霧の中の目覚め
徐々に濃い霧が林道を覆い、日が昇ったはずなのに、森は白く霞んでいた。
輪郭を奪われた木々は幽霊のように立ち並び、葉が揺れるたびに微かに湿った音が響く。
湿った空気は肌にまとわりつき、息を吸い込むたびに冷たく、かすかな腐葉土の匂いが鼻腔を刺激した。
ルカは肩で息をしながら、前方を見据える。胸の奥で鼓動が早鐘のように鳴り響き、身体中が重くのしかかる。
落ち着こうと深く息を吸うが、霧の向こうに何が潜んでいるか想像すると、自然と背筋がひりついた。
森はただの木立だとわかっていても、気配の一つひとつが恐怖を誘う。
「……霧、濃いな」
ルカが低く呟く。
「そうだな。普通とは違う、異様な空気だ」
ルドルフは前を歩きながら答える。
腕の中で気絶している子どもを抱え、視線は霧の奥に向けられていた。
「木の葉が湿って重い。足元も滑りやすいし、見通しも悪い」
「……怖いけど、進むしかない、ですよね」
ルカは握りしめた拳を見つめ、言葉を漏らす。
「怖がるのも無理はない。でも、焦ると判断を誤る」
ルドルフは柔らかく微笑み、霧の中に浮かぶ木々の影を指差した。
「森も街も、光に包まれている部分が必ずある。俺たちはそこを目指して進めばいい」
「……はい」
ルカは小さく頷いた。胸のざわつきは消えないまま、二人は霧の林道を慎重に進んでいく。
足元の枝葉は濡れて重く、踏むたびに音を立て、霧の中ではその音さえ不気味に響いた。
枝が揺れ、遠くの鳥の鳴き声も霧に吸い込まれてしまう。
「こんな時、何か……異変が起きてもおかしくないな」
ルドルフが小声で呟く。
「異変……?」
ルカの目が霧の奥に揺れる影を追う。
「森には普通の木立でも、古い呪いの痕跡や、無機物に残った呪傷が潜んでいることがある」
ルドルフの言葉に、ルカは首を傾げた。
「……呪傷って……なんのことですか?」
ルカは軽く眉をひそめる。
「ルカは知らないのか?」
ルカは頷き、霧の向こうに揺れる木々を見つめながら声を低くした。
「普通の傷とは違うんですよね……?」
「そうだ」
ルドルフはゆっくりと答える。
「シェイドから受けた傷のことを言うんだ。普通の物理的な傷とは違い、自然には治らない。放置すれば、最悪の場合は命に関わる」
「……そんな……」
ルカは背筋がぞくりとするのを感じた。
「痛みは続くんですか?」
「生物なら、体中で痛みとして感じる」
ルドルフは腕の中の子どもを軽く抱き締め、視線をルカに向ける。
「でも、無機物の場合は痛みはない。代わりに、シェイドを引き寄せる呪いが残ることがある」
ルカの目が大きくなる。
「……呪い……それって危険ですよね?」
「危険だ。古い呪傷が残っていると、その場所や物にシェイドが引き寄せられる」
ルドルフは眉をひそめる。
「だから、ザワついてる森や怪物の噂があるところの近くに踏み込むときは気を抜けない」
ルカは胸の奥がざわつくのを感じた。黒紫の爪痕や、禍々しい影の存在――目に見えない呪いが、確かにそこにある。
「治せる方法は……あるんですか?」
ルドルフの目がわずかに柔らかくなる。
「あるさ。『使い花』の中でも、浄化種と呼ばれる花なら、生物も無機物も、呪いを残さず浄化できるんだ」
「……浄化……」
ルカはつぶやき、ふと腕を抱えている子どもを見る。
「でも、俺みたいに花の加護を持たない人には無理……ですよね」
「その通りだ、俺もタンポポの花の加護があるけど浄化種じゃないからな」
ルドルフは頷き、林道の霧の奥を見つめる。
「だから、花の加護を持つ者もそうだか、浄化種の花の加護持っている者の存在は、世界にとって大きな意味を持つ」
ルカはその言葉に心を引き締めた。知らなかった世界の理――恐ろしく、でも確かに存在する現実が、目の前の森に息づいていることを痛感する。
―――そのときだった。
ザリッ。湿った土を踏む不自然な音が響く。小動物の足音ではない、異様な重みがある。
「止まれ」
ルドルフが低く声を落とす。ルカは反射的に足を止め、ルドルフは子どもをより胸に抱き締める。霧がざわめき、背筋が冷たいもので撫でられるように震えた。
霧の帳を裂くように、黒い影がにじみ出る。足もなく、輪郭は揺らぎ、ところどころから鋭い爪のような突起が伸びる。光を吸い込むように暗く、見るだけで胸の奥が重くなる――シェイドだ。
「ルカ、走れッ!」
ルドルフの怒声に押され、ルカは駆け出し、ルドルフは子どもを抱き締めたまま霧の中を駆け出す。湿った落ち葉を踏みしめるたび、ズルリと足が滑りそうになる。後ろを振り返れば、黒い影が霧をかき分けて迫ってくる。爪が空を切り、何本もの影が腕に伸びる。
(来る……追ってきてる……!)
耳元で風が裂け、すぐ背後に刃が迫るような錯覚に襲われる。胸の鼓動が自分のものか区別できないほど速く乱れた。
「こっちだ、ルカ!」
ルドルフの声が前から飛ぶ。だが足は思うように動かない。肺が焼けつき、喉が乾き、血の味がする。一歩走るごとに恐怖が膝にまとわりつき、次の一歩を阻む。
(怖い……でも止まったら……!)
影がさらに近づき、黒い爪が背中に届きそうになる。足先が木の根に引っかかり、前のめりに倒れた。湿った土と腐葉土の匂いが鼻を刺し、肩も膝も強く打ちつけて体は痺れて動かない。
霧の中、シェイドの影がじわじわ覆いかぶさる。黒い爪が振り上げられ、逃げ道を塞ぐように降りてくる。
(だめだ……もう間に合わない……!)
頭の奥で警鐘が鳴る。恐怖に心臓が焼けるように熱くなる――けれど、その奥で別の熱がうねりを上げた。
(……嫌だ…まだ終わりたくない……また、……あの時の様になるのは……イヤだ……!)
その一念が心を突き破った瞬間、胸の奥で光が爆ぜた。
――――――
胸の奥で何かが破裂するように熱が広がる。熱は喉を焼き、心臓を掴み上げるように脈打つ。鼓動が耳の奥で反響し、世界の音が遠ざかる。
(な、なんだ……これ……?)
視界が揺れ、空気の粒子が震えた。淡い桃色の光がひとつ、またひとつと浮かび、夜の霧の中で花弁の形を取る。桜の花だった。
風もないのに花びらは次々と生まれ、舞い、渦を描いてルカと子どもを取り囲む。足元の黒紫の呪いも光に触れ、ジュッ、と音を立てて剥がれ落ちる。残ったのは、ブニブニとした黒紫の塊。少し硬めのスライムのように蠢き、ゆっくりと地に沈んでいった。長い時間をかけて大地に還るかのように。
「……俺が……花を咲かしてるのか……?」
ルカは信じられず、指先を見つめる。息は荒く、胸は焼けるように熱い。恐怖と驚き、そして美しさに心を奪われる。
背後から鋭く響いた声が現実を突きつける。
「ルカ……お前も使い花を持っていたのか……!?」
ルドルフの言葉が霧に響いた。
―――――――
霧の森を抜け、石畳の街道が見えたとき、ルカの胸に張り詰めていた糸が一気に緩んだ。視界の先には、心配そうに門の前に集まる人々の姿があった。
「……あそこだ」
ルドルフが腕に抱いた子どもをもう一度確かめ、足を速める。
門をくぐった瞬間、駆け寄ってきた女性が涙を流しながら子どもの名を叫んだ。
「――っ! ありがとう……ありがとう、本当に!」
腕の中の子どもを受け取ると、彼女は震える指でその小さな顔を確かめるように撫でた。男も続いて駆け寄り、家族は三人でしっかりと抱き合う。
その光景を前に、集まった人々からどよめきが起きた。
「よくぞ見つけてくれた……」
「無事で本当に良かった……!」
涙混じりの声と共に、何人もの手がルドルフとルカの肩を叩き、感謝の言葉が次々と降り注ぐ。
ルカはうまく言葉を返せず、ただ小さく頷いた。胸の奥にまだ残る桜の花――あの力がなければ、この再会はなかったかもしれない。
感謝の視線を受けるほどに、その事実が重くのしかかる。
ルドルフは群衆に軽く頭を下げ、穏やかな声で言った。
「俺にできたことは、この子を見つけたことだけです。その子を助けたのはルカですから。」
そう言って、横に立つルカに目をやった。
「本当に…本当にありがとう……!!」
「君達も無事でよかった」
子供の両親はルカを見上げ、涙ながらにお礼を言った。
「どう……いたしまして…」
ルカは言葉が上手くでず、小さくそう言った。