天鵞絨の都の午後
「まだ食べられるな……ほら」
差し出された手は長くしなやかで、声は落ち着いた低音だった。ルカが顔を上げると、そこには一人の青年がいた。年の頃は二十歳前後だろうか。一見すれば学生のようだが、どこか達観した雰囲気を漂わせている。肩にかけた鞄からは、分厚い本が数冊のぞいていた。
「あ、ありがとうございます……」
「気にするな。よくあることだ」
ルカは胸を撫で下ろしながら果実を受け取る。青年は散らばった残りの品も器用に拾い集め、籠に戻してくれた。ひとつひとつの動作は無駄がなく、だがどこか慎重で、まるで書物の頁を扱うかのような丁寧さがあった。
「良かった……これで今月の食べる分が減っちゃうところでした」
「そんなにひもじい生活してるのか?……この街に住んでるわけじゃないのか?」
「いえ。オレは買い出しで来ているだけで……」
ルカは視線を伏せる。生活の厳しさをさらりと口にしてしまった自分に、少し後悔した。だが、青年は眉を上げて興味深そうに聞き返す。
「そうなのか。じゃあ、どこの出身なんだ?」
「えっと……よく“名も無き東の国”って呼ばれている所です」
その名を聞いた途端、青年の瞳がぱっと輝きを増した。淡い若葉色の光が好奇心で燃える。先ほどまでの落ち着いた眼差しは一変し、少年のように生き生きとした表情を見せる。
「本当に? あの国出身の人と会うのは初めてだ! ずっと遠い場所だろ? 風土も違えば食べ物も美味いって聞いたことがある。小説の舞台にするなら最高の国だよなぁ……!」
次々に言葉が溢れるその様子に、ルカは思わず瞬きをした。思考が熱に追いつかないような勢いで喋るその青年は、どこか滑稽でもあり、同時に胸を打つほど真剣でもあった。
「……小説家さん、なんですか?」
恐る恐る問いかけると、青年はハッとしたように「あぁ」と呟き、背筋を伸ばした。興奮を抑えるように深呼吸をひとつしてから、まっすぐにルカを見据える。
「俺はルドルフ。小説家の……いや、今は見習いだな。この“花祭り”に来たのも、小説の資料を集めるためなんだ」
ルドルフと名乗った青年は、親しげに右手を差し出す。その手には先ほどまで果実を拾っていた温もりが残っている。ルカは一瞬戸惑いながらも、その手を握り返した。
「オレはルカといいます。よろしくお願いします」
「ルカ、か。いい名前だ」
しっかりとした握手が交わされた。ルカの胸には不思議な感覚が広がる。初めて会ったばかりのはずなのに、遠くから響く鐘の音のように、静かな確かさが心に残った。
ルドルフは握手を解くと、周囲の屋台を見渡した。香ばしい匂い、紙花の舞、子どもたちの笑い声。すべてが一枚の絵画のように、彼の目には素材として映っているのかもしれない。
「せっかくだ。君さえ良ければ、一緒に祭りを回らな いか? 小説の題材にもなるし、君の話ももっと聞きたい」
ルカは驚いた。
自分のような存在に声をかけてくれるなんて思っていなかったからだ。しかし、彼の瞳に宿る真剣な好奇心と人懐っこさに、断る理由を見つけられなかった。
「……いいんですか?」
「もちろん。独りで歩くより、二人の方が楽しいだろ?」
春の陽射しの下、ルカは小さく頷いた。
籠を抱え直し、ルドルフと並んで通りを歩き出す。
屋台の色鮮やかな花飾りが二人を迎えるように揺れ、どこからか笛の音が響いた。
―――――――
「見てみろ、あの紙花の山車! 東の国ではこういうのはあるのか?」
ルドルフは興奮した様子で、人々が押し出す花飾りの山車を指差した。
大小さまざまな紙花が覆い尽くすように貼られ、陽光を浴びてきらめくその姿は、まるで生きているようだ。太鼓の音が鳴り響き、掛け声が街道にこだました。
「いえ……こんな大きいのはないです。せいぜい小さな灯籠くらいで」
「なるほど、灯籠か……! それもいいな。光と影の対比、小説の中で映えるはずだ」
ルドルフは懐から手帳を取り出し、素早く走り書きをする。その仕草は真剣そのもので、ルカは横で見ていて少し不思議な感覚を覚えた。自分の出身地の何気ない風習が、彼にとっては宝物のように映るのだ。
やがて二人は香ばしい匂いに惹かれて屋台の前に立ち止まる。蜜を練り込んだ焼き菓子が並び、飴色に輝く表面からは湯気が立ち昇っていた。
「一つどうだ?」
「でも……」
「俺が奢るよ。取材のお礼だ」
そう言ってルドルフは迷いなく銅貨を差し出し、二つの焼き菓子を受け取る。ひとつをルカに手渡すと、にかっと笑った。その笑顔は人懐っこく、どこか安心感を与えるものだった。
「熱っ……でも、甘い。美味しい!」
「だろう? こういう素朴な甘さは、文字でどう書けば伝わるかが悩みどころだな」
ルドルフは目を細めながら一口かじり、舌の上で味わうように咀嚼した。まるで一つの味覚すら観察し、記録し、物語に昇華しようとしているようだった。
―――――――
日が傾き始める頃、祭りの目玉のひとつである「花びらの舞」が始まった。
大樹から持ち込まれた枝葉が人々の頭上に掲げられ、そこから花びらが一斉に撒かれる。空を覆う無数の花弁が陽光を受け、金や桃、白の光を反射しながら舞い降りる光景は幻想的で、息を呑むほど美しかった。
「……すごい」
ルカは思わず呟いた。
頬に触れた花びらはひんやりとしていて、指先で掬い上げると淡い香りが漂う。その瞬間、今朝の夢に見た大樹の光景が胸に蘇った。舞い散る光、泉のほとりの神秘。心の奥底で何かが呼応しているように思えた。
ルドルフも同じように花びらを手に取り、興味深そうに観察していた。
「……まるで物語の一幕だな。言葉で描けるかどうか、不安になるくらいだ」
彼は小さく笑った。その横顔は真剣で、けれど楽しげでもある。ルカはそんな彼を見て、自分の胸に浮かぶ寂しさが少しずつ薄れていくのを感じた。