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深海狂詩曲 ーTiefsee Rhapsodieー

作者: 柳瀬あさと

 初めて会った時は、ただ見た目と声がいいなぁと思っただけだった。まぁ好みの女。中身は知らないしね。

 仕事で関わって色々話して、それで「ああ、この人面倒臭い女だ」と気付いて、よし、口説こうと思った。

 だってさぁ、こんなに自分の理想に完全一致してる女が目の前にいるんだったら、そりゃ落としたくなるだろ。なぁ?




瞭花(りょうか)さん、エッチしねぇ?」

「しない」


 軽く言った言葉は冷たい一言で返された。結構本気だったのに。


「じゃあチューだけでいいよ」

「だからしない」

「何でぇ?」

「何で私がお前とそんなもんしなきゃならないんだよ」

「え、そんなの俺が瞭花さんの事好きだからに決まってんじゃん」

「それ、私の意思は何処だよ?」


 咥え煙草のお姉さんが睨み利かして、でも疲れた声で言ってくる。うん、こういうのが絵になるのって、やっぱこの人本当に綺麗なんだろうな。

 モノトーンで統一された防音のピアノルーム。俺の家の一室。外はきっと融けるほど暑いんだろうけど、ここは空調設備ばっちりで快適な温度。そんなところで好きな女と二人きりとなったら、ついもう少し仲良くなれないものかと頑張ってしまうのが、青少年の性ってもんだろう。


「いいじゃん、ちょっとくらい。どうせあのクソむかつく男とはそれなりの事してんでしょ?」


 俺は座っているパイプ椅子をこぎながら抗議というか挑発をする。反対に座っているので、背もたれの部分に顎を乗せた状態で。


「クソムカつく男って?」

砂原(さはら)(しのぐ)


 目下、一番瞭花さんと関わりが深いであろう、ピアニストの名前を出す。


「……それだけはないから安心しろ」

「マジで?」


 知ってるけど。そんなの。


「マジで」

「何で?」


 これは知らない。あの男とどうにかならない理由。だって状況的にはなってても少しもおかしくない。高校が同じ、現在はビジネスパートナーみたいなもん。一時期、砂原凌は瞭花さん以外と話をしなかった、なんて話もある。そんなんじゃ、周りは何も無いなんて思えない。だから実際どんな関係なのか詳しく知りたいんだけど。


「あのな、凌とはただの腐れ縁。つーかあいつ妹の男だし。何で好きでもない相手とそんなことしなきゃなんねぇんだよ。馬鹿馬鹿しい」


 何その答え。どうにも信用できないよ、そんなんじゃ。馬鹿馬鹿しいのはこっちだよ。


「気持ちいいじゃん」

「あいにく不感症気味でな」

「マジで? え、じゃあ俺めっちゃ頑張るよ、だからやろう」

「五月蝿い黙れクソガキ。私が此処に何しにきてると思ってんだ。消えてろ。調律の邪魔だ」


 いや、だったら一服とかしてないでさ。早く診てよ、俺のピアノ。


「偏頭痛起こしてる調律師の予定を勝手に変更して、この暑い中、朝から引きずり出しやがって。頭いてぇ」


 俺の無言の訴えに気がついたのか、休憩している理由を教えてくれた。ちょっと悪かったかな。でもさ。


「でも俺、早く調律済みので弾きたいし、大体、瞭花さんの調律じゃなきゃイヤだし。しょうがないよね」

「……ちょっとこっちおいで」


 人差し指だけくいっと動かして呼び寄せる。椅子に座ったままずりずりと引きずって近寄ると、煙草の煙を吹き付けられた。煙いよ、お姉さん。


「いい殺し文句」


 満更でもなさそうに小さく笑いながらそれだけ言うと、ピアノの椅子から立ち上がって、床に置いてある灰皿に煙草を押し付けて消した。仕事に入るらしい。


「だろ? でもマジだよ」


 俺は笑って答える。

 ああ、この人、ホント可愛いなぁ。


「仕事するから出てけ」


 早速俺のグランドピアノの蓋を開ける。自慢のスタインウェイ。高かったんだ冗談無しに。俺の宝物で相棒。しっかり頼むね。


「いちゃダメ?」

「ダメ。お前どうせ喋るから邪魔」


 俺はわざとらしく、子供みたいに「けちー」と言って椅子から立ち上がる。冷えた水と頭痛薬を持ってくるよと言ったら、それよりも食料をくれと頼まれた。何て図々しい人だろう。そう思いながらも、この家になんか食べるものあったっけ、と考えた。




 俺、笠置(かさぎ)眞哉(しんや)と、あの人、篠崎(しのざき)瞭花は二年の付き合いになる。仕事上の付き合いだけというのが非常に寂しいが。

 この短いんだか長いんだか分かんない間に知った事と言えば、言葉遣いが汚い事、あんましスカート履かない事、ヘビースモーカーで煙草はいつもフィリップモリスだと言う事、一人暮らしが長くて家事が得意だという事。

 そして何より、調律の腕が抜群で、あと顔と声が最高にイイ。




「瞭花さん、美味しい?」

「…………お前に作らせた私が馬鹿だった」


 あら酷い。


「そんなに不味い?」

「お前、何で茹でるだけのパスタとインスタントのソースでこんな失敗作を作り出せるんだよ……ッ! パスタは茹ですぎでふにゃふにゃだしソースは逆に冷えてて油が固まってるし……ッ!」


 薬を渡してから、俺がしていたことは台所で悪戦苦闘の調理。ようやく食事らしきものが出来上がったころには、ピアノの調律は終わっていた。

 さぁどうぞ、と、お腹を空かせた彼女にフォークを渡したが、どうもお口に会わなかったようで。


「うーん、でも食えるよ?」

「食えるけど食うな!」

「じゃあ瞭花さん作り直してよ」

「なんで私が。もういい、帰るよ」

「ちょっとくらいいいじゃん。どうせ今日はさ、瞭花さん俺が貸切の予定なんだし。ね、作り直してよ。俺がやると食材が無駄になるみたいだし」

「お前のちょっとくらいはちっともちょっとじゃないんだよ……わかったよ、作ってやるよ」

「よっしゃ! 久々に瞭花さんの手料理!」

「……お前、それ目当てじゃ……」


 呆れたような溜息を吐きながらも、既に料理人の体制に入っている彼女は、まるで自分の家のように気安く我が家の冷蔵庫を空ける。


「……眞哉くん?」

「何?」

「以前にも増して見事に食材がないんですけど? いや、皺々になったピーマンなら一つあるけど」

「ピーマンだけじゃサラダにもならないよね」

「つーかこれ食えねぇから。お前食生活変わってねぇだろ」

「ああ、うん。外食とか外食とか外食とか?」


 あとは出前。だってもうこんな生活五年目だし。変えようと思ってもなかなか変えられないよね。安心してほしい、冷蔵庫は空でもレトルトは充実している。


「栄養バランス考えて食事しろって言っただろ! 肝心な時に体調崩して『演奏出来ません』なんて許されねぇからな! ったく……もういい、分かった、買い物行く」

「へ?」


 言葉はちゃんと聞き取ったはずなのに、一瞬脳みその処理が遅れて、俺は間抜けな声を返す。理解した頃には、彼女は自分の荷物から財布を取り出して玄関に向かっていた。


「近くのスーパー行ってくるから、ちょっと待ってろ」

「あ、ねぇ、荷物持ちって必要だよね」


 俺は慌てて後を追うと、何でか深い溜息を返された。


「……ついて来い」

「デートだね」


 もう一回溜息を吐かれた。




* * *




 何故か分からないが、横で浮かれたようにへらへら笑いながら話しかけてくる笠置眞哉という少年に、私はやたらと好かれている。まぁ、何処まで本気なのか分からないが。

 音楽事務所所属のピアノ調律師という立場で色々な演奏家と知り合ってきたが、文句無しの天才だと思ったのは二人だった。一人は砂原凌という腐れ縁のピアニストで、もう一人は現役高校生ながらもスタジオミュージシャンをしているこの少年だ。


「ねー、何作ってくれんの?」

「適当に」


 この図体のでかい少年は、私から見たら非常にもったいない生き方をしている。


「適当って何だよ」

「適当は適当。何か食いたいもんあんの?」

「んー、美味しいパスタ」

「美味しい、ね」


 鍵盤だったらピアノだろうがシンセサイザーだろうがパイプオルガンだろうがアコーディオンだろうが何でもこなせる天才。前線で活躍するミュージシャンやプロデューサーから愛される音を吐き出すくせに、決して表舞台には出てこないで裏方に徹してる。

 何てもったいない。彼の音は単音でも音楽になるのに。ホールの空気を震わせて、人の心まで響くだろうに。おまけに見た目も華やかなので舞台映えするだろうに。


「眞哉、お前高校二年だっけ?」

「イヤ、三年。何で?」

「卒業したらどうすんの?」


 ただの好奇心で尋ねた事に、少年もすぐに軽く答えた。


「んー多分、今の仕事で生きる。でももしかしたら、専門に行くかもしんないな」


 なんだか意外な答えが余分についてきた。専門? って、専門学校?


「何処の?」


 何の、ではなく、何処の、と聞いた。だって音楽関係の専門なのは分かりきった事だったし。音楽以外のものに行くなんて、ありえないと思ったし。


「何処でもいいんだけど、調律の学校。ピアノの」


 今度も間髪いれずに返って来た。けれど、その内容に驚く。


「は? 調律? 何でまた」

「瞭花さんの影響」

「死にたいのか?」

「何で。冗談言ってるわけじゃないんだよ? 俺さ、今まで生きてきた中で瞭花さんほど腕のいい調律師に会った事ないんだよね。俺はそれまで、調律って狂いを正すだけって印象の方が強かったんだ。確かに音色も変化した事あったけど、所詮は同じピアノのままじゃんって。けどさ、瞭花さんは同じピアノを別のピアノにしたから」


 嬉しそうに、何処か遠くを見て言う。私が昔やった調律を思い出しているのだろうか。


「それまで、買って来た上等なピアノだったのが、俺の上等なピアノに変わった。それがすっげー嬉しかったんだ。だからそれで、調律に興味持って、あと瞭花さんの弟子とか楽しそうじゃん」

「反対だな」


 遮るように言ってしまった。言ってから我に返り、自己嫌悪に舌打ちをしたくなる。


「え、何で? 何で反対?」

「……別に」


 言うつもりはなかった。そこには身勝手な好意と執着が混ざっていた。


「別にじゃないよ、俺の将来なんだから答えてよ、ねぇねぇ」


 けれど、眞哉はしつこくまとわりついて来る。つーか街中でくっつくな。何度も何度も「何で?」と言うから、思わず苛立ちと一緒に口をついて出た。


「だってお前、演奏する奴がそこまで考えるなよ、弾く事だけ考えてろよ、作り出す音だけ考えてろよ」


 口早に、吐き捨てるように言ってしまった。

 そこらの人間には絶対に作り出せない、綺麗で情熱的な深い音。まるで呼吸するみたいに、凌もこいつも容易く最高の音を作り出す。努力なんてしてるのは知ってる。それでも、傍から見たら、足元に落ちてるものを拾うほどの容易さで出して。神様に愛されてるから、なんてふざけた言葉がぴったりなくらい、一つ上の音楽を奏でる。


 弾く事しか考えてないくせに。


 私が言うまでもなく、生粋の演奏家で、例え調律に興味を持ったとしても、優先事項は弾いて音楽を作り出す事なのだから。そんな人間が、わざわざ調律を学ぼうだなんてするなよ。そんなの時間の無駄だ。


「あれ、俺、もしかして愛されちゃってる?」


 ……何で今の会話でそういう流れになるんだ。


「死ねよ」

「うわ! 疑問形じゃなくなってるよ! 怒んなくたっていいじゃん!」


 けらけら笑って私の一瞬の激情を流すから、私も安心して何も無かった事に出来る。


「怒ってねぇよ、呆れただけだ」

「じゃあやっぱ専門やめよっかな」

「やめとけやめとけ、仕事に邁進しろ」

「ねぇ瞭花さん、俺食いたいものあった」

「何?」

「瞭花さん」


 殺そうかなって、本気で思った。

 とりあえず、それは実行できないので、スーパーまで無視をした。

 自動ドアが開いて涼しい空気を浴びて、カゴ持ってとりあえず野菜売り場まで行ったら、いいかげん隣で喚いてるガキが鬱陶しくなった。


「眞哉くん、少し黙ろうね」

「あ、やっと口きいた」


 無視しないでよね、と不貞腐れたように言ってきたが、自業自得だろう。


「ねぇ瞭花さん、俺茄子食いたい茄子」

「茄子食いたいなら、ミートソースと和風パスタどっち? それとも茄子は単品で?」

「パスタでも使って単品でも食べたい。あ、和風パスタがいい」

「はいはい」


 きのこ類を適当にカゴに入れて、ついでにサラダも作ろうと野菜を入れる。いいトマトがなかったからプチトマトで我慢しよう。


「デザートはアイスにしようよ。ハーゲンダッツ」

「贅沢か」

「美味しいじゃん」


 そんな会話をしながら、五百グラムのパスタも入れてアイス売り場に行くと、なんだか見慣れた二人が目に入った。


「……あぁ?」

「げ」


 妹の千花(ちか)と、凌だった。


「あ、お姉ちゃん」


 千花が先に気付いてこちらに手を振る。私は振り返しながら近付いて、とりあえず凌の胸倉を掴んだ。


「……お前何やってんの?」


 目の前に迫った見慣れた顔は、二十代半ばの男のくせに、フランスの女の子を思わせる整った目鼻立ちをしていた。その整った顔が笑顔を作るのが、今の状況ではどうしようもなく腹立たしい。


「おはよう、瞭花ちゃん。何って買い物だけど? あ、笠置くんもおはよう」

「顔も見たくないけど一応『こんにちは』。ところであんた、今日レコーディング入ってなかったっけ?」


 眞哉が何故か凌のスケジュールを知っていてそれを口に出す。入ってなかったっけ、じゃなくて、入ってるんだよ、確実に。


「………………あっ!」

「このボケ! 『あっ!』じゃねぇ!」


 揺さぶりながら言うと、しまった何処で何時からだっけ、なんてふざけた事を言った。


「今日の一時半から! いつものスタジオで! お前昨日も確認しといただろ! 何やってんだよ、時間ねぇぞ、急げこの馬鹿!」

「え、どうしよう、瞭花ちゃん今日足は?」

「眞哉んちまでは車。お前は?」

「僕此処まで車。じゃあ僕の車で。お願いします」

「わかった。悪い、千花、こいつ連れてく」

「うん、頑張ってね。あと二十五分だよ」

「ありがとう、頑張るよ。ごめんね千花。今日の夜にでも顔出すから」

「あはは、期待しないで待ってる」

「眞哉、悪いけどこいつ連れてくから、今日は……」

「俺も行くよ」


 走り出す体勢のままで、私も凌も固まった。

 今こいつ、何て言った?


「俺もついてく。どうせ今日は暇だし」


 イヤ、暇とかそういう問題じゃないような……何もすることないと思うんだけど。頭の構造わかんねぇな、今時の高校生。


「あー……んじゃ来い。急ぐぞ」

「ん」


 何で平和な日曜日がこんな慌しくて面倒な事になってるんだろう。

 頭の片隅で誰にともなく、強いて言えば天に向かって文句を言ってみたが、こんな事は悲しいかな慣れっこになっていたので、頭の大部分はこのスーパーからスタジオまでの最短距離を探す事に専念していた。




* * *




 今日は夏休みに入ってから二回目の日曜日で、仕事仲間から砂原凌は昼頃に収録あるって聞いたから邪魔されないなって思って瞭花さんに調律を頼んだ。一日暇だからいつでもいいと言うので、お昼からって頼んで、でもどうせなら早く来て欲しいなって思って朝からにしてもらった。偏頭痛だって言ってたけど頭痛薬飲んだら治ったみたいだし、この分なら一日中振り回せるかなって思った。とりあえず昼飯付き合ってくれるみたいだし、それどころか作ってくれるみたいだし。だから俺としては凄く楽しかったのに。

 何この事態?

 何で砂原凌なんかに偶然会っちゃって、ついでに尻拭いなんかに付き合わなきゃならないんだ?


『じゃあ僕の車で。お願いします』


 何それ? 車あるならてめえで運転しろよ。何で当たり前みたいに瞭花さんに頼んでんの? でもって、何で瞭花さんも当たり前みたいに受け入れてんの? あと千花さんも。嫌だ、二人の流れるような連携を見せ付けられたみたいですごく嫌だ。

 俺の食生活の変化の無さを呆れてたけど、あんたたちの変な関係の方が呆れるよ。

 変だよ。はっきり言って、あんたたちの関係、凄く変だよ。

 ねぇ、何でその事に気付かないかな? それとも気付いてんのに無視してる? 本当にわけ分かんないよ。何なの、あんたたちって?


「着いた! 何時何分?!」

「一時二十八分!」

「走れ!」


 かなり乱暴なドライブの終わりは、嘘みたいなスピードでの駐車。此処からはそれこそ砂原凌だけでいいはずなのに、何故か二人同時に車から飛び出すから、仕方なく俺も出た。走って中に入っていく。受付で名前を書く時、受付の人がいつもの事みたいに二人を見てたのが変だった。何でこんな事に慣れてんのさ。


「すみません! 遅れました!」


 コントロールルームへ最初に入りこんだのは瞭花さん。その後ろから砂原凌が「おはようございます」と顔を出した。あ、もしかしてこいつ、俺にも業界用の挨拶した?


「遅れてない遅れてない、時間ジャストだよ」

「奇蹟だね。砂原ちゃんが時間通りに来るなんて。篠崎ちゃん、いつもありがとう」


 プロデューサーとか常連のスタッフだと思われる人とかが笑いながらそんな事を言う。あんたたちもこの二人に慣れてるんですか。変ですね。皆変ですね。


「あれ? 眞哉君? どしたの、今日何か予定あったっけ?」


 二人の背後に立ってた俺を目ざとく見つけたのはエンジニアの三石さん。俺もよく世話になってる人なのでコンチハと言って頭を下げた。


「今日、予定ありましたよ。腕のいい調律師にうちのピアノ診て貰うっていう予定が。そしたら腕のいい調律師が、自分の仕事忘れた間抜けな人に捕まってこんなところまで来ちゃったもんだから、つい追っかけてきちゃいました」


 誰と誰をさしているのか、その場にいる人皆分かったみたいで、皆笑った。苦笑だったり腹からの大笑いだったり。


「そうだったんだ、ごめんね笠置君」


 砂原凌が驚いた顔して言ってくる。本当に今までわからなかったのか、この人。失礼な奴だ。車ん中では俺の存在無視してたし。まぁそれは荷物整理したりスタジオに連絡したりしてたんだけどさ。でもやっぱムカつく。


「謝るなら、俺より瞭花さんでしょ」

「え、何で?」


 ……何でって何で?


「あんたムカつく」

「え、そうなの? 何で? 俺、笠置君の音も仕事も好きだよ?」

「イヤ、俺もあんたの音凄ぇと思うけど、それとこれとは別問題でしょ」

「同じじゃない?」

「違ぇよ」


 この人と話してると頭痛くなってくる。瞭花さんも千花さんも良く耐えられるな。スタッフの皆さんは平気なのか? 頑張ってくれ。


「嫌われちゃったな、砂原ちゃん」

「うん、そうみたい。何でだろう」


 笑いながら声をかけてきたスタッフの一人に、ちょっと呆然としながら言い返すから、余計周りの人が笑った。


「眞哉、馬鹿な会話やってないで、もう行くぞ」


 失礼しますと頭を下げながら、瞭花さんは俺の頭も無理やり押さえつけて下げさせた。俺、この場合誰に頭下げてんだろう。


「え、何で君まで行っちゃうの?」


 そこでまた、砂原凌がふざけた事を言う。


「調律やってよ。暇でしょ?」


 あー、この人殴りてぇ。脱力しながらも俺は本気でそう思った。けれど、実際に動いたのは瞭花さんだった。


「……スタジオのピアノなんて調律済みに決まってんだろ」


 スーパーで出会い頭にやったみたいに、胸倉掴んだ。しかも笑顔で。そして顔を近づけてぼそぼそと喋る。ちょっと近過ぎだと思うんですけど。


「でも僕好みじゃないよ、多分」

「君の今日のお仕事は何かな?」

「コンセプトアルバムのゲスト……あ」

「分かってんなら私に調律してとか言うな!」


 小声で叫ぶという器用な真似をしながら再び揺さぶった。スーパーの時より激しい気がする。いい気味だ。


「お前の音楽やる時にはいつでも好きなだけ調律してやるから、馬鹿な事をプロデューサーの前で言うな、この馬鹿」


 あ。


「ごめん、今回は僕の失敗。今度の水曜の録りと混ざってた」


 ちょっと待て。今の発言。


「話終わったかぁ? そろそろ仕事入ろうや」


 プロデューサーが喉で笑いながら促す。きっと小声でも二人の会話は聞こえてたんだ。それでも笑うのって、それっていいの? ありなの?


「あ、すみません、お待たせしました。じゃあ瞭花ちゃん、またね。笠置君、バイバイ」


 俺たちに早口で言って仕事にとりかかろうとする。またねとバイバイの違いって、何? なんだかあっさりとした終わり。扉が閉まって、それで俺と瞭花さんは二人、廊下に取り残された。


「……帰るか」

「もうファミレス寄ろうよ」

「……だな」


 疲れた様子の繚花さんに、ところで俺らどうやって帰るの? と尋ねて、溜息つきながらしゃがみこまれてしまったのは、それから三秒後だった。




 結局タクシーで帰る事になって、俺の家近くのデニーズで降りて中に入り、すぐに案内されて席に着いたら、俺も瞭花さんも不機嫌面だった。


「……何怒ってんだよ」

「別に怒ってないよ」


 唸るような瞭花さんの声に、俺はしれっと嘘を答えた。


「怒ってないなら、どうして禁煙席なんて言ったんだよ。私がいるのに」

「だって俺、煙草嫌いだし」


 もう一回嘘を言った。煙草なんて別に好きでも嫌いでもない。瞭花さんが吸ってるのを見るのは好きだけど。


「へぇ、嫌い。そりゃ初耳だ。じゃあこの前、私の煙草が一気に五本減ったのは、座敷童かなんかの仕業か?」


 そういや、若気の至りでそんな事もやらかしたなぁ。よく覚えてるな、この人。


「うん、きっとそうだよ」

「ふざけんなこのクソガキ」

「っていうかさ、瞭花さん本当に俺が何で怒ってるか分かんないの? だとしたらちょっと酷くない?」


 俺はさっきから窓の外を見て、瞭花さんと一切目を合わせないようにしていた。ガキみたいな行動は、そういえばこの人の前でしかしていない。だってこの人の前で大人びても逆に子ども扱いされるだけだし。


「……悪かったよ」


 背伸びすらさせてくれない、考えてみたら結構酷い女の人が、観念したようにそう言った。でもこの人、本当に何が悪いのか分かってんのかな。


「何が?」


 だから、ちょっと意地悪して訊いてみる。

 そしたら案の定、返って来たのは見当違いの答え。


「だから、昼飯作ってやれなくて」


 うわあ、この人、ホント馬鹿。それとも、俺の事なめてる?


「……そんだけ?」

「関係ない事に巻き込んで悪かったよ! けどなぁ、お前がついて来るって」

「ねぇ、瞭花さんて結構馬鹿?」


 これ以上意味のない謝罪と言い訳を聞きたくなくて、無理やり打ち切って尋ねてみると、さらに不機嫌そうな声がした。


「どういう意味だよ」


 俺はようやく瞭花さんの方を向く。そこには眉をひそめて俺を睨んでいる綺麗な女の人がいる。こんな状況だっていうのに、この人エッチの時いい顔してくれそうだな、とか思ってる俺も、相当な馬鹿だ。

 しばらくの間、俺も睨むようにじっと瞭花さんを見てから、俺の家で瞭花さんがやったみたいに、人差し指を動かしてこっち来いってやった。

 そうして不審そうな顔で身を乗り出してきた彼女に、軽くキスをした。

 ざまあみろ。

 驚いた顔で固まったのは一瞬。すぐに射殺されるんじゃないかってくらい睨まれたけど、俺は何事も無かったように背もたれに寄りかかってメニューを見だした。


「おい……!」

「こういう事だよ」


 嘘じゃなくて本音で言ったら、即座に椅子をひいて席を立たれた。


「帰る」

「じゃあ俺も」

「来るな」

「ヤダよ」


 お客様、どうかされましたか? なんて、俺たち二人の険悪さも気付かずに、呑気な店員が声をかけてきた。瞭花さんがすみません帰りますと早口で言って歩き出したから、俺は何も言わず店員に小さく頭を下げただけで後を追う。戸惑った様子の店員は、けれど何も注文して無い俺たちに、ありがとうございましたと言った。なんか間抜けだ、その言葉。


「ついて来るな」


 走ってんのかって言いたいくらい早足で歩く彼女の後を追いながら、俺は呆れ顔になる。


「行き先同じじゃん」

「じゃあ後から来い」

「ヤダってば」


 諦め悪いな、この人。


「あのなぁ!」


 いいかげん我慢が出来なくなったみたいに立ち止まって振り向くから、俺も立ち止まって睨みつけた。


「何で怒ってんの?」

「怒ってねぇよ」

「怒ってるじゃん」


 普段目立つの嫌いな人が、こんな歩行者たくさんの普通の道で声張るくらいに。


「……お前さ、本当に私が何で怒ってるか分かんねぇの?」


 さっき俺が言った台詞を言われた。なんか余計に頭にきた。


「分かんないね。だって多分俺の方が怒ってるし」

「だから何でだよ」


「俺はあんたが好きだって前から言ってるじゃん」


 怒鳴る一歩手前の声と、静かに喋る声。両方怒っている声なのにこんなに違うのは、多分怒りの深さとか大きさが違うからだよね。

 俺の方が、きっとでかい。


「もしかしてさぁ、瞭花さん冗談だとでも思ってたの? ふざけんなよ。俺がそういう人間じゃないってさすがにもう分かってるはずだろ? それとも俺がどういう人間かも分からないくらいどうでもよかった? 気にしてなかった? それって酷いね。そんなんで俺の人生とか生活とかに口出ししてたんだ。最悪。俺はね、大事な感情に絶対嘘はつかないよ。っていうか、からかうの目的で二年も好きって言い続けるかよ」


 一息にそこまで言うと、彼女は途端に怯んだように顔を歪めた。


 知ってる。瞭花さんは本当は俺みたいな人間が苦手で、感情丸出しでぶつけられると上手く対処が出来ない。大人の付き合いなら大得意のくせに、子供の付き合いは出来ないなんて、人間終わってるよ。そういう人間多いけど。


 振り回されるの嫌いなくせに、振り回す人間ばっか惹きつけてさ。何だかんだで付き合ってくれちゃってさ。自分のスペースにはちっとも入れてくれないくせに、簡単に振り回されはするんだよね。馬鹿みたい。


 ゆらゆら水面に浮かんでるみたい。ビニールの浮き輪に乗っかってさ。だけどそれって、ちょっとした事ですぐに空気が抜けて沈んじゃうじゃないの? そうなったらあっという間に溺れちゃうんじゃないの?


 そんなの知ってるけど、加減なんてしてやらない。必死で泳ごうとしない人間を、誰が助けてなんてやるもんか。


「好きな女と一緒にいるのに、その女が俺を忘れて他の男のために動いたら、自分勝手だけど頭にくるに決まってんだろ。しかもその女は俺が怒ってる理由も分かってねぇのに、大人ぶって慰めたりするし」


 誰が助けるか。冗談じゃない。

 本気で底まで引きずりおろしてやる。


「子どもの戯言だと思ってんじゃねぇよ、もっと周りよく見ろよ、好きって言ってんだからちゃんと答えろよ、それが出来なきゃこっち向くな! こっちはいちいち痛いんだよ!」


 最後だけ怒鳴ったら、少しすっきりした。

 呆然としてる相手に、少しだけ優しく言う。


「……あの場で襲われなかっただけ、ましだと思えよな」


 言ってる内容は、あまり優しくなかったかもしれないけど。




* * *




「……あー、その……」


 眞哉からの告白に驚いている反面、なんだやっぱり本気だったのかという冷静な頭があった。それでも、こういう時に何を言えばいいのかは分からなかったが。


「眞哉、私は別に……」


 深く考えずに口を動かしたら、自分でも疑問に思う言葉が出てきた。

『別に』何? 何だって言うんだ?


「帰ろうか」


 意外なほどあっさりと、眞哉の方がそう言って歩き出した。いつの間にか俯いていた私は、動き出した足につられるように顔を上げた。


「俺たち目立ってるよ」


 どうでもよさそうに言って、私の手首を掴んだ。まだ歩き出していなかった私は引きずられて、転ばないように慌てて歩き出した。周りの人たちの視線が、動くのと同時に四散するのが分かった。

 無言のまま歩く。まるで私が迷子にならないために手首を掴まれているようだと思った。それなのに、やっぱり子供を相手にしている感じが強かった。そう感じる事自体、思い上がりなんだろうか。

 迷子になるのはどっちだろう。迷子にしているのはどっちだろう。子供はどっちで、大人はいるのか。


「眞哉」


 呼んでも答えは返ってこない。仕方無しに私も黙り込む。

 好きだと言われた。それは会って暫くしたら言われ始めた事で、だけどあまりにも簡単に軽く言われてきたから、何処まで本当なのか分からなかった。信じていなかった。


 違う。信じようとしなかった。


 だって、怖い。


 誰かを本気で愛するとか、何かに心血注いで打ち込むとか、そういう剝き出しの情熱や欲望を持った人間は強くて、そして脆い。何かのきっかけであっさりと壊れてしまう。狂ってしまう。


『何で私じゃなくて瞭花に才能があるの!!』

 母さんはピアノ教師で、優しくて大好きで仲が良くて、だけど何が引き金だったのかいまだにわからないけれど、ずっとため込んでいた母さんの感情がある日制御不能になった。


『瞭花、お前はピアノを弾きなさい』

 音楽と私のせいで病んでしまった母さんを死ぬほど愛しているくせに、アートコーディネーターなんてやってる芸術狂いのクソ親父は、それでも私にピアノを弾けと言ってきた。


『僕の音に狂わないでいて、その状態で僕の音だけ好きでいて、僕自身は嫌っていいから、ねぇ、お願いだから』

 私と同じように母親を狂わせた過去がある凌は、凌の音楽は好きだと言ってたまたま母親から助け出した私を、まるで神様か何かのように執着してきた。


 何なんだよ。勘弁しろよ。

 たかが音楽だろ。数多くある文化の一つで趣味の一つに過ぎないだろ。

 私だって音楽は好きだけど、人を傷つけてまでは選べない。人を狂わせてまでは選べない。そこまでの情熱は私にはなかった。


 なくなった。


 別に仕事上でなら構わない。それだったら関わりたい。何だってする。望むなら調律以外でもいい。実際、凌相手には私的にマネジメントみたいなことも請け負っている。相手が望むなら望むだけのものを与えてやりたいと思う。

 だけど、それはあくまで仕事上だ。


 上辺だけの付き合いでいいじゃないか。音楽なんてただ楽しむだけで、飯の種にしてればいいじゃないか。


 そういう人間とならいくらだって付き合えるのに。


『俺はあんたが好きだって前から言ってるじゃん』


 眞哉がさっき言った言葉が頭から離れない。本気の目で本気の声だった。眼差しも声も言われた内容も、頭から離れない。


 怖い。


 受け入れて、その結果、眞哉が傷ついてしまったら? 歪んでしまったら? 音楽に選ばれた人間が、音楽を作れなくなったら?

 もしもの話だ。でも可能性のある話だ。嫌だ。怖い。気持ち悪い。吐きそうだ。

 表面だけの付き合いでいいんだよ。それだけで人間なんて生きていける。傷付けないような穏やかな関係なんて、そうやって幾らでも築けるのに。


「眞哉、痛い」


 本当は大して痛くないのにそう言った。けれど緩めてくれる様子はなかった。


「離せよ」

「ヤダよ」


 何でだよ。傷つくだろうとか、傷つけるだろうとか、嫌な思いをするだろうとか、泣かせるだろうとか。そういう事を考えていないはずはないのに、何で全部無視して中に踏み込めるんだ。どうしてそこまで求めるんだ。


 何でそんなに強い感情を持てるんだ。


「……家に帰ったらさ」


 私とは違う生き物が口を開く。


「食事にしようか」

「……何言ってんだよ」


 これ以上、誰も傷付けたり歪ませたりしたくないだけなのに。

 眞哉の家に着いたら、車庫に入れさせてもらってる自分の車に駆け込みたくなった。けれど手首は相変わらずの強さで掴まれていて、私が進路を変えるよりも早く先に進むから、結局私は眞哉が行く方向にしか進めない。


「眞哉、離せ。もう帰るから」

「だからヤダってば。さっきから人の話聞いてんの?」

「離せって、本当に! 今日ちょっと変だから、私」

「ああそう。俺も変なんだ。奇遇だね」

「眞哉!」


 聞く耳持とうとしない相手に怒鳴る。けれど相手は動じず、玄関まで無事たどり着いて鍵を開ける。私が必死で振りほどこうとしても叶わない。


「馬鹿じゃないの」


 玄関のドアを開けながら、少し嬉しそうに、けれど見下したように言う。


「本気で逃げようと思ったら、絶対逃げられたはずなのに」


 言って、私を放り投げるように無理やり家の中に入れた。いや、放り投げられたのだ。

 振り回される形になって、私は前のめりに転びそうになる。ようやく自由になった手で廊下に手をつき体を支えたが、手のひらは必要以上に強く打った。振り返りながら起き上がろうとしたら、それよりも先に乱暴にひっくり返される。

 背中を廊下に打ち付け仰向けになり、そうして初めに見たのは表情がない眞哉の顔。

 なのに分かった。今まで見たことないくらい、怒ってる。


「……どけよ」


 押しのけて立ち上がろうとしたら、手を捕まれて床に押さえつけられた。反対の手もつかまれて、片手で両手を抑え込まれた。


「食事にしようって言ったじゃん」

「じゃあどけよ!」


 叫んだら、いっそ蔑むような目で見られた。 


「俺、食いたいものあるって言わなかったっけ」


 その意味に気がついて苛立ちが強くなる。


「殺すぞ」


 睨みながら言ったら、鼻で笑ってから空いている片手で私の口を無理やり開けた。


「出来るの?」


 馬鹿にした言い方をして、口内を指で蹂躙してきた。

 喋れない。そして、噛めない。噛めるわけがない、演奏家の指を。

 舌で押し出そうにも、逆に長い指で弄ばれる。口を閉じることもできなくて、よだれが口の端から垂れる。

 呼吸すら苦しくなった時、グイッと下顎を掴んで横を向かされた。さらけ出された首に噛みつかれて圧し掛かってきたのが、限界だった。

 思い切り蹴り上げる。膝が見事に腹に決まった。一瞬くぐもった声が聞こえたと思ったら、体の動きが止まったので、もう一度足に力を入れて腹を蹴り飛ばした。

 衝撃と痛みで私から離れたその一瞬で、私は体を起こして距離を取る。そして叫んだ。


「ふざけんな! 指を人質にしてんじゃねぇよ!!」


 怒りの叫びは、少し裏返った声になってしまった。

 けれどそれを聞いた眞哉は一度目を丸くして、そして頭を抱えて座り込んで笑い出した。


「……はは! ああもう、マジかよ、あんたって本当にさぁ……」


 可笑しくてたまらないといった様子でひとしきり笑ってから、顔をこちらに向けた。いつも見る笑顔が見えた。


「最高」

「……わけ分かんねぇよ……」


 疲れ切った声で言ったら、体から力が抜けた。眞哉がまた可笑しそうに笑う。何が琴線に触れたのかはわからないが、怒りは解けていつもの眞哉に戻ったようだった。


「ねぇ瞭花さん、キスしていい?」

「ダメに決まってんだろ」

「えー、じゃあ抱っこさせて」

「はぁ?」


 予想外のお願いに、眉根を寄せていぶかしんだ。


「いや、本当に抱えるんじゃなくって、俺が座ってる前に座って、で、俺が後ろからぎゅってするやつ。あれ。よくラブラブな恋人がやるやつ」

「……ラブラブな恋人がするのか?」

「しない?」

「分かんねぇけど……」

「じゃあラブラブな恋人がしないかもしんないけど、とにかくそれやらせて」


 了解もらえるのが当然みたいな笑みで、犬みたいに期待に満ちた目をする。「お前馬鹿か?」って言いそうになるのをぐっとこらえて、小さく首を縦に振った。さっきまでの暴走状態に比べたらかわいいものだと思ってしまったのだ。


 眞哉は靴でも履くみたいに玄関口で座って、足を開いて私が座る場所を作った。そこに座ると、さっきまでとは違ってやたらと優しく抱きしめられた。

 背中から熱が伝わってくる。硬いのに硬くない。さっきまでの冷たい廊下とは違う。腕が思ったよりしっかりしてて、やっぱり硬くて。ちょうど腹の上で重ねられた手は鍵盤を操る人間らしく大きくて指が長い。唾液は拭ったようだったけど、この指がさっきまで口の中にあったのかと思うと変な気分だ。息がかかる。首筋に。そこに顔を埋めてくる。

 一瞬、また噛まれるのかと思ったけど、そんなことは無くて、そこで本当に力が抜けた。

 すっぽりと収まってしまった自分の体に気付いて、出会った時の、自分と同じくらいの体格の少年はもういないのだと気付いた。


「…………おい、もう手ぇ出さねぇんじゃなかったのか?」


 首筋が吸われてる感じがして文句を言うと、寝ぼけたような声が返ってきた。


「んー、これ口だもん」

「屁理屈言ってんじゃねぇよ」


 言いながら、もう色々面倒くさくなってほとんど眞哉に寄りかかる形で目を閉じた。

 結局離してもらえなかったのに、もう逃げようとも思わなかったし怖くもなかった。

 それでも、まだ動悸は激しかった。




* * *




 初めて会った時は、ただ見た目と声がいいなぁと思っただけだった。仕事で関わって色々話して、それで違和感を覚えた。

 たかが音楽、と言い切るのに、多分本当にそう思っているのに、当の本人は偏執的なまでに音楽を愛していた。そのくせ、同じように音楽を愛している奴らを警戒して一線を引いていた。あんたそんなんで何で調律師なんてやろうと思ったんだ。しかも事務所とは別に誰かさんのマネジメントだとかの雑務までやったりして。

 変な女だ。面倒臭そうな女だ。厄介な女だ。たかだか高校生のスタジオミュージシャンの世話まで焼いて、それなのに、近づくなと言わんばかりのやたらと攻撃的な目と声で、でもそれが最高に綺麗で、落ちた。


 多分この人は弱い自分を守るために強くなったんだろうな。


 人の性質を見抜く目にだけは自信があった。なんせガキの頃から音楽家の親に引っ張りまわされて、知らない大人連中にもまれてきたんだから、嫌でも人を見る目は身についた。ついでに性癖も歪んだ。


「あー……瞭花さんいい匂い」

「変態っぽい事言うな」


 俺の腕の中で彼女は言う。ちょっとした優越感。普段こういう事は相手にもしてくれない女が、抵抗無しで俺に捕らえられている。気持ちいいね。


「……眞哉」

「何?」

「暑い」

「夏だしねぇ」

「いや、だからさ」

「でももうちょっと」


 別に場所変えてもいいけどさ、リビングかピアノルームにでも行ってエアコンつけてる間に、この人の気が変わっちゃったら、もうこんな美味しい思いさせてくれないでしょ? あ、でもピアノルーム防音だから、それはそれで楽しいかも。


「あのな、眞哉」

「何?」

「私は別に……」


 そういえば道で、何かを言いかけていた。どうせくだらない言い分だろうと思って打ち切ったけど。


「別に、凌の事は好きってわけじゃないんだ」


 …………えー? 何それ。


「瞭花さん、男に抱かれてる時に、別の男の話題出すのは駄目でしょ」

「これは抱かれてるに入らないだろ」

「本当にヤっちゃうよ」

「本当に殺すぞ」


 っていうか、襲われた直後に何でこんな強気なんだ、あんたは。


「茶化さないでちゃんと聞けよ。私はあの時、お前の事を忘れて凌の事で頭一杯になったわけじゃ……いや、そうかもしれないけど」

「どっちよ」

「だから聞けって! 凌に関しては、あれは例外なんだ。ちょっと過去にも色々あって……いざという時には頭の中が勝手にあいつを最優先にしちゃうんだよ。罪悪感というか、責任感というか。だけど別に好きってわけじゃなくて……むしろあいつ自身は嫌いかどうでもいい存在ってくらい感情のランクじゃ下の方で……だから……ああもう! 何でこんな事お前に言わなきゃなんねぇんだよ! お前別に私の男でもなんでもねぇだろうが!」


 苛々したように言い放って腕をどかそうとするから、俺は何も言わずに力を込めてさらに抱き寄せた。


 ムカつくなぁ。いざという時に最優先にしちゃう、って。

 それって、好きとどう違うの? いやな女。


「……暑いっつーの。くっつくな」

「だって逃げようとするし」

「そもそもなんでお前に捕まえられなきゃなんねぇんだよ!」

「自業自得じゃない?」

「何が!」

「逃げられる時に逃げなかったのが」


 本当ならあの時、俺が引きずって此処まで連れてきてる時、本気で逃げようと思えば逃げられたんだ。だって「痛い」って言ったけど、振りほどけるくらいの強さでしか握ってなかった。片手しか捕まえてなかったんだから、反対の手で叩くなり殴るなり引っ掻くなりする事だって出来た。歩くスピードさえ把握すれば、思い切り蹴る事だって可能なはずだった。喉なんて自由だったんだから、大声で叫べば一発で俺が悪者だ。さすがにそれは勘弁だけど。


 逃げられたのに、偉そうに「離せ」だなんて命令だけして。最後まで俺の意思に任せて。


「瞭花さん、ぎりぎりまで許しすぎだよ。俺のワガママに振り回されすぎ。俺はさ、別に瞭花さんに捨てられても、多分真っ当に生きられるよ」

「……何だよ、それ」


 一人でゆらゆら浮かんで、沈む事も陸地に立つ事もしない。誰ともつながろうとしないのは何のため?


「俺は手を振り払われたくらいじゃ傷つかないよ。傷ついても平気だよ。逃げられたって平気。だってはっきり答え貰うまでは諦めないから。何度でも近づいて、何度でもワガママで振り回すから。だからさ、そんなに怯えなくていいよ。気遣わなくていいよ」


 多分だけどさ、砂原凌を見りゃわかるけどさ、ちょっとしんどい人間とばっかり関わってきたんだろ。だけどそいつら全部大切に思ってたんだろ。だからもうこれ以上は無理だって思ってるんだろ。ちゃんと聞いてないから、多分でしかないんだけどさ。


 誰も傷付けないように、一人だけでゆらゆら浮かんで。


 それって馬鹿みたいな優しさ。


「他人を傷付ける事に、そこまで怖がらなくてもいいよ」


 俺は違うよってわからせてやりたい。

 そんなやわじゃない人間だっているんだよ。例えばここに。ちょっとくらいの傷なんて放っておくし、ちょっと位の痛みなら我慢できるんだよ。本当に嫌なら嫌って言うよ。反抗も抵抗もするよ。多少の事じゃへこたれないよ。前を向いていけるよ。


 それでも深く傷つけられたとして、けど、傷や痛みの無い人生なんてありえないだろう? 避けられない傷も痛みも、どうしたってあるんだから。

 だから、大丈夫だよ。


 自分の心が無駄に血を流すまで相手を気遣う必要なんて、きっとないよ。


「……そんなんじゃない」

「うん。これ、俺の勝手な想像」

「そんなんじゃない」

「うん。俺からは瞭花さんがそんな感じに見えただけ」

「馬鹿じゃねぇの」

「馬鹿だよ」


 瞭花さんもね。


 それでも、傷付けたくないから離してくれと泣くのは絶対にごめんだと思ってる強さがあって、それにこそ俺は惹かれた。だってレイプされそうになっても睨みつけて指を粗末にするなと説教する女なんて、多分俺の周りじゃあんたくらいしかいないよ。


 歪んだ綺麗な優しいプライドに、どんな時でも強い眼差しと声に、俺はもうはっきり言ってべた惚れなんです。


「……好きだよ」


 叩き潰して、海の底まで引きずりおろしたくなるほどね。


 瞭花さんは何も言わなかったしもう逃げようともしなかったから、もう一度首筋に顔をうずめて甘噛みした。しばらくそのままで、お互い何も言わず。やっぱりいい匂いだなぁとか思いながら。強く抱きしめていた。


「……ところで瞭花さん」

「何だよ」


 いいかげん俺も『熱く』なってきた頃、ようやく顔を上げてちょっと真面目な声で尋ねた。


「あらゆる意味で本当に腹減ってやばいんだけど、やっぱこのまま食べちゃっていい?」

「好きな死に方を選べ」

「やだー、ごめんなさーい」


 よし、静まれ自分。頑張れファイト出来る出来る。




 名残惜しいけど瞭花さんを離してピアノルームへ移動し、エアコンをつけてから食事の相談なんかをした。今すぐにでも食事にしたかったけど、暑さをどうにかする方が上回ったのだ。

 それと、調律後の演奏をまだしていなかったから。


「瞭花さん弾いてよ」

「……マジで?」

「なんだよ仕事サボんなよ調律師ー。客に音色聴かせろよー。っていうかいつもの事じゃん。何を今更」

「プロの前で弾くのは嫌なんだよ……つーか、お前のピアノなんだからお前が確認しろや」

 文句をたれながらも椅子に座って、でも涼しくなるまで待てと言われた。背もたれに寄りかかって煙草を取り出すから、俺は灰皿を繚花さんの足元に置く。

「曲は?」

「ラフマニノフ」

「殺す気か」

「いやー、弾けるでしょう。パガニーニの主題による狂詩曲でよろしく」

「……微妙だな。多分、何とか弾けるって程度だぞ?」


 煙を吐き出して軽く指を動かす。思い出しているのだろう。いつも思うけど変な思い出し方だ。鍵盤を見た方が思い出さないか?


「ちゃんと音色、チェックしとけよ」

「はいはい」


 まだ空気は冷えたわけではないのに、長い煙草を消して蓋を開けてカバーを取る。

 綺麗な白と黒が並んでいる。そこに細い指が静かに置かれ、中心音のCを鳴らす。次に音楽の授業の始まりのカデンツを鳴らす。少し固めの響く音。なんとも俺好み。ガーシュウィンが合いそうだ。

 そして始まる狂詩曲。


「……いい音」


 俺は口の中で呟いて、ピアノの足を背に座り込む。すぐ側にあるペダルに置いた足を悪戯したいなとか考えながら、目を閉じて緩やかに流れる曲に聞き入る。


 相変らず、空っぽな音楽だ。


 強弱も速度も完璧なのに、訴えてくるものが何もない。訴えようとしていない。音に何も託していないから、本当の音楽になってない。空っぽの形だけの音楽。

 音は奏者の性質がそのまま出ると言ったのは、誰だっただろうか。それとも何かに書いてあったのか。


 つまんない生き方してる人だな。

 世渡りだけは上手で、表面上は綺麗につくろって、完璧に見せて。本人は余計なお世話だって思うかもしれないけど、なんかちょっと勿体無い。ブレーキがちゃんと機能してれば、アクセルなんてべた踏みでも問題ないんだよ。『本気』なんて怖がるようなもんじゃないよ、人生を彩るエッセンスでしかないんだからさ。勿体無いな。


 勿体無いよ。


 ああ、曲が、終わる。


「……どうですか、お客さん」

「最高の音。いい腕してるね、調律師さん」


 見下ろしてくる彼女を見上げて答える。


「なんか海の底にいるみたいだった」


 言いながら立ち上がると、彼女は逆に椅子から床へと座りなおしたから、仕方なく俺ももう一度座って、向き合う形になる。きっと灰皿が近いから床に座ったんだ、この人。


「ああ、それ分かる。床に座ってたりピアノに触ってたりして聴いてると、体全体で感じるよな。全身に圧迫受けてるみたいな」

「それもそうだけど、瞭花さんの弾き方って静かだからさ。耳が痛くなるよ。頭いてぇ」

「……ずいぶんな言い草ですね、お客さん」

「事実だし」


 言ったらまた煙を吹きかけられた。だから煙いんだってば。どうせなら吸わせろよ。


「一本頂戴」

「ふざけんなクソガキ」

「クソガキに押し倒されたくせに」

「なんだ、根性焼きしてみたいのか?」

「ごめんなさーい」


 しばらくは静かに煙草を吸わせてあげた。そこでようやくエアコンの稼働音に気が付いた。そういえばもう暑くない。うん、もう暑くない。落ち着いた。

 じゃあ、どうしようか。


「何見てんだよ」

「見てないよ。考え事」


 見てたけど。見ながら考えてたんだけど。


「じゃああっち向いてろ」

「ねぇ瞭花さん、返事」


 しかめ面になった。でも煙草は吸うんだ。そっちも余裕出てきたね。


「……返事って」

「何今更誤魔化してんの? 返事。好きなんですけどー、付き合ってくれませんかー?」

「……あー……」


 本気で困った顔して言葉を捜してる。とことん馬鹿だなこの人。別に傷つかないって言ったのに。あ、フラれたら傷つくか。まぁでも嘘ついちゃったし。


 だって本当ははっきり答え貰ったって、捨てられたって、諦める気なんてこれっぽっちもない。

 っていうか絶対落すんだけど。これはもう決定事項だ。


 だからとりあえず、今日はこんなところだろう。


「いいじゃん、一生俺のピアノの調律やってくれたって」


 軽く言ったら、固まった。キスの時より間抜けな顔するってどういう事?


「…………は?」

「だからぁ、瞭花さんの調律やっぱすげぇ好きだからさぁ、一生俺のピアノの調律に付き合ってよって言ってんの」


 はい、逃げ道をどうぞ。今日のところはこちらへ。


「……いや、お前、調律って……ああもう……ッ!」


 がっくりと床に手をついてうな垂れる。首筋が覗いて、俺がつけた痕が見えた。あー、今すぐ押し倒してぇ。


「だってずるくねぇ? 俺の将来に口出しするくせに、何で砂原凌にだけいつでも好きなだけ調律してやるなんて言うんだよ。あれ結構ムカついたんだけど。俺だって前から頼んでんじゃん」


 あの時、当たり前の事みたいに言われた内容が悔しかった。なんか砂原凌と俺との差に思えて。だからまずそこから埋めてみよう。


「で? どうなんですか、お姉さん。お返事ください」

「……分かったよ、調律してやるよ、ずっと一生」

「よっしゃ! 腕利き専用調律師ゲット!」

「……ああ、そう……ああもう、疲れた……何なんだ今日は……」


 ぱたりと床に倒れこむ。そんな状況でもちゃんと煙草は灰皿へ。喫煙家の鏡だね。


「おーい、こんなとこで寝ないでよ、襲っちゃうぞー。っていうかさぁ、今度こそ本当に食事にしようよー。もうこの際コンビニ弁当でいいからさー」


 髪の毛を一つまみしてつんつん引っ張る。それが嫌なのか襲われるのが嫌なのかそれとも腹が減ってる事に気がついたのか、むくっと起き上がって、そして俺の頭を殴った。グーで。大して痛くなかったけど、ひでぇなこの人。

 でもつい笑ったら、不機嫌そうに「買い物行くぞ」と言って立ち上がった。

 ようやく涼しくなった部屋から、俺たちは外に出た。


「ハーゲンダッツハーゲンダッツハーゲンダッツ。俺ストロベリーね」

「あー五月蝿い五月蝿い五月蝿い。お前少しは黙れよ」

「ようやく飯にありつけるかと思うと嬉しくて」

「あーあー、悪かったよ」


 近所のセブンイレブンで弁当とお菓子とお菓子と明日の朝食分のパンとお菓子を漁りながら、俺はふと思いつく。


「ところで瞭花さん、来週暇な日ある?」

「無い」

「一日くらいあるでしょ?」

「無い。全部見事なまでに埋まってる」

「具体的に言っちゃうと来週の水曜は暇?」

「だから暇は無ぇって。水曜は凌の収録あるから調律に行かなきゃなんねぇし」


 うん、それ知ってる。だからわざわざ水曜指定したんだよ。


「そんなのすぐ終わるじゃん。終わったらこっち来てよ」


 やっぱり少しでもムカつく男からは引き離しておきたいからね。


「何で」


 ハーゲンダッツのストロベリーを二つ取りながら、繚花さんは眉根を寄せる。この顔は怒ってるというより困ってる顔だ。ヤダねぇ、そんな表情ばっかり区別つくようになって。


「夕飯作って」

「だから何でよ」

「食生活直せって言ったの瞭花さんじゃん。言った事には責任持とうよ」


 以前言われた事を目の前に突きつけると、思い切り舌打ちをされた。しまった、困ってるのが怒ってるに変わった。じゃあここが勝負どこだ。


「だって俺、今日久しぶりに手料理が食えると思ったのにさ……もうずっと外食だよ。今日も結局そうだし……」


 ちょっと遠い目しながらぼそぼそと呟いてみる。滅多にしない溜息までおまけに吐いて。表情もちょっと拗ねたようなものにして。子供の特権は使っておかなきゃ。


「……自炊しろよ」

「パスタも失敗するような俺が? 料理の才能無いって言ったの誰?」

「……訓練しろよ」

「手料理が恋しい」

「……あー……」


 俺の両親は海外を拠点に音楽活動をしてて、一人暮らしを始めてもう六年目になる。正確には十二年目だけど、小学校時代は家政婦さんがいて、中学から本当に一人。別に愛されてないわけじゃない。っていうかむしろ愛されすぎなんだけど。だってメールとか手紙とか電話とか、あんたら本当に仕事してるのかって心配になるほど来るし。しかも前に面倒臭くて一回全部無視したら、次の日青い顔して文字通り飛んで来たし。


 この一見常識人を装った実は他人に関わろうとしない酷い女の人は、手の内見せて弱ってますってやると何だかんだで世話してくれて。だから、一人暮らしに苦労してますって素振りを見せると、同情のようなものをしてくれる。


 まったく、付け込む隙なんて、山ほどあって嬉しいね。


「……夕飯だけだぞ」


 根負けしたかのような低い声を、俺はばっちり聞き取った。


「いえーい! ありがと瞭花さん! 大好き!」

「なんで私がこんな……」

「まぁまぁ、ちょっとくらいいいじゃん、カワイイ少年に優しくしても」

「可愛くねぇよ、お前なんか」


 それでもレジに並ぶ瞭花さんは、来週の水曜日の夜、間違いなく俺の家に来てくれるのだろう。なんて扱いやすい人なんだ。

 順番が来て荷物をレジ台に置くと、高校生くらいの真面目そうなアルバイトが、お待たせしましたと言ってから一瞬瞭花さんを凝視した。けれどすぐに作業を開始する。ちょっと顔を赤くして、俺の方をちらりと見て……ああ、そうか。

 俺はちょっと意地悪な気持ちになって薄く笑う。


「瞭花さん瞭花さん」

「何だよ」


 彼女がこっちを向いたら、俺は笑いながら自分の首筋を人差し指で軽く叩いた。

 何の事だか分からない彼女がしかめ面で首を少し傾け、そしてそこで唐突に理解する。俺が指していたのが、本当は俺の首筋ではなく自分の首筋だという事に。

 気まずそうな顔をして、さりげなさを装い素早く首筋を手で隠した彼女は、俺を思い切り睨んでから会計をした。

 ありがとうございましたの声を背に受け、荷物を持って先に外に出たら、いきなり膝の裏を蹴られた。かなり強い力で。もしかしたら本気かも。


「すっかり忘れてた。クソ……!」


 彼女は両手で首を覆い、さっきまで露わにされていた赤い痕を隠す。今更だと思うけど。


「繚花さん肌白いから余計目立つよね。可愛くていいじゃん」

「何ふざけた事言ってんだ」


 あとでチャンスがあったら、ぶん殴られるの覚悟で、もう一箇所くらい目立つところにきつくつけよう。とりあえず来週の水曜までくっきり残っとくように。


「犬に嚙まれてくらげに刺されたとでも言っとけば?」

「犬はともかく海なんて行ってねぇよ」


 素直な切り返しに思わず笑うと、もう一度蹴られた。


「アイス溶けないうちに帰ろ」

「つーかもう帰る。お前んち着いたら家に入らないで車乗って帰る」

「一人の食事って、あんま美味しくないんだけどなー」

「こっちはお前との食事が美味しくねぇんだよ」


 あ、今回は引っ掛かんなかった。残念。でも荷物置きっぱなしだから、どっちにしても家に入らなきゃならないんだって、気がついてるかな。


「ホント瞭花さんて面白いよね」

「面白くねぇ」

「面白いよ。そんなとこ含めて、本気で好きだな」


 ほら、そんな風に、一瞬驚いた顔するけどすぐ睨みつけるところとか。あくまで強気なところ、ゾクゾクするほどいいね。


「ほら、帰ろ」


 俺は満面の笑みで彼女の背中を促すように叩くと、彼女は睨みつけたまま大きく溜息をついた。今日何度目の溜息か、数えときゃ良かったかな。


「お前ってホント、面倒くせぇガキだよな」


 呆れたように疲れたように呟いて歩き出す。


 面倒臭い? 誰が? 俺が? 笑わすね。

 彼女の隣に並んで歩き出す。俺はどうしても笑いが止まらない。


 面倒臭いのはあんただろう。そんなもん、こっちはとっくに知ってるんだよ。

 今となっては扱いやすいけど、コツを掴むまでが何とも大変だった。コツを掴んでからも、丁寧に扱わなきゃいけなかったし。


 ゆらゆら揺れて、今にも溺れそうなのに助けも求めない女。

 他人を傷つける事に信じらんないくらい怯えて。だから出来るだけ関わらないようにして。だから出来るだけ他人の言う事聞いてやって。そんなだからちょっとした事ですぐに沈んでしまう。溺れてしまう。そんな事は、よく知っている。


 知ってるけど、助けてなんかやらないよ。


「あー、水曜日が楽しみ」

「はいはい」


 助けてやらない。本気で泳ごうとしない人間なんか。

 逆に本気で沈めてあげるよ。

 二人一緒の海の底はきっと、ちっともつまんなくない、素晴らしい日々だと思うからさ。





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