陽だまりの夢、変わりだした"もの"
どれほど眠っていたのだろう。
ルカはふと気がつくと、いつもの小屋ではなかった。
陽だまりに包まれた部屋。
窓から柔らかな光が差し込み、薄い生成りのカーテンがそよ風に揺れている。
壁は淡い木目で、磨かれた床はどこか温かい匂いがした。
見慣れぬソファに、幼い自分と両親が座っていた。
父は新聞を片手にしながらも、時折こちらを覗き込んで微笑む。
白いシャツの袖を肘までまくり、どこか休日の余裕を漂わせていた。
母は分厚い本を膝にのせ、淡いブルーのワンピースを着ている。
その胸元には、小さな花を刺繍したブローチが輝いていた。
窓の外には小鳥が羽ばたき、庭には色とりどりの花が咲き乱れていた。
黄色いラナンキュラス、白のアザミ、紫のアサガオ、白いズズラン。
まるで季節がごちゃまぜになった夢の庭で、花々は風に揺れながら香りを届けていた。
『ママ、それなに?』
幼い声が弾む。ルカはまだ四、五歳くらい。
小さな手を母の膝に乗せながら覗き込んでいた。
『お花の本よ。昔から、人は花にいろんな願いを託し人を繋いできたの』
母は指でページをそっとなぞりながら、穏やかに答えた。
古い本の紙からは、インクと乾いた草花の匂いが漂ってくる。
『ふぅん……おはなって、すごいんだね』
『ふふ、そうね』
母の声は春の風のようにやさしく、耳に触れるだけで心が和らいだ。
父がくすりと笑って口を挟む。
『お前も花の名前くらい覚えたらどうだ?なぁ、ルカ?』
『うん!おはな……ルカもいっぱいおぼえる!』
胸を張ると、母が笑いながら髪を撫でた。
『じゃあ、ルカはどんな願いや言葉を花に込めたい?』
『えっとね……えっと……』
幼い眉をぎゅっと寄せて考えるルカ。
母の指先でページの花がぱらぱらと揺れるたび、小さな瞳は一層輝きを増していた。
父がソファの背もたれに腕を置き、楽しげに見守っている。
その眼差しはどこか誇らしげで、何よりも息子の答えを待ち望んでいた。
『……まもる!るかは、おはなに“まもってね”ってお願いする!』
『守る?』
母が柔らかく首をかしげる。
『うん。そしたらルカがないてても、まもってくれるでしょ?あとね、ママやパパのこともまもってくれるでしょ?』
『もちろんよ』
母の笑顔はひときわ明るくなった。
『ルカのことだって、ちゃんと守ってくれるわ』
小さな胸の奥にあたたかさが広がる。
父の大きな手がぽんと肩に乗った。
『いい答えだな。だが、ルカ自身も誰かを守れるようにならなくちゃな』
『ルカも……まもれる?』
『なれるさ』
母がそっと囁いた。
『守る強さも、導くやさしさも、きっとルカの中に咲いていくから』
『ほんとに?るかのなかにもおはながさくの?』
『ええ。ルカはね、いつかきっと、お花みたいに人を照らして守ってあげれる、優しい子になって欲しいな』
その言葉に、幼いルカは目を丸くした。
胸の奥で芽吹いた小さな希望が、ふわりと温かく膨らんでいく。
その時、窓から差し込む光が急に強くなった。
光は花々を透かし、部屋全体を白く染めていく。
母の唇が動く。――けれど、声は聞こえなかった。
父の姿も光に溶けるように薄れていく。
『……ママ?…パパ?』
幼い声は空に吸い込まれ、景色は霞んでいった。
――――――――――
ルカは飛び起きた。
全身が汗で濡れ、胸が激しく上下している。
呼吸は荒く、肺に冷たい空気が無理やり押し込まれる感覚だった。
ここは……昨夜、シェイドと戦った畑の脇。
気を失うように倒れ込んだ場所のままだった。
湿った土の匂いが鼻を刺す。
衣服には夜露と汗が染み込み、草のざらついた感触が腕に残っている。
耳を澄ませば、遠くで避難していた人々の声が響き、街はかすかにざわついていた。
鳥の鳴き声、吹き抜ける風の音、地面に転がる小石が衣服に当たる小さな感触――
現実は無慈悲なほど鮮明だった。
(夢……だったのか……?)
母と父の顔、声。あまりに鮮やかすぎて、記憶と区別がつかない。
胸がじんじんと熱い。
まだ夢の中にいたい。光に包まれたあの部屋に帰りたい。
しかし現実は、土の冷たさと傷の痛みで否応なく意識を引き戻してくる。
ふと視線を落とすと、自分の爪が淡い桜色に変わっていた。
驚いて瞬きを繰り返す。
爪先からじわじわと光が滲み出す。
その光が色へと変わり、透き通った桜色が指先を染めていく。
次の瞬間、淡い光を放つ模様が浮かび上がった。
それは小さな花弁――サクラの花を模したような紋だった。
「……な、なにこれ……っ!」
ルカは慌てて両手を見つめ直す。
指先が震え、心臓が早鐘を打った。
喉が渇き、言葉がうまく出てこない。
恐怖。困惑。
けれど、その奥底でほんの少しだけ芽生える、説明できない誇らしさ。
「目を覚ましたか」
声に振り向けば、ルドルフがいた。
腕を組み、しかし目は鋭くルカの爪に注がれている。
一瞬驚きの色が走ったが、すぐに真剣な眼差しへと変わった。
その視線に射抜かれているようで、ルカは思わず肩をすくめる。
だが次の瞬間、彼の表情はわずかに和らいだ。
「……気分はどうだ?」
声はいつになく穏やかで、心配を押し隠したような響きを帯びていた。
ルカは息を整えながら、胸を押さえた。
「……ちょっと、だるい……頭が重い感じ……」
「昨日、無理をしたからな。シェイド相手にあれだけ花を使えば、身体への負担も当然だ」
ルドルフは静かに言い、ゆっくりと歩み寄る。
その長身の影が、ルカを包むように覆いかぶさった。
彼は膝を折り、ルカと同じ高さに視線を落とす。
「立てそうか? 無理ならしばらく横になってろ」
「……だいじょうぶ、ちょっとびっくりしただけ」
ルカは爪を見下ろし、震える指を握り込んだ。
淡い桜色と、浮かぶ文様。
どれだけ瞬きを繰り返しても消えないそれに、息が詰まる。
ルドルフはルカの手をそっと取った。
大きくて温かい掌が、少年の手を包み込む。
「怖がることはない。……これは“Before”だ」
「び、びふぉあ……」
声がかすれる。
「ああ。花使いの中でも、選ばれた者にしか現れない。……爪の色と模様は、リーダーの証だ」
言葉は重いが、口調は落ち着いていて、安心させようとする響きがあった。
ルカは瞬きを繰り返し、思わず問い返す。
「……俺が……リーダー?」
「そういうことだ」
ルドルフは短く頷く。
けれどすぐに言葉を重ねた。
「だからといって、すぐに何かを背負えと言うつもりはない。お前はまだ子どもだ。まずは、理解して受け止めることからだ」
「でも……」
ルカの声は震え、爪を隠すように胸元へと抱き寄せる。
「俺なんかに……そんなの、できるわけないよ……」
ルドルフはしばし目を閉じた。
やがて、低く柔らかな声が落ちる。
「できるかどうかを決めるのは、今じゃない。未来のお前自身だ。……Beforeが現れたということは、その可能性があるというだけのことだ」
ルカは小さく首を振る。
胸の奥で、夢の母の言葉がよみがえる。
―――『ルカはね、いつかきっと、お花みたいに人を照らして守ってあげれる、優しい子になって欲しいな』
どうしても、その続きを聞きたかった。
でも思い出せない。
光に溶けた母と父の姿が胸を締めつける。
ルドルフは、ルカの沈黙に気づいたのか、ゆっくりと立ち上がり背を向けた。
そして少し振り返り、やさしく言う。
「……怖ければ、隠していればいい。無理に誰かに見せる必要はない。俺以外には、まだ知らせなくてもいい」
「……ほんとに?」
ルカの声はか細い。
「ああ。大事なのは、お前の心と身体だ」
ルドルフの瞳は真剣そのもので、どこか父親のような兄のような温かさを帯びていた。
ルカは胸の奥にわずかな安堵を覚え、爪をもう一度見下ろした。