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私は小さなハンドバッグを持ってベルナー伯爵邸のエントランスに立っていた。
先週カリスタがやってきて、ひと悶着あった後も相変わらず花の女神の加護を催促する手紙が実家から届いていた。
その内容は、お金がなくて困窮している。少しでも多くの人を助けるべきだ。自分たちを見捨てるのかそんな手紙ばかりだった。
私がこれをずっと無視していればヴィクトアに迷惑がかかってしまう。もうこれ以上彼に甘えてはいられない。私は、自分にできることをきちんと成すために、ここに来た。
前回は訪問の日時を告げてしまっていたからあんな事になったけれど今回は、なんの知らせもなくやってきた。朝早いのでまだ彼らは屋敷にいるだろう。
ヴィクトアに何も言わずにこんな時間に出てくるのは気が引けたけれども、それも今日だけにするつもりだ。
呼び鈴を鳴らして、使用人を呼び出すと、慌てた様子で中へと引っ込んでいってすぐにもどってきて、私は、屋敷の中に入る。
屋敷の中では忙しなく使用人が働いていて、彼らは何も悪くないのに迷惑をかけてしまったことを少し後悔したけれど、それでも決意は揺るがずに私は静かに応接室のソファーに座って両親がやってくるのを待った。
……大丈夫、上手くやれる。
そうやって自分を励ましていると、興奮した様子で父と母がそろって現れた。
ばたんと思い切り扉が開かれて驚いたけれど、彼らは、何故か感極まった様子で、母が思い切り私に抱き着いてきて、あまりの距離感に硬直してしまった。
「フェリシア! ああっ良かった! 心配していたのよ!!」
「良く戻ったな。愛しのフェリシア、カリスタから話は聞いているぞ!」
「っ」
母にぐっと抱き寄せられて、急な態度の変化の意味が分からないし、そもそも手紙ではいつも通りだったではないかと考えてから、そう言えば代筆の可能性が大きいのだったと思い出す。
では彼らは、どうしてこんなに哀れな人間を見るように私を見ているのか。
父の言葉を聞いて、先日カリスタを帰らせるためにヴィクトアが言った言葉を思い出した。
「急な結婚だったんだもの私も、怪しいと思っていたのよ! 嫁入り先で相当苦労しているのでしょう?」
「そうだあの、外道め、よくも可愛い娘を……」
カリスタはあの話をすっかり信じ込んで父や母に話したのだ。そして彼らもまたそれをまったく疑わずに受け入れたらしい。
あんな話は私にとってはありえない事でヴィクトアは、私の恩人だ。
私が惨めに思われるぐらいで、カリスタが私たちに迷惑をかけなくなるのなら良いとその時は思ったが、彼らの反応から、ああいう納得のさせ方はヴィクトアの方にも変な噂が立ってしまうし良くない事なのだと今更ながらに気がついた。
……それに、あなた達には例え私が嫁入り先でどんな目に合っていても文句を言える筋合いはない。
「……私の夫の事を悪く言わないでください。お父さま、お母さま」
「……」
「……」
私の事情など一切考えず、自分たちの贅沢の為に手段を選ばないで、無理やりにでも私を使おうとするこの二人にだけは言われたくない。
……帰ったら、先週の話も撤回してもらって今後の事をよくヴィクトアと話し合おう。
それから、今まで黙っていたことを謝って、全部解決したから大丈夫だと言って、彼に花の加護を与えるのだ。
そうすればきっと喜んでくれる。笑ってくれる。最近は辛そうにしているのを見ていることしかできなかった。
だからこそ役に立てるのだと、思えたら勇気が湧いてくる。
「私は、自分の事は自分で決められるし、お嫁に行ったことは後悔していない。それに手紙がずっと送られてきていたから、直接来たけれど私は、二度とあなたたちのあっせんした人たちに加護を使うことは無い」
抱き着いていた母を押しのけてハンドバックをぎゅっと握りしめて、睨みながらいう。
決めてきたセリフなのですらすらと口から出ていった。
「きちんと協会を通して、できるかぎり資産に関係なく私は人を癒したい。そのための力だって思っています。だからどうか、自分たちだけの力でまっとうに生きてください。どんなに言われても私は考えを変えるつもりはないですから」
言い切ってから、ハンドバックの中に手を忍ばせる。この間のように父が手をあげてくるようならば、こちらも応戦するつもりだ。
「……」
「……」
しかしすぐには彼らは反応せず、妙な沈黙が応接室を包んで、雨の音だけが外から響いていた。
今日は雨が強くて空が厚い雲に覆われている。暗い雰囲気と妙な間でなんだか両親の事が不気味に思えてくる。
私は、自分にできる限りの安全策を打ってきた。手をあげられようとも主張を変えずに済むように、自己防衛するための物を持ってきたし、何かあった時の為に、長期間戻らなければ助けてもらえるよう手配した。
だから、今度こそ抜け目なく彼らを説得しつくす心積もりでここにいる。
しかし、当の父と母の様子はどこかおかしくて、異様な空気感にごくっと息をのむ。
先に口を開いたのは母だった。彼女は、おっとりした優しそうな顔のまま頬に手を当てて、可哀想な子供を見つめる様な顔をして私を見つめた。
「……やっぱり、そうなのね。やっとわかったわ」
「そうだな。これでは仕方ない」
彼らの言葉に私は瞳を瞬いて、思わず「え……」と声を出して、見つめてしまった。
もっとたくさん言葉を重ねて、口論になっても万が一説得できない場合もあるかもしれない、それほどこの二人は、不利益を認めることはしないだろうと思っていた。
しかし、拍子抜けしてしまうようなあっさりとした言葉を少ししてやっと私は受け止められて、安堵したのもつかの間、母は続けていった。
「フェリシアは、あの男に洗脳されているんだわ。だから、私たちに歯向かうようになったのよ」
「ああ、その通りだ。私たちの素直な娘を騙し打ちにして自分の屋敷に引きずり込み洗脳しているに違いない。可哀想に」
続いた言葉に目をむいて驚く。父の手が伸びてきて咄嗟にダガーを手に取り、慌ててソファーから飛び降りて転びそうになりながらも距離を取った。
「何言ってるの! そんなわけないじゃない、今言ったことは私の本心だし、何も変な事なんかされてないっ、お願い、信じて、きちんと向き合うためにここまできたの」
「刃物なんか取り出してなんて、おぞましい、あの男に邪魔な私たちを始末してこいと言われたんだろう! フェリシア!」
「きっとそうだわ貴方っ。フェリシア、貴方はただ変な男に騙されているだけ大丈夫よ、お母さまが貴方の事を守ってあげるからね!」
「......守ってもらう必要なんてありません! 聞いて、私は……」
「心配しなくていいぞフェリシア、お前の為に私たちが一肌脱いでやるからな!」
「ええそうよ、フェリシア、貴方はここにいればいい、貴方の事は私たちが守ってあげますからね」
…………。
何度言っても、私の言葉を加味した返答は返ってこないし、同じ言語で話をしていて彼らの言っていることはわかるのに、私の言葉だけはまるで彼らに届いていないようだった。
ガラス一枚向こうにいるみたいで彼らは私を見ていはいない。
自分に都合のいい事しか見えないし聞こえないし理解できないのかもしれない。
じりじりと距離をつめてくる父と母に危機感を感じてそのまま、胸にダガーを抱いて応接室の扉を出て廊下を走った。
振り返ったら、捕まってしまうような気がして全力で走った。そうなってしまえば私はこの屋敷から出ることもかなわないまま、ヴィクトアにも会えなくなる。




