春、二人の始まり
夢の話が終わってから、しばらく誰も言葉を発さなかった。
部屋には、窓から差し込む柔らかな春の光だけが静かに広がっている。
外ではどこかで鳥が鳴いているはずなのに、その声さえ遠く感じられた。
ルカは椅子の端に浅く腰をかけたまま、膝の上に置いた手で服の裾をつまんでいる。
指先が無意識に布を撫でたり、少しだけ引き寄せたりする。
落とした視線の先には床しかない。
だがその瞳は、ただ俯いているわけではなかった。
濃いピンク色の瞳の奥に、まだ夢の余韻が残っている。
ビビッドな色合いのはずなのに、今はどこか柔らかく揺れていた。
まるで遠くの景色を見つめているような、ぼんやりとした光。
きっと、夢の言葉を思い返しているのだろう。
(……天鵞絨の大樹)
胸の奥で、その名がゆっくりと重さを持つ。
様々な国がある大陸の中心に立つ象徴。
春の祭りで花に飾られ、人々が感謝を捧げる存在。
だが、文献の奥深くには別の記述がある。
古い記録。
失われた断片。
その本には、ときおりこう書かれていた。
――大樹は、呼ぶ。
それが何を意味するのか、誰も知らない。
ルドルフは小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「なあ、ルカ」
名前を呼ばれ、ルカが顔を上げた。
それまで俯いていたせいで、動きはほんの少しだけゆっくりだった。
視線が上がる途中、迷うように一度だけ瞬きが落ちる。
濃いピンク色の瞳が、光を受けてわずかに揺れる。
窓から差し込む柔らかな光がその色を淡く透かし、宝石のような輝きではなく、どこか水面のようなやわらかな揺らぎを作っていた。
まだ考え事の余韻を残しているのか、焦点は完全には定まっていない。
それでも数拍遅れて、ようやくルドルフの方をまっすぐ見る。
表情は大きく変わっていない。
けれど、先ほどまで胸の内に沈んでいた思考から、ゆっくりとこちらへ戻ってきたような気配があった。
「……その夢」
ルドルフは少しだけ言葉を選んだ。
すぐに言葉を続けることはせず、顎に軽く指先を当てる。視線は少しだけ窓の外に向けて、どこか遠くを測るように細められていた。
やがて、息をひとつ落としてから口を開く。
「確かめに行ってみないか」
声は静かだったが、ためらいはなかった。
決めてから言ったのだと分かる調子だった。
ルカは一瞬、瞬きをする。
言葉の意味がすぐには掴めなかったのか、わずかに首を傾ける。
「確かめるって……?」
視線がわずかに揺れ、ルドルフの顔と、その向こうの窓の光を行き来する。
まだ状況を測りかねているような、不思議そうな色が瞳に浮かんでいた。
「天鵞絨の大樹」
「……えっ?」
その名前を聞いた途端、ルカの肩がわずかに強張った。
背筋がほんの少し伸び、指先が膝の上で小さく力を込める。
濃いピンクの瞳が、はっきりと揺れた。
夢の中で見た樹。
光の降る泉。
桜の花びら。
胸の奥が、静かに脈を打つ。
「……行け、るんですか」
ルカは少し身を乗り出すようにして尋ねた。
膝の上に置いていた手がわずかに動き、指先がそっと握られる。
濃いピンクの瞳がまっすぐにルドルフへ向けられ、その奥には驚きと、わずかな期待が揺れていた。
「遠いけどさ、国々の中心にあるだろ」
ルドルフは肩をすくめる。
気負いのない仕草だったが、その動きはどこか考えを整理するようでもあった。
「天鵞絨の大樹がある森の浅瀬には、誰でも近くまで行けるしな」
そう言いながらも、視線は少し遠くを見ていた。
窓の外の光をぼんやりと追いながら、頭の中では地図や旅程を思い浮かべているようだった。
「本当に夢と同じかどうかは分からないけどさ」
軽い調子の言葉。
けれど声の奥には、確かな興味が滲んでいる。
ルドルフは今現在、小説家見習い。将来は小説家だ。
伝承や記録、噂話。
そういうものを集めては手帳に書き留めている。
けれど今回は、それだけではない。
視線がふとルカに戻る。
まだ幼さの残る横顔。
頬の線はやわらかく、指先もどこか落ち着かない様子で服の裾をつまんでいる。
けれど瞳の奥には、夢を信じるまっすぐな光がある。
濃いピンクの瞳。
光を受けるたびに、内側から灯るように鮮やかさが増す色。
その色が、迷いながらも消えていない。
(放っておけないんだよな)
理由は、うまく言葉にならない。
ただ、そう思った。
ルカは黙っていた。
膝の上で指先がそっと組まれ、またほどける。
考え込むように視線が落ちる。
天鵞絨の大樹。
夢の声。
『恐れるな』
その言葉が胸の奥で静かに響く。
怖くないわけではない。
むしろ少し怖い。
夢が本当に何か意味を持っていたなら。
もし呼ばれていたのだとしたら。
その先に何があるのか、分からない。
けれど。
ルカはゆっくり顔を上げた。
濃いピンクの瞳が、迷いを抱えたまま、それでもまっすぐ前を向く。
「……行きたい、です」
ぽつりと、ルカは言った。
小さな声だったが、はっきりしていた。
ルドルフの眉がわずかに上がる。
意外そうな表情が一瞬だけ浮かぶ。
「本当に?」
「はい」
ルカは小さく頷いた。
その動きは控えめだったが、ためらいはなかった。
「確かめたいです。自分自身の目で」
夢だったのか。
本当に呼ばれたのか。
それを。
ルドルフはしばらくルカを見つめていた。
濃いピンクの瞳に宿る迷いと、それでも消えない決意の光を確かめるように。
腕を組んだまま、指先がゆっくりと力を緩めていく。
そして、ふっと息を吐く。
胸の奥に溜めていた何かを、静かに外へ逃がすように。
「じゃあ、俺のお願い事を聞いてくれるか?」
少しだけ肩の力を抜いた声音だった。
軽く言ったつもりの言葉だが、視線はどこか真剣だ。
「お願い事ですか、俺に?」
ルカが首をかしげる。
小さく傾いたその仕草に合わせて、柔らかな髪がわずかに揺れた。
濃いピンクの瞳が丸くなり、戸惑いと不思議そうな色が入り混じる。
「あぁ、そうだ」
ルドルフは短く頷く。
一度だけ視線を窓の外へ逃がし、それからまたルカへ戻した。
「一緒に、ファミリアを作らないか」
その言葉に、ルカは目を丸くした。
まばたきが一度、二度。
言葉の意味を確かめるように、視線が揺れる。
驚きがそのまま表情に浮かび、指先がわずかに強く握られた。
ルカはすぐには答えられなかった。
視線がわずかに揺れ、もう一度ルドルフの顔を見て、それから自分の手元へ落ちる。
膝の上で組まれていた指が、ゆっくりほどけた。
「ファミリアって……その、旅の……?」
言葉を探すように、ルカはゆっくり尋ねる。
声は小さいが、拒む色はなかった。
「そう」
ルドルフは頷く。
「正式なやつ。互いに助け合って行こうってやつな」
軽く言ったが、その視線は真っ直ぐだった。
「旅ってのは、ひとりだと何かと面倒なんだよ。 情報も、食料も、寝る場所もな」
肩をすくめてみせる。
「それに――」
そこで言葉を少しだけ切る。
視線が一瞬、ルカの瞳に触れた。
「夢のこともある」
静かな声だった。
「もし本当に呼ばれてるなら、ひとりで行くより二人のほうがずっといい」
断定ではない。
けれど、どこか守るような響きがあった。
ルカはその言葉を黙って聞いていた。
濃いピンクの瞳が、少しだけ揺れる。
胸の奥で、小さく何かが動いた気がした。
「……ルドルフさんは」
ルカはそっと言う。
「それで、いいんですか」
まるで確認するような問いだった。
ルドルフは一瞬きょとんとして、それから小さく笑う。
「なんだよ。俺が言い出したんだろ」
軽い調子で言いながら、もう一度肩をすくめた。
「まあ、小説のネタにもなりそうだしな」
冗談めかした声。
けれどその目は、さっきと同じように真剣だった。
「それに――」
今度は少しだけ照れたように視線を外す。
「お前、放っとくと危なっかしい気がする」
ルカは一瞬ぽかんとして、
それから小さく息をこぼした。
笑ったのかもしれない。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けていた。
「本当に作るんですか? 俺とルドルフさんで?」
信じられない、というよりも、確かめるような声だった。
濃いピンクの瞳がまっすぐルドルフを見る。
「そうだ」
ルドルフは迷いなく答える。
口元には、ほんのわずかな笑み。
「俺とルカで」




