹きつけるだろう」
軽い調子でそう返しながら、ルドルフは微笑む。胸の奥のざわめきを抑えつつ、ルカの話を受け止めた。
「……俺の夢が……?」
ルカは首をかしげたが、その胸の奥に、ひそやかな鼓動が広がっていた。自分の曖昧な未来を形づくる、まだ名もない欠片。それが“あの樹”と関わっているのだろうか。
やがて、ルドルフは小さく笑った。
「ルカの話を聞いてると、物語が膨らんで仕方ないよ。……でも、今は物語よりも、ルカ自身のことが知りたい」
ルカは頬を赤く染め、視線を逸らした。
「……そんなに知っても、面白くないと思いますよ」
「それは俺が決める」
窓の外には星が瞬いている。丘の上の小さな家に、祭りの喧騒とは違う、静かな夜が流れていた。