春の交差点に影が差す
春の陽射しはやわらかく街を包み、天鵞絨の都は朝から祭りの活気に満ちていた。
一年に一度、この街で開かれる「花祭り」。
森の神木〔天鵞絨の大樹〕に感謝を捧げ、四季の恵みを讃える行事である。祭りは四年を一巡りとし、春夏秋冬を順に祝う。今年は春。もっとも華やかで、人々の胸が待ち望む季節だった。
通りには、枝葉に結わえられた花飾りが風に揺れ、色とりどりの紙花が空を舞う。屋台は通りを埋め尽くし、香ばしい焼き菓子や花蜜の甘い香りが交じり合って漂っていた。歌声と笛の音、子どもたちの歓声が遠く近くに響き、街全体が一枚の絵のように鮮やかに染め上げられている。
その賑わいの中を、ルカは小さな籠を抱えて歩いていた。
背丈は平均より少し低く、肩までの紅の髪が春風に揺れて光を帯びる。澄んだ桃色の瞳は控えめで、表情には幼さと儚さが入り混じっていた。
「蜜蝋キャンドル……それから、スズランの花も」
籠の中には買い込んだ食材と小さな花束が入っている。
生活は決して豊かではない。
ルカは物心つかないうちに両親を亡くし、親戚の家を転々としたのち、今は村外れの小屋でひとり暮らしていた。今日も本当なら必要最低限の買い物だけして帰るつもりだったが……
街全体を覆う華やかさに、足は自然と祭りの方へ引き寄せられていた。
ふと、今朝方の夢を思い出す。
泉のほとりにそびえ立つ、天鵞絨のような幹の大樹。深紅から紫紺へと色を変えるその姿は神秘的で、枝葉から降り注ぐ光は花びらのように舞い散っていた。耳の奥にまだ残っているのは、静かに響いた声。
目覚めたあとも不思議と胸に灯る温もりは消えなかった。意味は分からない。けれど心の奥に染み入り、消えることなく残っている。
「……ほんと、おかしな夢だったなぁ」
自嘲するように呟いて、ルカは通りを歩いた。
「おや、ルカくん」
声をかけられ、振り返ると老婦人が花冠を編んでいた。淡い紫の花を手にし、皺だらけの手で器用に形を整えている。
「その花冠、春らしくってきれいですね」
「ありがとう。毎年この花祭りのために作っているのよ。花の命を讃える大切な日だからね」
老婦人はほほ笑み、針金で花を固定しながら話す。
「花って、いろんな意味を持っているんですね。何かを伝える言葉があるみたいで」
「そうそう。花言葉は昔から、人の心を映す鏡のようなものさ。大事な想いを託したり、願いを込めたりするんだよ。この祭りもそう。季節の花と一緒に、みんなの気持ちが飾られているの」
言葉には、花と共に生きてきた年輪の重みがあった。ルカは軽く頭を下げ、籠を持ち直して歩みを進める。
次に目に入ったのは花蜜パンの屋台。湯気を立てる丸いパンは香り豊かで、金色の花粉がかけられていた。
「お兄さん、どう? お祭りの味だよ」
「……じゃあ、ひとつください!」
「はい、どうぞ!アツアツだから気をつけてね」
渡された花蜜パンは手のひらにずっしりと温かく、かじれば外は香ばしく、中はふわりと甘かった。舌の上で溶ける蜜の優しい甘さに、思わず小さく息が漏れる。
通りを進むと子どもたちが紙花を振りながら駆け、犬を連れた老人が立ち話に興じる。祭りは華やかで、人々の笑顔がそこかしこに咲いていた。
けれど――ルカの胸には、ふとした隙間のような寂しさが浮かんでいた。
「……まあ、一人で行っても、ちゃんと見られないかな」
籠の中を覗き込み、独り言のように呟いた。華やぎはすぐ傍にあるのに、手に入らない。自分だけが外側にいるような、そんな感覚。
その時――
ドンッ。
「うわっ!?」「おっと、危ねぇ!」
横から勢いよくぶつかられ、ルカはよろけて籠を落とした。中から果物や花束、買ったばかりの花蜜パンが石畳に散らばる。
「す、すみませんっ!」
相手は酒瓶を抱えた中年の男。顔を赤くし、ふらつきながら謝りもせず人混みへ紛れていった。
慌てて拾おうと膝をつくルカ。しかし人々の足が途切れることなく往来し、果実はころころと転がっていく。
「待って……っ」
必死に手を伸ばすが、小瓶がつるりと滑ってさらに遠くへ転がった。
――その時。
「俺が拾うよ」
低く落ち着いた声が耳に届き、影が差した。見上げると、背の高い青年がそこにいた。やや長めの前髪が風に揺れ、若葉色の瞳がこちらを見ている。人混みの中でも堂々とした佇まいで、すっと膝をつき、散らばった品を拾い集めてくれた。
「これ、君のだろ?」
花束を籠に戻しながら、彼は口元にわずかな笑みを浮かべる。
「ありがとう……助かりました」
ルカは胸の鼓動を整えながら礼を言った。その時、一瞬だけ青年の手がルカの指先に触れる。温もりが伝わったが、それ以上の意味を見出すにはあまりに短い。
青年は立ち上がり、籠を差し出した。
「……中身、大丈夫か?」
ルカは小さく頷く。春の陽射しの下、喧噪の只中で、ふたりは初めて向かい合っていた。