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天鵞絨の鼓動と花露〜運命の歯車が巡る時〜  作者: さくらもち
目覚めの季節、旅立ちの花
14/22

花が降った朝

 朝の光が、畑をやさしく照らしていた。

夜明けとともに差し込む陽射しは、まるで大地を撫でるように、昨夜まで地を覆っていた瘴気の残滓を少しずつ押し流していく。


黒紫に淀んでいた空気は、光に触れるたびかすかに揺らぎ、溶けるようにほどけていった。


湿った土の匂いが鼻を刺す。

踏み荒らされた畑の畝は崩れ、折れた若芽が泥に貼りついたまま、まだ青い汁を滲ませていた。


ところどころに残る黒紫の染み――

それは確かにここで“何か”が起きた証だった。


だが、その色もすでに力を失いつつある。

朝露を含んだ土に溶け込み、輪郭を曖昧にしながら、静かに消えていこうとしていた。


耳を澄ますと、世界が息を取り戻しているのが分かる。


遠くで鳴く鳥の声。

怯えながらも戻ってきた家畜の低い鳴き声。 

町の人々のひそひそ、こそこそ、ワイワイとした話し声。

風に揺れる木々の葉擦れが、かすかなざわめきを運んでくる。



 ルカは立ったまま、ゆっくりと息を整えた。

 全身が鉛を詰め込まれたように重い。腕を上げるだけで、筋の奥がじんと痛む。足先に力を込めると、わずかに震えが走った。


花の力を自分の意思で使ったのは――あれが初めてだった。


掌に宿った淡い光は、思っていたよりも温かく、けれど同時に恐ろしいほど脆く感じられた。

触れれば壊れてしまいそうなのに、その輝きは確かに、力を秘めていた。


そして――初めて、誰かのために戦った。


自分を守るためでも、逃げるためでもない。

ただ、目の前で震えていた声を出すルドルフを傷つけさせたくないと、大事な街の人たちを守りたい意図そう思ったからだ。


胸の奥で何かが軋んだ。

怖かった。手は震えていた。

 胸の奥に、温かく、確かな感触が残っている。

 恐怖はない。ただ、深い疲労と、静かな余韻だけがあった。


(……終わった、んだよな)


 視線を巡らせると、少し離れた場所でルドルフが立っていた。

 腕を組み、街の方角を見張るように眺めている。その背中は、いつもより静かで、余計な力が抜けているように見えた。


「……ルドルフさん」

「ルカ」


 振り返った彼は、ほっとしたように小さく息を吐く。


「無理はするなよ」

「はい……でも、街の様子を見に行ってもいいですか?」


 ルドルフは一瞬だけ迷い、それから小さく頷いた。


「なら、ゆっくり歩いて行こう」


 二人は並んで、街へ向かって歩き出した。


 道の途中には、昨夜の痕跡がまだ生々しく残っている。

 倒れた柵。半壊した納屋。壁に残る、呪傷に侵された黒い跡。


 ルカはそれらを見るたびに、無意識に歩幅を狭めていた。


「……全部、助けられたわけじゃないんだ…」


 ぽつりと漏れた声に、ルドルフはすぐには答えなかった。

 代わりに、壊れかけた家の前で立ち止まり、軒先に絡まった花弁を見上げる。


「それでも、立ってる」

「……え?」

「壊れても、人は立て直す。街も同じだ」


 短い言葉だったが、不思議と胸に残った。

 ルカは黙ったまま、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。



町に入ると、街に入ると、朝の営みがすでに始まっていた。

 倒れた柵を起こす農夫。割れた窓を板で塞ぐ青年。

 呪傷の跡が残る腕を庇いながら炉を整える鍛冶屋。

 家の前を丁寧に掃き清める老女。


その光景を見ながら、ゆっくりと街路を進んだ。


石畳にはまだ黒い染みが残り、ところどころに砕けた瓦礫が転がっている。

それでも、人々は足を止めない。俯きもしない。


誰もが、黙々と――だが確かに前を向いて動いていた。


「おい、そっち押さえろ! また倒れるぞ!」


通りの向こうから、明るい声が飛んできた。


振り向くと、農夫たちが倒れた柵を立て直している。

縄を引きながら、ひとりが笑った。


「ったく、昨日はもう終わりだと思ったぜ」

「バカ言え。お前、あの時腰抜かしてただろ」

「抜かしてねえ! ちょっと足が動かなかっただけだ!」


周りから、どっと笑いが起きる。


その笑いは、どこかぎこちなくて、けれど温かかった。

恐怖の残り火を、無理やり踏み消すような笑い方だった。


少し先では、窓を修理していた青年が釘を打つ手を止め、隣の家に声をかけていた。


「おばちゃん! 水桶借りるぞー!」

「好きに使いな! その代わり、後でパン運ぶの手伝いなさいよ!」

「うわ、ちゃっかりしてるな!」


また笑いが起こる。


鍛冶屋の前では、炉に火が入った瞬間、誰かが声を上げた。


「おお、火が戻ったぞ!」

「よし、これで道具はすぐ直せるな!」


火の赤い光が、人々の顔を照らす。

そこに浮かぶ表情は、疲れきっているのに――確かに、生きていた。



 疲労は色濃く残っている。

 それでも、誰の顔にも、昨夜の絶望はなかった。


 そして――視線。


ざわめきの中で、空気の流れが変わったのを、ルカははっきりと感じた。

人々の動きがわずかに鈍り、言葉が途切れ、気配だけが静かにこちらへ向かってくる。


次第に、街のあちこちから集まった視線が、ひとつの点へ収束していった。


――ルカの方へ。


「あの子……」

「昨夜の……花を……」


ひそひそとした声が、朝の風に混じって届く。

そこにあるのは恐れではない。だが、単純な安堵とも違う。


戸惑い。

信じたい気持ち。

そして――確かめるような、慎重な眼差し。


その重さに耐えきれず、ルカは思わずルドルフの袖を掴んだ。


「……見られて、ますね。」


指先がわずかに震えている。

自分でも気づかぬうちに、力が強く入っていた。


「そりゃそうだ。シェイドを撃退した張本人だぞ」


軽い調子で言いながらも、ルドルフは自然に半歩前へ出た。

ほんのわずかな位置の変化。だが、その背中が視線の一部を遮るだけで、胸を締め付けていた圧迫感が、少しだけ和らぐ。


そのさりげない庇い方に、ルカの呼吸が静かに整った。


――そのとき。


「お兄ちゃん!」


甲高い声が、澄んだ鐘のように響いた。


振り向くと、昨日泣いていた少女が、母親の手を引きながら必死に走ってくる。

小さな足が石畳を叩くたび、乾いた音が軽やかに跳ねた。


頬にはまだ涙の跡が白く残っている。

けれどその瞳は、朝の光をいっぱいに映し、宝石のように輝いていた。


少女は勢いよく駆け寄り、息を弾ませたまま、ルカの服をぎゅっと掴んだ。

小さな手が、布越しに食い込むほど強く握りしめる。


「ありがとう! お兄ちゃん!

お花、きれいだった! 昨日の夜、怖くなくなったよ!」


その声は真っ直ぐで、嘘も飾りもない。

ただ、心からの感情だけがそこにあった。


手の温もりが、直接胸へ流れ込んでくるようだった。


その熱に触れた瞬間――

ルカの喉がきゅっと詰まる。


言葉が出ない。


胸の奥に、何か柔らかいものが広がり、同時に痛みのような重さも込み上げてくる。


母親が一歩前に出て、深く頭を下げた。


「本当に……ありがとうございました」


その声は静かで、震えていた。

感謝と、まだ消えきらない恐怖と、そして安堵が混ざった声だった。


「…っ?!あ…えっと…!」


ルカは慌てて首を振り、同じように頭を下げ返すことしかできなかった。


すると――


「助かったよ、ルカ」

「守ってくれて、ありがとう」

「本当に……ありがとうな」


ひとり。

またひとり。


言葉は決して大きくない。

だが、それらは確かな重みを持ち、静かに積み重なっていく。


まるで、胸の奥へ一枚ずつ石を置かれていくように。


(……俺、ちゃんと……)


思わず、心の中で呟いたそのとき。

胸の奥深くから、懐かしい声がそっと浮かび上がる。


――『お花みたいに、人を照らして守れる子になってほしいな』


母の声。


朝の台所の匂い。

窓辺に差し込む光。

花を摘んだときの、柔らかな茎の感触。


すべてが一瞬で蘇り、胸を締め付けた。


街の代表格の男が、ゆっくりと前へ進み出る。

そして、深く、深く頭を下げた。


「町を守ってくれて、本当にありがとう」


その言葉は、他のどんな声よりも重く、静かにルカの心へ沈んだ。


ルカはその重さを、逃げずに受け止める。

胸の奥に刻み込むように。


(……でも)


その瞬間、胸の奥で別の感覚が静かに芽生える。



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