3 副騎士団長は許さない
一週間ぶりに会えたリオラの表情はどこか虚ろで、このまま消えてしまいそうな儚さがあった。
俺は静かにその手を取って、何も言わずに歩き出す。
リオラは、逃げようとはしなかった。手を振り解くことはなく、何事かと問い返すこともせず、半ば諦めたような顔をしていた。
そのまま馬車へと乗り込み、自分の屋敷にリオラを連れ帰る。
副騎士団長に昇進したとき、騎士団からはそこそこ立派な屋敷が貸与されていた。ただし使用人はすべて、グラティア侯爵家から連れてきた者たちである。
屋敷に到着すると、俺たちは真っ直ぐ応接室に向かった。あれこれ説明しなくても、使用人たちはのっぴきならない事態が起こったと察してくれたらしく、お茶の準備を終えるとさっと退出していった。
二人きりになった途端、俺は最愛の存在を確かめるようにリオラをぎゅっと抱きしめる。
思いのままに触れることができてようやく、リオラが腕の中にいることを実感した。いつもの柔らかさと甘い匂いに、くらくらとしためまいすら覚える。
されるがままのリオラではあったが、体は硬く強張り、どこかぎこちない。それでも構わず、俺はただぎゅうぎゅうときつく抱きしめた。
そして、徐に尋ねる。
「……あの令嬢に、何を言われた?」
「え?」
「ミラビリス侯爵令嬢だよ。何か言われたんだろう?」
少しだけ体を離して、リオラの顔を覗き込む。
なぜ知っているのかといわんばかりの狼狽えた目に「アリス嬢から聞いたんだ」とだけ伝えると、納得したらしくわずかに表情が緩んだ。
「先に言っておくけど、あの令嬢は二週間前に王都の街で迷子になっていたところを保護しただけだから。あいつが何を言ったかは知らないが、誓ってやましいことなんかない」
一ミリも視線を逸らさず、空色の瞳をじっと見つめる。リオラは、さほど表情を変えなかった。
「……ですよね。浮気の虫がまた騒ぎ出したのかなとも思ったのですが、それにしてはレグルス様の様子に変わったところはありませんでしたし、あの方の勘違いもあるのかなと思って――」
「待て待て待て。あの女、いったい何を言ったんだ?」
ある程度想像はしていたものの、なんとなく想定以上のだいぶよろしくない話になっている気がする。慌てて問い質すと、リオラは平然と説明し始める。
「二週間程前、レグルス様と出会った瞬間お互い恋に落ちてしまったとか、それからもう何度も二人きりで会って激しく求められているとか、そろそろ身の程を弁えて婚約を解消しなさいよとか――」
「はああああぁぁぁぁ!?」
やばい。ドスの利きすぎた凄みのある声が出てしまった。
あの女、清々しいほど嘘しか言ってねえな!! とんでもない食わせもんだな!!
俺の中で、圧倒的な殺意が否応なしにぐつぐつと煮えたぎる。噴火寸前である。
「悪いけど、百パーセント全部嘘だから!! あんな無責任な軽率女と恋に落ちるわけがないし、二人きりで会ったこともないし、だいたい向こうが勝手に執務室に押しかけてきてただけだし!!」
「は、はい」
「昔の俺を考えれば浮気を疑われても仕方がないけど、もうそんなつもりは一切ないから!! 俺がほしいのはリオラだけでリオラ以外の女なんかどうでもいいし、リオラひと筋だってことはいい加減わかってくれるよな!?」
「そ、それは、まあ、はい」
俺の必死の形相に多少気圧されながらも、リオラは「どう、どう」とか「ひとまず落ち着いて」とか言って背中をなでてくれる。優しい。
「……正直、レグルス様の気持ちを疑ってはいなかったです。昔のことはともかく、今は本当に、あ、愛されてるんだなって、実感できていたので……」
そう言って、顔を真っ赤にしながら俯くリオラを押し倒さなかった俺は偉いと思う。いやもう、こんなときだというのに、リオラが可愛すぎて。理性がどっか行きそうなんですけど!!
「……じゃあ、なんで逃げてたんだよ?」
どうにかこうにか冷静さを取り戻して穏やかに尋ねると、突然リオラの表情は色を失った。
怯えた瞳が、逃げ場を求めて揺れている。
それでも、もはや逃げ切れないと悟ったらしい。
「……あ、あの方は、知っていたんです。馬車の事故のことを……」
「え?」
「いろいろと調べたそうなんです。私だけが生き残ったことも知っていて、私がいたから両親は命を落としたのだと……。私さえいなければ両親は助かっていたかもしれないし、まわりを不幸にする私は疫病神だと、そんな私はレグルス様に相応しくないと……」
次第に涙まじりになっていくその言葉は、重い衝撃となって俺の全身を貫いた。
「なんだよ、それ……」
「ごめんなさい、私が全部、悪いんです。私が、私さえいなければ、こんな、ことには――」
「そんなわけないだろ……!」
少し乱暴な口調になってしまったが、仕方がない。
リオラの目には涙が滲んで、次から次へと溢れ出す。俺はたまらなくなって、濡れたまぶたにそっと口づけた。それから、額やこめかみ、頬や鼻筋にも繰り返し繰り返し、触れるだけのキスを落とす。
「なあ、今の俺が、不幸に見えるか?」
「……え?」
「愛しくて愛しくてどうしようもない唯一の最愛が腕の中にいて、何度も何度もキスせずにはいられない俺は、不幸だと思うか?」
「それは……」
「俺にとって、リオラは疫病神というより愛の女神だと思うんだけどな」
「は、はい? あ、愛の女神?」
「だって、俺に愛することを教えてくれたのは、リオラだろう?」
ふふん、とほくそ笑むと、リオラは目を見開いたまま固まってしまう。なんだこの可愛い生き物は。くそう。
「リオラに会えない毎日のほうが、余程不幸だったよ」
そうつぶやいて、俺はリオラの首元に顔を埋めた。
リオラはちょっとくすぐったそうに身をよじりながら、「す、すみません……」と小さく応える。
「俺、思うんだけどさ」
「は、はい」
「俺がもし、リオラの両親と同じような危機に直面したら、間違いなく同じことをするだろうって」
「え?」
「絶対にリオラだけは助ける。自分の命を投げうってでも、リオラだけは助けたいと思う。お前の両親も同じ気持ちだったんじゃないかな。二人にとって、リオラ以上に大事な存在はいなかったと思うから」
「あ……」
「俺だってそうだよ。リオラ以上に大事なものなんてない。そんなふうに思える相手に出会えるなんて奇跡みたいなものだし、俺を幸せにできるのはリオラだけなんだから」
「レグルス様……」
「だから、俺の前から急にいなくなるのだけは、やめてくれよ」
泣き笑いのような表情で俺を見返したリオラは、それから顔を歪めて、堰を切ったように泣き始めた。
まるで子どものようなその泣き声は、ずっと心の奥底に閉じ込めていた何かをすべて手放そうとしているようで、俺はただ黙って抱きしめてやることしかできなかった。
◆・◆・◆
「……というわけで、今日こそは帰さないからな」
ようやく泣き止み、落ち着いたリオラに「うちの料理人が腕を振るったから」とかなんとか言ってやや強引に夕食を勧め、食べ終わったあとで得意げに宣告すると、リオラは一瞬、きょとんとした。
そして、数秒後。
「な、な、なに言ってるんですか!?」
「なにって、言葉の通りだよ。この一週間、俺はリオラに避けられまくって寂しい思いをしてたんだから。リオラが足りなさすぎて、死にそうなんだよ」
「そのわりには、ぴんぴんしてると思うんですけど!?」
「いや、もう死ぬ。死にそう。リオラが帰ったら確実に死ぬ」
「ちょっと! もう!」
最後は半分脅したようなものである。いや、完全に脅しか。ははは。
いつぞやのマリウスを責められないな、これは。
しかもなし崩し的に、俺は夫婦の寝室を使おうと目論んだ。使用人の中には若干白い眼をしていた者もいたが、構うものか。俺はリオラが足りないんだ。
リオラは、意外にもあまり抵抗を示さなかった。俺のしつこさに呆れているのかと思ったが、寝室のソファにおずおずと座ると、消え入るような声でこう言った。
「……私も、今日はレグルス様と離れたくないなって……」
…………おい!!
俺の理性よ!! 帰ってきてくれ!! 頼む!!!
いや、もちろん、何度も言うようだが、手を出すつもりはない。
リオラが「順番は守ってください!」と言っている以上、期待を裏切るようなことはしたくない。
それに、リオラと離れたくないというのはもちろん嘘ではないのだが、それよりも何よりも、傷ついたリオラを一人にしたくはなかったのだ。ただそばにいて、ひたすらべたべたに甘やかしたかった。
「ごめんな、リオラ。俺のせいで、つらい思いをさせたよな」
「そんな、レグルス様のせいでは……!」
優しく抱き寄せながら、俺は心の中で密かに誓う。
リオラを傷つけたやつを、絶対に許すものか。
自分の非力さを呪いたくなるほど、後悔させてやる……!!
次回、ちょっと腹黒なレグルスが降臨します。
そしていよいよ最終話です……!