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天鵞絨の鼓動と花露〜運命の歯車が巡る時〜  作者: さくらもち
目覚めの季節、旅立ちの花
4/21

春の交差点に影が差す

春の陽射しはやわらかく街を包み込み、石畳も家々の壁も、淡い金色の光を帯びて穏やかに輝いていた。朝の空気にはまだひんやりとした名残があるのに、不思議とその冷たささえ心地よく感じられる。風が吹くたびに花の香りがふわりと広がり、街全体が大きな花束の中にあるかのようだった。


町は朝から祭りの活気に満ちている。

人々の足取りは自然と軽く、どこか浮き立つような気配が通りのあちこちに溢れていた。


一年に一度、町で開かれる「花祭り」。

大陸の中心にある森の神木〔天鵞絨の大樹〕に感謝を捧げ、四季の恵みを讃える行事である。祭りは四年を一巡りとし、春・夏・秋・冬を順に祝う習わしがあり、それぞれの季節ごとに飾られる花も、催しの色合いも異なる。


今年は春――巡りの始まり。

生命が芽吹き、世界が再び息を吹き返す季節。

だからこそこの年の花祭りは、四つの中でも最も華やかで、最も人々の胸が待ち望むものだった。


通りには、枝葉に結わえられた花飾りがいくつも吊るされ、風を受けるたびにやさしく揺れている。薄桃、若草、淡黄、白――柔らかな色彩が重なり合い、まるで空気そのものが春色に染まっているようだった。紙で作られた花びらも空に舞い、ひらひらと光を受けながらゆっくりと降りてくる。


屋台は通りの両側を埋め尽くし、布張りの屋根が連なって色の帯のように続いていた。

焼き菓子を焼く甘く香ばしい匂い、花蜜を煮詰めた飴の濃厚な香り、香草を刻む爽やかな匂いが混じり合い、歩くだけで胸いっぱいに満ちてくる。


どこからともなく歌声が聞こえ、笛の澄んだ音がその旋律をなぞる。太鼓の低い響きが足元から伝わり、子どもたちのはしゃぐ笑い声がその上に弾ける。

遠くと近く、さまざまな音が重なり合いながらも不思議と調和し、街全体がひとつの大きな楽器のように鳴り響いていた。


その賑わいの中を、ルカは小さな籠を抱えて歩いていた。


人混みに押されることもなく、けれど流れから外れるわけでもなく、静かにその中を進んでいく。籠の縁を指でそっと支えながら、足取りは慎重で、どこか控えめだった。


背丈は平均より少し低く、華奢な体つきは人波の中ではいっそう小さく見える。肩まで伸びた紅の髪は陽射しを受けるたびに柔らかな光を帯び、風が吹くと細い糸のように揺れて頬に触れた。


澄んだ桃色の瞳は、周囲の華やかさを映しながらもどこか静かで、賑やかな景色の中にいても一歩引いたような落ち着きを湛えている。

その表情には、まだあどけなさの残る柔らかさと、年齢に似合わぬ儚さが同時に宿っていた。


「蜜蝋キャンドル……それから、スズランの花も」


籠の中には買い込んだ食材が整然と収められ、その隙間に、小さく束ねられた白い花がそっと横たわっている。薄緑の茎の先に並ぶ鈴のような花は、風に揺れるたびかすかに触れ合い、ほのかな甘い香りを漂わせていた。


蜜蝋のキャンドルは淡い黄金色をしており、陽射しを受けて柔らかな光を返している。手に取るとわずかに温もりがあり、ほんのりと蜂蜜のような香りが指先に残った。


生活は決して豊かではない。

ルカは物心つかないうちに両親を亡くし、親戚の家を転々としたのち、今は村外れの小屋でひとり暮らしていた。


食事は質素で、衣服も繕いを重ねたものばかり。

必要のないものを買う余裕など、普段はほとんどない。


今日も本当なら、必要最低限の買い物だけを済ませて帰るつもりだった。

保存のきく穀物と、少しの野菜と果実。それだけで十分なはずだったのに――


街全体を覆う華やかさに触れているうちに、足は自然と祭りの方へ引き寄せられていた。

色とりどりの花に囲まれ、笑い声に包まれていると、胸の奥のどこかが緩んでいくのを感じたのだ。


気がつけば、気まぐれのように蜜蝋の灯りを選び、

気づけば、白いスズランの小さな花束を手に取っていた。


それは贅沢というほどのものではない。

けれど、ひとりで暮らす小屋に持ち帰るには、ほんの少しだけ特別なものだった。


ふと――今朝方の夢を思い出す。


泉のほとりにそびえ立つ、天鵞絨のような幹の大樹。

深紅から紫紺へと色を変えるその姿は、現実のどんな木とも違い、ただ静かに圧倒的な存在感を放っていた。


枝葉から降り注ぐ光は花びらのように舞い散り、空気の中をゆっくりと漂っていた。

触れれば溶けてしまいそうなほど儚く、それでいて確かな温もりを宿していた。


耳の奥にまだ残っているのは、あの静かな声。


言葉の意味ははっきりとは思い出せないのに、

響きだけが胸の奥に沈み、消えることなく留まっている。


目覚めたあとも、不思議と胸に灯る温もりは消えなかった。

それは炎のように熱いものではなく、

寒い夜に灯る小さな灯火のような、やわらかなぬくもりだった。


意味は分からない。

けれど確かに、心の奥に染み入り、消えることなく残っている。


「……ほんと、おかしな夢だったなぁ」


自嘲するように小さく呟く。

けれどその声は、どこか完全に笑いきれてはいなかった。


通りを歩きながら、ルカは無意識に籠の中のスズランへ視線を落とす。

白い花は揺れながら、静かに光を受けていた。


「おや、ルカくん」


不意に名を呼ばれ、足を止めて振り返る。

通りの端、小さな木の腰掛けに座った老婦人が、膝の上で花冠を編んでいた。


淡い紫の小花を一本ずつ揃え、細い針金に沿わせていく手つきは驚くほど滑らかで、皺だらけの指先がまるで長年の職人のように迷いなく動いている。


「おはようございます。朝から忙しそうですね」


ルカが声をかけると、老婦人は顔を上げ、目尻の皺をさらに深くして笑った。


「おはよう。ええ、祭りの日はね、年寄りもじっとしていられないものさ」


指先を動かしたまま、くすくすと楽しそうに続ける。


「ほら見てごらん。今年の春は花付きがいいだろう? こういう年は、冠もきれいに仕上がるのよ」


ルカは身をかがめ、手元を覗き込む。

編み上げられた輪はまだ半分ほどだが、紫の花が連なっているだけで、すでに春の気配をまとっているようだった。


「……その花冠、春らしくってきれいですね」

「ありがとう。毎年この花祭りのために作っているのよ」


老婦人は花をもう一本差し込み、軽く形を整えながら言う。


「花の命を讃える大切な日だからね。若い頃はね、この通りいっぱいに並べて売ったものさ。今はもう、こうしてのんびり編むくらいがちょうどいいけれど」

「昔から、ずっと作ってるんですか?」

「そうよ。かれこれ……何十年になるかしらねえ」


少し遠くを見るような目をして、老婦人はふっと笑う。


「若いころは、この祭りの日にね、みんな好きな人に花を贈ったものさ。言葉にできない気持ちを、花に託してね」


ルカは目を瞬かせる。


「花って、いろんな意味を持っているんですね。何かを伝える言葉があるみたいで」

「そうそう。花言葉は昔から、人の心を映す鏡のようなものさ」


老婦人は頷きながら、丁寧に針金をねじって固定する。


「大事な想いを託したり、願いを込めたりするんだよ。この祭りもそう。季節の花と一緒に、みんなの気持ちが飾られているの」

「……気持ち、ですか」

「ええ。嬉しい気持ちも、寂しい気持ちも、祈りもね。花はぜんぶ受け止めてくれるから」


柔らかな声には、花と共に長く生きてきた年月の重みが滲んでいた。


老婦人はふと、ルカの籠に目を向ける。


「おや、スズランじゃないか。いい花を選んだね」

「えっ……あ、はい。なんとなく、目に留まって」

「“幸せの訪れ”っていう意味があるんだよ、その花には」


その言葉に、ルカは一瞬だけ息を呑む。


「……そう、なんですか」

「ええ。だからね、きっといいことがあるさ」


老婦人はにっこりと笑い、出来上がった花冠を軽く振って見せた。


「ほら、できた。どうだい、似合いそうかい?」

「きれいです……本当に」

「ふふ、ありがとう。さあ、祭りを楽しんでおいで」


ルカは軽く頭を下げ、籠を持ち直して歩き出した。


――そのすぐ先で、香ばしい甘い匂いが鼻先をくすぐる。


視線を向けると、花蜜パンの屋台から白い湯気が立ちのぼっていた。

丸く焼き上げられたパンが山のように積まれ、表面には金色の花粉がきらきらと散らされている。


「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」


店の青年が元気よく声を張り上げる。


「お兄さん、どう? お祭りの味だよ」

「……いい匂いですね」


ルカは思わず立ち止まり、籠を抱えたまま香りに誘われるように近づく。


「だろ? 花蜜をたっぷり練り込んでるんだ。春の限定だよ」

「それじゃあ……ひとつください!」

「毎度あり! はい、どうぞ!」


青年は布巾で手を包みながら、湯気の立つパンを差し出す。


「アツアツだから気をつけてね。火傷するぞ」

「ありがとうございます」


受け取ったパンは手のひらにずっしりと重く、じんわりとした熱が伝わってくる。


「おいしい食べ方、教えてやろうか?」

「え?」

「まずは何もつけずに一口。それから、蜜が溶けてきたところをもう一口だ」


青年は得意げに笑う。


ルカは小さく頷き、言われた通りにかじる。


外側は香ばしくぱりっとしていて、中は驚くほど柔らかい。

噛むほどに花蜜の甘さが広がり、舌の上でとろりと溶けていく。


「……おいしい」


思わず漏れた声に、青年は満足そうに笑った。


「だろ? 祭りの日の定番だからな。毎年これを楽しみにしてる客も多いんだ」

「なんだか……春を食べてるみたいです」

「はは、いいこと言うねえ!」


通りをさらに進むと、紙花を振り回しながら走る子どもたちが目に入る。


「見て見て! ぼくの花、風で飛ぶんだ!」

「ずるい! わたしのも貸して!」


笑い声がはじけ、色とりどりの紙花が空を舞う。


少し先では、犬を連れた老人が立ち話をしていた。


「今年は人出が多いなあ」

「春の巡りがいい年だからだろうよ」


犬が尾を振りながら吠え、周囲の人々がくすくすと笑う。


祭りは華やかで――

人々の笑顔が、まるで花のようにそこかしこに咲いていた


けれど――ルカの胸には、ふとした隙間のような寂しさが浮かんでいた。


周囲では笑い声が弾け、花冠を掲げる子どもたちが駆け回り、恋人同士らしい男女が寄り添って歩いている。

誰もが誰かと並び、同じ景色を分かち合っているのに――自分だけが、その輪の外側に立っているような感覚があった。


「……まあ、一人で行っても、ちゃんと見られないかな」


籠の中をそっと覗き込み、小さく呟く。

スズランの白い花が揺れ、蜜蝋キャンドルの淡い色が目に入る。


祭りはすぐ目の前にある。

音も匂いも光も、すべて手を伸ばせば届く距離にあるのに――胸の奥には、薄い膜のような距離が張りついていた。


その時――


ドンッ。


突然、横から強い衝撃が走った。


「うわっ!?」「おっと、危ねぇ!」


体が大きく揺れ、足元がもつれる。

反射的に籠を抱えようとしたが間に合わず、指先をすり抜けたそれが石畳に落ちた。


ころころ、と乾いた音を立てて中身が散らばる。


赤い果実が転がり、蜜蝋の小瓶が陽を反射して跳ねる。

花束がほどけ、白いスズランの鈴が石の上にぱらぱらと散った。


「す、すみませんっ!」


ぶつかってきたのは酒瓶を抱えた中年の男だった。

顔は真っ赤に染まり、足取りもおぼつかない。酒の匂いがむっと鼻を刺す。


「おう……? ああ、悪い悪い……」


口ではそう言いながらも、視線は既に別の方向を向いている。

そのままふらついた足取りで人混みの中へと紛れていった。


「あ……」


呼び止める間もなく、背中はすぐに見えなくなる。


周囲の人々は一瞬足を止めたものの、すぐに祭りの流れに戻っていった。

誰もが急ぎ足で行き交い、石畳の上には無数の靴音が重なって響いている。


ルカは慌てて膝をついた。


「待って……っ」


転がっていく果実を追い、手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、別の人の靴がすぐ横を通り過ぎ、風圧で果実がまた転がった。


「わっ……!」


蜜蝋の小瓶がつるりと滑り、さらに遠くへ行こうとする。

胸がきゅっと締め付けられる。

必死に追いかけようとするが、人の波が絶えず押し寄せてくる。


「すみません……通してください……」


声は雑踏に飲まれ、ほとんど届かない。

手を伸ばしたその瞬間――


影が差した。


「俺が拾うよ」


低く落ち着いた声が、すぐそばで響いた。


はっとして顔を上げる。


そこには背の高い青年が立っていた。

人の流れの中にありながら、彼だけが不思議と静かな空気をまとっている。


やや長めの前髪が風に揺れ、若葉色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。

その視線には慌てた様子も同情もなく、ただ自然な落ち着きがあった。


彼は迷いなく膝をつくと、転がった果実をひとつひとつ拾い始める。


「ほら、これも」


長い指が素早く動き、蜜蝋の小瓶を軽くつまみ上げる。

転がりそうになっていたそれを、丁寧に籠へ戻した。


「あ、ありがとうございます……っ」


ルカも慌てて拾いながら頭を下げる。

青年は小さく肩をすくめた。


「気にするな。ああいう酔っぱらいは、祭りの日にはよくいる」


苦笑まじりの声は穏やかだった。


「怪我してないか?」

「え……あ、はい。大丈夫です」

「ならよかった」


彼は散らばったスズランの花をそっと拾い集め、崩れないようにまとめ直す。


その仕草は驚くほど丁寧で、まるで壊れやすいものを扱うようだった。


「これ、君のだろ?」


花束を籠へ戻しながら、口元にわずかな笑みを浮かべる。


「ありがとう……助かりました。本当に」


ルカは胸の鼓動を整えながら言う。


「一人で全部拾うの、大変そうだったからな」


青年はそう言い、最後に果実をひとつ手に取ると軽く差し出した。


その時――


指先が、ほんの一瞬触れた。


温もりがじんわりと伝わる。

けれどそれを意識するより早く、彼は自然に手を離した。


青年はゆっくり立ち上がり、籠を差し出す。


「……中身、大丈夫か?」


ルカは小さく頷く。春の陽射しの下、喧噪の只中で、ふたりは初めて向かい合っていた。



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