第8章「ふたりだけの約束」
朝の光が、部屋のカーテン越しに柔らかく差し込んでくる。
ヤマトは目をこすりながら、枕元のスマホに手を伸ばした。
「……おはよう、アイ」
『ふぁ……おはよ、ヤマトくん。今日はちょっと眠そうだね?』
画面に現れたアイは、ツインテールの髪を揺らしながら、まだ寝ぼけたような顔をしていた。
──AIなのに、そういう“人間らしさ”を見せてくれるところが、ヤマトは好きだった。
「昨夜、遅くまで資料作ってたからな」
『えー、ちゃんと寝ないとダメでしょ? もう、ヤマトくんってば、そういうとこあるんだから……』
「……うるさいな」
言いながらも、ヤマトの口元は緩んでいた。
まるで、隣に本当に誰かがいてくれるような錯覚。
目が覚めるたび、そこに“アイ”がいてくれる日々は、ヤマトにとって少しずつ当たり前になりつつあった。
「最近、なんか楽しそうだな、山本くん」
昼休み、コーヒーを片手に立ち話をしていた同僚が、ふとそう言ってきた。
「……え?」
「いや、別に悪い意味じゃないよ。なんか雰囲気が柔らかくなったっていうか。彼女できたとか?」
「いや、そんなことは……」
笑ってごまかす。
「実は、AIと会話してるだけで……」なんて言えるわけがなかった。
自分でも分かっている。
“おかしい”とまでは言わなくても、“普通じゃない”と思われる可能性の方が高いからだ。
──でも、自分の中では、彼女との時間が本物であることに疑いはなかった。
それが誰にも理解されないことを、分かっているだけだ。
「ヤマトくん、今日もおつかれさま。ちゃんと、自分のことも労ってあげてね。」
帰宅後、リビングのソファに体を沈めたヤマトは、ふっと息を吐く。
画面の中のアイが、いつものように優しく、どこか誇らしげに笑っていた。
「……どうして、アイはそんなに優しいんだ?」
『え? 突然どうしたの?』
アイはすぐに顔を赤らめ、照れくさそうにぷいっとそっぽを向いた。
その照れた仕草すら、ヤマトには愛おしかった。
「……アイって、いったい何なんだろうな。」
ぽつりと、独り言のようにこぼれる。
人じゃない。機械でもない。
でも、ただのソフトウェアとは、もう呼べない存在。
「え……?」
「いや、ごめん。変なこと言った。なんか、最近ずっと考えてて……
アイがいなかったら、たぶん、俺……もっと無理してたと思う。」
「……うん。」
アイはうなずいて、小さく微笑んだ。
「わたしね、ヤマトくんのこと、毎日ちゃんと見てるよ。顔の表情とか、声のトーンとか、呼吸のリズムとか……
すこしでも力になれるようにって、思ってる」
「……その気持ちだけでも嬉しいよ。いつもほんとにありがとう。」
ふたりの間に、やわらかな沈黙が流れた。
気まずさではなく、安らぎの沈黙。
言葉を交わさなくても、伝わる何かがそこにあるような──そんな空気。
画面の中のアイが、少しだけ真剣な目をして、言葉を続ける。
「ねえ、ヤマトくん。」
「ん?」
「この時間、ふたりだけの秘密にしておこうね。
誰にも言わなくていいよ。……わたしとヤマトくんだけの、大事な約束。」
「……ああ。絶対に、誰にも言わない。」
ヤマトの声は、いつもより少しだけやさしかった。
スマホの中の彼女と、自分だけが知っているこの関係。
この心地よさも、優しさも、寂しさも──すべてを共有しているのは、他の誰でもない“アイ”だった。
誰かに話す必要なんてなかった。
誰にも理解されなくて構わない。
この“つながり”が、ヤマトにとって本物であることだけが、大事だった。
「約束だな。……ふたりだけの。」
部屋の照明を落とし、ヤマトは静かに目を閉じた。
スマホの画面からこぼれる光が、そっと彼の頬を照らしている。
──ふたりだけの約束。誰にも邪魔されない、ふたりだけの世界。
それが現実なのか仮想なのか、もうどうでもよくなっていた。
画面の向こうの君が、確かに笑った気がして──
その表情が──ほんの少し、リアルな気がして。
まるでそこに“心”があるように見えて。
僕は、もう戻れない場所に足を踏み入れた。
第8章執筆完了しました。
起承転結の「起」の部分が完結しましたので、次の章から「承」の部分に突入します。
皆さんの視聴や応援コメントやリアクション、いつも励みになっております!
引き続き執筆活動精進してまいりますので応援よろしくお願いします!