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天鵞絨の鼓動と花露〜運命の歯車が巡る時〜  作者: さくらもち
目覚めの季節、旅立ちの花
16/21

ご飯食べてなくて、腹ペコです。2

窓から差し込む柔らかな日差しが、床に淡い四角形の光を落としていた。

その中に立つようにして、ルドルフは袖をぐっと肘までまくり上げる。

普段は文字を書く手が、今は不思議なほど穏やかな動きをしていた。


指先は大きく、節ばっている。

紙の上を走るときは迷いなく速く、力強い筆致を生むその手が――今はまるで別人のもののように、静かで丁寧だった。

台所の簡素な流し台の前で、彼は腕を組み、しばらく真剣な顔で棚や箱の中身を見渡す。


「じゃあ、何を作ろうかな」


独り言のように呟きながら振り返る。


「ルカは何が好き?」


突然の問いに、ルカは少しだけ目を瞬かせた。

考えるまでもないはずなのに、なぜか答えるのが少し恥ずかしい気がする。


「えっと……」


視線が、自然と窓辺へ向いた。


赤く艶のある林檎。

その隣に揺れる白いスズラン。


小さく息を吸い、控えめに答える。


「……アップルパイが好きです」


その言葉を聞いた瞬間、ルドルフの眉がぴくりと動いた。


「……ほう」


少しだけ意外そうな声。

そして次の瞬間、口元ににやりとした笑みが浮かぶ。


「いいじゃないか。ちょうど材料は揃ってる。それにこれ、俺たちが初めて会った時のリンゴか?」

「えへへ…そうなんです。」


彼は窓辺へ歩み寄り、林檎をひとつ手に取った。

指先で軽く重みを確かめ、満足そうに頷く。


「熟してる。甘い匂いがするな」


林檎の表面を布で丁寧に拭きながら、ふっと横目でルカを見る。


「母親の味か?」


その問いに、ルカは一瞬だけ動きを止めた。

胸の奥に、懐かしい温度がそっと灯る。


「……はい」


静かに頷く。


「母さんが、よく焼いてくれました。

畑の帰りに林檎をもらってきて……“焼いてる間の匂いが一番おいしいんだよ”って、笑ってて」


思い出すように目を細めるルカの表情は、どこか幼く、柔らかかった。


ルドルフはその様子を黙って見ていたが、やがて軽く肩をすくめる。


「よし、決まりだな」


鍋や包丁を取り出しながら、わざと少しだけ大げさに言う。


「本日のお礼料理は――アップルパイだ」


「えっ、本当に作れるんですか?」


ルカの声が思わず弾む。


「失礼だな。こう見えて旅人生活は長いんだぞ」


木箱から粉の袋を取り出しながら、得意げに鼻を鳴らす。


「見た目は多少荒くても、味は保証する」

「さっきも同じこと言ってましたよね、それ……」


ルカはくすっと笑う。


その笑い声は、小さく、でも確かに家の中に温かさを広げていった。


ルドルフは包丁を手に取り、林檎をまな板に置く。


刃が果皮に触れた瞬間、しゃく、と軽やかな音が響いた。

切り口から、甘く瑞々しい香りがふわりと立ち上る。


その匂いは、戦いの残り香をゆっくりと押し流すように、静かに室内へ満ちていった。


ルカはその様子を、少し離れた椅子に腰掛けて眺めている。


包丁の規則的な音。

粉を量る静かな手つき。

差し込む昼の光。


それらはどれも小さく、ささやかなものだったのに――

不思議と、家の中を満たす空気は深く、やわらかく感じられた。


林檎を刻むたび、しゃく、しゃく、と軽やかな音が続く。

刃が果肉を滑る感触は心地よく、切り口からは甘い香りが次々にほどけていく。

その匂いは、まるで温もりそのもののように、ゆっくりと部屋へ広がっていった。


粉をふるうと、さらさらと細かな粒が光の中に舞う。

窓から差し込む日差しを受けて、それは淡い金色の霧のように輝いた。

一瞬だけ空中に浮かび、やがて静かに器の中へ降り積もっていく。


ルドルフの動きは、驚くほど丁寧だった。

力任せでも、荒々しくもない。

ひとつひとつの所作が落ち着いていて、どこか慣れた職人のような静けさがある。


粉を混ぜる手つき。

生地をこねる掌の動き。

そのすべてが、無駄なく、確かなリズムを持っていた。


時折、外から風が吹き込む。

吊るされた薬草がかさりと揺れ、乾いた葉が触れ合う音がかすかに鳴る。

その音は、まるで遠い森のささやきのようだった。


椅子に座ったルカは、その光景をぼんやりと見つめていた。


戦いの最中に感じていた張り詰めた空気は、もうどこにもない。

胸の奥に残っていた重たいものも、少しずつ溶けていく。


代わりに、じんわりとした温かさが広がっていた。


(……静かだな)


そう思う。


けれどそれは、何もない空虚な静けさではない。

音はちゃんとある。

匂いもある。

光もある。


すべてが、やさしく重なり合って――

“生きている時間”として、そこに満ちていた。


ルカは小さく息を吸う。

林檎の甘い匂いと、粉の素朴な香りが胸いっぱいに広がる。


その瞬間。


ふっと、遠い記憶がよみがえった。


同じように差し込む朝の光。

同じように響く包丁の音。

同じように漂う焼き菓子の匂い。


母の背中が、ほんの一瞬、ルドルフの姿と重なった。


胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

けれどそれは、痛みではなく――


懐かしさと、安堵が混ざった、やわらかな感触だった。


ルカはそっと目を閉じる。


包丁の音が、規則正しく続く。

粉を混ぜる音が、静かに重なる。

窓の外では、風に揺れる草のざわめきが遠く聞こえる。

それらすべてが、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。


戦いの緊張も、不安も、まだ完全には消えていない。

けれど――


林檎を刻む音と、穏やかな背中を見ていると。

確かにここにあるのは、“日常”だった。

ルカは小さく息を吐き、椅子の背にもたれた。


そして、ほんの少しだけ目を閉じる。


台所から聞こえる包丁のリズムは、まるで子守歌のように、静かに心をほどいていった。

やがて――

包丁の音が、ふっと止んだ。


静けさが一瞬だけ、部屋に広がる。


それは決して途切れた空気ではなく、

次の何かが始まる前の、やわらかな“間”のようだった。


ルカはうっすらと目を開ける。


台所では、ルドルフが刻み終えた林檎を鍋に移していた。

白い砂糖を静かに振り入れ、木べらでゆっくりとかき混ぜる。


ほどなくして、甘い香りがさらに濃くなった。


温められた林檎の匂いは、生のときよりもやさしく、

どこか包み込むような丸みを帯びている。


しゃく、しゃく、という軽やかな音の代わりに、

とろりとした果肉が鍋の中でやわらかく崩れる、

小さな水音が聞こえ始めた。


ときおり、ふつ、と泡がはじける。


その音さえ、静かな部屋ではよく響いた。


ルドルフは鍋の様子を確かめながら、

ふと肩越しに振り返る。


ルカが目を開けているのに気づくと、

ほんのわずかに口元をゆるめた。


「もう少しだ。いい匂いだろう?」


声はいつも通り落ち着いているのに、

どこか少しだけ、やわらかい。


ルカは小さくうなずいた。


「……はい、あったかい匂いです。」


自分でも不思議なくらい、

その言葉はすんなりと口から出た。


“甘い”でも、“おいしそう”でもなく、

思い浮かんだのはただ、その感覚だった。


あたたかい。


それは、鼻で感じる匂いというより、

胸の奥に広がる感触に近かった。


ルドルフは一瞬だけ目を細める。


何かを言いかけて、やめる。


代わりに、静かに鍋を火から下ろした。


木べらを置くと、

今度は生地を広げ始める。


台の上に置かれた白い塊が、

手のひらで押され、伸ばされ、形を変えていく。


その動きは相変わらず穏やかで、

どこか呼吸と同じリズムを持っていた。


外から風が入り、

吊るされた干し草がかさりと揺れる。


光の四角形の中で、粉の粒がふわりと舞った。


ルカはそれをぼんやり見つめながら思う。


――さっきまで、あんなに張り詰めていたのに。

まるで遠い夢のように感じられる。


ここにあるのは、

ただの台所の音と匂いと光。


それだけなのに。


胸の奥は、驚くほど静かだった。


ルドルフが型に生地を敷き、

煮詰めた林檎をそっと流し込む。


とろり、と甘い香りがまた広がった。


その瞬間――


ルカの腹が、ぐぅぅぅ、と小さく鳴った。


静かな部屋では、思いのほかよく響く。


ルカははっとして固まり、

次の瞬間、顔を真っ赤にした。


ルドルフは一拍だけ黙り、

そして、くすりと笑った。


声を立てるほどではない、

ほんの短い、やさしい笑い。


「……ちょうどいい。焼き上がる頃には、もっと空くだろう。」


その言葉には、

からかいではなく、どこか安心させる響きがあった。


ルカは照れたまま、でも少しだけ笑う。


さっきまで胸にあった重さは、

もうほとんど感じられなかった。


窓の外では、風が草を揺らしている。


台所では、オーブンに入れられたパイが、

静かに熱を受け始めていた。


やがて、焼ける匂いが

ゆっくりと、この小さな家を満たしていくことになる。


その時間を待つあいだ――


ふたりのあいだには、

言葉がなくても心地よい静けさが、

やわらかく流れていた。

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