関係未満の三日目
窓の外では、淡い花びらが陽射しを受けてゆっくりと舞っていた。
昼の光は真上からまっすぐ降り、庭の若葉をやわらかく透かしている。影は短く、空は高く、青い。
ここは町から少し離れた家だ。
人の声も、荷車の軋みも届かない。
ただ、風が枝を揺らすかすかな音と、どこか遠くで鳥が鳴く気配だけが、静かに溶けている。
ルドルフが、不意に口を開く。
「おととい話してくれた夢の話」
ルカの指先が止まる。
「あれってさ。天鵞絨の大樹のことだろ」
声は低く、決めつけるでもなく、ただ確かめるように。
ルカはすぐには答えられなかった。
胸の奥で、何かがそっと揺れる。
あの夜も、こんなふうに静かだった。
―――――――――――――――
『夢を……よく見るんです。夜ごとじゃないけれど、すごくはっきりしていて、忘れられないを』
『夢?』
『はい……そこには、大きな樹があって。幹は深い緑で、枝には天鵞絨みたいな布が垂れ下がっていて、光を受けると赤や紫に揺れるんです。泉の真ん中に立っていて、花びらみたいな光がずっと降り注いでいる……』
『その樹の下に立つと、不思議と心が満たされるんです。怖いことも、寂しいことも、全部消えて……ただ、静かで、暖かいんです』
あのとき、ルドルフは一瞬、息をのんだ。
(……これは、あの“天鵞絨の大樹”のことかもしれない……いや、でも今言うべきじゃない)
喉まで出かかった言葉を、飲み込こんだ。
今ここで名を与えてしまえば、ただの夢ではなくなる。
決定的な意味を持ってしまう。
―――――――――――――――
だから、あの夜は何も言わなかった。
ルカは視線を落とす。
窓から差し込む光が、床に淡く揺れている。
その明るさが、なぜか少しだけ眩しかった。
否定しようと思えばできた。
ただの夢だと笑ってしまえば、きっとそれで済む。
天鵞絨の大樹だなんて、自分の思い込みだと言ってしまえばいい。
けれど――それは、嘘になる。
胸の奥に残っている温度は、作りものではない。
あの声の響きも、あの光も、確かに自分の中にある。
唇がわずかに動く。
言葉を探して、止まる。
ルドルフの前で、どう言えばいいのか分からない
指先が、無意識に服の裾をつまむ。
ほんの少しだけ、力が入る。
「……たぶん」
小さな声だった。
断言はできない。
けれど否定もしない。
その曖昧さの中に、ルカ自身の戸惑いが滲む。
「言葉は、少しだけど覚えてます。」
今度は、少しだけ顔を上げる。
濃いピンクの瞳が、ためらいを含みながらもルドルフを見る。
揺れているが、逃げてはいない。
確かめるように。
拒まれないことを、どこかで願うように。
ルドルフは何も言わない。ただ、続きを待つ。
急かさない。
否定もしない。
その静けさに背中を押されるように、ルカはそっと息を吸い、目を閉じた。霧の向こうに、あの光景がよみがえる。
夢の声は長く続いていたはずなのに、
はっきりと思い出せる言葉は、ほんのわずかだ。
『聞け、愛しき春の子よ』
やわらかな呼びかけ。
そして、胸が揺れたときに重なる声。
『恐れるな』
それだけは、確かに。
けれど他にも、何か大切なことを告げられた気がする。
断片のように浮かぶ言葉が、胸の奥でひそやかに響く。
『絆は離れても絶えず、時を超えて心を結ぶ』
そして――
『やがてその絆が集うとき、閉ざされた道は開かれ、影は退けられるだろう』
意味までは掴めない。
けれど、あたたかな光とともに、その響きだけが残っている。
最後に残るのは、静かな約束。
『我は見守る。常に、お前の歩みを』
それだけは、目が覚めても消えない。
部屋の空気が、しんと張る。
ルドルフは腕を組み、ゆっくり息を吐いた。
「……春の子、か」
その呼び名が、現実味を帯びる。
彼の頭の中では、別の言葉が引っかかっていた。
(時を超えて、だと……?)
絆が集うとき集うとき
閉ざされた道が開かれる
慰めにしては、あまりに具体的だ。
預言の形式に似ている。
だが古い文献で見たそれよりも、ずっと穏やかで、ずっと確信に満ちていた。
ルドルフは何も言わず、続きを促すように顎を引く。
「場所も、覚えてます」
ルカは続ける。
「地面が、光ってたんです。踏むと、水面みたいに波紋が広がって」
足元から淡い輝きが広がり、霧へと溶けていく。
「桜が、たくさん咲いてました。散っても、散っても、地面に触れる前に光になって消えて」
風は優しいのに、空は見えない。
静かなのに、どこかで脈打つ音がする。
「真ん中に、樹がありました」
その瞬間、ルドルフの視線がわずかに鋭くなる。
「大きくて……幹は深紅から紫紺に変わっていて、光の筋が走ってました。ゆっくり、鼓動みたいに」
「水は?」
「あります。澄んでるのに底が見えなくて、下から光が滲んでました」
枝は霧を突き抜け、どこまでも伸びている。
触れていないのに、近く感じたという。
ルドルフはしばらく黙り込む。
町の中心に立つ象徴。春の祭りで飾られ、人々に感謝される存在。
だがルカの語るそれは、装飾された姿ではない。
もっと静かで、もっと巨大で、————神聖な存在
「……間違いないな」
低く呟く。
「天鵞絨の大樹だ」
口にした瞬間、胸の奥で先ほどの言葉が再び軋む。
(絆が集うとき、道が開く……)
天鵞絨の大樹にまつわる伝承は数多く存在する。
だがそれは、失われた記録に存在といわれている。
偶然にしては、重なりすぎている。
ルドルフは視線を伏せる。
今はまだ結論を出すべきではない。断片だけで形を決めれば、余計な影を落とすことになる。
思考をそこで止め、ゆっくり顔を上げる。
ルカは不安よりも、どこか静かな期待を抱いているように見えた。
不安がないわけではない。
指先は無意識に服の裾をつまみ、わずかに力が入っている。
けれど、その瞳は揺れていなかった。
濃いピンク色の瞳。
花弁を透かした光のような淡さではなく、もっと深い、芯のある色。
ビビットな輝きを宿しながらも、どこか静謐だ。
光を受けるたび、内側から灯るように鮮やかさが増す。
春の花の色というより、春そのものを閉じ込めたような色だった。
夢の話をするあいだ、その瞳は遠くを見ているのではなく、確かに“今ここ”を見ている。
逃げていない。
確かめるように、まっすぐに。
その色は幼さを感じさせるはずなのに、不思議と弱さはない。
奥底に、揺るがぬものがある。
それは信頼か、使命か、それともただの無垢か。
判別はつかない。
だが、曇ってはいない。
その表情を見て、ルドルフはわずかに口元を緩める。
(……綺麗な目をしているな)
と、無意識に思う。
純粋、だが空ではない。
深い色を持ちながら、濁りがない。
それが、少しだけ眩しかった。
もし“呼ばれた”のだとしたら――
あの大樹が求めたのは、きっとこの色だ。
疑いよりも先に信じることができる、
まっすぐで、温度を失わない光。春の色。
同時に、あの言葉がもう一度浮かぶ。
『やがてその絆が集うとき――』
集う、とは誰のことだ?
閉ざされた道とは、どの道だ?
思考は広がりかける。
だが目の前にいるのは、未来の象徴ではなく、一人の少年、ルカだ。
揺れやすい年頃の、まだ体温の高い、ひとりの子ども。
ルドルフはゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に溜まりかけていたざらつきを、息と一緒に外へ押し出すように。
視線を一瞬だけ逸らし、それから戻す。
余計な思考を、そこで断ち切る。
口元だけを、ほんのわずかに緩めた。
形だけの笑みではない。だが、心の奥まで届くものでもない。
安心させるために選び取った、静かな表情。
「呼ばれたんだろうな」
穏やかな声音だった。
低く、落ち着いていている声。
その言葉に、ルカの肩がほんの少し下がる。
自分では気づいていなかった力が、抜け落ちるように。
「……やっぱり、そう思いますか」
安堵が混じる声。
期待と不安が半分ずつ溶けた、曖昧な響き。
ルドルフは頷く。
動きは小さい。だが迷いは見せない。
それ以上は言わない。
だが腕を組む指先だけが、わずかに強く食い込んでいる。
爪が布越しに触れ、鈍い圧を伝える。
ほんの少しだけ、白くなる指先。
(もし本当に呼ばれたのなら)
胸の奥が、ひやりとする。
祝福か。
それとも、選定か。
選ばれることは、必ずしも優しい意味を持たない。
ルカの横顔を見つめる。
まだ幼さの残る頬。
無防備なまなざし。
今はただ、目の前にいる少年だ。
考えかけて、止める。
それ以上は踏み込まない。
ルドルフは、もう一度だけゆっくり息を整えた。
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