1 副騎士団長は愛を知る
まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。
艶めく銀髪に透き通るマリンブルーの瞳を持ち、建国当初から続く由緒正しいグラティア侯爵家の次男として生まれた俺は幼い頃から見目麗しいと評判で、成長するにつれ『美貌の貴公子』だの『月光の君』だのと呼ばれるようになった。
端正な容姿と侯爵家という家柄に群がる令嬢たちは数知れず、学生時代は女をとっかえひっかえしながらずいぶんと派手に遊び歩いた。女癖の悪さで俺の右に出る者はいなかったと思う。
学園を卒業し、騎士団に入ってからもそれは変わらず、むしろ大手を振って堂々と浮名を流し続けた。近づいてきて媚びを売るたくさんの令嬢たちと後腐れなく楽しめればそれでいいと思っていたし、本気で人を好きになるとかたった一人にだけ愛を誓うとか、面倒くさくて馬鹿げているとさえ思っていた。
放蕩の限りを尽くしていた俺の前に突如として現れたのは、地味で真面目で無愛想な『能面令嬢』、事務官のリオラだった。
リオラは、騎士団本部の事務室に勤務していた。
正直言って、いつから勤務していたのか定かではない。気づいたら、いた。それくらい、地味で目立たなかった。
リオラの存在を認識してすぐ、彼女の教育係でもあるアリス嬢に尋ねたら四つ年下だと教えてくれた。でも同時に、「不用意に近づかないで」と釘を刺されてしまう。
アリス嬢は同い年だが、学生時代にアリス嬢の友人とかいう令嬢と一悶着あったから、それ以来必要以上に目の敵にされているのだ。
ただ、リオラの外見を考えれば、その牽制はまったくの不要だと言ってやりたかった。あんな無表情の地味令嬢を相手にするほど、俺が女に困ってるとでも思ってんのか? マジで失礼すぎるだろ。
いや、わかっている。失礼はどっちだ、という声が四方八方で飛び交うことは重々承知している。俺だって「昔の俺、いろんな意味でやべえやつだな」といまだに思ったりするし、「勘違い野郎はお前だよ……!」と自分で自分を殴りたい衝動にも駆られる。でもそのときは、リオラなんて本当に眼中になかったのだ。
そんなある日、リオラが書類を持って俺たちの執務室を訪れたことがあった。
俺は軽い気持ちで、机の上にあったお菓子の包みを手渡した。それは王都の大通りにできたばかりの小洒落たスイーツ店のクッキーだとかで、当時つきあいのあった令嬢の一人が差し入れとして持ってきたものだった。
甘いものは別に好きでも嫌いでもない。
もらったものを後生大事にする性分でもない。
だから俺は、わざわざ書類を届けに騎士棟まで出向いてくれたリオラにご褒美というかお駄賃代わりというか、とにかく何かくれてやるか、と思っただけだった。それくらいの、本当に軽い気持ちだった。
だというのに、包みを手にしたリオラは「あ、ありがとうございます……」と言いながら、ふんわり小さく微笑んだのだ。
ドキリとした。
目を奪われた。
一瞬、見間違いかと思った。光の加減で笑ったように見えたのかとも思った。
だって、無表情で無愛想で、表情筋がまったく仕事をしていないどころか完全に死滅していると噂の『能面令嬢』だぞ? これくらいのことで、笑ったりするのか?
しかも、当のリオラは次の瞬間すん、と真顔に戻ってしまい、「では、失礼しました」と言ってさっさと部屋を出て行ってしまう。
なんだよあれ。いったい何だったんだ……?
どうにも気になった俺は、それから事あるごとにリオラを探しては頻繁に声をかけるようになった。
あのとき本当に笑ったのか、俺が見たと思った笑顔は果たして本物なのか幻だったのか、きちんと確かめたいと思ったのだ。そして、できればもう一度あの笑顔を見たい、なんならあの笑顔を俺にも向けてほしい、とすら思っていた。
でも一向に、リオラは表情を崩さない。
常に無表情、大真面目な真顔で「レグルス副団長、お忙しいとは思いますが必要書類の提出は期限内にお願いします」とか、「護衛代わりについて行く? 第三騎士団の執務室へ行くだけですよ? いったいどういう危険を想定しているのですか?」とか、「副団長、今日だけで何回事務室に来ているかわかってらっしゃいます? 暇すぎませんか?」とか、「副団長に名前呼びされたところで別にうれしくもなんともないのですが」とか、だいぶ手厳しいツッコミをこれでもかと繰り返す。
そんな軽妙なやり取りもなんだかんだ楽しくて、俺はリオラにちょっかいを出すのをやめられなかった。
そうして、つい数か月前のことだ。
騎士棟と管理棟との間にある中庭で、俺は偶然にも呆然と立ちすくむリオラを見つけた。
何事かあったのかと焦りまくって「どうした?」と慌てて駆け寄ると、振り返ったリオラの腕の中には茶色の縞模様を纏った子猫がちんまりと鎮座していたのだ。
「ん? 子猫か?」
「はい。どうやら迷い込んでしまったらしく」
そう言って、リオラは小さいくせに堂々とふてぶてしい風情の子猫に目を向ける。
そしてまた、ふんわり笑ったのだ。
「……リオラ?」
「はい?」
呼ばれて顔を上げたリオラは、確かに微笑んでいた。
頬を緩めて、優しい目をして、口元をほころばせて、子猫が可愛くて仕方がないとでもいうように。
その笑顔は、まるで慈愛に満ちた女神のようだった。
「なんでしょう?」
「い、いや……」
まずい。リオラを直視できない。
なんだよその笑顔は。なんで笑うとそんなに可愛いんだよ。反則だろ?
可愛いのは子猫じゃなくてお前のほうだよ。
……なんて思っている自分に気づいて、俺は愕然とする。
はああぁぁ!? 可愛い!? この地味な能面令嬢のどこが可愛いんだよ!? 待て待て、正気に戻れ!! 冷静になるんだ、俺……!!!
「と、とにかく、親猫が近くにいるかもしれないし、探してみるか」
なんとか平静を装って、そう提案するのがやっとだった。
二人で探している間にも、リオラは抱いている子猫を気遣いながら「あなたのお母様はどちらにいらっしゃるのでしょうねえ?」なんて優しく話しかけている。
何なんだよあれは!! マジで可愛すぎない!?
呼吸やら心拍やら血圧やら、人として生きるために必要な機能のほとんどが恒常性を保てなくなるほど心の中をかき乱されつつ親猫を探していると、なんだどうしたとだんだん人が集まってきて、最終的には十人くらいの職員で辺りを探すことになった。
結果として親猫らしき猫は見つからず、女性職員の一人がしばらく子猫を預かってもいいということになって決着はついたのだが。
親猫の捜索を終えて各々仕事に戻る途中、目の前を歩く数人の職員の話し声がふと耳に届く。
「あの子、意外に能面じゃなかったわね?」
「そうそう。子猫を見る目がすごく優しくて、可愛らしかったわ」
「普段は愛想がないせいか、ああやってほころんだ顔を見るとドキッとするよ」
「ギャップ萌えってことかしら」
明らかに、リオラのことだった。
でもそうと気づいた瞬間、突如として俺の心の奥にとある感情が芽生える。
それは淀みなくはっきりとした輪郭を伴い、急激にその存在を主張し始めた。
――――リオラの笑顔を、優しさを、可愛らしさを、誰にも知られたくない。誰かに奪われたくない。全部俺だけのものにしてしまいたい……!
自覚してしまったら、これほど簡単なこともなかった。
俺はいつの間にか、リオラに惹かれていたのだ。いや、惹かれてるなんて生易しいもんじゃない。本気で、心から、誰よりも愛おしいとすっかりメロメロになっていた。
恋愛なんて面倒くさいとか、誰か一人に愛を誓うなんて馬鹿げてるとか思っていたくせに、とっくにリオラ一人の虜になっている。リオラの前で跪き、永遠の愛を誓うことさえ厭わない。俺のすべてを捧げる代わりに、リオラのすべてを奪い尽くして自分だけのものにしたいと思ってしまうくらいには、リオラに溺れている。
でも、と俺は考えた。
これまでの奔放な振る舞いや言動を考えれば、今更好きだのなんだの言ったところですんなり信じてもらえるとは思えない。数多の令嬢たちと遊び歩き、散々浮名を流してきた俺がいきなり真剣に愛を告白したって、リオラどころか誰も本気にはしないだろう。
今頃になって、あの放蕩三昧の日々が悔やまれる。くそう、何やってたんだ、俺。人の気持ちも考えず、楽しければいいと好き勝手やってきた浅はかさが自分の首を絞めることになるとは……!
こうなったらもう、行動で示すしかない。
俺の気持ちが本物だと信じてもらえるよう、誠意を尽くすしかない。