4 副騎士団長は愛を請う
正式に婚約が調ったことで俺たちの仲は公になったわけだが、それ以前から俺がリオラを構い倒していたのはみんな知っていたし、さほど反感を持たれることもなく、概ね好意的に受け入れられた。
というか、「あれだけ女遊びの激しかった人がねえ」とか「年貢の納め時とはこのことだな」とか「百戦錬磨の女たらしが無愛想な婚約者に振り回されてるなんて、めっちゃウケる」とか、好き勝手にけなされているような気がしないでもない。
でも、そんな外野の雑音なんかどうでもいい。
なぜなら、俺はかつてない絶体絶命の危機に直面していたからだ。本当に誰かを好きになると人は臆病になるということを、身をもって知ってしまった。
だって、百戦錬磨の手練れと言われたこの俺が、リオラにはいまだにキスの一つもできないんだから……!!
キスなんて、昔は挨拶代わりとしか思っていなかった。いや、それもどうかと今では思うが、その行為に大した意味などなかったのだ。請われればいくらでもしたし、関係を盛り上げるための必要かつ効果的な手段でしかなかった。
でもリオラを前にすると、急に不安になる。
俺はいつだってリオラに触れたいし、当然キスしたいし、なんならそれ以上も、なんて邪な欲望はどんどん膨れ上がるばかりだけど、リオラのほうはどうだろう。いくら婚約したとはいえ、俺が退路を塞いだからリオラはそれを受け入れるしかなかったわけで、多分リオラにそこまでの想いはない。俺も好かれているという自信がない。うわ。言ってて悲しくなってきた。とほほ。
それにここへ来て、「レグルス様と一緒にいて嫌な思いをしたことは一度もなかった」というリオラの言葉が重くのしかかる。好きかどうかはともかく、ある程度信頼は寄せてくれているのに、俺が欲望のままにリオラの唇を奪ったらどう思われるか。嫌がられたらどうしよう。立ち直れる気がしないんだが。とほほ。
そんな煩悩と情欲にのたうち回っていた、ある日のこと。
「領地にいる祖父母から、婚約を祝う手紙が届いたんです」
幼い頃に両親を亡くしたリオラは、シレンテ伯爵領に住む祖父母のもとで育ったという。
その祖父母から届いた手紙を大事そうに広げながら、リオラはいつもの無表情を少し和らげる。
「リオラ」
「はい?」
「領地にいる元伯爵夫妻のところに、挨拶に行かないか?」
「……え?」
「学園時代に一度帰ったきりなんだろう? 久しぶりに会いたくはないか?」
「それは、まあ、会いたいですけど……」
「俺も挨拶に行きたいし、リオラが育ったところをこの目で見てみたい。だから一緒に行ってみないか?」
「……なんにもない田舎ですよ?」
そう言いながらも、リオラは心なしかうれしそうだった。リオラが喜ぶことならなんでもしてやりたい俺としては、なかなかにいいアイディアだと自画自賛する。
ちょうど新年を迎えるタイミングだったこともあり、俺とリオラは休暇を調整してシレンテ伯爵領に向かうことにした。
伯爵領は、のどかな田園と青々とした牧草地の広がる、自然豊かな土地だった。なだらかな丘の向こうには、赤土の砂浜と碧い海が美しいコントラストを描いている。
元シレンテ伯爵夫妻、つまりリオラの祖父母は俺たちの訪問をいたく歓迎してくれた。
リオラに会うのは数年ぶりということもあって、夫人はリオラを抱きしめながら「こんなにきれいになって……」と涙ぐむ。その様子を、元伯爵も感慨深げに眺めている。
久しぶりの帰省で少し童心に返ったのか、リオラも「中庭に温室ができたんでしょう? 見に行ってもいい?」なんて珍しくおねだりなんかして、夫人を伴い浮かれた様子で部屋を出て行った。
おっと。いきなり元伯爵と二人きりにされた俺は、平静を保ちつつ手にしたティーカップを口元に運ぶ。
その瞬間、リオラの前では穏やかで品のいい祖父だったはずの元伯爵は一変し、眼光鋭く俺を威圧した。これはきっと、過去の聞くに堪えないふしだらな噂に対して苦言を呈するつもりなのだろう。そう悟った俺は、甘んじて手厳しい叱責を受けるべく、断罪を待つ子羊のような面持ちで背筋を伸ばす。
ところが――――。
「レグルス殿。貴殿はあの子の両親の事故について、何か聞いておるかね?」
全然違った。拍子抜けである。両親の事故……?
「……お二人とも、馬車の事故で亡くなったとしか……」
リオラはそれしか言わなかった。だから俺も、それを鵜呑みにしていたのだが。
元伯爵はとてつもなく厳しい顔つきをしながら、重々しく口を開く。
「このことは当然リオラも知っている。ただ、何せあのときの記憶がないようでな」
「……はい?」
「あの事故のとき、実はリオラも両親と一緒にいたのだよ」
「え?」
「あの子と両親は、王都郊外にある避暑地に向かう途中で馬車の事故に遭ったのだ。親たちが身を挺して我が子を守ったおかげで、リオラはほぼ無傷で助かった。奇跡的にな」
突然投げ込まれた驚愕の事実に、頭を殴られたような衝撃が走る。
リオラも一緒だった……?
リオラだけが助かったというのか……?
「事故のあと、ショックのせいかあの子は言葉が話せなくなってしまってね。それに、まるですべての感情を失ってしまったかのように笑いもしなければ泣きもしなくなったんだ。不憫に思った私たちは、あの子を引き取って育てることにした。王都から遠く離れたこの自然豊かな領地で、穏やかに過ごさせたくてね。幸い、時間とともにあの子はまた話せるようになって、少しずつ人間らしさを取り戻していったんだ。感情を表に出すのは苦手なようだったが、それでも人並みの生活を送れるようになっていった。ただ……」
「ただ?」
「覚えてはいなくても、あの事故のことはあの子の意識の奥底に刻み込まれているんだよ。あの子は自分だけが助かったことに、強い罪悪感を抱いている。自分を救うために命を落とした両親に申し訳ない、自分さえいなければ両親は助かったかもしれない、そんな深い自責の念は今もあの子の心をずっと蝕んでいるんだ」
――――言葉が、なかった。
何も言えなかった。
リオラがそんな、過酷で壮絶な過去を背負っていたなんて――――。
リオラがいつも、自分という存在を見下して「どうせ私なんか」と自虐的な物言いをするのは、学園時代の伯爵邸での生活が背景にあると思っていた。
でも本当は、もっとずっと前から、生きることへの葛藤を抱えていたのだろう。
両親を犠牲にして自分だけが生き残ってしまった罪の意識と後ろめたさを抱え、自分自身に価値を見出せず、それでも生きていかねばならなかったリオラはいつのまにか「私なんかが」と自分を卑下するようになったのだろうか。
あいつはこれまで、どれほど傷ついてきたのだろうか。
俺は元伯爵に断りを入れてから、中庭でリオラたちが戻ってくるのを待った。
温室を堪能したらしい二人が上機嫌で戻ってきたところを、すかさず呼び止める。それからリオラを誘って、ベンチに腰掛ける。
風が、心地よかった。
この優しい緑色の風に、リオラは癒されたのだろうか。
「どうかしたのですか?」
どことなく漂うただならぬ雰囲気に気づいて、リオラは心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺は黙って、リオラを抱き寄せた。
リオラの体温が心地よくて、なんだか無性に泣きたくなる。
「リオラ」
「はい?」
「生きててくれて、ありがとう」
「……え?」
「リオラに出会えなかった人生なんて、俺にはもう考えられないから。お前が今ここでこうして生きていることに、感謝しかない」
その言葉で、リオラは俺が何を知ったのか悟ったのだろう。少し困ったような顔をして、「おじい様から聞いたのですか?」と苦笑する。
「私、本当に何も覚えていなんです。事故のことはもちろん、しばらく言葉を話せなくなっていたことも記憶になくて。元気になってから少しずつ教えてもらったんですけど、それでもやっぱり当時のことは思い出せないんです」
どこか他人事のように、そしてどこか遠くを見るように、リオラが落ち着いた口調で話す。
俺は思わず、リオラの頬に手を伸ばした。
愛おしさのあまりそっと触れても、リオラは嫌がる素振りを見せなかった。
「リオラ」
もう一度、名前を呼ぶ。
淡い空色の瞳が、無言で俺を見上げている。
「リオラに出会えたから、今の俺があるんだ。リオラがいなかったら、俺は昔のクズで最低な人間のまま、人を愛することを知らずに死んでいったと思う。リオラは俺に、生きるうえで一番大事なことを教えてくれたんだよ。俺はもうお前を手放せないし手放す気もないから、これからもずっと一緒に生きてくれないか?」
「レグルス様……」
「好きだよ、リオラ。愛してる」
低く抑えた声でそう言うと、リオラの目に涙があふれる。
こぼれた涙を親指でそっと拭うと、リオラが何かの合図だと思ったのか、すっと目を閉じた。
「……え、もしかして、キスしていいの?」
「はい!?」
閉じかけた目をがっつり開けたリオラが、素頓狂な声を上げる。
「そ、そ、そんなこと、いちいち聞かなくても……!!」
「だって、リオラが嫌がることはしたくないし」
「もう、そんなの、レグルス様の好きなときに好きなだけすればいいじゃないですか!!」
「え、いいの? んじゃ、人がいようが何しようが、いつでもどこでもあちらこちらにキスしまくる――」
「それは、控えめに言って、ダメです!!」
涙目でむきになって大声で叫ぶリオラが可愛すぎて、俺はそっと、触れるだけのキスをした。
ここまでが短編二作品とほぼ同じ内容になります。
次話から、レグルス視点での新章&新エピソードが始まります!