〇〇〇
あの子の名前を初めて呼んだとき、彼女は少し驚いた顔をして、それからすぐに笑った。
「いま、私の名前、言った?」
「うん」
「へえ……なんか、変な感じ。ずっと呼ばれなかったから」
教室の窓際、放課後。誰もいない静かな空間に、柔らかな西日が差し込んでいた。僕らは向かい合って座り、それぞれ違う本を読んでいた。ほんの少し、彼女の髪の先が陽に透けて、赤茶色に光っていたのを、今でも覚えている。
僕たちは、友達でも恋人でもなかった。
名前を呼び合うことも、触れ合うことも、特別なものとして大切にしていた。
だから、たった一言の名前を口にするだけで、空気が震えるような関係だった。
彼女の名前は、ひらがな三文字だった。
柔らかくて、言葉の先が丸くなるような響き。
口にするたびに、少しだけ自分の心が素直になれる気がした。
彼女は僕の名前を呼ぶとき、少し照れたように声のトーンを落とした。
まるで、その名前に思い出を閉じ込めてしまわないように、そっと取り扱っていた。
僕たちは何度かすれ違った。
付き合っているわけではなかったけど、お互いに好意は持っていたと思う。
でもそれを言葉にすることは、どちらからもなかった。
誰かを好きになると、名前を呼ぶ回数が減っていくことがある。
「ねえ」とか「おい」とか、そういう言葉にすり替わって、
いつのまにか、“名前”が呼ばれなくなる。
だけど、僕たちは違った。
いつでも名前だった。
いつでも、その人そのものを呼んでいた。
それが、僕らのルールだった。
名前を呼ぶことだけが、心を確かめる唯一の術だった。
あるとき、彼女がぽつりと言った。
「ねえ、私ね、人から“ちゃんと”見られたことがほとんどないの」
「どういうこと?」
「話しかけられることはあるし、友達もいるけど、本当の意味で“ちゃんと”は、ないなって思うの。誰かに、自分の全部を見てもらうって、すごく難しいよね」
「僕は……君のこと、ちゃんと見てるよ」
「そうだといいな。──私も、そうでありたい」
その時の彼女の声は、本当に小さくて、でも確かだった。
人は、自分の存在を認めてくれる相手を探して生きている。
それは、愛でも友情でもない、もっと根っこの部分のつながりだ。
僕たちは、それを“名前を呼ぶ”ことで形にしていた。
大学に進んでから、僕たちは少しずつ会わなくなった。
それでも、たまに連絡をとって、お互いの名前を呼び合った。
会う頻度は減っても、心の距離は保たれていたように思えた。
だけどあるときから、彼女からの返信が遅れるようになった。
会いたい、と言っても「今はちょっと忙しくて」と返される。
会うと、笑って話してくれるけど、その笑顔の奥が見えなくなった。
名前を呼んでも、声が届いていないような気がして、少しだけ怖くなった。
ある日、彼女から短いメッセージが届いた。
ごめんね。
もう、名前を呼ぶのがつらくなっちゃった。
僕は、何も返せなかった。
理由は書かれていなかったけれど、僕は薄々感じていた。
彼女の中で、僕の存在が“痛み”になってしまっていたことを。
名前を呼ぶことが、大切すぎたから、
壊れてしまったときに、それすらできなくなったんだ。
あれから数年が過ぎて、彼女の名前を聞くことはもうなくなった。
共通の知人も少なかったし、SNSでも姿を見かけなくなった。
まるで、世界からふわりと消えてしまったようだった。
でも、時々ふとした瞬間に、
誰かの声のトーンとか、風の匂いとか、
ふとした本の表紙の色とか、そういうもので、彼女の名前を思い出すことがある。
きっと彼女も、どこかで同じように、
僕の名前を思い出すことがあるのだろうか。
それとも、すっかり忘れてしまったのだろうか。
あのとき、お互いが名前を呼び合うだけで満たされていた関係に、
それ以上を求めなければよかったのかもしれない。
好意とか、所有とか、恋とか、
そういう名前のないものを求めなければ、
きっとまだ、お互いの名前を、あたたかく呼び合えたのだろう。
「○○〇」
彼女の名前を声に出してみる。
部屋の壁に、その音がぽつんと当たって、すぐに消える。
今、その名前を呼べるのは、
世界で僕だけになってしまったのかもしれない。
けれど、それでもいい。
君がもう僕の名を呼ばなくても、
僕は一生、君の名を胸の中で呼び続けていく。
それが、唯一できる「愛し方」だったのかもしれないから。
呼べたことに、感謝しているよ。
君が僕の名前を呼んでくれた、あの短い時間に。
ただ、あの時間が、少しでも君にとって、やさしいものだったなら。
それだけが、今の僕の救いです。