表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/26

春、二人の始まり

夢の話が終わってから、しばらく誰も言葉を発さなかった。


部屋には、窓から差し込む柔らかな春の光だけが静かに広がっている。

外ではどこかで鳥が鳴いているはずなのに、その声さえ遠く感じられた。


ルカは椅子の端に浅く腰をかけたまま、膝の上に置いた手で服の裾をつまんでいる。

指先が無意識に布を撫でたり、少しだけ引き寄せたりする。


落とした視線の先には床しかない。

だがその瞳は、ただ俯いているわけではなかった。

濃いピンク色の瞳の奥に、まだ夢の余韻が残っている。


ビビッドな色合いのはずなのに、今はどこか柔らかく揺れていた。

まるで遠くの景色を見つめているような、ぼんやりとした光。


きっと、夢の言葉を思い返しているのだろう。


(……天鵞絨の大樹)


 胸の奥で、その名がゆっくりと重さを持つ。


 様々な国がある大陸の中心に立つ象徴。

 春の祭りで花に飾られ、人々が感謝を捧げる存在。


 だが、文献の奥深くには別の記述がある。


 古い記録。

 失われた断片。


 その本には、ときおりこう書かれていた。


――大樹は、呼ぶ。


 それが何を意味するのか、誰も知らない。


 ルドルフは小さく息を吐いた。

 そして、ゆっくりと口を開く。


「なあ、ルカ」


 名前を呼ばれ、ルカが顔を上げた。

 それまで俯いていたせいで、動きはほんの少しだけゆっくりだった。

 視線が上がる途中、迷うように一度だけ瞬きが落ちる。


 濃いピンク色の瞳が、光を受けてわずかに揺れる。


 窓から差し込む柔らかな光がその色を淡く透かし、宝石のような輝きではなく、どこか水面のようなやわらかな揺らぎを作っていた。

 まだ考え事の余韻を残しているのか、焦点は完全には定まっていない。


 それでも数拍遅れて、ようやくルドルフの方をまっすぐ見る。


 表情は大きく変わっていない。

 けれど、先ほどまで胸の内に沈んでいた思考から、ゆっくりとこちらへ戻ってきたような気配があった。


「……その夢」


 ルドルフは少しだけ言葉を選んだ。

 すぐに言葉を続けることはせず、顎に軽く指先を当てる。視線は少しだけ窓の外に向けて、どこか遠くを測るように細められていた。


 やがて、息をひとつ落としてから口を開く。


「確かめに行ってみないか」


 声は静かだったが、ためらいはなかった。

 決めてから言ったのだと分かる調子だった。


 ルカは一瞬、瞬きをする。

 言葉の意味がすぐには掴めなかったのか、わずかに首を傾ける。


「確かめるって……?」


 視線がわずかに揺れ、ルドルフの顔と、その向こうの窓の光を行き来する。

 まだ状況を測りかねているような、不思議そうな色が瞳に浮かんでいた。


「天鵞絨の大樹」

「……えっ?」


 その名前を聞いた途端、ルカの肩がわずかに強張った。

 背筋がほんの少し伸び、指先が膝の上で小さく力を込める。


 濃いピンクの瞳が、はっきりと揺れた。


 夢の中で見た樹。

 光の降る泉。

 桜の花びら。


 胸の奥が、静かに脈を打つ。


「……行け、るんですか」


 ルカは少し身を乗り出すようにして尋ねた。

 膝の上に置いていた手がわずかに動き、指先がそっと握られる。

 濃いピンクの瞳がまっすぐにルドルフへ向けられ、その奥には驚きと、わずかな期待が揺れていた。


「遠いけどさ、国々の中心にあるだろ」


 ルドルフは肩をすくめる。

 気負いのない仕草だったが、その動きはどこか考えを整理するようでもあった。


「天鵞絨の大樹がある森の浅瀬には、誰でも近くまで行けるしな」


 そう言いながらも、視線は少し遠くを見ていた。

 窓の外の光をぼんやりと追いながら、頭の中では地図や旅程を思い浮かべているようだった。


「本当に夢と同じかどうかは分からないけどさ」


 軽い調子の言葉。

 けれど声の奥には、確かな興味が滲んでいる。


 ルドルフは今現在、小説家見習い。将来は小説家だ。


 伝承や記録、噂話。

 そういうものを集めては手帳に書き留めている。

 けれど今回は、それだけではない。


 視線がふとルカに戻る。


 まだ幼さの残る横顔。

 頬の線はやわらかく、指先もどこか落ち着かない様子で服の裾をつまんでいる。

 けれど瞳の奥には、夢を信じるまっすぐな光がある。

 濃いピンクの瞳。

 光を受けるたびに、内側から灯るように鮮やかさが増す色。


 その色が、迷いながらも消えていない。


(放っておけないんだよな)


 理由は、うまく言葉にならない。

 ただ、そう思った。


 ルカは黙っていた。


 膝の上で指先がそっと組まれ、またほどける。

 考え込むように視線が落ちる。


 天鵞絨の大樹。

 夢の声。


『恐れるな』


 その言葉が胸の奥で静かに響く。


 怖くないわけではない。

 むしろ少し怖い。


 夢が本当に何か意味を持っていたなら。

 もし呼ばれていたのだとしたら。


 その先に何があるのか、分からない。


 けれど。


 ルカはゆっくり顔を上げた。

 濃いピンクの瞳が、迷いを抱えたまま、それでもまっすぐ前を向く。


「……行きたい、です」


 ぽつりと、ルカは言った。


 小さな声だったが、はっきりしていた。


 ルドルフの眉がわずかに上がる。

 意外そうな表情が一瞬だけ浮かぶ。


「本当に?」

「はい」


 ルカは小さく頷いた。

 その動きは控えめだったが、ためらいはなかった。


「確かめたいです。自分自身の目で」


 夢だったのか。

 本当に呼ばれたのか。


 それを。


 ルドルフはしばらくルカを見つめていた。

 濃いピンクの瞳に宿る迷いと、それでも消えない決意の光を確かめるように。

 腕を組んだまま、指先がゆっくりと力を緩めていく。

 そして、ふっと息を吐く。

 胸の奥に溜めていた何かを、静かに外へ逃がすように。


「じゃあ、俺のお願い事を聞いてくれるか?」


 少しだけ肩の力を抜いた声音だった。

 軽く言ったつもりの言葉だが、視線はどこか真剣だ。


「お願い事ですか、俺に?」


 ルカが首をかしげる。

 小さく傾いたその仕草に合わせて、柔らかな髪がわずかに揺れた。

 濃いピンクの瞳が丸くなり、戸惑いと不思議そうな色が入り混じる。


「あぁ、そうだ」


 ルドルフは短く頷く。

 一度だけ視線を窓の外へ逃がし、それからまたルカへ戻した。


「一緒に、ファミリアを作らないか」


 その言葉に、ルカは目を丸くした。

 まばたきが一度、二度。


 言葉の意味を確かめるように、視線が揺れる。

 驚きがそのまま表情に浮かび、指先がわずかに強く握られた。


 ルカはすぐには答えられなかった。


 視線がわずかに揺れ、もう一度ルドルフの顔を見て、それから自分の手元へ落ちる。

 膝の上で組まれていた指が、ゆっくりほどけた。


「ファミリアって……その、旅の……?」


 言葉を探すように、ルカはゆっくり尋ねる。

 声は小さいが、拒む色はなかった。


「そう」


 ルドルフは頷く。


「正式なやつ。互いに助け合って行こうってやつな」


 軽く言ったが、その視線は真っ直ぐだった。


「旅ってのは、ひとりだと何かと面倒なんだよ。 情報も、食料も、寝る場所もな」


 肩をすくめてみせる。


「それに――」


 そこで言葉を少しだけ切る。

 視線が一瞬、ルカの瞳に触れた。


「夢のこともある」


 静かな声だった。


「もし本当に呼ばれてるなら、ひとりで行くより二人のほうがずっといい」


 断定ではない。

 けれど、どこか守るような響きがあった。


 ルカはその言葉を黙って聞いていた。


 濃いピンクの瞳が、少しだけ揺れる。

 胸の奥で、小さく何かが動いた気がした。


「……ルドルフさんは」


 ルカはそっと言う。


「それで、いいんですか」


 まるで確認するような問いだった。

 ルドルフは一瞬きょとんとして、それから小さく笑う。


「なんだよ。俺が言い出したんだろ」


 軽い調子で言いながら、もう一度肩をすくめた。


「まあ、小説のネタにもなりそうだしな」


 冗談めかした声。

 けれどその目は、さっきと同じように真剣だった。


「それに――」


 今度は少しだけ照れたように視線を外す。


「お前、放っとくと危なっかしい気がする」


 ルカは一瞬ぽかんとして、

 それから小さく息をこぼした。

 笑ったのかもしれない。

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。


「本当に作るんですか? 俺とルドルフさんで?」


 信じられない、というよりも、確かめるような声だった。

 濃いピンクの瞳がまっすぐルドルフを見る。


「そうだ」


 ルドルフは迷いなく答える。

 口元には、ほんのわずかな笑み。


「俺とルカで」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ